賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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ここではない、どこかへ①

 王都ヘルエスタは春である。

 

 西にそびえる霊山フジ・ダクラーヌは裾野から雪化粧を脱ぐにつれ、巍々とした峻厳な神威を僅かに和らげて、麓の人間どもを見守っているようである。

 

 東のマナ湖が冬季の薄氷を溶かし、気の早い渡り鳥を歓待し始めている。同じ水の恵みに生かされている農夫どもは声を揃えて畑に鍬をいれ、種まきの用意に精を出す。

 

 王都の市街をうららかな日差しが照らすと、用もなしに通りを歩く者が増え、それを商機と物売りの声にも活気が出る。

 

 彼ら彼女らが店先に並べ、あるいは天秤棒に担いで歩く売り物は、つい先日までパンや干肉、干魚に限られた種類の青菜ばかりであったものが、徐々に新鮮な野菜だの、果物だのが増えている。

 

 苦いばかりの野草の新芽を農民が振り売りに出し、それを贅沢に飽いた食通の富商が買い占めて、街路を驚かせたりもする。

 

 そんな賑わいを眺めるだけで何となく心が浮つくものだ――とは、ただびとの感想に過ぎない。

 

 十七の少女の目には、何もかもが珍しい。ただの娘であっても、フォークが転んでも笑い転げる年頃だが、彼女は特別製である。広く言えば王都の住人だが、大通りに一人で出るのは初めてなのだ。

 

 目にし、耳に聞くすべてが新鮮で、浮つくどころか、何をしてよいやら分からぬ混乱の方が先に立つ。

 

「いらっしゃい、いらっしゃい!」と呼びかける露店があれば、つい「は、はひっ!」と叫んで正対し、売り口上を熱心に聞こうと身構える。

 

 店主の方が困惑せねばならない。

 

「あのう、嬢ちゃん、うちは酒屋なんだがね。おとっつぁんの、お使いかね?」

 

「い、いえ。失礼しました……」

 

 そう蚊の泣くような声でいい、少女は慌てて逃げ出した。

 

 店主は怪訝な顔をした。逃げて行った客は目を惹くような美少女だったが、身に着けているのは金持ちなら平民の娘でも持つような通り一遍の平服だ。さては商家の箱入り娘か、旅客だろうか。

 

「やれやれ、お上りさんかね。おや……?」

 

 人波に搔き消える一瞬前、娘の腰に光る物が見えた。そのような気がした。

 

「まさかね……」

 

 店主はそれきりで忘れ、また次の客を引き始めた。

 

 

 大路に商人が数百もいれば、そのうち十やそこらは、気の利いた新手を思い付く。その一人が小箱を載せた荷車を路傍に止め、折り畳みの椅子を二、三と置いて、しきりと呼び込みを始めた。

 

「赤茶ぁー、赤茶ぁ―。淹れたてのぉー、赤茶売りぃー」と妙な節で呼び込み、ブリキのカップをひけらかしている。

 

「何だい、赤茶ってのは」と聞く人があれば、得たりとばかりに口上がはじまる。

 

「よく聞いてくなすった。こちら、赤茶と申しては、南はフジの海を渡った沙漠の国、オヴィクスからの舶来の茶でございます。さあさ、淹れたてをご覧じろ」

 

 そう言って、大ぶりなポットを傾け、ブリキのカップに注いで見せる。

 

「ご覧なさいな。ヘルエスタのお茶と違って、緑じゃない。このほんのり赤いところに、砂糖をたっぷり。なんとも目出度いお茶じゃないかいな。一杯で2スーだ。ひとつ、お試しにならんかね。赤茶、赤茶……」

 

 小箱の上には、花壇の水やりに使えそうなほど大ぶりなケトルがあり、次のポットに注ぐべき湯がぐつぐつと沸いている。小箱は錬金術を用いたコンロだ。側面で赤色のオーブが輝き、箱内の鉄板を通じて、ケトルに熱を送っている。

 

「赤茶売り、一杯おくれ」

「あたしも貰いたいね」

 

 都人なら、話のタネになる珍しい物は大好きと相場が決まっている。果たして、押すな押すなと客が寄ってきたから、店主は一人で忙しく働かねばならない。

 

 自然、湯沸かしからは気が逸れた。いたずら好きの子ども達が客の間を駆け回り、追いかける親から逃げる合間に、さっとオーブのピンを触ったことに、まるで気づきもしなかった。

 

 

  はあ、はあ。

 

 石畳を速足に歩いて、少女の息は荒い。常ならば、こうではない。毎朝、日が昇る頃に、この十倍は走り込んでいるからだ。何もかも初体験の一日が彼女の息を浅くしている。

 

 運動神経は良いのだが、街歩きに慣れないせいで、道行く大人たちの肩に次々あたってしまう。その度に「す、すいません」「ごめんなさい」と言っているのだが、凄まじい歩速と、虫が鳴くような小声のために、当たられた方は首を傾げるばかりである。

 

 少女はさらに歩く。当てもなく。ちょうど行く手で、俄かに騒ぎが起きた。

 

「大変だっ」

「熱いっ」

 

 呼び声と同時に、赤茶売りのコンロが振動を始めた。赤いオーブが狂ったように明滅し、ぎしぎしと音を立てて膨張する。次の瞬間、火と白煙が立ちのぼった。

 

「逃げろっ」

「火事だっ」

 

 客たちは椅子を倒し、押し合いへし合いしながら、蜘蛛の子を散らすように離れた。追いすがるように店主も逃げている。

 

 ぱっと通りに空いた空隙の中で、ひとりの子どもが呆然と立ちすくんでいた。その本人だけが、出火の原因は自分の悪戯だと知っていた。

 

「危な――」

 

 誰かが叫ぼうとした時、オーブ動力のコンロが振動の度を増し、ついに破裂した。コンロの鉄片、荷車の木片、そして炎がはじけ飛ぶ。

 

 そこへ疾風のように駆け、跳躍してきた影がある。子どもを抱きすくめたかと思うと、その勢いのまま転がる。身を挺して子どもを火から守った、その人影は年若い娘だった。

 

「大丈夫――」と、娘が子どもに声をかけようとしたとき、誰かが「上をっ」と叫んだ。

 

 小爆発で打ち上げられたケトルが宙を舞い、回転しつつ、娘と子どもに向けて落下してくる。

 

 当たる――と、誰もが恐れた一瞬のうち、路上に流星が降った。そう見えた。

 

 その実は、娘が腰から細剣を抜き、飛来したケトルを一閃して、己と子どもを守ったのだった。素人の市民には抜く手も見えない早業であった。

 

 両断されたケトルが路上に落ちる。切られた銅の断面がきらりと光っている。

 

 群衆が驚きに声を失っている間に、娘はもう細剣を鞘に納めている。正しく電光石火の剣技だった。

 

「びっくりさせちゃったね。大丈夫?」

 

 と、膝をかがめて子どもに尋ねた娘の頬は白皙。瞳は紫。肩にかからぬあたりで切り揃えた髪は、白に近い銀だが、陽光を反射して水色がかって見える。

 

 子どもはガクガクと頷き、群衆はやっと安堵の息をついた。歓声がそれに続く。

 

「凄いな、あんた!」

「大したもんだ」

 

 やんやの喝采と注目を浴びて、娘は頬をぱっと染めた。どころか、左右を見回し、心から狼狽しているようだ。

 

「ご、ごめんなさい! すいません、すいません……!」

 

 小声で謝りつつ、また風のように走り去っていく娘に、誰もが呆気にとられたのだった。

 

 騒ぎが収まった後、衛兵が来る前に、大荷物を背負った女が通りかかった。女は小火騒ぎの痕跡を改めると、意気消沈して衛兵を待つ店主に向けて言った。

 

「粗悪品を掴んだんだね。次はケチらないことだよ。ちゃんと錬金術師の銘が入ったやつにするんだ」

 

 それだけ言うと、まだ茫然としている店主に見切りをつけ、女は周囲の人々に尋ねた。

 

「それで、その女の子がどっちへ消えたのか、誰か教えてくれませんか? たぶん、白っぽい銀髪の子だと思うんだけど」

 

 フードを降ろしてみせた女自身の髪は、燃えるような赤だった。

 

 女は空を見上げた。先程までは抜けるような晴天であったものが、俄かに曇りだし、空気も湿り気を帯びている。

 

 

(次話「ここではない、どこかへ②」に続く)

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