「やらかし、その一。夜間外出。みんなやってる。男、連れ込んでる奴らより、だいぶマシ。寮長に小言もらうだけ」
深夜に音を立てぬよう、アンジュは慎重に木箱をまさぐる。明かりといえば、倉庫の床に置いた小型の風のオーブが一つ。これ以上の明るさは危険だ。
「やらかし、その二、卒業研究の持ち出し。研究は学院の財産。外出禁止、たぶん一カ月。けっこうキツイでぇ……」
ようやく木箱が開いた。音を立てぬよう、横板を慎重に外し、石畳に置く。
棘が手に刺さった。痛い。手袋をつけなかった自分の間抜けさに舌打ちする。ちぇ、何だって、こんな目に。
「その三、王城への不法侵入。やばい。逮捕、待ったなし。罰は、鞭打ちとか? 知らんけど……」
大汗をかきながら、箱の中身を荷車に乗せる。だいたいが布とはいえ、帆布だから重い。
落ち着いて、やらねばならない。誰かのせいにしたいが、完全に自分のせいだ。
だから、やる。
本当に。本当に?
いつもそうなのだ。親しい人が少ないせいか、これと気になった相手には、距離感を間違える。際限なく、何でもしてあげたくなってしまう。自分の損を忘れて。
それにしても。それにしたって。とんでもないことだ。
「……その四、皇女サマを誘拐。やばすぎ。もしかして死刑? まさか。ああ、もう! 頭おかしいで、絶対」
その間にも、彼女の手は休まず動いている。ここ数カ月、ずっと格闘してきた精巧な発明品を、古びた荷車に積み終えた。機関部に嵌ったオーブが灯りを反射している。
――アンジュ、この大馬鹿。歪んでる。分かっちゃいるんだ。正気の沙汰やない。
「ほな、その五。やっぱり、やめる。嘘つきになる」
それがいい。あれは気の迷い。飲んでもいない酒に酔っていたに違いない。そういうことにすれば。そうしたならば。
「あの子はガッカリする」
自分の手の平を見る。刺さった棘がまだ痛い。でも、あのボロボロの小さな手は、きっと、もっと痛かったろう。
棘は刺さったままで、どうやら抜けそうにないらしい。
彼女は意を決し、革手袋をはめた。
「……バレなきゃ、ええやろ」
ローブのフードを被り、荷車を外へ引いていく。深夜の学院の庭で聞こえるのは、古びた木の車輪が軋む音と、フクロウの声だけである。
星明かりに照らされたヘルエスタ城を、もしも上から見下ろす者がいたなら、ほぼ真四角に見える。四つの角は空に伸びる尖塔になり、見張り台を兼ねている。
その一つ、東南側の塔に、第二皇女リゼ・ヘルエスタの自室がある。幼いとはいえ皇女の自室だけあって、塔の一階層をほぼ全て占める広さだ。
室内は、小さなランプ一つに照らされて薄暗い。椅子や机、棚といった調度品は、よく磨かれて清潔で、上品でもあるが、飾り気の少ない実用本位。貴族の部屋につきものの美術品は殆どない。
唯一、目を惹くのは、身を伏せる雌獅子の銅像だ。本物と同寸の大きさで、今にも跳躍しそうな生気が溢れている。その銘は“獅子眼眈々”といい、獲物を狙う雌獅子の抑え込まれた闘志が主題となれば、女児に与える調度品としては異様といっていい。
獅子に守られるように置かれたベッドは天蓋に覆われているが、その中に人影はない。端を揃えて畳まれた寝間着があるだけだ。
静かに眠っているべき皇女は、動きやすい訓練用の胴衣を着こみ、椅子に座って時を待っている。起きようと思った刻限に自然と目覚められるのは、彼女の数多い特技のうちで最もつまらぬものの一つだ。
着替えてしまえば、やることもない。見回す視界に入るものといえば、雌獅子像の他は、壁一面の本棚と、壁に掛けられた伝家の剣と、建国の勇者伝説を描いたタペストリーだけである。
獅子、知識、剣、そして英雄。
父が、母が、そのほか周囲の全てがこの部屋の住人に何を望んでいるか、どんな愚物でも分かる。ならば明敏な少女は、夜に身体を休ませず、目覚めているというだけで、薄闇に咎められている心地だった。同時に、言い知れぬ高揚がある。初めての体験である。
ジジ……と聞こえるランプの他は無音を保っていた室内に、ふと、異音がした。
トン、トン。
皇女は弾かれたように立ち上がり、壁の上方を見た。
少女の背では届かぬ高み。大人の男でも手が届かぬ高さに、採光用の窓がある。その窓だけは格子が入っていない。リゼはその側に歩み寄った。
「アンジュ……?」
恐れるように尋ねた小声。上から応じたのは、低音の女声。かすれたようだが、耳に心地よい音だった。
「そうですよ、殿下。いま、開けますね」
天窓の向こうに微かな球形の光が見える。かと思うと、天窓の内鍵がコトリと動き、窓が開けられた。冷気が床まで降りてくる。その後に、天窓から綱が差し込まれ、するすると目前まで垂れてきた。
その間、リゼは自分の高鳴る心音が、城内に響きわたってはいるのではないかと恐れた。やがて、優しくザラついた声は告げた。
「引っ張りますね。落ちないように、綱に捕まって下さい」
唾をひとつ飲みこみ、リゼは意を決した。進むか退くか迷った時は進めと、そう教えられている。そう教えた者達が想定したのは、このような事態では決してないが、今の彼女には問題にもならない。
生まれ持ち、鍛えられた真っすぐな心性に従って、彼女は天窓へ答えた。
「引っ張らなくて大丈夫。落ちないように、綱を持ってて」
「は?」
少女は両手で綱を握り、少し引いて確かめると、床を蹴って跳んだ。
「ちょ、ちょっと……」
外で綱を引く錬金術師は慌てて力を込めたらしい。その綱を、リゼは両腕の力だけで登っていく。
たちまち天窓に達し、窓枠に足をかけて外に出た。
夜の冷気が頬の火照りを和らげる。胸の高揚は増すばかりだ。
「本当に鍛えてるんですね」と、錬金術師は呆けたように言った。窓の外に浮かぶ木の籠に立っている。
「王は勇者の正統、王国第一の戦士だもの。私はそうなるの」
得意げに応じたリゼを、空中のアンジュは案じるように言った。
「気を付けて。綱から手を離さないで、この籠に乗ってください」
錬金術師の乗る籠は、女二人が乗れば狭いほどの大きさだ。小ぶりな荷馬車ほどの白く丸い球皮に吊られて、宙に浮いている。
「これが飛行船……」
籠の下は、何もない。闇がひたすらに落ち込んでいる。もし足を踏み外したら。いや、乗り込んだとしても、錬金機械が壊れたら。落下すれば死ぬ高さである。
「大丈夫です。百回以上も試しましたから。ゆっくり、乗ってください。下を見ないで――」
近くで囁く心地よい低音が、起こりかけた恐怖を静めた。赤髪の娘が、彼女に手を伸ばす。
「――私を信じて」
リゼは、錬金術師の手をとり、その言葉に従った。この夜の後も、彼女はずいぶん長いこと、そうすることになる。
(次話「ひよこは空に夢を見る ②」へ続く)