夜の22時。
昼間の疲れがどっと押し寄せ、そろそろベッドに入って眠ろうとしていたその時、私のスマートフォンが短く震えました。一通のメールが届いたのです。
画面を開くと、そこに並んでいたのは、あまりにも奇妙で不穏な二つの単語だけでした。
『リビング』
『【牢屋敷】』
「……っ!」
それ以上の説明は何もありませんでした。ですが、私はその【牢屋敷】という文字を目にした瞬間、考えるよりも先に体が動いていました。その言葉は、私がパジャマの上に慌てて上着を羽織り、夜静まり返った部屋を飛び出すには十分すぎる理由だったのです。
足音を忍ばせながら階段を降り、リビングへと向かうと、薄暗い部屋の奥にいくつかの人影が佇んでいました。
そこに集まっていたのは、ナノカさん、マーゴさん、レイアさん、アンアンさん、そしてココさんの5人でした。
「あら、やっぱりあなたも出てきたわね、シェリーちゃん」
暗がりのソファから私に気づいて声をかけたのは、マーゴさんでした。私は驚きつつも、ゆっくりと彼女たちに近づいて尋ねます。
「……マーゴさんが、私たちをここに集めたのですか?」
「いいや、私だよ」
その疑問に答えたのは、昼間は「サボっていて何も成果がなかった」と大袈裟に嘆いていたはずの、レイアさんでした。彼女はいつもの芝居がかった態度を完全に潜め、酷く真剣な、張り詰めた表情でそこに立っていました。
「昼間の情報共有会では、まともな調査はできなかったなんて言ったけれど……本当はね、私も情報を集めていたんだ。ただし、皆に共有するためのものじゃない。私の個人的な目的――【行方不明だった】私の師匠、泥セイヤさんのことについてね」
レイアさんの口から語られたのは、彼女の師匠に関する衝撃的な事実でした。
2年前、芸能界を揺るがした泥セイヤさんの暴力事件。当時、相手側に様々な余罪があったこと、そしてセイヤさん自身がまだ未成年だったという理由から、世論は彼を支持し、事件から1ヶ月後にはいつでも復帰できる状況が整っていたそうです。にもかかわらず、彼女は突如として表舞台から姿を消し、行方不明になって大きな話題となっていました。
この記憶の欠落がレイアさんにとってはいい方向に働いたのでしょう、ヒロさんに追求されずに済んだんですから。
「私は、何度も師匠のことを考え、この行方不明事件の記憶を取り戻し、師匠がこの空白の期間、一般世界から消えてこのアビゲイルの街に移住していたんだと悟った。だから今日、色んな人から師匠についての情報を必死に集めていたんだよ」
レイアさんの静かな告白を聞いて、私は思わず問いかけていました。
「うーん……どうしてそれをさっきの皆がいる場で仰ってくださらなかったのですか? ヒロさんたちに相談すれば、何か分かったかもしれませんよ?」
「これは私の問題だからね。それに――」
レイアさんはそこで言葉を区切ると、リビングに集まった面々をぐるりと見渡しました。
「ここに集まった皆だって、私と同じように、全体の手がかりとは違う『個人的な秘密』を隠しているんじゃないかい?」
「…………!」
レイアさんのその言葉に、私はハッとしました。
そして、この場に集まったメンバーたちの顔ぶれを見て、ある共通点に気がつきました。
ナノカさんは、自分を明確に知っている白髪の少女、白藤ハツネさんと出会いました。
アンアンさんは、アイリさんについての情報を、あのドールショップで掴んでいました。
ココさんは、聖女教の司教でありながら、自分の固定リスナーである宇都宮ヤチヨさんに部屋まで押し掛けられました。
そして私自身も、今日出会った案内役の寿リアンさんが、かつて同じ施設で過ごした「同期」だったのです。
ナノカさんに付き添って行動していただけのマーゴさんを除けば、この夜のリビングに呼び出された全員が、このアビゲイルという街でおそらく自分自身の過去や因縁に直結する知人に不自然なほど遭遇している。
――【牢屋敷】という謎の言葉。
そして、それぞれの暗い過去を手繰り寄せるようにして引き合わされた、私たち5人の魔法少女。
この街の謎が、夜の静寂の中で、じわじわと私たちの足元まで這い寄ってきているのを感じて、私は……ワクワクしてきました!。
「さて、そろそろ思い出してくる頃かしら?」
静まり返ったリビングで、マーゴさんがふっと
「……思い出す、ですか? 一体何のことでしょうか、マーゴさん」
私は首を傾げました。昼間の疲れのせいでしょうか、頭の奥が妙に重く感じられます。
何のことを言っているのか分からないはずなのに――どうしてでしょう。先ほどスマートフォンで目にした、あの単語が頭から離れないのです。
【牢屋敷】。
その文字列が、私の脳裏を何度も、何度も、激しくよぎります。
まるで頭の中に直接鐘を打ち鳴らされているかのような感覚。次の瞬間、突如として激しい頭痛が私を襲いました。
「くっ……あ、頭が……!?」
思わずこめかみを押さえてその場にうずくまりそうになります。
頭の中に流れ込んできたのは、尋常ではない量の情報でした。これまで私たちがこのアビゲイルという街で感じていた、あの不自然な記憶の欠落の復活――それが水鉄砲だとするならば、今、私の脳内に奔流となって押し寄せてきているこれは、文字通り激しい滝でした。とても人間の脳では受け止めきれないほどの質量を持った、剥き出しの記憶の塊。
それは、私たちがかつて【牢屋敷】という血生臭い場所に集められていた記憶。
互いに疑い合い、殺し、殺されるという狂気の輪廻を繰り返した、凄惨で残酷な日々の記憶。
――ですが、それだけではありませんでした。
その地獄のような日々の中で、私は決して代え難い、大切な友人たちを得たのです。そして、脆く弱かった自分自身の殻を破り、前を向くことができた大切な出来事があった。
すべての記憶がパズルのように完璧に噛み合い、脳内に定着していきます。
私は激しい頭痛に息を切らし、足元をふらつかせながらも、ゆっくりと顔を上げました。そして、自然と唇の端が吊り上がり、笑みが浮かんでくるのを止められませんでした。
「……っ、……なるほど。そういうことでしたか。ここにいらっしゃる皆さんは、既にコレを【体験済み】ということですのね?」
私の問いかけに、集まった面々は沈黙のまま、けれど全てを理解したような鋭い視線で応えてくれました。その中で、ナノカさんが静かに口を開きます。
「私は少し違うわね。まぁ、私がここにいる皆に真実を伝えたからなんだけど……。その理由は、あなたならもう……わかるでしょ?」
ナノカさんの言葉を聞いて、私はすぐに思い出したばかりの記憶を探りました。
ええ、分かりますとも。ナノカさん、あなたの魔法は【幻視】――触れた対象の過去を断片的に視ることができる、あまりにも便利で残酷な力。
おそらく、何かの拍子でナノカさんがマーゴさん辺りに不意に触れてしまったのでしょう。その結果、マーゴさんの記憶の底に眠っていた【牢屋敷】の光景を視てしまい、それが引き金となってナノカさん自身が記憶を取り戻した。そして、この事態の異常性を察知したナノカさんが、同じく因縁を持つ皆さんに言葉で伝えることで、この場にいる全員の記憶を呼び覚ましていった……。
「てか、これからどうするよ? あてぃしは早いとこ推しに会いに行きたいんだけど」
スマホの画面からようやく顔を上げたココさんが、退屈そうに髪を弄りながら言いました。記憶を取り戻した直後だというのに、そのマイペースさは相変わらずです。牢屋敷にいた頃ならきっと喚いていそうですが、環境と信頼できる仲間がちがうんでしょうか。
「そうだね、そこが問題だ。教皇ジウが提示したという【4つの事件】……もしかして、私たちの知人がそれぞれ関連することなのだろうか?」
レイアさんが顎に手を当てて、険しい表情で呟きます。
「あり得るわね」
ナノカさんが冷徹な声で同意しました。
「わざわざ私たちの記憶を封じてまで、このアビゲイルに呼び寄せたのよ。私を狙う白藤ハツネ、橘シェリーの同期の寿リアン、夏目アンアンのである四十万アイリ、佐渡ココのファンの宇都宮ヤチヨ……これだけ条件が揃っていて、ただの偶然なわけがないわ」
「ふむ……」
私は人差し指を頬に当てて、少し考えてから皆に問いかけました。
「ところで、この【牢屋敷】の記憶は、他の人たちにも共有しますか? エマさんやヒロさんたちにも、私たちが思い出したことを話すべきでしょうか」
「それはあまりやりたくないわね」
即座に否定したのはマーゴさんでした。ふっと薄暗いリビングの天井を見上げ、皮肉げな笑みを浮かべます。
「ほら、ここにいる私たちって、それぞれ隠し事をしながらアビゲイルの調査をする予定でしょ? 特にヒロちゃんみたいな子が記憶を取り戻したら大変よ。あの子はとても聡いもの。私たちが何かを隠して動いていることに、すぐに気づいちゃうと思うわ」
「確かに……ヒロさんなら、すぐに気づいてしまいそうです」
私は苦笑しながら頷きました。昼間のあの鋭い追及を思い出せば、容易に想像がつきます。でも私は……いえ、レイアさんと同じく、あの施設が関わるなら隠したほうがいいかもですね。
「そうなったら、私たちの安全を第一に考えて、深入りや単独行動を厳しく咎めそうですね」
「うーん、あてぃしはレイアみたいに隠れてコソコソ動く必要ないっていうかさ。このヘクセンハウスから出ることも滅多にないからなぁ」
ココちゃんが気怠げに伸びをしながら言いました。
「あ、でも、ヤチヨの奴からこの街の外に出る方法くらいは聞き出したいかな。配信のネタにもなりそうだし」
「あはは!ココさんはいつも通りですね」
どんな状況でもブレない彼女の姿勢に、私は少しだけ緊張が解れるのを感じました。
すると、今度はアンアンさんが手元のスケッチブックに、サラサラと素早い手つきで文字を書き込み、ボクたちに見せてきました。
『わがはいは……とりあえずアイリのことを知ろうとは思う』
『その後は……どうするべきだろうな』
いつになく真剣なその文字に、アンアンさんの複雑な胸中が透けて見えるようでした。
「そうですね。とりあえず、皆さんそれぞれバラバラに行動するということで……まぁ、今日までと同じスタイルですね」
私はポンと手を叩き、この場をまとめました。
「それじゃあ、夜も深いですし、今日のところは――」
私たちが各自の部屋に戻ろうと、解散の動きを見せた、まさにその矢先でした。
「おや。こんな時間に、みんなで集まってどうしたのかな?」
影のように音もなく、リビングの入り口に佇んでいた人影――リンネさんが、眼鏡の奥の瞳を妖しく光らせながら、くすくすと笑みを浮かべてそこに立っていました。
「あらあら。手間が省けちゃったわね」
背後に現れた寮長に対し、マーゴさんは怯えるどころか、むしろ歓迎するような不敵な笑みを浮かべました。
「おや、手間を省いてしまったかい?」
リンネさんは薄く笑みを浮かべながら応じます。ですが、その言葉とは裏腹に、彼女の視線は奇妙なほど一点に固定されていました。リンネさんの黒眼鏡の奥の瞳は、不自然なほど真っ直ぐに――レイアさんだけを見つめていたのです。
(……レイアさんの魔法、『【視線誘導】ですね。間違いありません)
私は胸中で確信しました。昼間の情報共有会でのひょうきんな態度とは一変して、レイアさんが静かにその力を発動させているのだと。
そして、その一瞬の隙を、ナノカさんという鋭い戦士が見逃すはずはありませんでした。
ナノカさんはリンネさんの死角――完全に意識の外側から、音もなく影のように急速に接近します。その手を伸ばし、過去を暴く魔法、【幻視】を発動させようとした、まさにその瞬間でした。
「っ……!?」
どこから現れたのでしょうか。和風メイド――マリカさんが突然ナノカさんの眼前に立ち塞がり、その細い手首を信じられない怪力でガシィッ!と掴み取ったのです。
「……チッ」
目論みを阻まれたナノカさんが、悔しそうに短く舌打ちを漏らします。
「どうやら、いくらか思い出してきたようだね。……まぁ、全てでは無さそうだけれど」
リンネさんは、レイアさんの方へ不自然に視線を向けたままで、自身の死角にいるナノカさんへ向けて淡々と話しかけました。まるで、ナノカさんの奇襲も、レイアさんの魔法による抵抗も、最初からすべて見越していたかのような底知れなさです。
「あまり深入りはオススメしないよ、黒部ナノカさん。――君が知ろうとしているあの白髪の少女はね、このアビゲイルにおいて【最低最悪の
「……っ!」
マリカさんに手首を強く握られ、顔をしかめながらも、ナノカさんは激しい敵意を宿した目でリンネさんを強く睨みつけました。
「余計なお世話よ百合園リンネ、あなたの一言一句、信じるに値しないわ……!」
「やれやれ。親切心だったのだけれどね」
リンネさんは困ったように肩をすくめると、背後の従者へ向けて「マリカ、離してあげなさい」と短く促しました。
言われるがままにマリカさんがパッと手を離すと、ナノカさんは赤くくっきりと手の痕がついた手首をもう片方の手で擦りながら、警戒を怠らずにリンネさんから数歩後ずさりました。
「さて。夜更かしは美容の敵だ。今日はもう各自部屋に戻って寝て、いつか来る【事件】に向けて備えようじゃないか」
リンネさんはいつもの飄々とした調子でそう言い残すと、それ以上の追及もせず、滑るような足取りで自分の寝室のドアの向こうへと消えていきました。マリカさんもまた、影のようにその後に続きます。
その後全員私室に戻ったリビングには、冷たい沈黙と、アビゲイルという街が隠し持つ新たな謎の重みだけが残されていました。