王都ヘルエスタは“マナ湖”という湖に面している。上古の人々が塩気のない海だと思い込んでいたほど巨大で、今でも“マナの
水海に小さく突き出した半島に、巨大な四角い館がそびえている。王の居館、ヘルエスタ城である。市街の拡張にともない、往古の城壁は壊され、堀は埋められている。昔の城塞を偲ばせるのは土台の石積みだけ。その上に建て直された現在の王城は四階建ての煉瓦造り。城と呼ばれつつも実質は王宮で、その無防備な壮麗さが平和と繁栄を示している。
城内で最大の面積をもち、二階まで吹き抜けに作られた謁見の間で、五名の錬金術師が絨毯に肩膝をついている。
そのうち四名の男子は、術師といっても貴族の子弟らしく、各々に意匠を凝らした宮廷服を着こんでいる。レース付きの内着には、白地に草花柄を刺繍してある。その上に羽織る緑や紫のコートにも、施された刺繍の典拠は、各々の家の紋章だ。
しかし最も目立っているのは、華やかな男子に左右を挟まれ、中央で片膝をつくアンジュ・カトリーナの地味な衣装だ。彼女だけは、生成りの木綿で作った長衣。レースだの、飾りボタンだの、まして刺繍などはない。袖口は動きやすく切り上げ、あちこちにポケットを隠した実用本位の作り。学院の試問会で着ていたのと同じ、錬金術師の正装である。
その質実さが異彩を放ち、かえって宮廷人たちの目を惹くとは、アンジュの想像の外だった。このような身分不詳の服で、首席として奏上を務めた者は、学院始まって以来であろう。
内容自体は、どうということはない。成績優秀な上位五名の研究内容を、素人でも分かったつもりになれるように嚙み砕き、適当な美辞麗句で彩ったものだ。アンジュ自身の言葉ではない。彼女の担当教授であるオジオンが書き、宮廷の式部官と錬金寮が事前に検閲しているから、間違いや非礼があるはずがない。
しかし、内容がどうあれ、国王を始め並みいる貴顕がいる前で長々と喋るというだけで、やたら喉が渇く。奉書を捧げ持つ両手が震える。
その指に、真新しい銀の指輪がはめられている。刻まれた意匠は三角に一対の翼。学院の成績上位者五名に与えられる褒賞で、恩賜の指輪と呼ばれている。
中でも首席たる彼女は、声が上ずりかける度、背中に冷や汗を感じつつ、何とか最後まで読み終えた。
「――以上、五報の研究を各々に成し遂げ、その成果を国王陛下並びに王妃殿下に捧げ奉り、本日、栄誉の指輪を賜わった王恩に報いることを、霊山神海に誓約いたします。王国歴九百三十二年、竜の月。王立学院学生五名を代表し、臣アンジュ・カトリーナ、謹みてこれを奏す」
ようやく読み終えた奉書を巻く音だけが、吹き抜けの大部屋に響く。居並ぶ王族と文武の諸臣はしわぶき一つも立てない。手の震えを抑えつつ、アンジュは奉書を侍従長に差し出した。
侍従長――の役職と官位をもつ生物――は、クチバシで奉書の端を咥えた。見た目は、やや大きな白い鶏である。赤いトサカを隠すように、小さな冠を被っている。その姿を奇異に感じる者は、この場にはいない。侍従長は、神秘的に見えるほど典雅なしぐさで向き直り、受け取ったばかりの奉書を人間の側用人に渡した。
またアンジュら学生の方を向くと、鶏の喉から優雅なヘルエスタ語が流れ出た。性別に相応しく、澄んだ女性の声に聞こえる。
「苦労でありました。それではこれより、勇者の正統にして王国第一の戦士、山厳かにして水豊かなる東ヘルエスタの領主にして、大ヘルエスタ万民の守護者たる国王陛下より、その方らに、お言葉を賜わります」
学生五人の息が細くなる。呼吸音を響かせることも畏れ多い。顔を上げて尊顔を拝したい衝動を堪え、アンジュは体を固くした。
玉座の上から響いたのは、威厳に満ちた男の低音だった。穏やかであるのに、侵し得ぬ強さを感じさせる。
「その方らの研究、どれも意義深いものと思う。錬金術の発展は、我が王国繁栄の礎である。明くる年の完成を聞くことを楽しみにしておる。ますます研鑽に努めよ。一同、大儀であった」
身体の緊張は増すばかりだが、アンジュの耳と頭脳は別の反応をしていた。思った通り、中身がない。王様といっても、そんなものかと見下すことで、平静を取り戻そうとしているのだ。
「それでは、これをもって――」と侍従長が儀式を収めようとした、その時のことである。
「陛下、わたくしからも、よろしいでしょうか」
侍従長とも異なる女声で、玉座の方から聞こえたとなれば、その主は一人しか考えられない。アンジュらには見えないが、国王は鷹揚に頷いたのだろう。
「とても興味深く、また麗しい奏上でした。女の私には、よく分からぬことも多かったけれど。主席の者、もう一度、名を教えてくれますか」
何を言われているのか、アンジュの明敏な頭脳が理解を拒否した。それほどの異常事だった。驚いたのは彼女だけではないらしい。微かな衣擦れの音があちこちから聞こえている。となれば、聞き間違いではない。何も考えられないままに口を開いた。
「アンジュ……」と名乗りかけたところで、鶏の侍従長の声に「控えよ、学生」と制され、彼女は縮こまった。
「よい。直答を許します。顔も見たい。面をあげなさい」と、王妃であろう婦人の声が言った。意外にも怜悧な響きがある。
アンジュはびくりと震えたが、恐る恐る顔をあげた。向かってやや右、玉石と彫刻で飾られた白い大椅子に、銀髪の婦人が座っている。持ち主の混乱をよそに、アンジュの乾き切った喉は答えを返した。
「アンジュ・カトリーナと申します」
やっと言い終えると、王妃の目にある好奇の色に気づいた。やや硬質な声が再び尋ねる。
「やはり良い声ね。てっきり、男かと思いました」
それを冗談と介したらしく、列席者の典雅な笑い声が広まる。
アンジュは心臓を掴まれた心地になった。女には珍しい、擦れ気味に聞こえる低い声。「男のようだ」「男かと思った」とは、セティアを除く学院の男女に幾度となく投げかけられた罵りである。
しかし、王妃というものが、もしも彼女と同じ人間であるとするなら、こちらをからかっているようには見えない。真摯に尋ねているだけのような気がする。それどころか――という迷妄を、アンジュは自ら否定した。
「アンジュ、というの。首席なのね。あなた、女だてらに、いいえ……」
言葉を選ぶような王妃の素振りと表情に、アンジュは自分の迷妄をやはり肯定したくなった。いや、そんなはずがない。王国に君臨する王妃殿下が、自分のごとき卑賎の平民を羨むなんて、あり得ない。きっと貴人の感情は、下々には伺い知れないということだ。
「ともかく、憶えておきます。ご苦労でした」
王妃は国王に会釈し、短い会話の終わりを教えた。その目線を追い、つい国王の尊顔に目を向けかけて、アンジュは慌てて下を向いた。
鶏の侍従長が「これをもって式を終わります。国王陛下は、しばしお休みになられます」と告げる。
「皆、後の酒宴で会おう」という国王の声が響き、その後に微かな足音が続いた。王と王妃が退出した後、玉座近くに侍していた王族たちが去り、次いで列席の貴顕たちが騒めきながら控えの室に下がる。
長い待ち時間を終えた後、ようやく学生五名は立ち上がって息をついた。
案の定、男子四名に妙な目で見られ、アンジュは弁解するように口を開いた。
「なんやった……や、何だったのかな。きっと珍しかったんだよ」
はは、きっとね。女で、こんな服だし、変な声だし――と自嘲してみせる彼女だった。そうして、友とも思わぬ学友どもを煙に巻いても、自分を見つめる王妃の目が、まだ内心に引っかかっている。
夕刻の祝宴にも国王や王妃、その他の王族はあらわれるはずだ。しかし、彼女ごとき者が王族と会話する機会など、もう二度と巡ってくるはずがない。そう思っていた。
(次話「皇女と錬金術師②」に続く)