「……ぷはぁあ!」
「ふぅ……」
数十分もの間、広い公園を全力で走り回った私達は、文字通り這うようにしてベンチへと滑り込んだ。
冷えたスポーツドリンクが、渇いた喉をじりじりと潤していく。
ようやく人心地がついた辺りで、それまで私達の後ろをのんびりついてきていたリアンさんが、ベンチの前に移動して仁王立ちになった。
ここが立ち入り禁止になっている理由を、少し得意げに語り始める。
「別にあなたも座ればいいのに」と勧めてみたけれど、どうやら彼女はこのポーズがお気に召しているようだった。
「まぁ単純に、老朽化した設備の点検だねぇ~。ベンチとか水道とかねぇ~」
「うっ……だ、大丈夫ですの……?」
その言葉を聞いた瞬間、ハンナさんの顔からすっと血の気が引いた。
何か強烈な心当たりがあるらしく、目に見えてオドオドしながら頭を抱え始めている。
リアンさんはその大袈裟なリアクションにクスリと笑うと、私達が腰掛けている木製のベンチを、ポンポンと軽く叩いた。
「ご心配なくぅ~。点検とはいっても定期的なやつだから。まだまだ殆どのベンチは老朽化するほど古くはないし、よほど馬鹿みたいな力を込めなきゃ壊れないよぉ~」
「そ、それは良かったですわ……。まぁ、でも! そこにいる看板を素手で粉砕したゴリラの妖精さんは、人一倍気をつけないとダメですわねぇ!?」
「もー! さっきから何回も謝りまくってるじゃないですかー!」
「お黙りなさい! 今回はリアンさんが『看板壊しの罰金は無しでいいよ』って言ってくれたから助かりましたけど、下手したら今頃、けいさ――ゲフン、聖女教のお世話になるところでしたのよ!?」
今にもまた、ハンナさんとのおいかけっこ(あるいは不毛な口論)が再開しそうな不穏な空気が漂う。
それを察したのか、リアンさんは「はいはい」と目の前で小さく合掌して、私達の会話を遮った。
そして、いたずらっぽく満面の笑顔を浮かべると、私とハンナさんの肩を左右からぽんと掴む。
「まぁまぁ、その辺にしておきなよお二方ぁ~。それよりも、こうやって偶然出会えたわけだしさ。せっかくだからこの都市を案内したいんだけど……時間、あるかなぁ~?」
「あ、はい! 大丈夫です! むしろ、色々と行き詰まってて困っていたところなので、すごく助かります!」
「そうですわね、お言葉に甘えましょう。とりあえず、どこから向かいますの?」
「そうだねぇ~、とりあえず歩きながら話そっか~」
ハンナさんが勢いよくベンチから立ち上がり、リアンさんがその隣に並んで先導するように歩き出す。
二人は早くもこれからの案内ルートについて楽しげに話し始めていた。
私はワンテンポ遅れて立ち上がり、慌ててハンナさんの隣に追いつこうと足を動かす。
――その時だった。
雲一つない青空。快晴の、気持ちの良い自然豊かな朝の公園。
そこに、ふと、少し強めの突風が吹き抜けた。
「あ……」
私は不意に足を止め、帽子が飛ばされないように咄嗟に手で押さえる。
風が、私の髪を激しく揺らしながら通り過ぎていく。
その刹那、私の鼻腔を、微かな【匂い】がかすめた。
リアンさんの言う通り、点検や清掃が入った直後だからなのだろう。
周囲に満ちているのは、消毒用アルコールのツンとした臭さと、それに混じった草花の青青しい匂いがほとんどだ。
けれど。
本当に微かで、他人に言えば「気のせいだ」と笑い飛ばされてしまうかもしれないレベルの、異質な匂いが混ざっていた。
記憶の底にある、絶対に忘れられない、あの感覚、私が【怪物】になったあの記憶。
(……血の匂い……?)
ざわり、と肌が粟立つような感覚に襲われる。
「――シェリーさーん? どうしましたの?」
振り返ったハンナさんが、不思議そうに首を傾げて私を呼んでいた。
「あ! なんでもないです、置いていかないでくださーい!」
私は思考を強引に打ち切り、引きつりそうな笑顔を張り直して、ハンナのもとへと駆け出した。
――今となって振り返れば。
ここが全ての【始まり】だったのだろう。
このアビゲイルという都市で起こる数々の奇妙な事件。
その渦中へと、私が深く関わっていくことになる、最初の引き金――。
◯
私とエマの二人は、ジウさんの許しを得て、教会の中にあるゲストルームへと通されていた。
通された部屋は、およそ教会の中とは思えないほど豪華な装飾と設備で整えられている。
特に目を引いたのは、奥の壁に飾られた一枚の大きな宗教画だった。
そこには、二人の可憐な少女が並んで描かれている。
(この絵、さっきの部屋にもあったな……)
案内される道すがら、どの部屋にも必ずこの絵が一つは飾られていることに気づいていた。
聖女教において、極めて重要な意味を持つ絵なのだろう。
教会のマークの由来や、この都市の記憶について。
あれこれと頭の中で思考を巡らせていると、不意に静寂が破られた。
「お待たせしましたねぇ」
コツン、と上品な靴音と共に、特徴的ながらも落ち着いた声が響く。
私は思考を止め、エマと一緒にテーブルの前のソファーに腰掛けた。
数分もしないうちに、ドアが開いてジウさんが姿を現す。
彼女は、様々な種類のお菓子が盛られたお茶請けと、湯気を立てるティーセットを器用にトレーに乗せて運んできた。
その無駄のない洗練された動作で、私達の向かい側にあるソファーへと腰を下ろす。
私は、この都市の最高権力者である彼女の出方を窺うように、訝しげにその一挙手一投足を観察していた。
――だが、私の隣の同行者は、全く別のものに目を奪われていた。
「わぁ……!」
エマが、テーブルに並べられた個包装の綺麗なお菓子を見て、文字通り目をキラキラと輝かせている。
いや、輝かせるどころか、その手はすでに獲物を狙う肉食獣のように動いていた。
「さて、何から話しましょうか」
――ビリッ。サクサクサクサクサク。
「あぁ、話してもらうぞ。まずはこのアビゲイルという都市についてだ」
――ビリッ。ポリポリポリポリポリ。
「そうだねぇ。まぁ特に隠すようなモノじゃないから言うけど、その前にこの聖女教について話すほうが早そうだねぇ」
――ビリッ。モグモグモグモグモグ。
「聖女教について? まぁ、そちらも気にはなってい――」
――ピシッ!
「うぅっ!?」
私は、隣で一心不乱に高級菓子を口に放り込み続けているエマの頭に、容赦なくチョップを叩き込んだ。
こんな大事な局面で、一体全体この相棒は何をしているんだ。
……いや、確かに。
エマが破いた袋から漂ってくるのは、信じられないほど上品で香ばしい、甘い匂いだ。
その辺の店で買える市販品ではなく、特級の高級菓子であることくらい私にだって分かる。
分かるが、しかし。
(今食べるやつがあるか……!)
涙目で頭を押さえるエマを一旦無視して、私はジウさんへと向き直り、ゴホンと一つ咳払いをした。
「失礼した。……さて、聖女教についてだったな。説明を促してもいいだろうか?」
私の言葉に、ジウさんは怒る風でもなく、むしろ口の周りを菓子のクズだらけにしているエマを見て、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべた。
「ふふ、食欲旺盛で何よりだねぇ。おばあちゃん、こういう元気な子は見ていて嬉しいよ……。さて、それじゃあまずは聖女教の成り立ち――もとい、あの壁の宗教画について話そうかねぇ」
ジウさんは手際よくティーポットから紅茶をカップに注ぎ、それを上品に一口含む。
それから、まるで子供に昔話を聞かせるかのような、淡々とした、けれど引き込まれるような声音で語り始めた。
――数百年前の昔々、ある島に、二人の女の子がいました。
一人は、島にやってくる人間達との交流を心から楽しみ、彼らに深い愛すら抱いていました。
もう一人は、島を訪れる人間達と広く交友関係を結んでいました。それは、いつか必ず訪れるとされる『災厄』に備えるためでもありました。
二人の女の子は、それぞれの目的に従って人間達と深く関わり合い、そして――運命の日は、刻一刻と近づいていました。
その【災厄】が訪れる、まさに前日のこと。
二人は島を去ることを決めました。
人間の船に乗り込み、二人の女の子は揃って外の世界へと旅立ったのです。
――その後、長い長い旅路の果てに、二人の女の子の歩む道は袂を分かつことになりました。
一人は、島で出会った人間と恋に落ち、その生涯を添い遂げました。
そしてもう一人は、人間達を正しい道へと導くための、この【聖女教】を設立したのです。
「……まぁ、ざっくりと言ってしまえばこんな感じかねぇ? これ以上細かい歴史は、街の図書館にでも行って本を読んだ方が早いとおばあちゃんは思うよ」
「……なるほど」
私は、ジウさんの話を一言も聞き漏らさないよう、手元のノートに素早くメモを取っていた。
要点としては【数百年前】という時期、そして何より【災厄】という不穏なワード。
とはいえ、この話はあくまで前座だ。現時点でこれ以上深く掘り下げる必要性は薄いと判断する。
「それじゃあ、ここからは自由におばあちゃんに質問してごらん。できる限りのことは回答するつもりだからねぇ」
「……よし、それならまずは――」
ジウさんから急かされたわけではない。
だが、相手はこの都市のトップだ。分刻みのスケジュールで動いているであろう人物の時間を、これ以上無駄に奪いたくはなかった。
あまり長居して、聖女教のシスター達からの反感を買うのも避けたかった。
部屋の壁掛け時計に目をやると、時刻はまもなく午前11時。
長くても【あと1時間以内】には全ての質問を終わらせようと心に決め、私は次の問いを口にする。
――ただ。
私は質問を重ねることに集中していたため、すぐ隣の異変には気づいていなかった。
お菓子を食べる手を完全に止め、ジウさんの顔をじっと見つめているエマの視線。
その瞳の奥に、言葉にはできない微かな《違和感》を宿しながら、彼女がただ静かに戦況を見守るように静観していたことに、私はまだ気づいていなかった。
◯
『この先で合ってるのか?』
数十分も歩き続け、足はとうに棒のようだった。
それでも目的のために必死で歩みを進めながら、わがはい――アンアンは、手元のスケッチブックに殴り書きした文字をミリアに突きつけ、先を急かした。
「た……たぶんあってる。おそらく、きっと、メイビー?」
通行人に聞き込みをして情報を集めたまでは良かったが、肝心のミリアが持っている手書きの地図は、どうにも心許ない。
金髪をいじりながらキョロキョロと辺りを見回すミリアは、自分のナビゲートが本当に正しいのか、不安で胸がいっぱいな様子だった。
まあ、わがはいとしては、目的地が見つからなければ見つからないで、それでも構わないと思ってはいたのだが……。
「どこかなー、どこにあるのかなー?」
わがはいの隣では、ノアがマイペースに歩いていた。
ゴミ一つ落ちていない近代的で綺麗な街並みを、その特徴的なオッドアイで見つめながら、手に持ったスプレー缶を弄んでいる。
どうやら「どの壁にグラフィティを描こうか」とそればかり考えているようだ。
そろそろはぐれてしまわないか心配になってくるな。……というか、わがはい自身、そろそろこの移動に飽きてきた。
『あそこではないか?』
諦めムードが漂い始めたその時、わがはいの目に、ある建物が飛び込んできた。
店自体は長い歴史を感じさせる老舗の風格を漂わせているのに、掲げられた看板には可愛らしい様々な動物たちが描かれている。
渋さとファンシーがちぐはぐに混ざり合った、妙に目を引く佇まいだ。
ミリアが慌てて地図と照らし合わせ、そこが紛れもない目的地だと判明する。
「こ……ここが……!」
気づけば、わがはいは肉体の疲労を忘れて駆け出していた。
目的の建物の、重厚な扉の前に立ち止まる。
本当に……本当にあったのだな。
遅れて追いついてきたミリアとノアが、肩で息をしながらわがはいの背中に並ぶ。
その気配を感じながら、わがはいは意を決して、扉を押し開けた。
チリン、と静かな鈴の音が響く。
最初に目に飛び込んできたのは、無数のぬいぐるみたちだった。
どれも一つとして同じものはなく、それぞれ違った愛らしさを放っている。
一歩足を踏み入れると、古い木棚の匂いと、ぬいぐるみの優しい香りが鼻腔を満たした。まるで、外の喧騒から切り離された別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
わがはいは、吸い寄せられるように店の奥へと進んでいった。
進むにつれて、可愛らしいぬいぐるみは影を潜め、代わりに、精巧に作り込まれた
綺麗なドレスを纏い、端正な顔立ちをした人形たち。
まるで本当に生きているかのような錯覚を覚えるほど、それらは完成されていた。
そして、その人形たちが着ている衣装の一部は――どこか、わがはい達の衣服の意匠に似ていた。
「やはり、ここが――」
確信めいた呟きが、口を突いて出かける。その時だった。
「――お客さん、ですか?」
不意に、店の一番奥から声が掛けられた。
「――!?」
声も上げられないほど心臓が跳ね上がった。
完全に油断していたわがはいは咄嗟に身をかわそうとして、思いきり体勢を崩し、その場に激しく尻もちをついてしまう。
幸い痛みはなかったが、完全に腰が抜けてしまっていた。
「……驚かせてしまった、かな?」
声の主は、慌てた様子で早足に近寄ってくると、わがはいの前に屈んでそっと手を差し伸べた。
その人物は、店内に飾られているどのお人形よりも美しかった。
十もの束にまとめられた長い髪に、不思議なヘアバンドと人形があしらわれた、独特な髪型。
身長はわがはいと同じくらいだろうか。
どこか儚げな声音の少女は、心配そうにわがはいの顔を覗き込んでいる。
「え、あ……」
ミリアたち以外の人間を前にして、極度の緊張から言葉が喉に詰まる。
わがはいは慌ててスケッチブックを開き、文字を走らせた。
『何者だ?』
「……なるほど、そうですね。【小生】は四十万アイリ。ここの店主、だよ」
薄く、どこか寂しげな笑みを浮かべて、アイリと名乗った少女はペコリとお辞儀をした。
こんなに若い子が店主なのか、と驚きつつも、わがはいは彼女の手を借りてどうにか立ち上がる。
ちょうどそのタイミングで、遅れて奥に入ってきたミリアとノアが声を上げて駆け寄ってきた。
「あ、アンアンちゃん! すぐ奥に行っちゃうから心配したんだよ? あ、そこの子は?」
「――【ドールマスターPM】」
わがはいは、ミリアの問いかけを無視して、その名前を口にしていた。
「ぴぃえむ?」
ミリアが不思議そうに首を傾げる。
けれど、わがはいの耳にその声は届いていなかった。
魂をどこかに置き忘れてしまったかのように、ただじっと、アイリの顔を見つめることしかできない。
脳裏を過る記憶、胸を締め付ける感情。
それらの制御が一切効かなくなっていく。
……オーバーフロー、というやつなのだろうな。
「――」
アイリは無言のまま、わがはいの尋常ではない視線を受け止めていた。やがて、少し困ったように眉を下げて口を開く。
「……うーん。そなた、もしかして結構なファン?」
「え? あ……」
少し的外れなアイリの言葉に、わがはいはハッと正気を取り戻した。
急激に恥ずかしさが込み上げてきて、照れ隠しに小さく一回、咳払いをする。
それから、どうにか冷静を装って、言葉を紡ぎ出した。
「そう……だな、うむ。PMのぬいぐるみや、お人形は……わがはいの、思い出の品だったのだ。でも、今は……」
「……嫌いになった?」
「いや、それだけは無い! ……わがはいも、少し混乱しているのだ」
きっぱりと否定したものの、その先の言葉が続かない。
「【最初のわがはいの罪】が形になった物……だが、好きなのは本当なのだ。嫌いではない。嫌いではない……のだが……」
苦虫を噛み潰したように、わがはいは言葉を濁し、うつむいてしまう。
ミリアとノアが、そんなわがはいをひどく心配そうな目で見守っていた。
「……それで、アンアンちゃん、でしたか。小生の店に来た理由はまだ聞いていないけれど。お人形を買いに来た、それとも……何かを、聞きに来たのかな?」
アイリは取り乱すことなく、淡々と、けれど包み込むような優しさで問いかけてくれる。
その静けさに背中を押されるようにして、わがはいは一番聞きたかった質問を口にした。
「――ドールマスターPM。今、その人はどうなっているのだ?」
一瞬の間。アイリは静かに瞳を伏せ、それから真っ直ぐにわがはいを見つめ返した。
「……そう、だね。ドールマスターPMは……小生が、【二代目】、だよ」
その返答だけで、十分だった。
初代のPMがどうなったのか、その具体的な結末までは語られなかったが……。
もうこの世にはいないのだということくらい、わがはいにもすぐに理解できた。
「そう……か」
これ以上、ここにいる意味はない。
わがはいはすぐに踵を返し、逃げるように店を出ていこうとした。
「待って」
不意に、後ろから手首を掴まれる。
振り返ると、アイリがわがはいの手を握っていた。
驚くほど弱々しい力。なのに、不思議とそれを振り払おうという気にはなれなかった。
「……ぬいぐるみさん、作ってあげる。待ってて、ね」
アイリはそれだけ言うと、満足したようにアンアンの手を離し、パタパタと足音を立てて店の奥へと消えていってしまった。
あとに残されたわがはい達は、ただその背中を呆然と見送るしかなかった――。