賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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魔物街で

 一つの影が、神殿の回廊を走っている。石柱の合間を縫い、身を隠しつつ、奥へ奥へと。

 

 星明かりに照らされて、壁や床に映し出される影は、異形である。

 

 人の形でありながら、翻る尾を引いている。

 

 影は凄まじく速い。跳躍ひとつで渡り廊下を飛び越える。かと思えば窓から飛び、隣の建物へ。音もなく垂直に跳び、天井に張り付くこともある。見回りの衛兵を避けているのだ。

 

 どうしても避けられぬ衛兵に遭遇すれば、音もなく近寄り、背後から兜を一撃する。素手の殴打。衛兵はあっさりと昏倒した。鉄兜がへこんでいる。

 

 影はさらに奥へ。そして地下へ。生来の嗅覚で、求めるものを探す。不快な汚臭を。すなわち、死から救うべき仲間を。

 

 神殿の地下第二層にまで降りた。蝋燭が点々と灯る大廊下を、黄土色の壁に張り付くように進んでいる時のことだ。

 

 ひゅ、と風を切る音がした。そう知覚した時、彼女は既に跳んでいる。壁に矢が突き立つ音がする。

 

「曲者め!」

 

 曲刀を掲げた兵が突進してくる。オヴィクスの神官兵である。一人。

 

 着地するなり、影は敵に向けて跳躍した。あまりの勢いにフードがめくれ、黒に近い茶髪が流れた。

 

 影は女である——と、いっていいものか、どうか。

 

 その頭には、ピンと立つ獣の耳。敵の刀をたやすく払う、ナイフのように鋭く長い爪。直後に繰り出された蹴りで、鎧を纏った神官兵は廊下の端まで吹き飛び、壁にめり込んでやっと止まった。

 

 女は、また跳んで兵の目前で止まり、その襟首を掴んだ。

 

「牢屋はどこだ。魔物を捕まえているのは」

 

「ばっ……」

 

 何かを言いかけて、兵は気を失った。

 

 化物。そう言いかけたのだと、女は承知している。

 

「ふん」

 

 獣のような毛に覆われた尾が翻り、神殿の床を打った。

 

 それを合図にしたように、神殿内は騒然とする。

 

「襲撃だ!」

「また魔物が来たぞ!」

「集まれ、集まれ!」

 

 四方から声がし、人が駆け集まる音がする。

 

 女は舌打ちし、来た道を駆け戻りはじめた。

 

 地上に通じる階段の前に、幾人もの神官兵が立ちはだかっていた。何本もの曲刀、その切っ先が蝋燭の火を反射する。

 

「汚らわしい魔物めが!」

 

 その言葉の切っ先は、彼女には刺さらない。女は薄く笑った。左右の拳を握り直す。

 

 恐れを知らぬ態度は、敵の怒りを掻き立てた。

 

「生かして返すな。この場で殺せ!」

 

 わっ、と声をあげ、兵たちは一斉に斬り掛かってきた。

 

 女は左に跳び、壁を一蹴りしてさらに跳ぶと、空中でくるりと回転する。一瞬後、彼女は兵たちの後ろにいた。

 

 無防備な背中に向けて蹴撃、打撃を次々に見舞う。一撃ごとに一人の兵が倒れる。たちまち全員を叩き伏せる。

 

 兵たちは、床に伏して呻きをあげるだけになる。

 

「……化け物……め……」

 

 その悪罵を受けて、彼女は再び笑う。

 

「よう言うわ。人でなしどもが」

 

 片足をあげる。その踵は、倒れた兵の頭の上にある。いつでも、とどめをさせる。全員を殺めることも。

 

 怒り高ぶる女の脳裏に、懐かしい声が響いた。水晶のように澄んだ声。

 

——わけもなく、そんなことはしない人でしょう。あなたは。

 

 十年余り昔に聞いた言葉だ。それを言ったのは人間の少女だった。紫の瞳に強い輝きを宿し、恐るべき魔物である彼女を、まっすぐに見つめて。

 

——私も、あなたたちを傷つける酷い人間の仲間かもしれません。でもそうやって、あなた自身まで汚さないで。

 

 少女が小さな身体に秘めた勇気は、彼女を圧倒した。心を掴み、揺さぶり、そして貫いた。

 

——私の友達になってください。

 

 彼女は足を下ろし、つま先で兵の腹を小突いた。兵は潰れたような声をあげ、空気を求めて喘いだ。

 

「阿呆やな。ほんまに」

 

 言い捨てて、獣の耳を持つ女は、影のように走り去った。

 

◆

 

「ちょ、ちょい待ってや。アホか!」

 

 思わずアンジュは声を荒げた。身分でいえば遥かに目上、年齢では十歳近くも年下の皇女に対し、常には言わない言葉である。それほど、リゼ・ヘルエスタの言い出したことは無茶だった。

 

 ヘルエスタの王城で同じことを言ったなら、即座に衛兵に捕まえられるところだ。だが、このオヴィクス新市街の宿屋、それも個室でならば憚りがない。

 

 またリゼ当人も、唯一の友人の暴言を、無礼だと咎めるような娘ではない。それどころか、

 

「分かってる」と自分の無茶を認めて、それでも意志が固いのだ。

 

 紫色の瞳に鮮烈な意志の光を輝かせ「でも、やる。あの人たちを助ける」と、リゼは言った。

 

「人じゃないよ。魔物たちや。それも外国の、見ず知らずの。それに命を賭けるって?」 アンジュは弱り切っている。

 

「関係ない!」

 

 リゼの小さな手が寝台を叩いた。

 

「知らないふりなんてできない。この街を見たら!」

 

「…………」

 

 沈黙は不承不承の肯定だった。アンジュは立ち上がり、狭い個室の窓辺へと向かった。小さな窓にはまった木戸を開けると、 砂っぽい風が流れ込んできた。見下ろせば、魔物街と呼ばれる街が広がっている。

 

 帝都オヴィクスを囲む重の壁の外側で、その街並みは、異様に背が高い。

 

 市壁の内側の街が、せいぜい二階建てであるのに、魔物街は三階、四階だての建物がざらにある。やや傾いているものも多い。土地が狭く、住民が多いためである。

 

 リゼとアンジュがいるこの宿もそうだ。少し傾いた四階建て。その四階で、宿の中でただ一室、寝台がある個室をとった。他の部屋は宿泊客の共同で、室内に一本のロープを渡して、それに身体をひっかけて寝るのだという。

 

 それでも壁と屋根があるだけましらしく、路上で暮らしている魔物の姿が多く目につく。一見すると人間のように見えるが、獣の耳や尾を生やした獣人種が多い。彼らは人間よりはるかに生命力が強い。力仕事に向いているために、工事仕事に雇われて、 朝ごとに市壁の中に通い、夜には魔物街に戻ってくるのだ。壁内で魔物が夜を過ごすことは、治安維持のために認められていないのだという。

 

 人間と住む区画を分離され、砂塵から身を守る壁のない場所に押し出されて、それでも我慢しているのは、他に生きる道がないためだ。

 

 オヴィクスにおいて、魔物は土地を持つことができない。また、魔物街以外の場所で店を持つことも禁じられている。

 

 となれば、人間に雇われて働くか、魔物街の中で店を出し、同族相手だけの商売を細々と営むほかはないのだ。そのような境遇の魔物が大勢、密集して暮らしているから、当然、賃金はひどく安い。民心は荒れ、街路では魔物同士の喧嘩沙汰、窃盗、強盗の類が白昼から起こっている。その挙げ句、血みどろの獣人が街路に倒れていたり、安酒で泥酔して死んだように寝ていたりという風景だ。

 

 そのような街を作り出しておいて、それがまた、治安悪化の原因だというのがオヴィクス皇帝の言い分であり、帝都に住まう人間たちの素朴な実感でもあった。その帰結を、リゼとアンジュは既に目にしている。

 

「魔物狩り——か。皇帝の親衛隊だの、神官戦士だの、自警団だのが魔物街に乗り込んで。あいつらこそ、強盗にしか見えない」

 

 いまも、その情景は路上にあった。自警団を称する人間たちが、棒だの剣だのを手に魔物街を巡回し、適当な魔物の若者に目をつけては、路傍で滅多打ちにしている。それで帝都の治安を守っていると称しているのだ。

 

 遠くに見える血しぶきから目を背け、アンジュは木戸を閉めた。建付けの悪い戸と枠の隙間から、かすかな悲鳴が漏れ聞こえた。

 

「挙げ句、犯罪者だっていう魔物を捕まえて、神様への生贄にするだって。そのための処刑台も、魔物たちに作らせとんや。あったま、おかしいで、この国。」

 

 総括してみれば、リゼに反対するのは難しくなった。まして、リゼが生贄たちを助けようというのは、個人的な情義でもある。

 

「戌亥さんが仲間を助けようとしてるんだよ」

 

「そうやけど」

 

「命の恩人じゃない。私たちの」

 

 アンジュはまた、不承不承に頷いた。もう何年も前の話だが、ヘルエスタ王国で魔物が不自然に暴れるという事件があった。その実は、不平貴族が栽培させた狂い薬のせいであって、魔物たちの罪ではなかった。その事件を暴くとき、まだ学院の学生であったアンジュと、ほんの少女であったリゼは、犬のような耳と尾を持つ女に助けられたのだ。リゼたちとは別に、魔物を救うべく独自に動いていた獣人の戦士、戌亥とこである。

 

 たった一夜の共闘関係だが、互いに命を預け合った記憶は、何年たっても朽ちることはない。その戌亥が、今度はここオヴィクスで、囚われの魔物を救おうとし、お尋ね者になっている。

 

「今度は私たちが助けるの。戌亥さんを。捕まってる魔物たちも」

 

 そう息巻くリゼに、アンジュは閉口した。なるほど、言っていることは正しい。ヘルエスタ王国のように、人と魔物は曲がりなりにも共存できる。それらのに、一方的に迫害し、どころか羊でも扱うように犠牲として捧げるなどは、憤りを抑えられない。だが、それを助けるのと引き換えに、どのような危険が我が身に及ぶかとなると、この聡明な皇女は不思議と何も考えなくなるように思える。

 

「あんなあ、リゼ」

 

 アンジュは呆れかえった。

 

「その辺で人助けするんじゃないんや。皇帝に歯向かうことになるんやぞ。処刑場を見たろ。衛兵が大勢、守ってた。たった二人で突っ込むことになるやぞ。そ、それに……」

 

 身の毛もよだつ想像をして、アンジュは青ざめた。呼吸が浅く、激しくなっている。

 

「オヴィクスの刑罰は容赦がないんだ。私達は外国人で、それも女じゃん。捕まったら、楽には死なせてくれないよ」

 

 リゼはといえば、アンジュの説得を聞くどころか、反論されればされただけ、ますます意志堅確な顔つきになっている。

 

「大丈夫。うまくやる」

 

「こんの……!」

 

 アンジュは我慢の限界を迎えた。

 

「立場ってもんが、分からんのか!? リゼはヘルエスタの皇女なんやぞ。それが隣国の首都で暴れまわるって。うまくいったって、どういうことになるか分からんねんぞ!」

 

「もう皇女じゃない」

 

 リゼは頬を紅潮させた。

 

「そう言ったのはアンジュでしょ。海を渡れば、私が皇女だなんて、誰も知らないって。私は、ただのリゼ。王国は関係ない」

 

「そういうことじゃ。自分がそう思っても、まわりがどう見るか、分からんはずないやろ」

 

 リゼは一瞬だけ酷く悲しげな顔になった。

 

「アンジュが、そんなこと言うの」

 

 やりきれないという気持ちに、アンジュは寝台から立ち上がった。

 

「か、勝手にしろっ! せっかく、人が、どんな気持ちで」

 

 アンジュは言葉を失った。リゼの紫の瞳は、かつてない失望に満ちていた。見知らぬ国に逃亡し、たった一つのよすが、唯一の友人に裏切られたという気持ちが、その瞳に明らかだった。

 

「……無茶、言うなよ。あたし、そんな、何でもできるわけじゃないよ……」

 

 リゼは顔を伏せ、硬質な声で言った。

 

「ごめん。アンジュ。無茶なこと言った。諦める」

 

 そう言って、銀髪の皇女は寝台に転がり、ささくれだった毛布にくるまって横を向いた。

 

 アンジュはかける言葉に窮し、自分も横になって、リゼとは反対を向いた。

 

 

 ◆

 

 翌日の払暁、まだ暗いうちに、リゼの姿は魔物街の馬車溜まりにあった。朝霧が出て、視界はごく狭い。

 

 くすんだ灰色のフードを目深に被り、特徴的な銀髪を隠している。腰に下げた剣もだ。

 

 相場を外れた大金を握らせて、馬ごと買い上げた二頭立ての馬車に乗り込む。

 

 手綱を手にし、握り具合を確かめる。

 

 その手が僅かに震えていることは、リゼ・ヘルエスタしか知らない。

 

 ふっ——と息をつき、自分の決意を確かめる。

 

 だが、馬を走らせるには至らない。

 

 一向に指令を得ず、馬たちは退屈して、片足を曲げたり、地面を小突き始めたりした。

 

 そうしているうち、朝霧の中に、ぼんやりと人影が浮かんだ。その頭部は赤い。

 

「……おはよ」

 

 リゼの耳に届いた声は、聴きなれた低音だった。リゼはフードを払い、顔を見せて言った。

 

「来てくれるって思ってた」声が弾んでいるという自覚はあったが、隠そうとは思わなかった。

 

 皇女のただ一人の友人は、照れたような、困ったような顔で言った。

 

「私の役目、ちゃんとあるんやろ?」

 

 リゼは、急速に湧いてきた自信が胸に満ちるのを感じた。

 

「うん、あてにしてた」

 

「……まったく」

 

 アンジュは安堵したような顔を、わざとらしく怒らせた。

 

「まったく、まったく! 私がいなきゃ、何にもできねえんだもんな。しゃーなしやぞ。無茶はこれっきりにしてや」

 

 リゼはくすりと笑う。この赤髪の友人は、神のような知恵と知識に満ちているが、リゼにとってさらに貴重に思えるのは、アンジュが誰より優しく、自分を気遣ってくれることなのだ。命がけの戦いに臨む恐怖と緊張は、どこかに去っていった。

 

「ありがと! じゃ、作戦を言うね。まずは……」

 

 

 

(次話「処刑場の戦い」へ続く)

 

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