限界錬金術師アンジュ
本や器材でいっぱいの机の上に、汚れた木皿がそのままになっている。昼食というべきか、夜食というべきか分からないが、とにかく前回の食事の皿だ。誰に迷惑をかけるでもない。
傍の床で目覚めたアンジュは、のそりと起き上がった。くるまっていた毛布を、その辺りに押しやる。かつて腰近くまで伸ばしていた赤髪は、肩にかからぬ辺りで切ってある。
床に散らばった本だの、服だの、小物だのを避けながら、土間でサンダルをひっかける。かまどに置いたままの小鍋には麦粥が入っている。匂いを嗅いで、まだ食べられると分かった。皿がないので、スプーンを取り、鍋から掬って食べる。
最後の一口を、少しこぼしてしまった。二日ほど着たきりのワンピースが、また汚れた。袖口の匂いを嗅ぎ、今日こそは着替えると決意する。そのためには。
「お風呂……」
貴族の娘なら行水だけで済ますことも多いが、アンジュは湯舟につからない風呂など我慢ならない。生まれた村は、何もなくとも、湯だけは豊かに湧いたからだ。
とはいえ、王都にほど近いこの森の小屋に、温泉などはない。一応、得意の術で掘ってはみたが、湧いたのは水だけだった。
その水を引いた木桶の浴槽が、狭い土間の三分の一ほどを占領している。木桶には横付けした鋳物の釜と鉄管で繋がっている。釜に薪を燃せば、その熱が鉄管を通じてから木桶の中に伝わり、水を温める仕掛けである。釜からはもう一本の管が上に伸び、天井を抜けて煙突になっている。
釜を挟んで風呂桶と反対側には、小型の錬金炉がある。小型といっても、土間の半分を占領する大きさだ。風呂釜どころではない大量の薪を使い、水や鉱物を蒸留して、不純物を取り除き、触媒を精製する装置である。昨夜は夜通しで使っていた、アンジュの商売道具だ。
どちらも貴重な金をはたいて鍛冶屋に作らせたものだが、設計したのはアンジュ自身である。錬金炉はともかく、風呂釜の方は誰にとっても便利だというので、今では鍛冶屋の新商品になっている。自宅に浴槽を持つ贅沢が庶民にもできるとあって、悪くない売れ行きであるらしい。
ともかくも、風呂を沸かすには薪をくべねばならない。土間の棚を探ったが、昨夜の精製でほとんど使ってしまい、残る量では到底足りないと分かった。
寝不足で薪拾いに行くのは面倒だ。いつもの農家から分けてもらうか。人に会うなら着替えたい。ならば、その前に風呂だ。いや、その薪が足りないのだった。
「面倒臭いな」
棚の上の方から赤いオーブを手に取る。昨夜、精製した硫黄が入っている。火の元素に変換すれば、風呂などは一瞬で沸く。売る分は別に袋詰めしてあるから、使っても困りはしない。
しかし、アンジュはオーブを棚に戻した。
「薪拾いに行くか」
そう思ったところで、トントンと戸が叩かれた。はっとして、約束の刻限だと気付く。自分は昼まで寝ていたらしい。寝乱れたままの髪に、せめて手櫛をかけてから、戸を開ける。
外にいたのは、学院以来の旧友だった。
「セティアじゃん。なんで?」
「こんにちは。それとも、おはよう?」
紺地のローブに身を固めた金髪の学友は、昔の駘蕩とした雰囲気を失い、風貌までぴしゃりと締まっている。なにせ宮廷錬金術師は、高級官吏でもあるのだ。
「触媒の精製は?」とセティアは尋ねた。
「できてるよ」とアンジュは答え、どっしりとした布袋を渡した。厚手の袋で、口を縛っていても、硫黄の臭気が鼻につく。セティアは中を改めようとせず、いれかわりに小袋を渡して来た。
「へへ。まいど、まいど。いつも仕事、ありがとな」
受け取った袋から、ちゃらり、と銅貨の音がする。癖で中身を改めそうになるが、さすがに恥じて、アンジュはそのまま収めた。
「今日は、小使いさんは? お休みとか?」と尋ねたのは、半ば照れ隠しである。小使いとは、屋敷や商家、学院などに仕え、雑用全般をこなす下男の謂いだ。親しく呼ぶ口語だが、蔑称としても使われる。
「お城に雑役がいないわけないでしょ」と、より蔑称に近い職名で返した旧友は呆れ顔だった。アンジュがまだ寝惚けていると思ったかもしれない。
「ほな、なんで? 触媒の買い取りなんで、紺のローブが来るようなことじゃないでしょ」
問われたセティアは、意を決したような表情で告げた。
「私、結婚することになったんだ」
「え……」
アンジュの脳裏を衝撃が駆け巡る。セティアが、この呑気娘が、結婚。幸せになってほしいとは思っていたが、こんなに早いとは。
「嘘やん……学院の頃は一緒に『彼氏なんて、嘘さ♪』って歌いながら肩組んで、のし歩いてたのに!?」
「そこまでやった覚えはないけどね」
「お相手は?」
「家の被官で、騎士なの。会ったことあるの、その人しかいなかったから。ちょっと馬鹿だけど、優しい人なんだよね」
セティアの実家といえば、子爵とはいえ旧家だ。同格以上の家の次男あたりに嫁ぐのが相場だ。自家の臣下と結ばれるというのは、よからぬ事故でもなければ珍しい。つまり、貴顕の言葉でいうところ、娘の片付け先が他になかったということだ。
「気づいたら、二十六になっちゃったからね。貰い手があっただけ奇蹟」
と、セティアが冗談めかして言ったのが、この時代のヘルエスタでは自然な感覚なのだった。女の結婚は男より早い。上流階級は、なおのことだ。普通は十代半ばで嫁ぐか、少なくとも婚約だけはする。
二十台も半ばまで娘のままでいるのは、よほど特殊の事情がある場合だ。たいていは持参金不足か病だが、セティアの場合は仕事である。アンジュの気がかりはそれだった。
「おめでとう。それで、お城は?」
錬金術を学んで王城に仕えるというのは、そこそこ以上の貴族に生まれた女にとって、唯一に近い自活の道である。貴族といっても下級なら、王家や諸侯に仕える家庭教師か乳母の道があるが、セティアでは家柄が良すぎる。
「辞めるの。そんなに才能なかったし。怒る?」
「怒りゃしないけど。辞めな、あかんの? 天下の恩賜組じゃん」
「五人中、五番目のね。首席さんがいなくなったから、繰り上がっただけ」
肩をすくめてみせたアンジュは、ワンピースの汗臭さが気になった。数少ない友人が来ると分かっていれば、もう少し気を使うところだったが。
「学院では――」と、セティアは言った。「錬金術師は、知識と技だけだって。身分も、女も関係ないんだって、習ったよね」
「実際、そうだったよ。学院では」と相槌を打つアンジュには、友の言いたいことが分かっている。
「ずるいよね。世の中ではそうじゃないって、誰も教えてくれないんだから」
アンジュは無言で頷くしかない。セティアが王城にあがることになったのは自分の責任でもある。本来、自分が対峙するべき試練に、友達を代わりに差し出してしまったような罪悪感が肩にのしかかった。
それをきっと察して、セティアは明るく言った。
「アンジュは、何かないの?」
「ゔ……!」
「城下で暮らしてたら、男の人に会っちゃいけないとか、ないんでしょ?」
わざとらしくニコニコと聞いてくる友人は、気遣いがないのではなく、アンジュに気を遣わせまいとしているのだ。それが分かるから、大げさに肩を落として見せねばならない。
「…‥ない」
「何にも?」
「あんなぁ、お城勤めじゃないからって」
これが最後になるだろうと、砕けた訛り言葉で遠慮なく喋り倒す。
「だいたい、うちは忙しいし。やることが色々あんねん。いい男との出会いがポンポンあるわけじゃないねん」
「じゃ、何回かは、あったわけ?」
「……まだやけど。こう、運命の出会いっちゅうのは、自然に来るもんやし」
「森で引き篭ってたら、来ないと思うよ」
「ゔゔ―! 頭が……」
アンジュは苦悶して見せたが、セティアはまんざら、冗談を言っているだけではないようだった。うっすらと目を潤ませている。
「学院は、今でも籍を残してる。アンジュが望めば、いつでも……」
戻れる、という言葉を、セティアは飲み込んだようだった。戻ったところで、学院にはもう誰もいない。師も、この友人も。過去に留まっているのはアンジュだけなのだ。
過去との繋がりを探すように、セティアはアンジュが住まう家屋を見回した。猟師から買い取った古い掘っ立て小屋だ。木々に囲まれ、昼だというのに薄暗い。
隣には納屋がある。アンジュの住まう小屋よりも大きい。壁には蔦が這っている。扉は半開きで、そこから垣間見える物体だけは、きれいに磨き上げられている。赤く塗られた木製の発明品だ。
「まだ、あの錬金機械を?」
「もうちょっとで完成なんよ」
触媒づくりの下職で食いつなぎながら、その新奇な発明に打ち込んでいることだけが、学院首席の痕跡だった。
完成の一言に息を呑んだ友人は、痛みに耐えるように言った。
「宮廷の錬金寮は、やっと自力で飛行船を完成させたところよ」
「あれの実用化、まだやってたの?」
「あんたしか制御できないんじゃ、仕方ないでしょ。素人でも使えるようにするの、大変だったんだから」
「お疲れ様だけど、あんなノロマ。鉄道の方がいいよ」
「国中に線路を敷くお金はないから」
「もったいないなあ。敷いたら、凄いことになるのに」
「アンジュは、いつもそう。ずっと先に行ってる。何でも、できちゃうんだから。一人で」
アンジュは笑顔らしいものを作ってみせた。目の下の隈は消せないが、何とか元気に見えるようにと。
「うん、そうや。うちは大丈夫よ。ほんと、おめでとう。元気でな」
それが、同窓の中でただ一人の友人との別れだった。
セティアは、昔から真面目で、面倒見のいい女である。学寮でいた頃は、毎年の年明けに祝い料理を手作りして、振舞ってくれたものだ。錬金術師としての栄達は叶わなかったが、騎士の家に収まれば、良い夫人になるだろう。故郷で慎ましく暮らすのは、一つの幸せに違いない。
絶対、幸せに――そう願いながら、アンジュは友の背が見えなくなるまでずっと見送っていた。
その後で、納屋に入り、戸を閉める。締めた扉に背中を預け、ずるずると下がって、床に座る。
「うぅ、あー……あぁー……」
誰も聞いていないのを幸いと、意味不明に呻いてみても、何が変わるはずもない。
「あー、無理もないか」
外の世界は、変わっていく。友人たちは年を取る。
「リゼが今年で十七やもんな。セティアは二十六。うちも――結婚かぁ」
変わらないのは彼女だけだが、彼女にも時間は流れている。
「平気、全然。あとは色塗ったら完成するし。飛行船どころじゃない。うちってば、やっぱ天才」
そう呟いて自分を騙すのは、もう難しいようだった。
目の前の新奇な発明は、実のところ、とうに完成している。それが嫌で、塗装を怠けてきただけだ。
発表すれば、世間は驚愕するだろう。宮廷の錬金寮も、学院も、問題にもならない。時代の遙か先を行くのが誰なのか、嫌でも認めることになる。
「それやのに、何も分からん。原因の手掛かりもない。何度やっても――」
自分にとって肝心なことには、何の進歩も発見もないのだ。八年間、あがき続けているのに。発明に逃避して、毎日を誤魔化してきた。もうどうにもならないと、認める時が来たのかもしれない。
「限界かな。オジオン先生――」
かび臭い納屋の中に、師の言葉が聞こえた。
<ラキミーへ行け。今すぐラキミーへ>
ラキミー。錬金術師の隠れ里の名である。ヘルエスタ王国の外、険しい山岳にあるという。
<ニーア・ナンナに会うのだ。私の師だ。彼女なら、きっとお前を助けてくれる>
助けが欲しい。私は助かりたい。先生、助けて。オジオン先生。
「へ、へへ……」
涙を流す自分の醜悪さを笑ったとき、背中の戸がドンドンと叩かれた。
ひゃ、と悲鳴をあげて飛び上がると、去ったはずの友人の声がした。
「ごめん、忘れてた! 大事な預かりもの!」
慌てて涙を拭い、戸を開ける。息を荒げたセティアが両手で渡してきたのは、一通の封書だった。
「学院に戻る気がないなら、渡せって。そう仰せつかったの。うっかりしてたの、内緒にしてね!」
押し付けるように封書を預けると、友人は人間に見つかったリスのように去った。
アンジュは呼び止めようとして、果たせなかった。封書から目が離れない。
それは、平民で、在野の一錬金術師に届いていいものではない。まして、友人から軽々しく渡されていいものではない。断じて違う。
青い封蝋に押された紋章は、霊山をあらわす三角形に重なる一対の翼。ヘルエスタ王家の印璽である。
その下にある署名は、この国の王妃のものだった。
(次話「ここではない、どこかへ①」に続く)