……おかしい。
私、黒部ナノカと宝生マーゴは、裏通りなどから情報を集めていたわ。
結果として、この都市では行方不明事件が過去に起きていたことが分かった。
ある【バケモノ】の噂もそのころかららしい、しかしそれもここ数年はなくなっており、平和――なんてのはままかしね。
「……なるほど、記憶が抜け落ちてると」
「はい、確かに【誰か》】いたはずなんです、とても大事な……」
「あら、それは奇遇ね、なんと私たちも同じなのよ」
宝生マーゴは裏通りで仲良くなった一人の少女から興味深い情報を手に入れていたわ。
「危ないから、暗くなる前に早く帰りなさいね」
宝生マーゴが慈しむような笑顔でその少女を見送り、細い路地に静寂が戻る。
それを合図にするように、私は壁の影から足を踏み出し、彼女の隣へと並んだ。
「……どう思う、宝生マーゴ」
「深刻ね、ナノカちゃん。私たちが感じていた違和感は、どうやら誰もが何かは抱えているようね、まるで病理みたいだわ」
私たちが失ってしまった、【過去】の記憶。
それがこの都市の他の住人にも等しく起きている。
パズルのピースが根本から消失しているかのような不可解な現象について、私たちは声を潜めて意見を交わし合う。
しかし、会話を続けながらも、私の神経は別の方向へと向けられていた。
(……誰かついてきているわね。さっきの角を曲がったあたりから、ずっと)
足音はほとんど殺されている。
だが、濡れたレンガを踏む微かな摩擦音と、背中に突き刺さるような粘着質で明確な視線が、闇の奥から私たちを追っていた。
隣を歩く宝生マーゴと視線を交わす。
彼女の口元に浮かんだ笑みと指先を唇に近づけた動作を見るに、気づいているのは私だけではないらしい。
私たちはあえて人通りのある大通りへは向かわず、さらに細く、街灯の光すら届かない、逃げ場のない行き止まりの路地へとわざと足を進めた。
やがて、目の前を重苦しいコンクリート壁が塞ぐ。
完全に退路を断たれた袋小路。
私たちが足を止めると同時に、背後の暗闇から、ひたひたとこちらを追ってきた足音が、ピタリと止まった。
「さて。わざわざこんな寂しい場所までついてくるなんて、ずいぶんと熱心なファンね?」
宝生マーゴが声音にハッキリと刃のような警戒を乗せて、くるりと振り返る。
私もそれに倣い、思考を戦闘モードへと切り替えながら闇の奥へと冷徹な視線を向けた。
「コソコソ隠れて品定めされるのは趣味じゃないわ。……用があるなら、そろそろ正体を現したらどう?」
ひた、と静まり返った路地に足音が響く。
レンガ壁の深い影から、吸い込まれるようにすっと姿を現したのは――一人の少女だった。
色素の薄い、死人のような荒れた白髪を夜風に揺らした、私たちと同じか少し下……十五歳ほどの少女。
この裏通りの冷たくて澱んだ空気に、ひどく見事に溶け込んでいた。
当然、彼女とは初対面だ。
私が微かに目を細めてなぜか部屋にあった背中のライフル銃に手をかけて、白髪の少女は怯える様子もなく、感情の読めない淡々とした声音で口を開いた。
「……驚かせるつもりはなかったんだ。黒部ナノカ」
見知らぬ少女の口から、私自身のフルネームが迷いなく飛び出す。
私は不快感を隠さずに眉を寄せた。
「私の名前を知っているのね。……あなたは誰?」
「私は
白藤ハツネ。
そう名乗った少女は、白髪の隙間から冷涼な視線をこちらに投げかけてくる。
私の記憶をどれだけ漁っても、彼女の存在は一切認知していない。
「あら。ハツネちゃん、あなたナノカちゃんのお友達?」
宝生マーゴがひらひらと手を振りながら、探るように尋ねる。
白藤ハツネは感情の起伏を一切見せないまま、小さく首を振った。
「うううん、あっちは私のことなんて知らないよ。私が一方的に彼女を知っているだけ」
この都市で暮らす白藤ハツネにとって、私という存在は無視できないものであるようだった。
「あら、一方的だなんてちょっとロマンチックね。でも、どうしてそんな可愛い子がナノカちゃんをストーキングしているのかしら?」
「ストーキングなんて趣味じゃない。私はただ……確かめたかっただけ」
白藤ハツネは、ふっと自嘲気味に口元を歪めた。
その歪んだ笑みは、酷く冷たく、痛々しい。
彼女の視線が、宝生マーゴから私へと真っ直ぐに移る。
「黒部ナノカ。お前が本当に何もかも忘れて、平然とそこに立っているのかどうかをね」
「忘れて……? どういうことかしら、白藤ハツネ。私はあなたと会った記憶はないわ。私とあなたの間に、一体何があるというの」
一方的に知られているという事実。
その言葉の奥にある真意を測りかねて、私は一歩、白藤ハツネに向けて足を踏み出した。
しかし、私の歩み寄りに応じるように彼女の瞳の奥に宿ったのは、凍てつくような、しかし同時に激しく燃え盛るようなドス黒い感情だった。
――それは、紛れもない明確な、剥き出しの憎悪。
「お前の中には何もないよ。【アイツ】に綺麗さっぱり消されたんだから」
白藤ハツネは吐き捨てるように言い、忌々しげに空を仰いだ。
「お前たちという【歪み】のせいで、これからどれだけの事件が起きようと……。みんな、それがあったことすら忘れる」
「歪み、ねぇ。ハツネちゃん、私たちってなんなのかしらね?」
宝生マーゴがいつも通りの軽薄な笑みを浮かべながらも、その指先にはいつでも獲物を引き裂けるような鋭い緊張感が宿っている。
白藤ハツネはそんな彼女の無言の威圧を恐れる風でもなく、ただ私だけを呪うように睨み据えていた。
「自覚がないなら、なおさらタチが悪いよ。……まぁ丁度いいけど」
白藤ハツネが、指先を向け、私の名前を低く、ドロリとした呪詛のように呟く。
「黒部ナノカ。これからこの都市で起こることは、全部お前のせいだ」
「何……?」
「私は、お前を絶対に許さない」
刺すような言葉を拒絶の刃として言い残した、直後だった。
白藤ハツネの身体が、夜の闇に溶けるようにわずかに沈み込む。
――次の瞬間、彼女の姿が視界から完全に消失した。
ドン! と、レンガの地面を踏み荒らす激しい衝撃音が狭い路地に炸裂する。
本能的に見上げた視界の先、白藤ハツネの身体は重力をあざ笑うかのように真上へと跳ね上がっていた。
人間では到底不可能な、十数メートルはあろうかという圧倒的な跳躍力。
彼女は私たちの目の前にそびえ立つコンクリート壁の頂へと一瞬で到達し、そのまま向こう側の闇へと、吸い込まれるように消え去ってしまった。
再び静まり返る、冷たい袋小路。
残されたのは、彼女が踏み切った衝撃で蜘蛛の巣状にかすかにひび割れた地面、その中心には明らかに人ではない足跡があり、そして、夜風に舞う白い髪の残像だけだった。
「……行っちゃったわね、ハツネちゃん。それにしても、今の跳躍力……ただの人間じゃないわね」
宝生マーゴが呆れたように息を吐きながらも、その目は鋭く細められたままで、白藤ハツネの消えた虚空を睨んでいる。
白藤ハツネ。
あの少女は一体何者なのか。
そして、彼女が残した「お前のせいだ」という言葉の意味は何なのか。
私たちが失ってしまった記憶のパズルに、あの白髪の少女も深く関わっているのだろうか。
胸を強く突くような、あまりにも不穏な予感を覚えながら、私は彼女が消えた壁の向こうの暗闇を、ただじっと見つめることしかできなかった。
○
どーもぉ!あてぃし沢渡ココ!、これから部屋にあったパソコンからライブ配信するからコメントよろー、さぁて、この画面のボタンを押せばはじま――
「たのもー!聖女教の者だー!」
「ひゃあああああっ!?」
突如として家の玄関の方から響き渡った、鼓膜を引き裂くような大声に、あてぃしは椅子から引っ繰り返りそうになりながら跳び上がった。
あまりの衝撃に、マウスを握っていた手が思いっきり滑って、配信開始ボタンの手前でカーソルが激しく彷徨う。
な、何ごと!? てか、せいじょきょうって何!?
せっかくこれからあてぃしの輝かしい配信ライフが始まるって時に、近所迷惑もいいところな大音量で叫ぶの、マジで勘弁してほしいんだけど!
「ちょっと、うるさいんだけど! 誰よぉ!」
イライラと心臓のバクバクを抑えきれないまま、あてぃしは自分の部屋を飛び出した。
廊下を猛ダッシュで駆け抜け、怒りに任せて玄関のドアノブを掴むと、勢いよく外へと引き開ける。
「突撃隣の晩ごはん的なノリで叫んでんじゃないよぉ――」
怒鳴り散らそうとした言葉が、喉の奥でピタッと止まった。
そこに立っていたのは、このアパートの薄暗い通路にはおよそ似つかわしくない、奇妙な格好をした少女だった。
身にまとっているのは、どこか厳かな雰囲気を漂わせる紺色のシスター服。
……そこまでは百歩譲っていいとして、問題はその頭だよ。
サラリとした髪の上に、どう見ても悪目立ちしている【犬の耳】のカチューシャが、ちょこんと乗っかっている。
「……え?」
あてぃしが呆然と声を漏らすと、そのシスター服に犬耳カチューシャというカオスな大声の主は、きりっとした表情のまま、まっすぐにこちらを見据えてきた。
「な、なによ……? 人の家の前で、そんな大声出して突っ立って……」
あてぃしが怒鳴り気味に文句を言うと、その少女の目が限界まで見開かれた。
「……え? あ、あれ……? うそ……え!?」
少女はガタガタと音を立てるように激しく動揺し、あてぃしの顔を穴が開くほどまじまじと見つめ始める。
あてぃしが部屋のドアを開け、廊下を挟んで二階から一階に降りてこの玄関口のドアを開けたから、部屋の中にある配信機材なんてここからは一切見えないはず。
それなのに、コイツはあてぃしの顔だけを見て、まるで世紀の怪奇現象でも目撃したかのような大パニックに陥っている。
「ちょいちょい、さっきから……」
「ま、まさか……ココ、様……!? 本物の、○○様……ですかっ!?」
「ひゃっ!? な、なんであてぃしの配信名を知って――」
いきなり配信者名を呼ばれて、あてぃしは思わず一歩身を引いた。
まさかストーカー!?
世界のすべてを憎むあてぃしのブラックリストにコイツの顔を叩き込もうとした瞬間、犬耳カチューシャの女は顔を真っ赤に染め上げ、信じられないものを見る目でブルブルと震え出した。
「お、おいたわしや……! 新たな魔法少女が入寮したって聞いて、どんな奴かツラ拝みに来てみれば……まさか、まさか大好きなココ様が新入りだったなんて、聞いてないですぅぅぅ!!」
「はぁ? ツラ拝みに来た……?」
「わ、私です! 配信でいつもココ様を全肯定している、宇都宮ヤチヨ……じゃなくて、リスナーの【忠犬8号】ですぅぅぅ!!」
「――はぁっ!?」
忠犬8号
その名前に、あてぃしの脳内インフラが一瞬で直結した。
いつもあてぃしの雑談配信やゲーム実況に現れては、「●●ちゃん今日も最高!」「●●ちゃん世界一可愛い!」と、画面が埋まるほどの全肯定コメントを投げつけてくる、あのちょっと愛が重くて、でも数字(再生数)的にはめちゃくちゃありがたい貴重な数少ない固定リスナーの忠犬8号!?
「きゅ、急にリアルでエンカウントするとか、心の準備がぁぁ……っ! 画面の向こうじゃなくて、本物の生身の○○様が目の前にぃぃ!」
ヤチヨと名乗った少女は、頭の犬耳カチューシャをピコピコと激しく揺らしながら、完全にキャパオーバーを起こして玄関先でうろたえている。
(マジで……? え、あの画面の向こうの全肯定マシーンが、こんな変なコスプレした電波女だったの……!?)
あてぃしは引きつった笑顔を必死にキープしながら、内心で激しく頭を抱えた。
これから部屋に戻って配信を始めようって時に、あてぃしの前に現れたのは、まさかのリアルで遭遇した、バグレベルにキャラの濃い身内リスナーだった。
「はぁ……はぁ……っ! 本物の○○様……生○○様が、あてしの目の前に……っ! 尊死、尊死する……っ!そうだ!」
ヤチヨは胸を押さえながら、ハァハァと荒い息を吐き出している。マジで通報一歩手前の不審者だ。
すると、ヤチヨは急に激しい動きをピタッと止め、その大きく見開いた瞳で、あてぃしのことをじぃぃぃっと凝視し始めた。
「……な、何によ?」
一瞬、ただのオタクの熱視線かと思った。だけど、違った。
ヤチヨの瞳がブレることなくあてぃしを捉え続けた瞬間、ゾク、と背筋に冷たいものが走る。たった数秒見つめられただけなのに、まるで全身の筋肉がガチガチに凝り固まって、指先一つ動かせなくなるような、奇妙で圧倒的なプレッシャー。
(な、何これ……身体が、すくむ……っ!?)
あてぃしが恐怖で冷や汗を流しかけた、その時。4秒が経過したあたりで、ヤチヨがハッと我に返って勢いよく目をそらした。
「はっ! いけないいけない! 嬉しさのあまり、大好きなココ様を脳裏に焼け付けようとして、5秒以上見つめて完全に動きを止めてしまうところでした……っ! 忠犬たるもの、主人の大切な時間を【停止】させるなど、万死に値します……!」
「は、はぁ……?」
5秒見つめると動きを止める? なにそれ怖。というか、さっきの固まるような感覚はマジでただ事じゃなかった。コイツ、画面の向こうでは全肯定マシーンのくせに、リアルだと結構ヤバい能力を持ってやがる……!?
あてぃしは引きつる頬を必死に抑えながら、話題を変えるためにさっきの疑問をぶつけた。
「……それより、さっき言ってた【せいじょきょう】って何なわけ? わけわかんないシスター服着てさぁ」
あてぃしが尋ねると、ヤチヨは待ってましたとばかりに、胸の聖女っぽいのが磔にされてる十字架を誇らしげに掲げてドヤ顔を決めた。
「お答えしましょう! 【聖女教】とは、この薄汚れた世界に真の救済と平穏をもたらす、とっても優しくてアットホームな宗教組織です! 日々、迷える子羊たちを導くためにこの都市を運営しているんですよ!」
「は、はあ……(絶対ロクな宗教じゃないわこれ)」
世界のすべてを憎んでいるあてぃしからすれば、救済だの宗教だの言っている時点で胡散臭さマックスだ。心の中で盛大に毒を吐いていると、ヤチヨはさらに鼻を高くして続けた。
「ちなみに私、宇都宮ヤチヨは、これでも聖女教の【司教】という大役を任されている身なのです! えへん!」
「し、司教ぉぉぉ!?」
思わず声が裏返った。こんな頭に犬耳カチューシャ乗っけた重度のアニオタみたいな電波女が、宗教組織の幹部クラス!? どんなディストピアよその宗教!
あてぃしが本気でドン引きしていると、ヤチヨは急にきりっとした、どこか冷徹で真面目な表情に切り替わった。
「……それはそうと、ココ様。新入りとしてこの寮に入られたということは、色々と大変な事情がおありなのでしょう。……どうか、この寮の外へ出るときは、十分に気を付けてくださいね」
「え……? 外?」
「はい。この街は、ココ様のように純粋で美しい存在を脅かす、ロクでもない危険な連中がウジャウジャいますから……。ココ様に万が一のことがあれば、私は世界を滅ぼしかねません」
真険なトーンで言っているのか、ただの重いオタクの妄想で行っているのか判別がつかない。だけど、その言葉の裏にある【警告】だけは、なぜか妙にリアルで重苦しくあてぃしの胸に刺さった。
……が、そんなシリアスな空気は一瞬で霧散する。
「あぇぇぇ、でもでも! 今日は最高の記念日です! 画面の向こうの存在だった○○様がこの都市に……あ、今日から明日からの生きる活力が限界突破しましたぁぁ!!」
「ちょ、ちょっと、声が大きいって――」
「ではココ様! 私はこの爆発しそうな喜びを教皇様に感謝しに、一旦部屋に帰って悶絶してきます! また配信も見ますからねぇぇー!」
「あ、おい――」
引き止める間もなく、ヤチヨは頭の犬耳カチューシャをピコピコと激しく揺らしながら、廊下の奥へと猛ダッシュで走り去っていった。曲がり角で盛大にすっ転ぶ音が聞こえた気がするけど、そのまま風のように消えていく。
バタン、と静まり返る玄関口。
「……なんなん、一体」
あてぃしは深いため息をつきながら、こめかみを指で押さえた。
せっかくこれから輝かしい配信ライフをリスタートさせようって時に、とんでもない爆弾を間近に抱え込んでしまった。
とりあえず、あいつのユーザー名 【忠犬8号】の横に、脳内で【要注意・リアル電波司教】ってタグを付け加えておくことにしよう。
あてぃしはガシガシと頭を掻きむしりながら、配信機材の待つ自分の部屋へと重い足取りで戻るのだった。
「そういえばあてぃしの本名、言ってたっけ?」