ふかふかのベッドに入って、確かにボクは眠りについたはずだった。
だけど、ボクの目の前に広がっていたのは、見渡す限りの鮮やかな花々と、空を彩る綺麗な虹の草原だった。
優しくて、どこか切ない匂いのする風がボクの頬を撫でていく。
ボクはこの場所を、とてもよく知っている。だってここは、あの忌まわしくて、だけど大切な場所――【牢屋敷】にあった空間だから。
(……あれ? ボク、どうして牢屋敷のことをこんなにハッキリ思い出せてるんだろう……?)
アビゲイルの街にいたときは、あんなに霧がかかったみたいにボクたちの過去の記憶はあやふや
だったのに、今はこの草原の草の感触まで鮮明に思い出せる。そのことにボクが一人で驚いていると、すぐ近くから、ずっとずっと聴きたかった、懐かしい声が響いた。
「おはよう。――いや、お休みなさい、と言えば良いのかな?」
「別に、どちらでも良いのでは?」
クスリと笑う弾んだ声と、それを少し冷淡にいなす声。
ボクが慌てて声のする方へと振り向くと、草原の真ん中に置かれた白い丸テーブルを囲んで、椅子に座っている二人の女の子の姿があった。
一人は、かつて魔女の根源である【大魔女】と呼ばれて、そして――数々の苦難の先で、ボクたちと和解できたかけがえのない親友。
「なんで……ユキちゃんが、ここに……?」
ボクの親友であるユキちゃん。彼女はボクの姿を見ると、あの頃と全く変わらない、なだらかな微笑みを浮かべた。そして、彼女の隣に座っている、ボクのよく知らないもう一人の女の子も、同じように優しく微笑んでいる。
「
フユちゃんと名乗ったその子は、静かにそう言った。
だけど、ボクの頭の中はフユちゃんの挨拶なんて入ってこないくらい、目の前にユキちゃんがいるという事実に驚愕していた。だって、あの牢屋敷の最後、ユキちゃんはボクたちの魔法と一緒に、その存在ごと完全に消え去ってしまったはずだから。
「ユキ……!!」
ボクが呆然と立ち尽くしていると、背後から地を割るような大声が響いた。
振り返ると、そこにはボクと同じように驚きに目を見開いたヒロちゃんが走ってくるところだった。
「ヒロちゃん!? どうしてキミまでここに……!?」
ボクだけじゃなくてヒロちゃんまでいる。一体この状況は何なんだろうって、ボクの頭の中はもう完全にキャパオーバーで、もの凄く混乱しちゃっていた。そんなボクたちを、ユキちゃんは宥めるように両手を広げる。
「とりあえず、お二人には説明が必要そうですね。まず、エマ、ヒロ。私はあなたたちが言う【ユキ】とは少し違います。……万年筆。そちらの、
「残滓……。いや、待て、そもそも何故魔法が残っているんだ?」
ヒロちゃんはハッとしたように、昼間から自分の胸ポケットに入れていたお気に入りの万年筆を取り出して、それをじっと見つめた。それから、厳しい表情でユキちゃんへと問いかける。
「あの時、君が自らを犠牲にして、世界からすべての魔女因子を消し去ったはずだろう。それなのに、何故このアビゲイルには魔法が存在している?」
ヒロちゃんの緊迫した問いに、ユキちゃんは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「簡単なことです。私以外の大魔女が、私と似たように、世界に因子をばら撒いていた……ただ、それだけですよ」
「そんな……っ」
ユキちゃんの口から告げられた真実に、ボクとヒロちゃんは一気に目の前が真っ暗になるような落胆に襲われた。
ユキちゃんが。ボクたちの親友が、命を賭してまで世界から魔女因子を消し去ってくれたのに。それなのに、まだ世界には魔法が残っていたなんて。ユキちゃんの犠牲は、無駄だったっていうの……?
俯くボクたちの肩へ、ユキちゃんの温かい声が降り注ぐ。
「悲しまないでください。それでも、エマとヒロ、【魔女を殺さない魔法】はあの時、確かに発動したんですから。無駄なんかではありませんよ」
「……だが、現実として私たちは今、この都市で【魔女候補】と呼ばれて集められている」
ヒロちゃんが鋭く指摘する。手にした万年筆を強く握り締めながら、ユキちゃんを見据えた。
「つまり、消えたはずの私たちの魔法が、何らかの理由で復活しているのではないか?」
「それについては……いえ、私の口からは【今は】言えません。それよりもエマ、あなたの魔法についてです」
ユキちゃんはヒロちゃんの質問を遮るようにして、今度はボクへと視線を向けた。ボクは胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、沈んだ声で、自分の古い記憶をなぞる。
「ボクの、魔法……。うん、知ってるよ。【魔女を殺す魔法】……だよね?」
牢屋敷でボクを苛ませ、最終的に世界を滅ぼした原因になった、あの最悪の呪い。
だけど、ユキちゃんは優しく首を横に振った。
「今のあなたには、もう魔女を殺す魔法はありません。代わりに……」
ユキちゃんが、隣に座るフユちゃんをそっと指差した。
「彼女の魔法――【明晰夢(めいせきむ)】を、今のあなたには与えてあります」
「明晰夢……?」
ボクがその言葉を繰り返すと、今度はフユちゃんが口を開いた。
「この状況がそうだよ、エマ。今の君の魔法によって、
「彼女って、誰のこと……?」
ボクが思わず尋ねると、今度はユキちゃんが困ったように眉を下げた。
「もちろん、それも答えられません」
「隠し事が多いな、君たちは。……本当に、私たちの味
方だと信じて良いんだな?」
ヒロちゃんが少し呆れたように、ため息混じりに腕を組む。そんなヒロちゃんに対して、ユキちゃんははっきりと力強く頷いてみせた。
「はい。ですが……今ここで私たちがすべてを言っても、この夢から覚めれば、あなたたちはこの空間での出来事をすべて忘れてしまうんです。だから、今ここで核心を言っても意味はないのですよ?」
「……相変わらず、食えない奴だな、君は」
ヒロちゃんはもう一度大きなため息を吐いたけれど、その口元には、どこか愛おしそうな、柔らかい笑みが浮かんでいた。なんのわだかまりのない素のヒロちゃんとして、愛おしそうにユキちゃんを見つめる。
「とりあえず……ユキ。君にまた会えてよかったよ」
「ええ、私もです、ヒロ」
ユキちゃんが嬉しそうに目を細める。
その瞬間、ボクの頭の中に、急激に現実世界の感覚が染み込んでくるのが分かった。モヤモヤしていた思考が急にハッキリとしてくるのと同時に――まるで、重い鎖か何かが、ボクの全身をベッドへと強く縛り付けるような、強烈な現実の引力を感じ始める。
夢が、終わる。
ボクたちの【明晰夢】が、覚めようとしていた。
「さて、今日はこの辺で良いでしょう」
遠ざかっていく草原の光景の中で、ユキちゃんが最後にボクたちへ向けて、祈るように言葉を紡いだ。
「4つの事件。――その先に、きっと真実があるでしょう」
その言葉を最後に、ボクの視界は真っ白な光に包まれた。
――ハッと目を開けると、そこはヘクセンハウスの、ボクの部屋の天井だった。
窓の外からは、アビゲイルの静かな朝の光が差し込んでいる。
ボクは今、もの凄く大事な夢を見ていたような気がしたけれど……ベッドから起き上がったときには、その内容は綺麗さっぱり、霧のように消え去ってしまっていた。
◯
大聖堂の奥に佇む、豪奢な教皇の間。
深夜の静寂が満ちるその部屋で、最高権力者である春日井ジウは、丸テーブルのティーセットに置かれた寝る前のハーブティーを静かに啜っていた。湯気の向こう側では、聖女教の司教である宇都宮ヤチヨが直立不動の姿勢で控えている。
昼間に沢渡ココの部屋へ乱入した時のあの狂信的で爆発的なテンションは、今のヤチヨからは微塵も感じられない。彼女は冷徹なまでに静かな口調で、淡々と今日アビゲイルの街で起きた出来事を並べ立てていく。
「――以上です。本日の定時報告を終了いたします、教皇様」
一通りの報告を終え、ヤチヨは綺麗に一礼して言葉を締めくくった。
ジウはカップをソーサーへと戻し、琥珀色の瞳を気怠げに動かしてヤチヨを見上げた。
「うむ、苦労をかけたな。……して、ヤチヨ。最近はどうじゃ?」
「は。特に問題ありません。教区の治安も安定しております」
「いやいや、そっちの話ではないわい」
ジウは小さな唇をすっと歪め、いたずらっぽく目を細めた。
「ココ――おぬしの推しがこの街に来たじゃろ? テンションマックスで我を忘れてはしゃぎ回るおぬしの姿を見かけたと、既に各所から報告を受けておるぞ。なんでも『めちゃくちゃ不気味だった』ともな」
「きょ、教皇様……っ!」
ヤチヨの表情が一瞬にして瓦解した。それまでの冷徹な司教の仮面が剥がれ落ち、うろたえたように声を震わせる。話を止めようと手を伸ばしかけるが、ジウの追撃は止まらない。
「いやぁ、まさかあの冷酷無比な【聖女教の猟犬】ともあろう者が、少女一人の前であそこまで醜態を晒すとはのう! わしも直で見たかったわい。どうじゃ? せっかくだから今、目の前であの時の辺りを再現してみてはくれんか?」
「母様(ははさま)っ!!」
真っ赤に染まった顔で、ヤチヨは思わず声を荒らげて怒鳴りつけた。
その様子を見て、ジウは少女のようにコロコロと楽しげに笑い声をあげる。
「くくく、すまんすまん。あまりに反応が良いものでな、ついからかいすぎてしまったわい」
ジウはひとしきり笑うと、ふっと表情を引き締め、いつもの底知れない教皇の顔へと戻した。ハーブティーを啜り、本題を切り出す。
「――それで、肝心の【魔女喰い】はまだ捕まらんのか?」
その言葉が出た瞬間、ヤチヨは悔しそうに小さく唇を噛み、視線を床へと落とした。
「……すみません。私の力不足です。網の目は広げているのですが、一歩足取りが掴めず……」
「構わんよ。それに、あやつらに任せれば良いからのう」
ジウは視線をテーブルの脇へと向けた。そこには、ヘクセンハウスに集められたエマたちの詳細な資料が並んでいる。
だが、ヤチヨは納得のいかないように眉をひそめ、強い意志を込めた瞳でジウを見つめ返した。
「しかし、すべてをあの子供たちに任せるわけにはまいりません。この都市アビゲイルは、私たちの場所なのですから」
「ふむ。相変わらずおぬしは真面目よなぁ。ま、その辺りの実務はヤチヨ司教に一任するとしよう」
ジウはふう、と小さく息を吐くと、丸テーブルの上のティーポットを小さな手で持ち上げた。
「では、ヤチヨ。せっかくの夜更かしだ、一緒に一杯飲まんか?」
歳の離れた母娘のような、あるいは親しい友人に向けるような気軽さでジウはお茶に誘った。
しかし、ヤチヨの返答は冷酷なまでに早かった。
「いえ、お断りします。私はまだ、次の見回りの段取りが残っておりますので。失礼いたします」
流れるような動作で再び一礼すると、ヤチヨは回れ右をして、大聖堂の重厚な扉の向こうへと足早に去っていってしまった。
「……冷たいのう」
一人残された教皇の間で、ジウはティーポットを持ったまま、しょぼーんとした何とも残念そうな顔で、パタンと閉まった扉をいつまでも見つめているのだった。
アビゲイルの美しい夜景の裏側で、それぞれの因縁と闇が静かに、だが確実に蠢き始めていた。
◯
月光の冷たい光が降り注ぐ、高層ビルの屋上。
風が激しく吹き荒れるその場所で、寿リアンは一人、夜の闇に浮かび上がるヘクセンハウスの方向をじっと見つめていた。
「シェリー……」
ぽつりと呟いた彼女の手元には、一枚の古い写真が握られている。そこに写っているのは、幼少期の無邪気なシェリーの姿だった。
「私は……どうするべきなのかな」
愛おしそうに写真を見つめた後、リアンはそれを静かに胸ポケットへと収めた。そして、吹きすさぶ夜風の中、ビルの最果てへと歩を進める。
遥か眼下に広がるアスファルトを見下ろしながらも、その瞳には一切の恐怖も躊躇もなかった。リアンは一歩を踏み出し、ビルの屋上から夜の帳へと、何の迷いもなく身を投げ出すのだった。
◯
地上に広がるきらびやかな街並みとは隔絶された、薄暗い地下室。
そこは、無数の不気味な人形や愛らしいぬいぐるみが壁一面を埋め尽くす、歪な子供部屋のようだった。
「あのね、今日ね、お店にお客さんが来たんだ」
部屋の中央で、アイリは嬉しそうに両親へ向けて今日一日の出来事を語っていた。
「アンアンちゃんって言ってね、お人形さんがとっても大好きな女の子だったんだ。それに、一緒にいたノアちゃんも私の話をよく分かってくれたし、ミリアちゃんもお人形の可愛さをちゃんと理解してくれたんだよ?」
アイリが楽しそうに話しかける視線の先。そこに佇む父親と母親は、生気のない顔で優しく微笑み、声を揃えて相槌を打つ。
「そうだね、アイリ。楽しかったんだね」
「よかったね、アイリ」
そんな奇妙な3人のもとへ、背後から音もなく人影が近づいてきた。それは大人ほどの大きさがある、一体の等身大の人形だった。人形は糸で引かれるような淀みない動きで、トレイに載せたオレンジジュースをアイリの前へと差し出す。
「あはは、ありがとう。――これから、もっと楽しくなりそうだね」
アイリは人形からグラスを受け取り、満足そうに目を細めた。
「ずっと……このままで、何も変わらないといいなぁ」
そう呟きながら、アイリは冷たいオレンジジュースにそっと口をつけるのだった。
◯
昼間、レイアが血眼になって探し回っていた雑貨店。その2階にある住居スペースの寝室で、泥セイヤは頭を激しく抱えながらベッドに横たわっていた。
「あぁ……ついに、ついに会ってしまった。レイア……っ」
その顔は、かつてのトップスターの面影を失うほど、深い恐怖と絶望に歪んでいた。彼女は激しく呼吸を乱しながら、レイアと再会してしまった今日という最悪の1日を必死に思い返していた。
「私は、私は違うんだ……。私はレイア、キミに……キミにあんな綺麗な目で見つめられるような、そんな立派な存在じゃないんだよ……!」
血を吐き出すかのようなセイヤの悲痛な独白。
その様子を、固く閉ざされた寝室のドアの隙間から、セイヤの弟が表情を一切変えずに、ただ黙ってじっと見つめていた。
◯
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
薄暗い裏通りを、必死に走り抜ける一人の魔女候補の少女がいた。
喉を焼くような息の荒さで、何かに追われるように必死に足を動かす。彼女の顔は、背後から迫る圧倒的な死の恐怖によって、見る影もなく引きつっていた。
「逃げなきゃ……捕まったら終わりだ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……!」
パニックに陥った少女は、濡れた路面に足を取られ、激しく地面へと転倒してしまう。全身を襲う痛みに、腰が抜けてしまったのか、もう立ち上がることすらできない。それでも彼女は、涙と泥に塗れながら、這いずってでもその場から逃げようとした。
「――もう大丈夫だよ」
突如、頭上からそんな優しい声が降ってきた。とても聞き覚えのある、ずっと求めていた懐かしい声。
少女が恐る恐る顔を上げると、そこには、アビゲイルの街に来てから今までずっと存在を忘れていたはずの、大好きな【お姉ちゃん】が立っていた。
「お姉、ちゃん……!」
恐怖が安堵へと変わり、少女の顔に喜びの笑みが広がった、その瞬間だった。
目の前に立つ姉の顔が、耳元まで――ミチミチと音を立てて左右に大きく裂けた。
それが、少女がこの世で最後に視た光景であり、彼女の短い生涯の終わりだった。
バリポリ、ボリ。
静まり返った裏通りに、骨と肉を噛み砕く、生々しく悍(おぞ)ましい音が響き渡る。
最後の一つを完全に咀嚼し、喉の奥へと飲み干すと、その肉体が一気に収縮していく。先ほどまでの異形の姿から、見る見るうちに可憐な少女の姿へと形を変えていく。
「ゲフッ……」
ハツネは小さく下品なゲップを漏らすと、口元に付着した赤い液体を手の甲で無造作に拭った。
「うん……意識がはっきりしてきた」
彼女は自分の白い両手をじっと見つめ、確かめるように何度も握りしめる。その瞳に、冷酷で鋭い光が戻っていく。
「そうだね……私はまだ、怪物なんかじゃない。私はまだ、【ニンゲン】だ」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟くと、ハツネは血の匂いが立ち込める裏通りの奥へと、影のようにすうっと消えていった。