石壁に点々と空いた四角い窓から午後の陽光が差し込み、学生たちを照らしている。彼らは学寮が同じ者同士で集まって歩き、終わったばかりの試問会についてあれこれと言い交わしている。
発表者や教授の言い草を大仰に真似て笑い合っているのは、試問に無縁な下級生たちか、無事に進級を認められた者たちだ。
その場で却下を告げられた者は肩を落とし、互いに慰め合うか、教授への文句を小声で交わしているかだ。
そんな人波の中に、誰とも群れない赤い長髪が揺れている。学院随一の秀才と呼ばれる女の脳裏の中には、自己嫌悪と後悔が渦を巻き、試問会での自分のふるまいを果てもなく思い返している。けれど傍目には、人を寄せ付けぬ傲岸さしか見えない。
「アンジュ、アンジュ!」
追いかけて来た声は友人のものだった。この学院でそう呼びうる相手は、彼女には一人しかいない。アンジュが歩速を緩めると、貴族の令嬢らしい艶やかな金髪が追い付いてきた。
彼女のただ一人の友人、セティア・ツァコーネが、雪のような頬を紅潮させている。
「凄かったね! あんなことになるなんて」
毎年恒例の試問会は、今年に限って異例の展開だった。学院長が、ただ一人の発表者のために列席しに来たという。
「そういえば合否、言われてない? アンジュは。まあ、合格に決まってるよね」
友人は一人で合点したようだった。アンジュも否定はしない。
「大したことじゃないよ。それより、進級おめでとう、セティア」
「あ、そうだった。でも、私の発表なんて」と言った友人は、自分のことは今の今まで忘れていたようだった。育ちの良い友人の気質に、アンジュは頬を緩めた。
「一発で合格きめたじゃん。凄いよ」
卒業年次への進級を認められた割合は三人に一人ほどであったから、実際、大したものではある。祝いの言葉をかけられて、セティアにも合格の実感がようやく湧いてきたらしい。
「手伝ってくれたおかげ! 本当にありがとう。今夜は安心してプロムに行けるね」
毎年試問会が終われば休暇期間に入る。その前に、学生主催で慰労と祝いのパーティーが催されるのだった。
日頃の息苦しさを忘れる解放の場であり、男女の出会いの時間でもある。そう露骨に口に出すほど野卑な者は滅多にいないが、誰もが精一杯に着飾って参集する。貴族の子女ばかりの学生たちにとって、将来の伴侶を自ら求める貴重な機会なのだった。
「ねえ、やっぱり行こうよ、一緒に」と悪意なく誘うセティアも、期待に胸を膨らませているようだった。その人の良さにアンジュは苦笑する。
「そういう服とか、無いんだって」
「何でも貸すから! 家の侍女を着付けに呼んであるから、今からでも仕立て直させればいいのよ」
子爵令嬢の大らかさに、アンジュにはかえって気を使ってやらねばならない。
「いや、あなたのなんて借りたら私、まっすぐの枝みたくなるよ。それに踊りなんて知らないし」
「適当に揺れてればいいのよ。男子の方がリードしてくれるんだから。アンジュなら誰も放っておかないよ」
人が良いのか、鈍いのか――と、アンジュは思う。実のところ、容姿に自信がないではない。
どころか、物心ついて以来、鏡の前でくしけずる度、こんな美少女が他にいるものかと思い、大威張りで暮らしてきた。村一番の美女だと、親や縁者に褒めそやされて育った。細やかな肌といい、整った顔立ちといい、貴族の令嬢にも劣らないと。
貴族ばかりの王立学院に入学してみれば、実際、劣らぬどころか優るほどだった。特徴的な低音も、他の女にない蠱惑的な魅力のはずだ。すらりとした体形だって、女性には珍しい高めの身長と相まって、立ち姿の美しさを惹き立てている。
惜むらくは平民出の哀しさで、ドレスも宝石も持たぬことだけ。だが、もし友人が言うように着飾ったなら、王都一の美女だと誰もが気づくことだろう。どころか、神話に歌われる水海の女神にだって引けを取らないに違いない。
が、女神が赤毛だったとは聞かない。
アンジュは周囲を歩く学生の群れをそっと見回した。
金、茶、黒とさまざまな髪色がある中で、赤毛だけはいるはずがない。もし自然のいたずらで、貴族の家に赤毛の子が生まれたとしても、誰にも分からぬよう染めてしまうのだ。
赤毛の持ち主は気性が激しく、放埓で野卑だと言われている。まして赤毛の女なら、恥を知らない下品な輩というのが、貴族社会の通念なのだ。
まして、あたしの髪みたいな――と自分の毛先をつまんでみれば、炎のように赤々としている。どうしたものか、両親にも親類にも似ても似つかぬ髪色だ。ちょっと赤茶けた金髪ならば染めもしようが、これでは手の施しようがない。いっそ隠さずに伸ばすことに決めたのは、それが周囲を遠ざけ、気に食わぬ連中から我が身を隔てると分かったからである。
とはいえ、しつこく絡む者はまだいる。
「やめとけよ、セティア。生姜頭にドレスなんか着せても、ロウソクが一本できるだけだぜ」
気の利いた冗談を言えたとばかり、へっへと笑って見せたのは、試問会でアンジュの前に発表した男子学生だった。
「いらない、いらない。今時、ロウソクなんて。俺たちは錬金術をやってるんだぞ? 平民の家だって風のオーブでランプを点けてるっていうじゃないか」
え、どうなんだい。お前の実家では。それとも、まだロウソクだの、薪だのを燃やしているのかい。そういえば、木こりの娘だったよな。
「……木こりじゃない。オーブ技師の娘だ」
アンジュが律儀に訂正すると、男子学生はますます喜んだようだった。
「へん、俺たちの下職じゃないか。そんなら、お前も技師で満足してればいいんだよ。術師ぶりやがって。今日のやつだって、オジオンの入れ知恵なんだろう」
回廊で足を止めた彼女らの周囲に、徐々に人垣ができ始める。
「......それは、どうも」
冷静に、冷静に。馬鹿の言うことに付き合ってやる義理はないと、アンジュが打ち切りの仕方を考えだした、その時、男子学生は言った。
「それで、口利きをしてやって、セティアにまで取り入ろうっていうのか? 贔屓されてるからってさ」
形の良い赤毛の眉が逆立ち、常よりも低音の男言葉がアンジュの口を衝いて出た。
「黙れや。セティアがどんだけ頑張ってたか知らねえだろ」
湧き出すままに口走る。そのうちに、いつもは抑えている音程が、発音が、我知らず育ちの言葉に戻っていく。
「あたしが手伝わんでも受かっとったわ、ボケが!」
そう罵倒されて、男子学生がニヤリと歪めた唇が、アンジュの怒りをかきたてる。
「おい、何がおもろいん……」
はたと気付いて押し黙るが、もう遅い。アンジュが張り上げた声に、近くを通ろうとしていた学生たちまで足をとめている。誰もが彼女を見ている。
男子学生は、まわりに聞こえるように囃しはじめる。
「え、なんだって。分からないなあ。おい、頼むよ。ヘルエスタ語で喋ってくれよ」
ははは、これだから山出しは。錬金術は使えても、言葉が通じないんだから、困ってしまうな。
「なあ、みんなもそう思うだろう。分からないよなあ。もう一回、言ってくれよ」
「う、うっさいわ。うるさい。お前なんか、八年かけても卒業できんでおるくせに...!」
気が高ぶるほど、母親譲りの訛り言葉になっていく。
それが訛りだと、村に居たときは知りもしなかったが、街に出てみれば自分の口調は独特だった。
まして王都、貴族の群れに混じってみれば、嘲笑の的でしかない。千年前の古語の特徴を色濃く残した珍しい方言だと、言語学の授業の時に一人で立って喋らされたこともある。あれほどの屈辱はなかった。
「分かんねぇなあ。赤毛が癇癪もちってのは本当だな。それで、え、何だって?」
男は耳に手を添え、聞き耳を立てる真似をする。アンジュはますます、自然な言葉が出なくなる。
「この、この...」
言わなければ。言い返さなければ。こんな馬鹿と私は違うと、賢く、鋭い一言で、やっつけないと。だけど、暴言を吐けば、訛るだろうか。育ちのいい貴族の子なら、どんな悪口を返す。ええと、ええと。
焦るほど、言葉はでてこない。周りの耳が気になる。目も気になる。
どの顔も「ああ、またか」と言っているようだった。誰もが自分を見て、変な髪と言葉の田舎娘を嘲っている。そんな気がする。そうに違いない。
くすくす、という笑いは広がっていく。そう聞こえる。ただの自分の妄想か。いや、確かに聞こえる気がする。何も分からなくなり、ますます言葉はでてこない。
「わ、笑うな。このボケ、カス……」
言葉に詰まるだけ、吐き出せぬ怒りが胸につかえる。その圧力で目尻が滲みかけて、彼女は背を向けた。
「付き合ってられんわ、馬鹿が」
そう言い捨てて、足速に立ち去る。その背中で、声がする。
「はん、お里が知れるって言うんだ」
「あいつも終わりさ。学院長に楯突いたんだ」
「首席から転落だよ。平民を王宮に上げるわけがない」
「だからセティア、お前も関わるの、もうやめろよ」
ああ、知ったことか。あの馬鹿どもが何を言おうが。そう思っても、心無い言葉ほど、はっきり聞き取れてしまうのだ。
彼女にできる抵抗は、走り出すのを堪えて、速足に歩くことだけだった。
(次話「天才錬金術師アンジュ③」へ続く)