なんか都合がいい感じのラ・マンチャランドくれ 作:300狂気
泥濘と微睡の中で、底に向かって沈んでいく。辺りは暗闇と泥に包み込まれていて、生暖かく、穏やかだった。ここがどこなのか、私が誰なのか、何一つわからない。考えもぼんやりして、うまくまとまらない。
でも、ただ一つわかることがあるとしたら、私はたぶん、夢を見ているということだった。はっきりとした明晰夢でもなく、ただぼんやりと、寝ているんだろうなって思っている。
血鬼は血を充分に飲んでいれば、眠らなくとも生きていけるけど、それでも眠ることを好む血鬼は多い。眠っている間は、渇きを感じなくて済むから。
私は、夢が嫌いだった。御父上は、いつかきっと、夢を見られる。その夢は、家族にとっては苦痛であり…私たちを滅ぼす、悪夢だったから。
「母上様…喉が、喉が渇きましたわ…」
誰かが、私の後ろから抱きついてくる。優しい抱擁に気を許してしまいそうになる。振り返る。そこにいたのは、ニコリーナの形をした何かだった。
蛇が身体に絡みついてくるかのように、私は指一本たりとも動かすことができない。ニコリーナだけじゃない、気づけば、私の足元には無数の子供たちが絡みついていた。そこにサンチョはいない。
逃げ出そうにも、足が重くてまったく動かない。たたらを踏んで、下に倒れてしまう。身体が動かなかった。
子供達は、ぎらついた虚ろな目をしながら、飢えて飢えてしょうがなかったからか、私の身体に噛みつき、傷つけ、私の血を貪り始めた。
身を貪られながらも、私は母親としての本能か、私を食いちぎるニコリーナの頭を優しく撫でてあげていた。これはニコリーナじゃないってわかっていたのに。
私の血肉が食べられて、骨と皮すら残らなかった。身体なく意識だけが浮かんでいた頃、場面が移り変わる。
瞼を開いて辺りを見渡してみれば、私は赤い照明で彩られた、見覚えのない遊園地に立っていた。ひんやりとした冷たい感触を感じる。いつの間にか、私の手元には大きな杭が握られていた。
目の前には、大きな大観覧車に磔にされた御父上が、ただ項垂れている。
刺せ、ということだろう。でもこれは親不孝で、あってはならないこと。それに、私には御父上を傷つける勇気も覚悟もない。例え、子供たちのためであろうとも…私には、御父上を刺すことなんて、できない。
そんな風に躊躇して、戸惑っている私の耳元では誰かがずっと囁いていた。刺せ。刺して、血を啜れと。私たちはずっと飢え続けてきたのだから、せめて父上を貪れと。
それでも私は躊躇していて、足が竦んで動かなかったその時、突如、ドンっと誰かに背中を押され、私はその勢いのまま御父上に杭を突き刺していた。
声にならない絶叫をあげる。せめて泣きわめこうとして、喉が全く震えてくれない。涙も浮かばなかった。むしろ、私は本能の行くままに、床に流れ落ちた血を舐めとって、少しでも渇きを癒そうと這いつくばっていた。
そこに私の意思は介在していない。私の身体は、私の理性ではちっとも動いてくれやしなかった。でも、夢ってそういうものなのかも。
ただ、この悪夢が現実にならないよう、祈って、祈って、ただ祈って…祈っているうちに、私の意識は、暗い泥沼の底から浮かび上がっていった。初めに感じたのは、毛布の柔らかな感触と、僅かに差し込む陽の光。
ぱちり、と目を覚ます。
指先の感覚はまだ戻っていなくて、まだ半分、頭も寝ぼけていた。でも、寝ぼけていても、理由のつかない焦燥感と恐怖に駆られて、無意識のうちに毛布を跳ね飛ばしていた。
不安に駆られ、辺りをしきりに見回して、誰もいない。静かな朝だった。私の身体は無事だったし、杭なんて握っていない。渇きも、今日は大丈夫。
「また、この夢…」
背筋に恐怖がこびりついて離れない。いつも見るこの夢は…私には、抱えきれなかった。
意味のない妄想だと、そう思う。だって、同族の血は何の渇きも満たすことのできない、病気の血だから。だから、私の飢えが生み出した想像じゃない。私の恐れと弱さが生み出した…幻覚に、過ぎない。
夢というのは過去の記憶を整理するためにあると、昔何かの本で読んだことがある気がする。私は遊園地なんて行ったことない。なら、あれは前世の記憶?前世も私はドゥルシネーアだったの?過去に経験したことじゃないのに、どうして、夢に出てくるの?
何もわからない、私は…私は、だめ、考えるな。忘れろ。過ぎ去った夢はすぐに忘れていくものだから、私は、大丈夫。そう自分に言い聞かせた。
粗悪な、質の悪いミルクコーヒーを飲んだ時みたいな後味の悪さを感じて、酷い目覚めだった。壁掛けの時計をちらりと見れば、もう10時を回っている。
私が村娘だった頃は、毎日きっちり5時に起きる規則的な生活をしていたというのに、血鬼になってからはずいぶんと遅起きになってしまった。早起きする理由がなければ、人はどんどん怠惰になるのかも。
「とりあえず、着替えないと」
習慣というのはとても強い力を持っているもので、まだ眠くて意識がはっきりしていなくても、勝手に体が動いてくれる。
朝起きたら、まずはニコリーナに会いに行くのが私の習慣だった。ドレスで着飾るのも、髪を整えるのも、一人じゃ難しいことだったし。化粧は軽く済ませればいいけど。
寝間着のまま、扉を開けてニコリーナの部屋へと向かう。まだ部屋にいてくれるといいけど。あまり遅いと時々いないから、そういう日はドレスを着ずに私服で過ごすことになる。まあ、御父上はそれはそれで喜んでくれるけど。
「…ぁ、おはよう、ニコリーナ。今日もお願い」
「今日は遅起きでしたねぇ、おはようございますドゥルシネーア様ぁ」
変わらない日常だった。いつものように、下着を着替えて、ドレスを着こなし、髪を解いてもらって、軽くお化粧をする。もう何十、何百年も繰り返してきたルーティン。
髪を解いてもらうこのひと時は、今日も変わりなく心地の良いものだった。ニコリーナのお蔭で、私は自信を持ってお姫様として振舞うことができている。常々感謝してきたけど、やっぱり、ニコリーナには頭が上がらない。
こうして考えると、私とニコリーナの関係も随分複雑なものだと思う。姫と御付きの理髪師であり、友達で、母と娘でもあった。
意外だったのは、この関係性は全て共存するということ。人間の感覚で例えるのは、難しいけれど…でも、とにかく母と娘であることと、友達であることは両立するらしい。
人は誰しも二面性を持っているというけれど、私は状況に合わせて人格を下手したら四つくらい使い分けている気がする。血鬼という種族自体が、それだけ歪ということなのかもしれない。それでも、ニコリーナを好いているこの気持ちは本物だった。
そんな風に、髪を解いてもらいながら、ぼんやりと思考を張り巡らせていた。瞼を閉じて、ただ心地よい感覚に身を任せようとしたその時、変わらない日常に何か異物が混じったかのような感覚を覚える。
空気が違う。穏やかで、どんよりとしたいつものお城じゃない。張りつめて、何かが弾けそうな緊迫した空気。また御父上が何か騒ぎを起こしたのかと思ったけど、違う気がする。
耳元の感覚を研ぎ澄ませて、音と世界を感じることに意識を割いた。家族の慌ただしい喧騒と悲鳴、剣と剣がぶつかり、弾き合う甲高い金属音。床に倒れる、誰かの呻き声。
その音は、変わらない日常が崩れ落ちていく音だった。
張りつめた空気に混ざって、たったったっと、誰かがこちらに駆け寄ってくる。思わず振り向いて、ニコリーナと顔を見合わせた。
ニコリーナは不思議そうに首を傾げていたけど、私には、もう子供たちが慌てる原因も、伝えてくれる言葉すら、わかっていた。
バタン、と扉を開けて、私の子供の一人が息を切らしながらも必死に言葉を紡ぎだそうと口をパクパクさせながらやってきて、息が整ったら、私たちに語り始めた。
「たったた大変ですドゥルシネーア様ニコリーナ様!!!お、お城に侵入者!血鬼の狩人が攻めてきました!!たった一人なのにとんでもない強さです!」
心当たりしかなかった。慌てふためくとか、焦りとか、そんな感情も浮かばない。ただ、来たんだなって。すとんと腑に落ちて納得した。
お城の中の生活は変わらなくとも、外の世界では人間たちと血鬼が終わりの見えない戦争をずっと繰り広げていて、この日が近づいて来ていることを肌で感じていたから。
「そう、遂に来たのね」
この日の為だけに、私はできる限りのことはやってきた。夢が終わるかどうかが、今日決まるということ。
私が考えた計画がうまくいくかどうかは…わからない。けれど、できる、できないの話じゃない。絶対成功させなければならない。子供たちのために、私は夢を終わらせなければならないの。
「父上に、会いに行かないと…」
「ちょ!ちょっと!ドゥルシネーア様ぁ!急にそんな深刻なお顔をしてどうされたんですのぉ?ま、待ってくださいましぃ!まだメイクが終わってないですわよぉ!」
無意識のうちに不安を感じていたのか、それとも焦っていたのかもしれない。制止するニコリーナの声も聞こえず、日傘をひったくるように掴んで私は駆け出していた。
初めて会って感じたのは、青さ。髪も、服も、瞳の色だって。青色。白い月の騎士だとか呼ばれている割には青さしかない。
端正で整った顔つきに、背丈より高い刀を二本携え、お弁当箱みたいな機械弓を背負っている。ジャケットとブーツの、遠い前世の記憶でしか見なかった、近代的な衣装。
間違いない、彼女こそが私が殺すべき相手である、バリ。御父上に夢を与えて…私たちを滅ぼす元凶になったその人。正義のフィクサー。
そんな彼女と御父上が、謁見の間で、果てしない決闘を繰り広げていた。目で追うのもやっとな、嵐のように吹き荒れる剣戟と弓矢の雨。ただ、遠くからじっくりと動きを見ることに集中しているから辛うじて追えているだけの、そんな戦い。
実際に私が相対してみれば、訳もわからぬまま流れに飲まれて速度で圧倒されていただろう。私と彼女に、確かな差を感じる。御父上と同じくらい強いはずだって、頭ではわかっていたつもりだった。
それでも、私だって第二眷属なのだから、戦いの土俵に立つことくらいはできるんじゃないかなって、そう思っていたのに…実際の戦いを眺めてみれば、これは、無理。
圧倒的な経験と技量の差。死線を越えてきた数も、修羅場を経験した数も、努力すら、負けているだろう。
サンチョと二人掛なら、勝負にはなると思う。それでも、勝つと断言することはできない。それくらい、白い月の騎士は…バリは、強かった。
私は、この日のためにできることは何でもやって来たけれど、上手くいかなかったことの方が遥かに多い。結局、強者との人脈づくりは失敗したし、E.G.Oや心と望の力も、手に入れられなかった。
そして、家族を言いくるめるための方便も、思いつかない。血の繋がりと、親不孝の禁忌を越えてまでサンチョを説得する方法は…何もなかった。
ニコリーナに相談していれば、何かいい方法を編み出してくれるのだろうけど…でも、これは、私の責任だから。バリを殺したいというのは、母親としての責任と運命から逃れたいという私のわがままに過ぎない。
だから、私が足りない頭を必死に捻って、編み出したバリを殺す方法は…これしか、なかった。名誉も誇りも何もない、汚くて、卑怯な手でしかないけれど…道がこれしかないのなら、手を染める覚悟なんていくらでもあった。
御父上とバリを、あえて三日三晩決闘させる。どんな強者でも長い死闘を繰り広げればきっと弱る。それは楽団戦の後のローランも証明しているから。そして、三日三晩の決闘で弱り切ったバリを…私が、殺す。
今はまだ、手を出さない。心の中で罵詈雑言を並べて罵倒するだけに留めておく。このまま二人には決闘を続けてもらって、チャンスはそれから。
ただ傍観者としてあれる今のうちに、できる限りバリの動きを観察して、動きの癖や剣の型に慣れておきたい。
「ねぇ、サンチョ。この決闘、どちらが勝つのかしら。見たところ、私が思うに…」
「はぁ…父上様が勝つに決まってるじゃないですか。そりゃあ、あの騎士とやらも中々の腕前なのは見て取れますけど…でも、結局は父上様が勝つのでしょう」
「…そうなの、かしら」
サンチョと違って確信できない理由は…結局、最後までこの決闘に決着がつかなかったからだろう。見ていれば、わかる。お互い本当に互角の戦いを繰り広げていて、時折剣先が掠めることはあれど、紙一重で届かない。
恐らく、力では御父上のほうが上回っている。けれど、技量ではバリのほうが一歩上手。バリは、決して血を流さなかった。間合いの取り方が、常軌を逸している。一歩踏み込めば既に太刀筋が置かれていて、まるで未来でも読んでいるかのような足運びだった。
はっきり言って、心底戦いたくない。公正に、一対一で戦えば、必ず私が負けるだろう。ただ…彼女は、人間だ。血鬼の私たちと違って、眠食をしなければならないし、疲労だって溜まっていくはず。
三日三晩戦った後ならば、勝ち目はきっと、あるはず。そう、信じなければならない。私は…絶対、絶対、彼女を殺さなきゃ。
憎き仇が目の前にいるというのに、眺めることしかできないというのはもどかしくてたまらないけど、それでも、私が家族の為にできることは…これしか、ないの。
できることなら、御父上に出会う前に殺しておきたかった。決闘をしてしまえば、御父上は外の世界と、人間に興味を持って夢の火種を抱えてしまうだろう。そして、いつかバリと出会ったこの日のことを思い出して、後悔されるのだろう。
家族の愛はあれど、明日への期待もなく、寂しくて、孤独な日々を…御父上に、感じてほしくない。この期に及んでも尚、私は迷っている。
誰か、私を助けてほしい。私の気持ちを分かってくれる誰かが欲しい。でも、誰もいない。私の責任とわがままを、家族に押し付けるわけにはいかない。私は、誰にも相談することができなかった。
剣と槍がぶつかり合うたびに空気が揺れて、私の心まで揺らめいているような気がした。
そうして、二人の決闘を眺めているうちに…三度日が昇り、また沈んでいった。今日、私は夢を…終わらせなければ、ならないの。