世界を間違える方法   作:【ユーザー名】

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風を描いた夜

夜のガード下は、雨上がりの匂いがまだ残っていた。

コンクリートの壁は濡れ、街路灯のオレンジが斑点のように散っている。電車が通ると、天井の鉄骨が低く鳴った。

 

「直線が多すぎる」

 

僕はマーカーペンのキャップを歯で抜きながら言った。

 

隣でスプレー缶を振っていた先輩が、顔だけこちらに向けて笑う。フードの影で歯が白い。

 

「また始まったな、神様へのクレーム」

「提案だよ。デザイン修正の」

 

加々見海。美大の先輩。学内ではいつも楽しそうなやつで、教授陣からは講評を笑いでしのぐ危険人物との評判。

 

器がでかいのか、ただの鈍感なのかは、まだ判断しかねている。

 

「で、今日のは何だ?」と海。「作品名くらい教えとけよ、広報担当の身にもなれ」

「『風のコンパス』」

 

僕は白い壁に、ゆっくりと太い矢印を描いた。

 

矢印の先端は交差点の方角に向ける。矢印の根本に、細い文字で一行だけ添える。

 

ここから先、風は〈→〉の方向に従う

 

一見して、ただの落書きだ。

でもそれは、ただの落書きではない。

 

「いいねぇ」と海は満足そうに頷いた。「シンプルで、読ませるフォルム。コピーも短くて強い。……で、本当にやるの?」

 

「やる。見る人がいれば、なお良い」

 

「いるよ、最高の観客が」

 

海は親指で上を示した。

橋の上、酔っぱらいがひとり、手すりにもたれてこちらを見下ろしている。僕らと目が合うと、彼は笑って親指を立てた。観客は多ければ良いというものではない。だが、ゼロよりはずっとましだ。

 

「いくぞ」と僕は言った。

 

ペン先で、最後の〈。〉を打つ。

その点が、夜の空気にコトンと落ちたような感覚がある。

呼吸がひと拍ズレ、耳の奥が軽くしびれる。

 

最初に動いたのは、ガード下の端で丸まっていたビニール袋だ。

ふわりと浮き上がり、矢印の先へ向かって滑っていく。

続いて、缶コーヒーの空き缶。道端の小さな落ち葉。海のスプレー缶の指先から剥がれた霧でさえ、そちらへ吸い寄せられていく。

 

「……マジじゃん」

 

海の声が、笑いながら低く落ちた。

僕は何度目かの安堵を覚える。

毎回、ほんの少し怖い。毎回、ほんの少し嬉しい。

 

「証拠、撮っとけ」と僕。

 

「広報は任せろ」

 

海はスマホを構え、壁と矢印と、路面を滑る小物たちを動画で押さえた。

ほどなくして風そのものが変わる。ガード下に流れ込む空気が、矢印の方向へと規則正しく流れはじめたのだ。

遠くの交差点から、信号待ちのビニール傘が一斉に揺れるのが見えた。

 

「世界、素直すぎるな」と海。

 

「観客がいるからだ」

 

僕はペンをポケットに戻し、壁から数歩離れた。

魔法——僕らはそう呼ばないが、便宜上そう言っておく——の条件はシンプルだ。

短く強い文言。作者の確信。誰かの観測。

この三つが揃うと、世界は読みやすい解釈を優先する。

つまり、説明の省力化を選ぶ。

世界は賢い。だから怠ける。だから訂正に弱い。

 

「撤収するか。風向きが街に出るのは明日の朝だ」

 

「了解。……おい燐」

 

海は振り返らず言った。

遠くで猫が鳴く。酔っぱらいが拍手している。

 

「なに」

 

「俺ら、今、世界のデザインに名前を書いたんだよな」

 

「署名だね」

 

「サインするアーティストって、責任を負う覚悟があるってことだよな」

 

「書体にもよる」

 

「お前さ、こういうときくらい、格好いいこと言えよ」

 

「世界は十分に格好良い。僕がやる必要はない」

 

海は吹き出した。「ほんと、お前って最高」

 

 

***

 

 

翌朝、大学の朝の講評会。

白い壁、白い床。スタジオはいつも冷蔵庫みたいに寒い。

教授の藤原は、ぴっちり固めた髪を指で撫でながら、作品を診察して回っていた。美術を医療だとでも思っているのだろうか。治療のための削り取り。彼の舌先に漂うのはいつも消毒液みたいな言葉だ。

 

「一之瀬」

 

「はい」

 

僕の作品は、白いキャンバス一枚と、小さなプレートだ。

プレートには、こうある。

 

『まだ描かれていない世界』

 

「またこれか」と藤原。「君は、表現を放棄している」

 

「未完成は放棄ではありません。余白は設計です」

 

「意味の水増しはやめたまえ」

 

「先生、意味は水ですよ。空気かもしれない」

 

藤原は目を細めた。

周りの学生は、笑う者もあれば、無視する者もいる。

会話は演目だ。僕は正しい台本を選び損ねた役者みたいに、いつも舞台の板目を数えている。

 

「君の言う余白とやらは、観客の責任にすり替えているだけだ」

 

「観客のいない美術館は冷蔵倉庫です」

 

「言葉は軽い。君の作品は——」

 

彼が続けようとしたとき、スタジオの窓の外で、紙が騒ぐ音がした。

ざ、ざ、ざ、と。遠くの街全体が紙でできているみたいな音。

 

藤原が眉根を寄せる。「風か?」

 

学生の一人が窓を開けた。

一斉に、冷たい風が流れ込む。

すべて、同じ方向から。

木の葉も、埃も、旗も、髪も、書類も、同じ方角へ。

外の空気は、まるで巨大な矢印に従っているかのようだった。

 

「……なんだ、これ」

 

誰かがつぶやく。

僕は黙っていた。海が、教室の後ろで目だけ合わせてきた。

やったな、という顔。

やったね、という返事。

 

藤原は、窓の外を見て、僕のプレートを見て、再び窓を見た。

目の奥で何かが忙しく行き来している。

 

「講評を続ける」と彼は言った。「自然現象に動揺する必要はない」

 

「自然とは何ですか」と僕は訊いた。

 

「辞書を引きたまえ」

 

「辞書は誰の作品ですか」

 

「一之瀬」

 

「はい」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

海が肩を震わせて笑っているのが、視界の端に見えた。

 

 

***

 

 

昼休み、食堂はざわざわしていた。

テレビのニュースが流れている。

 

「都内各所で同一方向に強い風が吹く現象が確認され——」

 

アナウンサーの髪もバシッと一方向に流れている。

字幕のテロップが、わずかに揺れて見えた。

僕のトレーの上の紙ナプキンが滑ろうとするのを、指で押さえる。

 

「バズってるぞ」と海。スマホを見せてくる。

 

ハッシュタグ #風が従う街

 

そこには矢印の写真。僕らが描いた壁。

朝の通勤で、傘が一斉に引っ張られる動画。

「風向きが一定って、なんか気持ち悪いけど笑える」と笑い顔の絵文字。

アートだ、テロだ、お祓いしろ、天才——飛び交う言葉は、だいたい軽い。軽いものほどよく飛ぶ。

 

「で、今夜は?」と海。

 

「『静寂の五線譜』」

 

「また駅で?」

 

「終電後。白線の上に五線譜を描く。一本だけ太く」

 

「コピーは?」

 

「〈この線上は、音が聞こえない〉」

 

海は椅子の背もたれに深くもたれて、天井を見た。

「……やっぱお前、最高に性格悪い」

 

「褒め言葉だ」

 

「褒めてんだよ」

 

「ただし、注意点がある」

 

僕は声を落とした。

「今日は観客を絞る。検証されすぎると、効果が縮む。ニュース記者や鉄道会社に目撃されると、すぐ解析しようとする。どうしてを説明されるほど、魔法は冷める」

 

「じゃあ、どうする」

 

「見る人数は少なくて良い。その代わり、わかる人に見てもらう」

 

「誰だよ、そんな都合の良い観客」

 

「ここにひとり」

 

背後から声がした。

振り向くと、新聞部の腕章を巻いた女子が立っていた。

髪は肩で切りそろえ、リュックは膨らんでいる。

目元が寝不足。指先にインクの跡。

 

「瀬田ミドリ。美大新聞部の瀬田です。——お二人、ですよね?」

 

海が目を細めた。「お二人?」

 

「最近、街で読ませる作品をやってる人たち。矢印の風、駅前の落書き、商店街の扉の壁。全部、文体が同じ。フォントの選び方も、配置も」

 

「観察がいい」と僕。「あと少しで正解だった」

 

「つまり、まだ不正解?」

 

「不正解が好きだ」と海。

 

瀬田は手帳を開いた。「取材させてください。記事にするつもりはない。まだ。——あなたたち、これはアートでしょ」

 

僕は海を見る。海は僕を見る。

彼女の目だ。

わかる人の目だ。

 

「今夜、終電後、駅のホームに来なよ」と海が言った。「耳栓はいらない。必要なのは、沈黙をちゃんと聴ける耳」

 

「コピーっぽい」と僕。

 

「広報だから」

 

瀬田は唇の端だけで笑った。「行きます」

 

 

***

 

 

終電が去ったホームは、ガラスのように静かだった。

清掃員が遠くでモップを滑らせ、駅員が点検をし、警備員が欠伸をする。

広告灯はまだ明るいが、誰もそれを見ない時間だ。

 

僕らはホームの中ほどにしゃがみ、白線の内側にチョークで五本の線を引いた。

五線譜。一本だけ、中央の線を太くする。

線の端に、細い字で書く。

 

この線上は、音が聞こえない。

 

「ペンじゃないのか?」と瀬田。

 

「チョークは良い。粉の粒で曖昧さを残せる。線の縁に、解釈の余白ができる」

 

「……つまり、どういうこと」

 

「音って、定義で聞こえるんだよ」と海が答える。「音だと思うから音って感じ。だから、その定義を線で切る」

 

瀬田はペンを止めた。「あなた、説明がざっくりすぎない?」

 

「俺、広報だから」

 

「広報でも、もう少しちゃんと言ってほしい」

 

僕は立ち上がり、五線譜の中央——太い線の上に足を置いた。

瞬間、世界が沈んだ。

 

電灯の蛍音、遠くの掃除機のモーターの唸り、駅員の靴音。

すべてが、ガラス戸を隔てた向こう側に行ってしまったみたいに、小さくなる。

いっそ、消えてもいい。

線から一歩外れる。音が戻る。

また乗る。沈む。

瀬田に視線で促すと、彼女は躊躇なく線に足を乗せた。

 

目を見開き、口を開け、そして、自分の喉に触れる。

声を出しているのに、聞こえないのだろう。

彼女は笑った。声はないのに、笑っているのがわかる。

笑い方が、正確だ。

 

「……記者に向いてる」と僕は言った。

 

「なんで」

 

「静けさに耐えられるから」

 

瀬田が線から外れる。

世界が戻る。彼女は目の端にほんの少し涙を溜めていた。

 

「すごい」と瀬田。「すごい。……けど、怖い」

 

「怖さは作品の影だ」と海。「光を強くすると影も濃くなる」

 

「誰に見せたいの、これ」

 

「朝の通勤客」と僕。「日常の騒音の中で、一瞬だけ静けさという異物を混ぜる。彼らの頭に、薄い線が一本残ればいい」

 

「倫理は?」

 

「倫理はデザインだ。ちゃんと引く」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

瀬田は僕と海を交互に見た。

深呼吸をして、手帳を閉じる。

 

「記事にはしない。でも、記録は残す。私が観客の一人である限り、これをアートとして覚えておく」

 

海が親指を立てる。「いい観客だ」

 

そのとき、ホームの端にライトが二つ現れた。

保線用の車両だ。予定外。

運転士がこちらに気づく。手が止まる。視線が短く交差し——

 

「撤収」と僕は言った。

 

三人でチョークを靴底でぼかし、線の輪郭を崩す。

文字を靴の踵で擦り、読めなくする。

術式の解除。大げさだが、やっておくに越したことはない。

 

保線車両が目の前を通り過ぎる。

運転士の口が動く。何かを言っている。

彼の車輪が、僕らの線を踏む。

——音が、消えた。

 

運転士は慌てて周囲を見回し、耳に手を当てる。

車両はゆっくりと進み、線から外れる。

音が戻り、彼はハンドルに顎を打ち付けた。

こちらを見た。僕と目が合った。

僕は軽く会釈した。彼は目を細め、わずかに笑った。

 

観客が、ひとり増えた。

 

 

***

 

 

三日で、世界は騒がしくなった。

 

#風が従う街 は海外のアカウントにも拡散し、

駅の静寂ゾーンは都市伝説として語られた。

「本当だ」「嘘だ」「フェイク映像だ」「物理的には可能だ」

説明したがる人間は多い。

説明しようとするたび、魔法は少しずつ冷める。

それもまた、計算のうちだ。

 

大学の掲示板に、一枚の紙が貼られた。

 

大学周辺で発生している迷惑落書きについて

発見した場合は総務課へ連絡を——

 

海がその紙を写真に撮って、僕に送ってきた。

メッセージは一言だけ。

 

>次、どうする?

 

僕は返信した。

 

>月を吊るす。

 

海からすぐ返ってくる。

 

>は?

 

>偽の月を作る。ビルの屋上から吊るす。

 コピーは——『この街の月はこっちにある』

 

>お前、最高に性格悪い(最高)

 

「署名が必要だ」と僕は続けて打つ。「今度は、街に名前を書く」

 

>OK。じゃあ、展示タイトルは——

 〈月は間違える〉

 

僕は吹き出した。

海のタイトルはいつも、少し馬鹿で、少し天才だ。

 

 

***

 

 

準備は二日で終わった。

海が調達してきたのは、薄い反射布と軽いフレーム。

僕は文言を決め、配置を描き、ビルの屋上の風を測った。

瀬田は記録係として動く。

「記事にはしない」という約束を守ったまま、完璧な観客でいてくれた。

 

当日、夜。

風は少し強い。雲は薄い。

本物の月はぼんやり出ている。

十分間隔で雲に隠れ、また現れる。

 

「吊るすぞ」と海。

 

ワイヤーが軋み、反射布の〈月〉が空に上がる。

街の光を受けて、ゆっくりと輝き出す。

その下、屋上の縁に白いペンで僕が書く。

 

この街の月はこっちにある。

 

言葉が空気に沈み、また浮く。

瞬間、本物の月が薄くなる。

反射布の〈月〉だけが、鮮明に見える。

街は気づかないわけがない。

スマホのカメラが上を向く。

歓声のノイズ。驚きのノイズ。

祈りに似たノイズ。

すべてが、作品の下へ集まってくる。

 

「燐」と海が言う。「見ろ、世界が笑ってる」

 

「一度だけな」

 

「まだやるのかよ」

 

「次で、しばらく休む」

 

僕はペンを握り直した。

屋上の端、最後の一文を考える。

言葉は短く、強く。世界が選びたくなる説明を。

 

瀬田が隣で息を呑む気配がする。

彼女は僕の手元を見ている。

海はワイヤーを抑え、〈月〉が揺れ過ぎないようにしている。

街は上を見上げ、数え切れない視線が観測という名の墨を空に飛ばしている。

僕は書いた。

 

この世界は、一度だけ笑う。

 

ペン先が止まる。

空気が変わる。

夜が、薄く明るくなる。

どこかの部屋で赤ん坊が笑い、

道端で喧嘩していた男がふっと肩の力を抜き、

ビルの窓ガラスに映った自分の顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

海が笑う。

瀬田が笑う。

見知らぬ人たちが笑う。

僕は——

 

笑えなかった。

それが正しいことだと、あまりにも強く確信していたからだ。

作品の中心にいる人間は、いつだって少しだけ冷たい。

温度を下げる役目を、僕が担っている。

海がいるから、僕はここまで冷たくなれる。

 

「いい展示だった」と瀬田が息を吐く。「たぶん、誰も覚えていない。でも、体は覚えてるやつ」

 

「それで十分だ」と僕。

 

そのとき、屋上の扉が乱暴に開いた。

懐中電灯の光。複数の足音。制服。

 

「大学施設の不正使用だ、手を上げろ!」

 

海がワイヤーを手放しかけ、慌てて掴み直す。

〈月〉が大きく揺れ、街のどこかで歓声が上がり、同時に悲鳴も上がった。

僕はペンをポケットに突っ込む。

瀬田がカメラを背中で庇う。

 

警備員が近づく。

僕らは逃げない。

観客に背を向けたくないからだ。

 

「君たち、名前は」

 

僕は静かに息を吸った。

署名の時間だ。

 

「一之瀬燐。——加々見海。美術大学、現代美術科」

 

警備員の肩越しに、街の〈月〉が見えた。

反射布の輪郭が風で波打ち、本物の月がその背後に薄く重なっている。

二つの月。

世界は、重ね合わせを平然と受け入れている。

人間だけが、受け入れ方に困っている。

 

「君たちのやっていることは犯罪だ」と警備員は言った。

 

「……かもしれない」と海が答える。

 

「かもしれない、に賭けるのが、作品です」

 

警備員は黙って、懐中電灯を下ろした。

彼の顔に、ほんの少しだけ笑いの痕があった。

観客だ。

 

「降りなさい。話は下で聞く」

 

「わかりました」と僕は言った。

 

海が僕の肩を軽く叩く。「次、どうする?」

 

「しばらく休む。検証されすぎると、世界が冷める」

 

「冷めたら?」

 

「また温める」

 

瀬田が言う。「私、記事にする。——書かない約束はここまでにしていい?」

 

「好きにしなよ」と僕。「観測は作品の一部だ」

 

「見出しは?」

 

海が割り込む。「世界にアートを! でどう?」

 

瀬田は笑って頷いた。「安っぽい。でも、最強」

 

階段に向かう途中、僕は振り返ってもう一度、空を見た。

揺れる月。薄い月。

二つの間に、細い線が一本、確かに見えた。

それは僕の目の錯覚かもしれない。

でも、錯覚は——最高の素材だ。

 

 

世界は、まだ描きかけだ。

僕らのペン先は、まだ温かい。

 

 

***

 

 

警備室の椅子は硬かったが、会話はそう悪くない。

職員は怒りたいのか、感心したいのか、決めかねているようだった。

僕は名前と学籍番号を書き、海は反省文のフォーマットをもらい、瀬田は「関係者ではない」と頑なに言い張った。彼女は観客だ。観客は、出演者ではない。

 

「君たち、何をしたかった」と年配の職員が訊いた。

 

海が首をかしげる。「楽しいこと」

 

「それだけか」

 

「それが一番、足りてないから」

 

職員は少しだけ笑った。「……困るんだよ、そういうの」

 

「知ってる」と僕。「でも、必要だ」

 

「必要、ね」

 

彼は窓の外を見た。

〈月〉はもう片付けられている。

本物の月だけが淡く残り、雲が薄く横切る。

職員はため息をついた。

 

「……講義みたいな話だがな。君たち、責任って言葉、好きか?」

 

「デザインの一部です」と僕。

 

「つまり、嫌いってことだな」

 

「嫌いなものほど、うまく使う訓練をしてます」

 

職員は笑い、首を振った。「若いな」

 

若さは燃料だ。

燃料は、だいたい危ない。

 

 

***

 

 

解放されたのは深夜二時過ぎだった。

大学の門を出ると、風がゆるい。

矢印の風はまだどこかで働いているのか、それともすでに冷めたのか。

街は、眠い。

 

「燐」と海が言った。「俺、やっぱ、お前とやるの好きだわ」

 

「知ってる」

 

「なんでだと思う?」

 

「君が楽しそうだから」

 

「それだけ?」

 

「それだけが、一番、正しい理由だ」

 

海は足元の石を蹴り、前を向いて歩く。

瀬田は少し後ろでメモを取りながら歩く。

僕は空を見上げる。

二つの月の残像は、もうない。

けれど、目を閉じると、まぶたの裏に薄い円が二つ、重なって見える。

 

「次は?」と海。

 

「——次は、描かない」

 

「え?」

 

「休むのも作品だ。沈黙の展示。世界に考える時間を渡す」

 

「なるほど。……じゃあ、俺は遊ぶわ」

 

「なにを」

 

「なにも。なにもって、最高の遊びだろ」

 

瀬田が笑い、僕も、少しだけ笑った。

それで、十分だった。

 

世界は、まだ描きかけ。

僕らは、その余白をまだ、好きにしていいらしい。

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