他でもない皇女を捕らえよと、そう命じられて、衛兵の動きは遅かった。戸惑いがあらわれている。それでも、全身鎧で武装した大男たちが向かってくるというだけで、アンジュの手足は凍り付いた。
「あ、あ……」
呆然とするアンジュを押しのけ、リゼは自分から前に出た。衛兵たちからアンジュを守るように立ちはだかる。
「やめなさいっ。こんなことして、ただで済むと……!」
二の足を踏む衛兵たちに、薬師が檄を飛ばした。
「やれっ。見事に捕らえれば、薬湯を増やしてやろう!」
その声を聞いた途端、衛兵たちは怒号をあげて襲い掛かってきた。さすがに剣を抜いてはいないが、少女を傷つけることを厭わぬ勢いである。
「手加減できないぞ!」
そう叫び、リゼは猛然と突進した。
何本も伸びてくる鉄の籠手をかいくぐり、石畳の床を滑るようにすり抜ける。
行き違いざま、一人の脛に猛烈な蹴りを見舞った。しかし脛当てに阻まれる。
「ちいっ」
衛兵の背にまわった皇女は、膝裏を強かに蹴って一人を転倒させた。追いすがる別の衛兵をかわしざま、脇の下へ打撃。次々に鎧の継ぎ目を狙っていく。
それでも素手の勝負では、格闘術を修めたリゼといえど、鎧の兵士複数を相手に押し切るのは難しい――と、アンジュの素人目にも分かった。
錬金術師は左右の隠しポケットに手を差し入れ、オーブを取り出した。右手には青、左手には緑だ。しかし緑のオーブは震える左手を抜け落ちた。床で乾いた音を立てて割れる。中身の水銀が粒になり、破片とともに飛び散った。
「あ、ああ……」
アンジュが動揺する間にも、忙しない靴音、鎧の擦過音、そして打撃を受けた男どもの呻きが続く。
歯を食いしばって震えを抑え、左手で代わりを取り出す。色は黄。土のオーブである。先ほど落とさなかった青色、水のオーブと共に、親指でピンを緩める。
意識を集中し、思念を編み、複雑で立体的な構築物を想像する。室内に蜘蛛の巣のように術式を張り巡らしていく。威力はごく抑えるように。くれぐれも。
「制御できる。傷つけない。殺さない……」
青と黄のオーブが発光を始め、二色の粒子が空中で交わる。水と土の元素が融合し、新たな姿になる。白金色に明滅する粒子。
「伏せてっ!」
戸板を踏み破るような音が空気を震わせる。即応して身を低くするリゼの頭上ぎりぎりをかすめ、明滅する光が部屋中に飛散した。
光の粒が全身鎧に殺到すると、衛兵たちは短い悲鳴をあげ、跳ねるように転倒した。電素は身体中の神経の働きを乱すのだ。打撃を防ぐ鉄の鎧は、かえって伝導を助けてしまう。
術が成功し、恐るべき敵が次々倒れる光景に、アンジュの心臓が跳ね上がる。呼吸が浅く、激しくなる。術式のイメージは消え去った。もう何も考えられない。
はあ、はあ。
深呼吸をしようとするが、とても無理だ。大丈夫、今度は死んでない、大丈夫。そう自分に言い聞かせるが、浅い呼吸を繰り返すたび、意識が希薄になっていく。床が近づいてくる。
「アンジュ!」
倒れかけたところを皇女の腕に抱えられ、錬金術師はようやく我にかえった。まだ呼吸は落ち着かないが、何とか頷いてみせる。
室内を見回せば、五、六人もいた衛兵たちは全員が昏倒している。伯爵も倒れ、僅かに痙攣している。
しかし薬師は、なお意識を保っているようだった。尻餅をついた姿勢だが、憎悪に染まった目で彼女らを睨みつけている。
「き、貴様ら。よくも邪魔を。よくも」
勝利の高揚がみなぎり、アンジュは浅い呼吸の合間に悪態をついてみせた。
「へへ……ふへへ。ざまあみろ。電素で麻痺してんだ。潔く捕まるんだな。動けへんだろ……え?」
薬師は震える腕を懐に入れ、小さな瓶を取り出した。蓋を開ける代わりに、握りしめて砕く。滴る透明な液体を自分の口に垂らした。
「貴様ら、許さんぞ。錬金術師と皇女。後悔するがいい」
薬師の痙攣が止まる。どころか、機敏に立ち上がった。
「嘘!?」
口に含んだのは興奮剤だと、アンジュの知識が告げている。そして激しく警告している。
薬師がローブを脱ぎ捨て、身体に線に添った黒づくめの服をあらわにした。全身から戦う者の気配が発散している。大腿に締めた革帯には多数の鞘。ローブで隠されていた逞しい両手が短剣を抜いた。
「服薬暗殺者……!」
物の本で読みはしたが、ほとんど風聞に近い職業殺人者の謂いである。薬物で身体能力を増強し、人の身で魔物並みの怪力を発揮する。時に痛みすら遮断して襲い掛かる必殺の刺客だという。
「物知りだな。だが、もう遅い」
両手に短剣を握り、暗殺者は女とは思えぬ速度で襲来する。アンジュは立ち竦んだまま、動くこともできない。
錬金術師の命を奪いかけた刃を、細剣の閃きが弾いた。リゼが直ちに抜剣し、応戦にかかったのだ。
「下がってて!」
アンジュの目には捉え切れぬ速度で、斬撃が、刺突が交わされる。
目まぐるしい剣撃の応酬が室内光を反射する。うち続く金属音は止まない。
得物の長さではリゼに利があるが、どうやら押しきれていない。近衛兵三人を圧倒する皇女の剣技で、ようやく一進一退だ。
膂力では暗殺者が勝るらしい。短剣の一撃をまともに受けて、リゼが一瞬たじろぎ、咄嗟に床を転がって第二撃をかわす。
――やっぱり、薬で強化してるんだ。常人じゃ勝てない。リゼでも。リゼが、このままじゃ……。
暗殺者は、もうリゼを捕える気はない。戦いに素人のアンジュにも、その殺気は明瞭だ。
負ければリゼは死ぬ。殺される。目の前で。
その想像だけで、心が凍る。自分が死ぬよりも恐ろしい。
「お……おああ! うああ!」
むやみな叫びで震えを止め、オーブのピンを再度緩める。
空間に術式を編む。動揺で構成が乱れる。無理やりに修正し、意味を与える。
部屋全体への麻痺では効かなかった。
ならば今度は、針孔に糸を通すように細く撚って絞る。
狙いを、正確な狙いを。
両手のオーブが青と黄に輝き出す。その異常な光量に気付く余裕は、もう彼女にはない。
眼前に収束する二色の光。
「離れてっ!」
アンジュが言い終えるよりも早く、発声だけでリゼは即応した。後ろに転がるようにして敵から距離を取っている。
「うあああああ!!」
術式の解放とともに、我知らず叫ぶ。しかし絶叫は、はるかな大音量にかき消される。
重ねて突き出した両手から電撃が放たれた。人造の雷は爆音あげて空気を突き破り、敵の目前を抜けて壁面へ直撃。石造りの壁面を吹き飛ばした。
雷光が収まった時、領主館の一方はすっかり空隙となった。夕暮れの光に照らされて、焼け焦げた庭園が見えている。
暗殺者は直撃を免れたが、膝をついている。震える身体から焼け焦げた臭いがする。
「あ、が……あ……」
それでも辛うじて立ち上がると、暗殺者は崩壊した壁の方へ凄まじい勢いで駆け去った。
「待てっ」
リゼが追いすがるが、暗殺者は脚力で庭園の外柵を跳び越すと、その姿を消した。
追撃を諦めたリゼが、油断なく剣を構えたまま戻った時、アンジュは座り込んでいた。
オーブを床に転がしたまま、両手で口を抑えて嘔吐を堪えている。
鼻腔から離れない焦げ臭さが、喉に胃酸を押し上げる。
「ゆっくり息をして。奴は逃がしたわ。とりあえず、今は、ええと――」
リゼの手がアンジュの背に触れた時、多くの足音が聞こえてきた。その音はいかにも重い。鎧に身を固めた衛兵の新手に違いない。
「一旦、逃げる。ごめん、走って!」
リゼに手を引かれ、アンジュはふらつきながらも懸命に駆けた。
混乱し、疲弊しきった頭のどこかで、彼女自身の声が「このところ、逃げてばっかだな」と自嘲している。
(次話「私、気づいてるよ」へ続く)