リゼが目を覚ました時、アンジュはもう出発の支度を終えていた。残り僅かになった固焼きビスケットと、ブリキのカップに汲んだ水を示してみせる。貴族の娘なら嫌悪の視線を返すだけだろうが、皇女は素直に口をつけた。やがて口を開く。
「あの……これからのことなんだけど」
目覚めは良いくせに、リゼの喉は朝に弱い。日頃の水晶のような声ではない。深刻な風邪をひいたような掠れ声で、皇女は続けた。
「西に戻ろう。街道は避けて、山越えで直轄領まで。その後は、王家の衛兵になら捕まってもいい。諸侯は……今は、誰を信じていいか分からない」
正気を失った伯爵一人だけとはいえ、第二皇女を捕縛しようとする領主がいたのだ。あの正体不明の薬師に至っては、皇女を躊躇なく殺そうとした。背景は不明だが、調べる余裕はない。
諸侯は王家に臣従しているが、その領内統治に王家の目は届かない。皇女とはいえ兵を連れていないなら、密殺して知らぬふりを決め込むこともできる。誰が叛意を抱いているのか分からない以上、諸侯領に留まるのは危険に過ぎた。
「昨日までの感じじゃ、警戒が厳し過ぎるよ。山道にも関所はある」
八方塞がりだ――アンジュが言っているのだと、リゼは早合点したようだった。たちまち秀麗な顔が曇り、紫の瞳に影が落ちる。
いまリゼは、自分自身ではなく、長年の赤髪の友人の安全だけを狂おしいほど案じているのだと、アンジュには分かった。
――だからリゼ自身のことは、私が考えてあげないと。
「違う、違う。東に行こうってこと」
「東って……行き止まりよ。海に出ちゃう」
「ええやん、それで。二人で外国に出よう。それなら追手は届きっこない」
「そんな……そんなことできないよ。それに、どうやって。港は見張られてるよ。漁村を探すってこと?」
「ううん、船なんていらんのよ。道はある。大丈夫。私を信じて。」
森を抜け、そこから二日歩いた。辺境に進むほど人口はまばらになり、避けるべき関所と衛兵も減っていく。
現国王の治世で街道が整備されてから使われなくなった古道を選ぶ。それでも遠くに人影を見かければ、道の脇に隠れてやり過ごさねばならない。
藪の中から覗く限り、通り過ぎたのは近くの山村の女らしい。束にした端柴を頭に乗せ、背には薪を負っている。山で拾い集め、街まで売りに行くのだ。懐かしさを感じ、アンジュの疲れ切った顔が少し緩む。彼女とて山村の出である。オーブ技師の父の影響と、たまたま勉強に向いた頭脳を持たなければ、自分も端柴女として穏やかに一生を過ごしたかもしれない。
だが、そうはならなかった。だから、リゼの隣にいられる。学んだ知識と錬金術の力で、その資格を手に入れた。それで十分だ。山の女の姿を懐かしくは思っても、悔いることは何もない。
女の背が見えなくなると、アンジュは立ち上がった。
「もうすぐだよ。潮の匂いがするでしょ。この山を下ればアラゴ岬だ」
「アラゴ……人の名前?」
「大昔の錬金術師なんだ。岬の浜で星を観測するのに夢中で、満ち潮に気づかなくて、波にさらわれて死んだ」
「不注意な人」
「立派な人さ」
そんなにも夢中になれるものを見つけ、命さえ捧げたのだから。
アンジュは、銀髪についた小枝を払うリゼの手を見た。小さな手だ。大の男を圧倒する剣術の達者とは思えない。女の子らしい小さな手。離すことなど、できるはずがない。
「彼の記録のおかげなんだよ。道が現れる日を推測できるのは」
「本当に、海の中に道が? 話に聞いたことはあるけど……何年かに一度だけなんでしょう?」
海の道とは、稀な自然現象である。東ヘルエスタの東南端から望む、フジの海。その海面が極度に下がる時、沖を南へ割るようにして、海中に道が現れるのだ。
「冬の終わりと大潮が重なる日にね。つまり明日や。明け方ごろやと思う」
越えるべき最後の峠に目をやる。風に潮の匂いが混ざっている気がした。
峠を越えると視界は急速に開け、広大な海が見えた。あと一息と気力を奮い起こして坂を下り、浜に降りる。
激しい海風を浴びながら浜沿いを歩いていくと、切り立った崖の下に洞窟を見つけた。
冷え切った自分の体を抱くようにして、洞窟の中に入る。途中で拾い集めた流木で焚き火をして、やっと人心地がついた時には、もう日は没していた。
リゼが固焼きビスケットを炙っている間に、アンジュは念のため浜に出て、夜天時計と六分儀で星の巡りを一度だけ確かめた。計算に狂いはなかった。
「やっぱ、間違いないわ。ここで朝を待とう」
リゼは子供のような素直さで頷いた。そして言った。
「……未来が読めるなんてね。それも海の道。神話に出てくる賢者みたいね」
千年前、勇者を助け導いた偉大な賢者がいたと、建国神話は伝えている。賢者は魔法を使い、超常の神秘を意のままに起こしたという。
「魔法で海を真っ二つにしたっていう? もう、信心深いんやから。そんなん、大嘘だってば」
世界は理屈でできているのだ。理論と実証を重ねれば、まやかしなんていらない。
アンジュは首から下げた錬金術師の証を掲げた。己の尾を喰らう蛇。その輪になった胴体に囲まれるものが世界。それもお伽話だ。世界は球形だと、今では誰でも知っている。
「私のは観測と予測。だから間違いないよ」
知識による世界の解明。それが錬金術師の使命なのだ。
「うん、信じてる。アンジュは天才だって」
「嬉しいけど、凡才でも世界を理解できるようにするのが錬金術よ。それに、うち、落第生やし」
そう冗談にできる程度には、もう時間が経っている。アンジュが学院を出奔してから、この旅に出るまで六年。彼女には、それだけの時間が必要だった。
「この世に不思議なことなんてない。知らないことがあるだけ。真理は不変だから、理論と実証で理解していける……。都合のいい魔法なんて無いから、変えることはできへんけどね」
そう言って、アンジュは目に滲む涙をぬぐった。
ああ、自分は間違ってない。でも、本当は理屈なんていらない。不変の真理でなくていい。世界を変えてしまえるような、そんな魔法が私に使えたら、彼女に本当の道を作ってあげられるのに。
この娘一人を助けることもできないなら、私がこれまでやってきたことは、一体なんだ。
自分を責めるアンジュの哀しみを、リゼは誤解したらしかった。皇女が口にしたのは、今さらな謝罪だった。
「ごめん。とんでもないことに巻き込んで」
「ええんよ。リゼのせいじゃない」
「全部、私が悪いの! 皇女なのに、身勝手で、憶病で、人に迷惑ばっかりかけて」
「そんな風に言うもんじゃない。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけ、ないじゃない。手配なんかされて。海の道からオヴィクスに逃げられても、すぐ王都に戻る船を見つけられるかどうか……」
「戻らんでも、ええやん」
「――え?」
「外国なら、誰もリゼのことなんて知らない。皇女でなくなることもできる」
「皇女で……なくなる?」
「そしたら、血筋も親も関係ないよ。勇者の子孫だとか、王位を継ぐ立派な皇女にとか、そんな期待する大人はいなくなる」
リゼの瞳は揺れ、声はかすれるようだった。
「そんな……そんなこと、できないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
生まれて初めて考えた可能性を、リゼは恐怖しているようだった。誰かのためには無謀なほど勇敢な戦士が、自分のためには幼な子よりも臆病だ。
そういう娘なのだと、アンジュは知っている。
そういうリゼだから、鳥籠から出してあげたいと思うのだ。
「これまで縛られ過ぎたよ、リゼは。めっちゃ頑張ってきたじゃん。それでも王国がリゼをいらないっていうんなら、捨ててやったらいい。皇女なんて辞めちまえばええんよ」
「辞めるなんて、皇女じゃなくなったら、私は……私は……何をしたらいいの。その後は」
アンジュはことさら、頼もしげに振舞わねばならない。年上らしく。まるで自信があるかのように。
「何でも。自分がしたいことを」
「そんな勝手なことできない」
「勝手じゃないよ。それは自由っていうんや」
「自由」
リゼは呆然としている。
「もちろん、大変やで。お城の暮らしより、ある意味、ずっと苦労する。辛いことも、嫌なことも、絶対たくさんある。でも、どんな苦労をするか、自分で選べるんや」
リゼは自らを抱きしめるように両腕を組み、小刻みに震え始めた。
「怖い」
少女が恐れるのは、先々の苦労ではない。アンジュには手に取るように分かった。
「そうだよ。怖い。自分の生き方を決めるってことは」
「みんな、こんなことに耐えてるの。城下の人たちは」
勇敢で、真っすぐな少女は、人生を生きるということにも誤魔化さずに向き合おうとしているようだった。その愚かしいほどの誠実さが、アンジュには好ましい。
「みんなじゃないよ。だいたい、生まれとか、流れに任せて生き方を決めてる。他に道なんて無いって。仕方ないって思い込むんだ。辛いからね。自分で生き方を決めて、その責任をとるのは」
だから目を瞑る。向き合うことから逃げる。アンジュも、そうだ。
しかしリゼを見ていれば、傍にいれば、アンジュもまた、自分に向き合える気がするのだ。
小さくとも、無力でも、自分の人生に向き合ったなら、それだけで人は勇者なのだ。
いま、子供であることを終えようとしている水色髪の少女は、彼女の導き手に尋ねた。
「アンジュも怖かった?」
アンジュは、彼女が支え、その実は拠り所にしている小さな勇者に告白した。
「ずっと怖かった。耐えられなくて逃げた。知ってるでしょ? でも、今は怖くない」
「どうして」
「ひとりじゃないから」
それから、長い沈黙が落ちた。聞こえるのは波と風の音だけだった。それが果てしなく繰り返している。
やがて焚き火は消えた。闇の中で、二人は肩を寄せ合った。無言で、ずっとそうしていた。
起きているのか、眠っているのか、彼女たち自身にも分からない長い時間が過ぎた。
洞窟内がうっすらと明るくなり始める。
リゼは音もなく立ち上がった。光を求めて、入口に向かう。幽霊のように頼りない背中だった。アンジュは無言でその後に続いた。
黎明の砂浜を踏み、波打ち際まで進む。波の音が繰り返すにつれて、黒い海面が覚めるような群青へと変わる。その中に白んだ部分がある。
「道がある」と、口に出したのはアンジュだった。
その一声が合図だったかのように、引き潮が勢いを増し、海中に一筋の道が現れた。白い砂地が海中から顔を出し、砂浜がそこだけ沖へと伸びていくようだ。
感に堪えたという風情のリゼは、道を予言した赤髪の友に尋ねた。
「どこまで続いてるの」
「ヘルエスタ王国の外へ。フジの海を越えてオヴィクス帝国に」
「その先は?」
「どこでも、行きたい所へ。オヴィクスで暮らしてもいいし、西に抜けてラキミーに行って、一緒に学んでもいい。どっかで船を捕まえれば、外海にも出られる。そうしたら、リゼが皇女だなんて、誰も知らない」
リゼは呆然とするしかない。この明敏な娘でも。
「決められないよ。どこへ行きたいかなんて」
「じゃあ、決まりや。まずは、それを探そう」
「え?」
「リゼが行きたい場所を探す。それが最初の目標ってこと。見つかるよ。それまで一緒に行こう」
潮はさらに引いてきた。細く長い砂の道が水平線まで続いている。リゼは、建国神話の一節を唱えた。
「賢者は杖の一振りで海を割り、勇者のために道を作った……」
信頼と尊敬の視線を浴びて、錬金術師は頬をかいた。
「そんなもん、迷信だってば。これは自然現象よ」
「それでも魔法使いみたい。いつでも大事な時に助けてくれる」
アンジュの赤らむ頬を朝焼けが隠している。彼女は誤魔化しに咳払いを一つすると、得意の美男子風の声を作った。
「お姫様、あなたの魔法使いだよ。助けが欲しい時は、空だって飛んで行くさ」
「うわ、なにそれ。だっさ」
容赦なく言うと、リゼはケラケラと笑った。深窓の皇女ではない、義務のしもべでもない、ただの少女の笑いだった。
「だ、ださくねぇし!」
「だっさーい!」
まだ笑いながら、リゼは海を割く道に向けて駆けだした。
「そっちが言わせたんだぁ! ちょ、待ってや、うち、荷物重いんだから」
「あはは!」
砂浜には、海鳥の鳴き声と波の音だけが響いている。朝日は昇り、空は快晴である。二人は砂浜を離れ、海のただ中にできた白い道に踏み込み、さらに駆ける。
右も左も海だ。その群青のただ中、正面まっすぐに、白い砂地の道はどこまでも続いている。
対岸では、二人が生まれて初めて訪れる外国が待っている。どんな景色、どんな人々がいるのか、彼女たちは知らない。
知らないということが、彼女たちの希望だった。当然、不安は大きい。しかし、高揚の大きさが上回る。
胸の高鳴りを感じれば、進む足は止まらない。
早く行きたい。早く知りたい。
未知の可能性に夢のみを見る権利。若さと愚かさのただ中に、まだ彼女たちはいる。
明るい空と海の間で、先の見えない細く長い道を、二人は笑いながら駆けて行った。
(第二部 旅立ち編 了
第三部 オヴィクス帝国編に続く)
第二部の最後までお読み下さり、ありがとうございました。
二人の旅はまだまだ続きます。第三部ではラムダ世界の戌亥とこさんと出会い、冒険が本格化していきます。ページ・オブ・ラムダの最後まで書き切りますので、ぜひ最後までお付き合いください。
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