賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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オヴィクス帝国編
沙漠の都 オヴィクス


 春とは思えない乾いた熱風が、アンジュの顔を撫でていく。温暖湿潤なヘルエスタとは違う、厳しい異国の風である。

 

「はひぃ……」

 

 元来、出不精で、体力には自信がないアンジュだ。海の道を渡ってから野営し、さらに半日ほど歩いて、やっと都に辿り着いた頃には、足が棒のようになっている。

 

 それでも胸が躍る。耳に入る水晶の声が、やたらと弾んでいるからだ。

 

「私も、あれが欲しいな! みんなが巻いてるスカーフ、でいいのかな。あれ!」

 

 また風が吹き、水色がかった銀髪が揺れた。ヘルエスタ王国の第二皇女にして、いまは国を抜け出してきたリゼ・ヘルエスタは、躍るように歩いている。

 

「着いたら買い物してみたい! 大きな市があるんでしょう」

 

 その元気な声が、疲れたアンジュを微笑ませた。

 

「市場みたいな大通りらしいよ。バザールっていうんや」

 

 そう答えると、アンジュは水筒の水で口を潤した。水の錬金術で空気中の水気を集め、どうにか飲み水を補えるのが救いだった。

 

「あとね、お風呂、お風呂!」

 

 元気に答えるリゼに、アンジュは安堵を深めた。リゼは気落ちしていないらしい。それどころか、皇女の重圧から解放されて、市井の娘のようにはしゃいでいる。

 

「ほな、ハンマームを探そう」

 

「ハン……なに?」

 

「公衆浴場。ヘルエスタと違って、蒸し風呂なんやって。あそこでは」

 

 アンジュとリゼは、前方の彼方に目をやった。延々と続く牧草地とナツメヤシの畑の向こうに褐色の台地が盛り上がり、三重の壁に囲まれている。

 

「オヴィクス帝国の都、帝都オヴィクスや」

 

「別に砂ばっかりじゃないんだね」

 

 見渡す限りの砂ばかりの不思議な国。それがヘルエスタ人にとっての隣国オヴィクスの想像図だ。だが実際に目にしてみれば、多くの土地は砂というより砂利のように見えた。また、緑豊かな畑もある。

 

 王立学院で諸学を修めた錬金術師アンジュには確かな知識がある。

 

「そういう砂沙漠もあるらしいけど。砂の真ん中の都じゃ、何万人も暮らせないでしょ?」

 

 砂漠の国の都なら、周囲は一面の砂海や砂丘だろう――という先入観は、知識と想像力の不足が過ぎるというものだった。

 

 リゼは、まだ解説を求める顔をしている。アンジュは書物で得た知識を噛み砕いて話した。

 

「――沙漠っていうのは、水が少ない土地ってだけで、色々種類があるんよ。海の道を渡ってすぐのところは石ばっかりだったでしょ。その後は乾いた土で、いま通ってるのは畑ができる土。川はないけど、地下水があるんやと思う」

 

「畑を作れる場所に街ができるのね。街と街の間はカラカラの、色んな沙漠なんだ。だから隊商が多いのかな」

 

 アンジュは舌を巻いた。民を養うには様々な物資の安定供給が必要。勉強熱心な皇女にとっては常識に類することなのだろう。

 

 が、それほどに利発で、輝くように人を惹きつける娘が、そうそういるものではない。

 

 リゼを国外に連れ出してよかったと思う。立場と重すぎる責任から離れて、自由に生きていける。

 

——隣の国の皇女さまだって、バレなけりゃ。

 

「一応、言っとくけど、あなた、商家のお嬢様って設定やからね」

 

「分かってるって!」

 

 走るような早足で歩き出したリゼを、アンジュは苦笑しつつ追いかけた。

 

 

 見つけた市場街、バザールは、噂にたがわぬ壮観さだった。大通りに商店が軒を連ねるばかりか、屋台のような露店が数知れず並び、客引きの声が飛び交っている。

 

 店先に並ぶ商品は多種多様だ。堅焼きパンやナツメヤシを編みかごに山と盛っている店。羊肉の串焼きは真っ赤な香辛料が塗りたくられて、ヘルエスタには無い強い香気が鼻をつく。

 

 金銀でできた豪奢な腕輪や首飾りが店先に並び、豊かさと治安の良さを思わせる。物色する高貴な女たちは、やはり日焼けを厭うのか、黒色のフードで顔を覆ったり、大きな盆のような帽子を被ったりしている。

 

 ラクダの背に樽を乗せ、そこから水と果汁をまぜた飲み物を杯に汲んで売る露店が、貧富さまざまな人の喉を潤している。目の覚めるような赤や黄色の果実には、アンジュが目を剥くほどの高値の札がついていた。

 

 リゼの目当て、服飾の店はすぐに見つかった。

 

「この赤いスカーフを貰います。お代はこれでよろしいでしょうか」

 

 リゼは丁寧なオヴィクス語で告げた。商人は目を丸くしている。

 

 言葉が通じないのではない。そこは隣国の便利さで、ヘルエスタ語とオヴィクス語は大差ないのだ。

 

 商人はぶるぶると震え、リゼが掌に乗せた金貨を落としそうだ。

 

 ヘルエスタ王の横顔を刻んだ金貨。オヴィクスの正貨とは違っても、純金の価値には大差ない。両替すれば、この店ごと買って、お釣りがくるであろう。

 

「間違い! これでちょうどでしょ!」

 

 錬金術師はすかさず金貨を取り返し、代わりにオヴィクスの銅貨を押し付けた。旅の疲れと暑さのためか、いつも以上に低く、ざらついた声になっている。

 

 店主に聞こえるようにリゼに話しかけておく。

 

「お嬢様、支払いは私がやりますから」

 

 リゼは妙な顔をするが、口を開くことはなかった。アンジュは店主に苦笑してみせる。

 

 店主は納得したようだった。相好を崩し、声を潜めて応じてくる。

 

「いやいや、お目が高い。さぞや名の知れた商家の御令嬢とお見受けしますぞ」

 

「すいませんね。なにぶん、お忍びで……」

 

「ご苦労様でございますな。これほどお美しい方のお供とは」

 

 アンジュは内心で安堵した。リゼのただならぬ人品は隠しようもないが、隣国の皇女がぶらりとうろついているなど、誰が想像するはずもない。伝家の細剣さえ旅装マントで隠してしまえば、思った通り、豪商の令嬢で通るようだった。

 

 そう落着しかけたところで、リゼが口を挟んできた。

 

「お供なんかじゃありません」と、不満げに唇を尖らせている。

 

 余計なことを——とアンジュは思ったが、店主は勝手に納得したらしかった。

 

「ほほう。これは失礼を。さては、お嬢様のイイ人ということですかな」

 

「ええ。良い人よ」

 

 店主はニヤニヤ笑いを浮かべ、アンジュを小突いてくる。

 

「主筋のお嬢様を、とはね。働き者ですな、お兄さん」

 

 アンジュは自分の服装に目を落とした。彼女も旅装、それもあちこちに収納のある旅ローブで、性別を示すようなものはない。もとがスラリとした体型に低い声、そして令嬢の付き人ならば、男性と思われて無理はない。

 

「は、ははは……」

 

 訂正したいのは山々だが、女二人連れと思われるのも物騒だと、乾いた笑いで誤魔化した。

 

「待って、私は主筋ってわけじゃ」

 

「じゃ! 私たちは、これで!」

 

 不審げなリゼの手を引いて退散し、次の店へと向かうのだった。

 

 ◆

 

 バザールのあちこちを巡り終え、宿屋と風呂屋を探すうち、帝都オヴィクスの構造が分かってきた。

 

 都の中央、一際高い岩山のような高台に、白く輝く大きな建物が見える。都の中枢、皇帝の宮殿と国教会の神殿なのであろう。

 

 その周りを三重の石壁がぐるりと囲む。最も内側の壁は宮殿と神殿を守り、二つ目の壁の内側が旧市街、三つ目の壁の内側が新市街で、バザールは新市街にある。

 

 新市街を囲む市壁の、さらに外にも街はあるが、そこは旅人向けの宿や馬車溜まりが主で、あとは貧困街のように見えた。

 

 都がこのように同心円の形になるのは、どこも変わらないのだな——とアンジュは思った。

 

 王都ヘルエスタは、かなり以前に城壁を取り去ったが、今でも王城に近づくほど古い街で、上流階級が住んでいる。

 

 旧市街と往来する人々の身なりを見る限り、オヴィクスでも同様であるに違いない。

 

 そのような貴人や富裕者らしい姿も多い、旧市街側の市壁のそばに、リゼの次なる目当てはあった。

 

「あれかな。湯気があがってる」

 

 リゼが指差した先に、何本もの煙突を突き出した大きな建物があった。出入りする人の風体から、工房の類とは思われない。職人風の男もいるが、たいていは身なりのいい女性客なのだ。

 

 店先には大きな庇が影を作り、椅子がいくつも並び、客たちがくつろいでいる。水売りの屋台が果実水を売っているようだ。

 

「ハンマーム。公衆浴場やな。入っておいで」

 

 アンジュがそう言うと、リゼは驚いたようだった。

 

「アンジュは入らないの?」

 

「ん、んん……」

 

 アンジュは言葉を探した。その横を、楽しげな女性三人連れが通り過ぎ、湯屋に吸い込まれていった。

 

「あたしはええわ。宿屋でお水を使うよ。一緒に入んない方がいいと思う」

 

「なんで?」

 

「その、人と一緒にお風呂入るの苦手っていうか、どんな気持ちになっていいか分かんないかもしんない」

 

 リゼはじっとりとした目でこちらを見ている。

 

「私とお風呂に入ると、どんな気持ちになるか分かんないの?」

 

「いや、そうじゃなくて! ええと、目のやり場に困るっていうか、どこ見ていいか分からんっていうか」

 

「ん? うわぁー、もう、ほんとにあれだわ」

 

 リゼは可愛らしく小首をかしげ、しかし眉のあたりには、猛烈な不審を浮かべている。

 

「ち、違うんだって。変な意味じゃなくて」

 

 アンジュは、長年築き上げた信頼がガタガタと崩れる音が聞こえた気がした。空耳であることを願った。

 

「アンジュの家が一人用お風呂なのは知ってるけどさ。城下の人って、普通は公衆浴場を使ってるんじゃないの?」

 

「いや、分かってる。分かっちゃいるんだけどね。世の中の人の間では、普通に、そういうことが執り行われているっていうのは」

 

「執り行われてるって何だよ」

 

「せやけど私はなんか、誰かとお風呂入るの難しいっていうか……」

 

「ふーん。よくわからないけど、気になるのね」

 

「そう! てか、リゼは気になんないの?」

 

「普通、お風呂入る時は一人じゃないよ」

 

「お姫様暮らしなのに?」

 

「湯浴み係の侍女がいるもの」

 

「あー」

 

 アンジュは膝を打った。深窓の貴人ほど、他人の世話になるのは慣れているというわけだった。住む世界の違いを今さら実感する。

 

「一人で入るのはアンジュの家に泊まった時だけ。じゃあ、悪いけど待っててくれる? 早めに出てくるから」

 

「ここで涼んどくわ。ゆっくりしてき」

 

 リゼが中に入っていくと、アンジュは椅子に腰掛けて息をついた。温泉が豊かに湧く山村に生まれたアンジュは、風呂は大好きだ。が、どうしたことか、無防備な格好で人と接するのは極めて苦手なのだった。

 

 そんな自分を、無理に同行させるでもなく、遠慮して自分の入浴を諦めるでもなく、あっさり尊重してくれるリゼの大度が、アンジュにはありがたかった。

 

 冷水を注文し、往来を眺めながら啜っていると、艶めいた声が降ってきた。

 

「もし、お一人? お隣、よろしいかしら」

 

 声の主は長身の女だった。巻き布で顔を覆っており、瞳しか見えないが、それでも美女としか思えぬ雰囲気を漂わせている。

 

「ああ、どうぞ」

 

 女は典雅な動きで隣に腰掛けてきた。

 

「旅の方? 都は初めてなのかしら」

 

「ええ、まあ」

 

 相手も時間潰しなのだろうと、アンジュは往来から目を離して、会話に応じた。

 

「ずいぶん羊が多いんだね。いつもこうなの?」

 

 女は扇で口元を隠し、くすくすと笑った。

 

「ほんとに何にも知らないのね。いつもは、生きた羊は門をくぐれないわ」

 

「じゃあ、今はどうして?」

 

「犠牲祭が近いからよ」

 

「犠牲……ああ、生け贄っていうこと」

 

「嫌らしい言い方! 天界に生まれ変われるんだから、羊も喜ぶに決まってるじゃない」

 

「こんなにたくさん羊を捧げられちゃ、神様だって食べ切れないんじゃないかな」

 

 女は一瞬きょとんとした後、直ちに腹を抑え、息が切れるほどに笑った。

 

「面白い人ね。捧げるのは血と魂よ。肉は貧しい人々に振る舞うの。供物と喜捨が一度にできて、うんと功徳があるんだから」

 

 やがて笑いを収めると、女は巻き布の間から、瞳を輝かせた。

 

「ねえ、楽しい人。私の家でもっとお喋りしていかない?」

 

「ありがとう。でも、連れがいるから」

 

「まあ! まさか女の人じゃないでしょうね」

 

「女友達だよ。男連れで旅なんてしないって」

 

 そう聞いて、女の声音が変わった。巻き布の奥では顔色も変わっているかもしれない。

 

「……ひどい人。そういう男だったのね。私、嫌よ。さようなら。魔物に食べられてしまいな」

 

 言い捨てながら席を立ち、女はすたすたと去っていった。

 

 一人残されたアンジュは呆然としている。

 

「……男?」

 

 バザールの店主に続き、今の婦人にも、アンジュは誤解を振り撒いていたわけだった。そう理解すると、会話の何もかもが腑に落ちてくる。頬が急速に熱くなる。両手で顔を覆った。

 

「うあ、最悪。暇つぶしに、女、口説いてたってこと? 何やってんだ、私は……」

 

 ずるずると椅子の背もたれから滑り落ちる。ここが自宅なら、床に転がりまわりたい。

 

「うー、うー」

 

 唸っているうちに、水晶のような声が飛んできた。

 

「お待たせっ」

 

 振り返ってみれば、リゼは常にも増して、きらきらと輝くように美しかった。旅塵を落とした肌は、白磁の器のように艶めいている。

 

「ん? なんかあった?」

 

「……何でもない! ほな、宿に行こうか」

 

 冷水の支払いに小銭を出して、屋台に置こうとした、その時のことである。

 

 なぜ気づかなかったのだろう。屋台に貼ってある品書きの横に、顔と名を記した紙が貼ってある。

 

 描かれた顔は女のもので、悪鬼のような形相だ。しかも、その頭には、犬のような耳がある。

 

「これは」

 

 店員に目で尋ねると、丁寧に教えてくれた。

 

「なんだい、お客さん。この触書きかい。ろくでなしの魔物がね、宮殿を襲ったらしいんだよ。怖いねぇ」

 

 アンジュはリゼと顔を見合わせた。

 

 手配書に描かれた顔は、悪意に歪められているとしても、彼女たち二人の知り合いのように思われた。

 

 犬のような耳を持つ、女性の魔物。その実は、心優しいケルベロス。戌亥とこ、という妙な名の。彼女らの命の恩人だ。

 

 その手配書には、生死に関わらず、捕らえれば恩賞は思いのまま、とあった。

 

 店主は怯え顔で解説した。

 

「衛兵が大勢、こいつ一匹に蹴り殺されたんだと。どうやらね、牢屋を狙ったって噂だよ。あすこには、ろくでなしの魔物が大勢、捕まえてあるからね。犠牲祭で始末する前に取り返しにきたらしい」

 

 アンジュは思わず口を挟んだ。

 

「犠牲に捧げるのは羊なんじゃ……?」

 

「そうなんだけど、新しい大神官さまの仰せでね。今年から都に住み着いた魔物も、いくらか捕まえて捧げるんだと。だからお客さん、市壁の外の街に行っちゃ駄目だよ。あそこら、魔物街だから。魔物狩りに巻き込まれちゃ大変だからね」

 

 気もそぞろに礼を言いつつ、アンジュはリゼと頷きあった。

 

 次の目的地が否応なしに決まったからだ。

 

 

(「魔物街」に続く)

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