百合とクルマ   作:くーてん

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鳴神と金髪

「あ、ダメだ」

 遠出の帰り道。森を割いて作られた道路を走っている時、助手席のマキが小さく呟いた。

 昼過ぎから降り始めた雨は徐々に強くなって、四時を過ぎる頃には雲も分厚くなって、太陽がどの向きにあるかもわからぬような様子だった。環境がそのような調子であるから、私もマキも言葉少なに、路面に薄く引き延ばされた水をタイヤが裂く音と排気の音が混じり合ったのを聞き流しつつ、帰路を辿っていたのだった。

 だからマキがあげた呟きは、印象強く私の鼓膜を打った。

 何がダメなのだろう、と思った。

 そうして、それから数瞬を置いて、暗い車内を真白く染めるほどの閃光が走って、閉め切った車内の空気をも揺るがすような轟音が飛び込んできた。

 それは雷であった。

 路肩に車を停めて、窓に額を貼り付けて空を睨めつけてみると、後方の雲の切れ目がチラチラと輝いていた。

 その正体に気付くと同時に、私の耳には荒い息遣いが届いた。

 それは癇癪を起こした子供があげるものによく似て、多種多様な感情がごちゃ混ぜになった頭の奥から、無理やり押し出されて漏れた空気が発生させるような音である。

 見れば、マキは助手席で膝を抱えて、その膝の隙間に顔を潜り込ませて、小さくなっていた。靴を濡らした雨露がシートに染み込んでいくことにすら気を回す余裕がないらしい。息遣いは、膝の隙間から漏れ出している。

 その様子は見慣れている。雷が鳴った時に必ず見る、私の伴侶の弱々しい姿だ。

「だめ、ごめんね」

 吐息の合間に、か細くその二言が何度も挿入される。私は「いいよ」とだけ返すと、運転席から身を捩って、後部座席を倒した。

 私の車は、後部座席を倒せば、トランクまで繋がった一個の平坦な空間になるようにできている。「タイヤを4本積めるように」というのがメーカーの宣伝文句だったが、人間の一人や二人であればそこに寝転がることが可能だった。

「這える?」

「うん」

 すっかり弱り切った様子で、あたかも女児のような返事をするマキは、かろうじて残った理性で靴を脱いでから、車の後部へと這っていこうとした。途中、また雷鳴が聞こえた途端に腰を抜かして止まったものだから、私はその尻を押し込めてやらなければならなかった。

 そうして、マキはトランクにしまってあったブランケットを広げて、それを頭から被ってやや大人しくなった。170cmを優に超えるその背丈の割に、その姿はとても小さく見える。

 私はそれを見届けると、車の周囲を確認した。

 そのまま平坦に森へと続く路肩は広く、車道を遮ることなく停めることができている。雨粒はそれなりに大きいが霧は出ておらず、これであれば、ハザードランプをつけておけばぶつかりにくるような間抜けもいなかろうと思えた。そもそも、交通量は皆無である。ここ三十分ほど、すれ違う車も追ってくる車もなかった。

 私は再び空を睨め付けて、厚い雲の向こうでふてぶてしく輝く雷神を心の底から呪った。それから靴を脱いで、マキと同様に車の後部へと這って入った。

「ゆかり、ゆかり」

 私が隣に横たわったのに気付いて、ブランケットの中から腕が伸びてきた。それは私の輪郭を確かめると、かなり容赦のない力で思いっきり私を抱きしめた。

「マキ、苦しいですよ」

 私の愁訴を受けて、その腕は幾分か緩まった。その代わり、マキはずりずりと這って顔を近づけたかと思うと、私の胸にそれを埋めた。

 私はマキの頭に腕を回して、その髪を撫でた。

 マキの長い髪は雨の湿気をたっぷり蓄えて、少ししっとりとしている。私の腕の中でふるふるとか弱く震えるその体は、やはり実際の彼女の身長よりも随分小さく感じられる。

 まるで大型犬だ、と私はいつものように思った。

 

 先述した通り、私はマキのこういった姿を見慣れている。

 梅雨であったり台風の時期であったり、そういった雷が付き物となる頃合いには、必ず付き合わなければならない、マキの性癖だからである。

 雷の閃光に、或いは轟音に晒されたマキは、必ず幼い子のように泣きじゃくるのだ。それも生半可なものではなく、ここまで書き記したように、ものの分別もつかなくなるほどに、瞬く間に弱りきってしまうのだ。

 尋常の弦巻マキという女性を知っている者が見たら、その変貌ぶりに驚愕を禁じ得ないことであろう。明るく朗らかで、常に笑顔を絶やさずに周囲をあまねく柔らかな光で包み込むようなその姿がすっかりなりを潜めてしまうのだから。

 何故か。

 弦巻マキは雷が大の苦手だからだ。

 何故か。

 弦巻マキの母親が、遠雷の雨の日の夜に亡くなったからだ。

 

*

 

 少し昔のことである。

 私がマキと交友を持つようになってからすぐ、初夏の頃に、激しく雷の鳴る夜があった。近所に落雷があったようで、停電までもが発生した。

 その時初めて体験したマキの取り乱しようといったら筆舌に尽くしがたく、痛々しくもいっそ滑稽ですらあった。

私は、カーテンの隙間から入り込んでくる雷霆の明かりの中で、初めてマキを抱きしめた。

 マキは私を抱きしめかえした。

 そうして、雷神が去るまで、ずっと一つの影になっていた。

 まだ互いの弱みも全てを曝け出しているような時分ではなかった。

 それでも、そうすることでマキが安らかであれるのであれば、私は一生、その抱擁のために生きてもいいと思った。

 翌朝は雲一つない快晴で、それに伴って、弦巻マキもふてぶてしいほどに元気を取り戻していた。私は彼女の髪の押し付けられた痕が刻まれた腕を掻いていた。

「結月ちゃんが良ければ、一緒に来て欲しいとこがあるんだ」

 昨夜のことで脳内をふわふわとさせていた私は、二つ返事でその誘いを了解した。

 いくつかの電車とバスを乗り継いで、果たして私たちが辿り着いたのは、桜の名所として知られる、ある霊園だった。

 もちろん、桜などは咲いていない。初夏の桜の並木は青々として、霊園の中央を走る道へと大きな影を落としていた。

 よもや墓参りだとは思っていなかった私は、その時点ですっかり面食らって、軽やかに歩くマキの後ろをついていくばかりであった。

 その霊園の、少し小高くなった丘の区画に、弦巻マキの母の墓はあった。

 霊園に足を踏み入れた時点から薄々感じ取ってはいたものの、いざそれを目の当たりにすると、私は脚の力が抜けていくような気がした。

 私の目の前でいつも明るく笑っている友人が、異常なほどの脆さを持っているわけを、墓の前まで来て、ようやく実感したのだった。

 マキは随分手慣れた様子で母の墓石やその周囲の他家の墓石を清めながら、私に向けて、雷が嫌いな理由を語った。

 彼女の物心つく頃から、母が重い病気にかかっていたこと。小学六年生の秋の頃は退院して、家族で一緒に過ごしていたこと。彼女が小学校を卒業する寸前の、雷の鳴る雨の夜に、その人が帰らぬ人となったこと。

 語りながら、マキはずっと微笑んでいた。懐かしむようなその口調は柔らかで、普段の明るいマキのそのままの風情で、それを語るのだった。

 そうして、話し終えた後に一拍を置いて、私に向き直ったかと思えば「ごめんね、ありがとう」と言った。

 その時、初めてマキの笑顔の奥に、切なさの影があるのだと気付いた。その影は、なにも今この瞬間にだけ私に向けられている表情の中にあるものではないのだと知れた。マキはずっと、その影を湛えて生きているのだとわかった。

 私は何も言えなくなって、マキを抱きしめた。マキは私を抱きとめた。

 

 それから、いくらか時が流れた。

 私たちは交際を始め、学生の身で同棲を始めて、一台の車でどこまででも出かけるようになった。

 私にはハンドルを握ればどこまでも好き勝手行ってしまうという悪癖があったので、基本的に運転するのはマキの役割であった。

 しかし雨が降っている時には、必ず私が運転をした。

 その理由は、当文の冒頭の通りだ。突然雷が鳴り始めたら、マキは全てを放り出して弱々しくなってしまう。運転中にそんなことになれば、我々を待っているのは、路肩の木に激突する運命であり、崖から転落する運命であり、何某かの大切な命を轢き潰す運命である。そんな事になっては、マキのご母堂の御前に合わせる顔もない。気が早いことに私が既に義父と呼んでいる人物にも、そんなものを見せたくはない。

 

*

 

 私はマキの湿った髪をかきあげて、その髪を嗅いだ。

 すると、マキは恥ずかしそうに身を捩らせて、それから私を上目遣いに睨んだ。そっちから醜態を晒してきたのに何を恨んでいるのだ、と私は思った。

 先ごろまで車の屋根を叩いていた雨音は、すっかり聞こえなくなっていた。ただ、道端の木の葉が蓄えた露がポツポツと落ちてくるばかりである。

 マキの拘束から逃れて、私は後部座席の窓から空を見た。

 雲の切れ間から、夕陽が射していた。

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