賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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私、気づいてるよ

 むせ返るような草と土の匂いにつつまれ、アンジュは森の下草に身を伏せている。すぐ隣にはリゼ。二人とも身じろぎせず、息の音も潜める。

 

 無造作に下草を踏み荒らして、兵士たちが近づいてくる。その声がする。

 

「逃したか。やはり西の街道の方だな」

「刺客はオヴィクスの手の者だという話だ。港に向かったかもしれん」

 

 アンジュとリゼは息を止めた。兵どもとの距離は五歩もない。

 

「市門を閉じさせよう」

「いっそ、出船を禁じて……」

 

 足音は徐々に離れ、声は聞き取れなくなった。彼女たちは呼吸を再開したが、それから小半刻ほどは身を潜めたままでいた。太陽が沈むにはまだ間があるが、森は既に暗い。

 

 先に口を開いたのはアンジュの方だった。

 

「……もう、ええやろ」

 

「うん」

 

「西には戻れんな」

 

「うん」

 

「……どうする?」

 

「今夜は、この森で野宿しよう。風避けがあるとこを探そう」

 

「狼とか、おらんかな」

 

「いたら、私が起きる。火は焚けないよ」

 

そう言うと、リゼは静かに立ち上がった。アンジュもそれに続き、疲れ切った両脚を叱咤するように歩き始めた。

 

 周囲を警戒しつつ、リゼはアンジュに尋ねた。

 

「あの人たち、大丈夫かな」

 

 薬師が撒いた毒の石と薬に侵され、中毒症状に陥っていた領民たちのことを言っている。リゼたちが領主館を脱出してから、既に三日が過ぎている。

 

「たぶん大丈夫よ。毒の石は引き揚げたし、薬湯が劇薬だって、村長や守衛さんは分かってくれたから。薬が抜けるまでは辛いだろうけど。伯爵と薬師のことは、王都に訴え出てくれるはずや」

 

「うん……あの伯爵、どうしてあんなことを。自分の民を苦しめて」

 

「薬で人形みたいにされたんやな。もっと薬湯が欲しいって以外は、考えられんようになってた。長くは持たんと思う」

 

「……私が皇女だって分かってからも、捕まえようとした」

 

 アンジュは無言で頷いた。それは明敏博識な錬金術師の理解をも超えたことだった。

 

 王領の衛兵は、まだ理解できる。経緯は不明だが、リゼのことを偽皇女だと思い込んでいたから、手配書に従って捕縛しようとしたのだ。

 

 しかし、伯爵は本物の皇女を捕えようとした。王家と諸侯の関係は、世間で思われているのとは異なって、かなりの緊張がある。それにしても、あれは明確な叛意だといっていい。

 

 あれから既に複数の諸侯領を越えたが、追手は止んでいない。近在の諸侯領一帯に手配がまわっているらしく、街や村にも入れないでいる。明らかに異常な事態だった。

 

護衛も連れない皇女の旅に危険が迫ることをアンジュは予期していたが、あそこまで直接的な叛意が諸侯にあるとは想像していなかった。

 

 リゼは、気丈に振舞ってはいるが、大きな衝撃だったようだ。生まれてから今まで当然に受けてきた皇女としての扱い。それが突然に反転したのだ。皇女であることを受け止めようとして苦悶してきたリゼにとって、地が揺れるよりも大きな異変だったに違いない。

 

 しばらく歩き、大きな岩を見つけた。その陰に敷物と毛布を広げ、倒れるように横になる。

 

「靴は脱いで。足は荷袋にでも乗せて、高めにあげておいて」と言ったリゼの声は、水晶のような清澄さを失ってかすれている。

 

 靴を脱いでしまうと、追手が来た時にすぐに逃げられないが、今は回復を優先しろということだった。十七歳の少女でも、近衛隊で鍛えたリゼは一流の戦士といっていい。

 

 アンジュは、のろのろと指示に従った。足に血が通い出す感覚があり、痛みを覚えるほどだ。それを気にする間もなく、糸の切れたように眠りについた。

 

 そしてまた、いつもの悪夢を見た。代わり映えしない、いつも通りの展開。何年もずっと変わらない。だが、慣れるということは一向にない。

 

 現に目覚めた彼女が首筋をさわると、じっとりと汗ばんでいた。胸元を緩め、夜の冷気を入れる。

 

 上体を起こし、隣に眠るリゼを見下ろした。石の転がる地面の上に、熊の皮と毛布を敷いただけの寝床だが、天蓋付きの寝台にいるような良い姿勢である。それでも左手は、細剣の鞘を掴んで離さずにいる。

 

 つくづく、不思議な子だ――と、アンジュは思う。

 

 木々の合間から差し込む月明かりに照らされて、皇女の寝顔は美しい。天幕もない惨めな露営だというのに、侵し難い荘重さを感じさせるほどだ。穏やかな寝息と胸部の動きがなければ、名工の手になる女神像のようである。

 

 その目が唐突に――ぱちり、と開いた。

 

 皇女の紫の瞳が、アンジュの水色の目と真っ向から向かい合う。

 

「ひっ」

 

 皇女の抑えた悲鳴が漏れた。九歳も年上の錬金術師は、どうしていいか分からず、ひたすら固まってしまった。

 

 しばしの沈黙の後、リゼは抑えた声で尋ねた。

 

「……目、合ってるよね?」

 

「うん……」

 

 と、王立学院始まって以来の天才と呼ばれた女は、間抜けに答えざるを得ない。

 

「眠れた?」

 

「うん……さっきまで寝てた」

 

 リゼは何かを察したようだった。

 

「私、気づいてるよ」

 

 皇女も上体を起こした。

 

「宿屋でも、ほとんど寝れてなかったでしょう。まだ、駄目なのね。旅に出ても」

 

 何と返すべきか迷いながら、アンジュは辺りを見回した。気づかれていないつもりだったのだ。もはや認めないわけにはいかない。

 

「……疲れたら何刻かは寝れてるよ。うち、元気だったでしょ?」

 

「だから心配なんじゃない……!」

 

 そろそろ潮時だと、錬金術師は意を決した。

 

「リゼ、私も気づいてるよ」

 

 皇女の表情が固まる。不意打ちは成功したらしかった。しばらくの間、虫の声だけが響いていた。

 

「……いつから?」

 

「最初は、王家の衛兵相手に名乗らなかった時。確信したのは、領主たちに追われても戻ろうとしなかった時。いったん諦めて、お城に帰る手もあった」

 

 彼女らの旅は、王国のほぼ中央、広大な平野部にある王都から東へ出発した。王家直轄領の市で地震と火事の騒ぎに遭い、東ヘルエスタの諸侯領に逃げ込んだ。そこで諸侯の衛兵にも追われ始め、西に戻るのではなく、さらに東へと逃げた。今は王国の東海岸へ近づいている。

 

 旅の間、思わぬ事件に遭遇して、リゼの行動は不審に過ぎた。

 

「ねえ、見聞修行の旅だって言ったよね。立派な皇女になるためだって」

 

 古い伝統なのだと、リゼは言った。立派な女王になろうとして、時代遅れの風習を持ち出す。生真面目なリゼならば、言い出しそうなことである。子女の教育に厳しいヘルエスタ王家の家風ならば、世継ぎ候補を遍歴の騎士のような旅に送り出すのも、ありえないとは言えない。

 

 しかし、アンジュは尋ねねばならない。騙されているふりをこれ以上続けるのは、不自然でありすぎる。

 

「本当にそうなら私、先に相談してもらえると思うんよ。これって、思い上がり?」

 

 リゼは、かつて見たことのない顔をした。何かを見下げ、嘲弄するような顔である。そして言った。

 

「そういう手紙を置いてきたのは本当よ」

 

「やっぱり、王様の許可は無いんだね。勝手に城から消えた」

 

「そう」

 

「へへ、あたしに向かって、何が夜逃げだよ。リゼこそさ、それって家出じゃん。はは、ふへへ……」

 

 冗談風に誤魔化そうとしたアンジュを、リゼは引き戻した。

 

「分かってる! 分かってるの。でも無理なの。どうしたらいいのか、もう分からなくなっちゃって」

 

「やっぱ、計画的じゃないんだ?」

 

「だったら相談してる! 誰にも言えないようなことでも! 分かるでしょ!」

 

 聡明な少女、いつでも冷静で勇敢な皇女が、今だけは理不尽に喚く小娘になっていた。

 

リゼがそのように振舞える相手でいられることが、アンジュはたまらなく嬉しい。

 

 同時に、そんな相手を自分しか持たないリゼのことが、泣きたいほどに哀しいのだ。

 

「うん、分かるよ」

 

「嘘よ。適当、言わないで」

 

「会ってから八年、もっと経つじゃん」

 

「私にも分からないのに。何でこんなことしてるのか」

 

「辛過ぎたんだよ」

 

 アンジュは居住まいを正した。

 

「当たり前や。あんな小さい頃から、ずっと修行じゃん。貴族の学校にも行かないで、友達も作れないで、一人っきりで」

 

 言葉に出すごとに、過去を思い出す。

 

 王城の祝宴に居所がなく、バルコニーに逃げ出して、一人佇んでいた十歳のリゼ。飛行船で世界の広さに憧れながら、閉ざされた王城に戻ることに涙していた。

 

 近衛隊での修行が始まり、勇んで精励し始めた十二歳のリゼ。思わぬ大事件に遭遇し、魔物の友人を得た。事件は解決したが、自分の未熟さを思い知り、密かに涙していたことを、アンジュだけが知っている。

 

 剣も格闘も、手加減なしの修行を志願して痣だらけになり、時に骨折さえしていた十三歳のリゼ。それでもめげない少女に、アンジュは手製の湿布を貼ってあげた。

 

 アンジュの語気は強まっていく。

 

「ずっと言わなかったことを言うよ。あんまり酷すぎる。男の騎士でもぶっ倒れるような訓練を、ずっとやらされてんだ。剣に、馬に、殴り合いの稽古まで。それに法律だ、歴史だ、礼儀作法に、音楽だって」

 

 記憶は次々に蘇る。

 

 王国指折りの学者たちに教わり、万巻の書を読み下し、難解な法律や古籍を諳んじる十五歳のリゼ。もう痣を作ることはない。大人の男どもを剣技で凌駕するようになったから。

 

 少女の身で騎士叙勲を勝ち取り、文武両道の姫と讃えられるようになった十六歳のリゼ。けれど、喜んでいたのは最初だけ。その瞳は、ますます暗くなっていった。

 

「王様も王妃様も、頭おかしいで、ほんま」

 

「それぐらいしなくちゃ、私は……」

 

「それもおかしいやろ。二人のお兄さんも、お姉さんも、修行なんてとっくに終わってんじゃん」

 

 リゼは王室の四番目の子である。上に第一、第二皇子と、第一皇女。下には年の離れた第三皇子がいる。リゼより年長の三人は、みな二十代の若者だが、全員が地方総督の印綬を受け、各地の王家直轄領を治めている。

 

「兄上や姉上は、総督の仕事があるもの」

 

「リゼだけ虐められてる。監獄みたいな王城から出してもらえんでさ」

 

「出来が悪いから」

 

「もしそうなら、この世に出来がいい人なんていないよ。完璧に文武両道のお姫様だって、王城じゃ、みんな知ってる。気づいてないかもだけど、近衛の人たちに人望だってある……」

 

「そんなの意味ない!」

 

 逃亡中の身を一瞬忘れ、リゼは大声を出した。我にかえって周囲を見回してから、声を落として続ける。

 

「陛下は認めて下さらないの。まだ城で修行せよって、役職を下さらない。私は相応しくないの。勇者の血筋だけど、陛下の後を継ぐ資格はない。もう、あと、どうしたらいいか、分からない……」

 

 ひび割れた水晶のような声が消え入り、残ったのは虫の声ばかりだった。やがて、リゼは絞り出すように言った。

 

「ごめんね、とんでもないことに巻き込んで。森を抜けたら、私を置いて行って」

 

「無理なことを言わんで。な、今は寝よう。夜中に考え事したって、ろくなこと思いつかんよ。明日考えよう。な……」

 

 そう言って横になって見せると、リゼは大人しく従った。アンジュの腕にすがり、声を殺して震えている。しかし、消耗は大きかったのだろう。しばらく経つと、泣き疲れて眠ったようだった。

 

 寝息を聞き分けて眠りの深さを察すると、アンジュは腕をリゼの懐から抜き、そっと身を離して起き上がった。

 

 荷物を静かにさぐる。風のオーブを一つと、真鍮盆。極星の角度によって時間を測る夜天時計。そして、分度器に小さな望遠鏡をつけたような形の六分儀。最後に、天文の本。

 

 静かに離れ、樹々の少ない辺りに移動すると、荷物を広げて作業にかかる。

 

 オーブのピンを緩め、中の水銀を半分ほど盆にあける。その水平面を地面に見立て、六分儀で目当ての星の角度を測るのだ。

 

 まずは極星。その角度に夜天時計の針を合わせ、時刻を特定する。

 

 次に、目当ての星々を次々に観測する。オーブを微かに光らせ、本を開いて、今の天文と過去の記録を照らし合わせていく。まもなく結論は出た。

 

「あと三日か。急げば間に合うかも。観測を間違えてなけりゃ……」

 

 明け方近くまで、アンジュは観測と計算を繰り返した。間違いがあってはいけない。

 

 彼女は王立学院で学び、ついに卒業こそしなかったが、一つの信念を得た。学院を出奔し、多くを失っても、その確信だけは揺るがない。

 

 知識こそ、道を拓く力なのだ。

 

 

 

(次話「細くて長い道を行く」へ続く)

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