百合とクルマ   作:くーてん

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「ごめんなさい」と「おかえりなさい」

 ソファで迎える朝の寝起きは最悪だった。

 如何にベッドというものが人を安眠させるに長けているかは、このようにベッド以外の場所で一晩眠ってみればよくわかる。

 しかし、軋むような肩や腰や痛みというのも、昨夜ベッドで眠れない理由を作った私自身のせいなのだから、これは誰に当たるということも出来ないのだった。

 私がソファへ撤退したことで一人ベッドの主となったマキは、その温もりの抜け殻だけを残して、既にどこかへと出かけているらしかった。ベランダから駐車場を見下ろしてみれば、私の車もない。

 マキが何も言わずに車に乗って出ていくというのは珍しい。昨夜から続く一帯の状況を鑑みると、マキが私を捨てて去ってしまったのではないかという妄想すら湧き出してくるのだが、心配になって部屋を見渡してみれば、彼女の私物は数多く場所を占有している。殊に、愛用のギターまでもをそのままにしているのだから、いずれにしろ帰ってくるらしいと知れた。

 車がなくマキもいない休日となると、私ができることは少ない。かと言って、行住坐臥の如くゲームに打ち込んでみせるという気分にもなれない。

 マキの香りの残るベッドに四半刻ほど身を横たえた後、私は出かけることに決めた。

 

 特別な用事がない場合、私の生活は主に三つの場所で完結する。

 一つは自宅であり、一つは大学であり、残りの一つは「マキ」という店名の喫茶店である。これら三つの他に、適宜書店だの図書館だのを一定の周期で挿入していけば、私の日常は完成する。それ以外に、最低でも週一以上の頻度で遠出を敢行しているが、それは非日常の部類に含まれる。

 今回私が向かったのは、我が日常を構成する三要素の内、「マキ」であった。

 それは、我が伴侶である弦巻マキの父親が経営する喫茶店である。私とマキの住まう下宿からローカル電車で向かえば、二十分もかからない場所にある。

 愛娘の名をそのまま店の看板にしているのだから恐れ入る。その理由について尋ねてみたところ、「夫婦揃って好きなものの名をつけた」という返答だった。

 昼から夜にかけて営業をしており、夜は酒も出てくるために賑わっているが、昼は純喫茶の顔をしている。私が主に利用するのは昼の時間帯である。

 昼間の来店人数を数えてみると、両の手指で数え切れぬ日はない。日によっては片手で足りることもあり、私とマスターが会話しているだけで他の客がドアを開かぬような日さえある。それでは夜の営業だけで良いのではないか。しかしその疑問に対しても、「夫婦揃って好きな場所は昼の喫茶店だから」という返答が返ってきた。

 経営に苦慮していないのであれば、客の少ない喫茶店というのは実に過ごしやすい場所である。書物を紐解くでもいいし、スマホをいじるでも良いし、友人と連れ立って井戸端会議に洒落込むというのでも良い。

 その中でも、私はマキの父とゆっくり話をするという過ごし方が好きだった。

 彼は同性で娘と交際しているという奇特な私を実に鷹揚に受け入れ、私までもを実の娘のように扱ってくれる。時には他の客に対して、我が子を自慢するように私を自慢さえしてみせるものだから、そういう時にはこそばゆくてたまらない。

 そういった事情もあって、私は彼を「お義父(とう)さん」と呼んでいる。

 事情を知らぬ者が見れば、もしかしたら私を彼の実の娘だと思うかもしれないし、私をマキの妹だと思うかもしれない。そのような関係を築けているというのは、少なからず私の誇りであった。

 

「ただいま、お義父さん」

「おかえり、ゆかりちゃん」

 「マキ」の扉を開く時、私たちは必ずそのやり取りをする。そして、最奥窓際のソファ席が空いていれば、私は必ずそこに腰をかける。

 その席であれば、壁側のソファは日陰になるし、手前側のソファは日向になる。私は暑がりだから壁際に、マキは寒がりだから手前側に。二人で来る時の習慣が、私一人の時にも働いているというわけだ。

 席についてから数分して、義父が紅茶と固いプリンを運んできた。これも、私がここでどう過ごすにしても始めに必ず注文する二品で、今となっては何も言わずとも出てくるようになった。

 そして、その二つを私の前に並べると、義父は私の正面に腰をかけた。手には一杯のコーヒーを持っている。他の客がいない時に、私と長話をするためのお決まりのスタイルである。

 私が紅茶を一口飲んだ事を確認してから、義父はこう言った。

「マキと喧嘩したんだって?」

 口内で軽やかな香りを発していた紅茶が突然鉛の如く重くなって、私の喉を通過した。そうして、「もう聞いていたんですか」とだけなんとか搾り出した。

「この歳になってもまだ娘の愚痴を聞かせてもらえるなんて、父としては誇らしいね」

 どうにも昨夜、マキから電話があったらしい。壁を隔てた裏側でマキが愁訴している姿は、今の私には容易に想像ができた。

 義父の言うことは正しく、私は昨夜、マキと喧嘩をしたのだった。

 義父の様子は私の言い分を聞いてくれるというような雰囲気を纏っていたが、一方の私には言い分などあろうはずがない。昨夜の喧嘩は私の悪癖が原因となっているからだ。

 マキが怒ったのは、私の放浪癖に起因する。

 先日、私は一人の後輩を連れて出掛け、その勢いで後輩を拉致して遥か遠く、日本海を見るまで走り続けた。その上でさらに遠くまで走ろうとして、ついにマキの逆鱗に触れたのである。帰宅したその日は私を心配してぎうと抱きしめて一切話そうとしなかったが、翌日になって、その心配が怒りに変換されたらしく、それで喧嘩になったのだ。

 私には反論のしようもないので、寝床を分ける以外にやりようもなかった。

 今日、「マキ」に来たのだって、義父がこの件を知らなければ、触れずにいつも通りに過ごして帰るつもりだったのだ。しかし一方で、もし喧嘩をしていると義父が知っていたら、それを断罪してほしいという気持ちも、私の中にあるのだった。

 私が何も言わずに、しかし乾いた喉を潤そうと紅茶を口に運んだところ、義父は小さく微笑んだ。

「君は僕の若い頃によく似ている」

 驚いてその目を見つめた私を見返して、義父は昔話を始めるのだった。

 

 

 弦巻マキの父、弦巻徹平は若い頃バイクツーリングが趣味であった。

 それも筋金入りで、日本に行ったことのない県などはなかったのだと言う。彼はバンドでギターを弾いていたが、一時期はその活動費もツーリングに消えていくという有様で、随分と周囲に迷惑をかけたらしい。

 マキの母である真里と交際を始めた折には、随分遠くまで、一台のバイクの上で一つになって走るのが日課のようになっていた。

 真里は幼い頃から病弱で、成人してからも決して頑健な肉体の持ち主というわけではなかったが、それでも遠くまで走る徹平の背にしがみついて、ともに風を感じることが生き甲斐だったらしい。

 当時の写真は数え切れないほど残っている。アルバムに収められたツーリングの思い出の中では、真里の綺麗なロングの金髪に、ヘルメットの癖がついてパーマのようになっている姿が多くみられた。そしてその姿は、今のマキの容姿に、本当によく似ているのだった。

 交際の最中も、結婚してからも、二人は旅の中に生きていた。

 彼らがバイクから降りたのは、第一子……即ちマキの妊娠が発覚した時である。

 真里は、そのために夫がバイクを降りることに反対をして、むしろ旅に出ることを勧めた。その心境の本当の意味が如何なるものであるかを、徹平は知らない。しかし彼の見立てでは、幼い頃病弱であった真里は、バイクの旅というものに自由を見出していて、彼とともにその自由の中にあることに、幼少期の清算を見ていたのではないか、ということだった。

 そんな真里の思いとは裏腹に、徹平は二度とバイクに乗ることをしなかった。

 それは、風の中に身を晒す行いが、一つ狂えばその身を滅ぼすことに直結するということを理解していたということもあるし、それ以上に、幼い日を病床で過ごすことの多かった真里を一人にしておくことを、幼い日の徹平が許そうとしなかったということもあった。

 そうして、マキは生まれ、二人で育て、その半ばに真里は白玉楼中の人となり、一人で育て、今に至る。

 徹平は、今でもバイクに跨ろうとはしない。

 

 

 一頻り話し終えた義父は、暫時視線を彷徨わせた。それは次に言う言葉を、本当に言うべきか言うまいかを迷っているのだと知れた。私は「ここまで聴いたのだから、全て聴きますよ」と言った。

 義父はカップを傾けてコーヒーを飲もうとし、既にそれが空であることに気付いて、ため息をついた。それから、弱々しく口を開いた。

「僕はね、今でも考えてしまうことがあるんだよ」

 私は乾いた喉を潤そうとして、紅茶のカップを傾けた。既にそれは空であった。次の義父の言葉を、正面から受けねばならぬことを覚悟した。

「医者の見解では、それは違う、それは関係ないと、何度も説明されたことなんだけどね。妻は病弱だったから」

 義父はカップを傾けた。既に空であった。

「僕が散々連れ回したのが体に響いたんじゃないかと、そのせいでマキから母親を奪ってしまったんじゃないかと、今でもね、考えてしまうんだ」

 我が伴侶の父が、十数年にも渡って相対してきた問いに対して、私風情が言える言葉は何もないのであった。

 

 義父は茶を淹れ直すのにカウンターに戻っていた。

 私は携帯電話を開いて、マキの様子を確認しようとした。今朝から幾度となく送信した「どこに行っているのか」「いつ帰ってくるのか」という問いには、未だに返答がない。それどころか、メッセージを読んだ事を示す記号すらも表示されていないのだった。

 ひょっとしたら、私の帰りを待つマキもこのような気分であったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。

 メッセージアプリで送りつけたメッセージに既読が付く付かない、返事があるないで大騒ぎをするような人間を惰弱の極みとして一笑に伏してきた私にとって、それは初めての経験だった。義父から聴いた話も、私のセンチメンタリズムに大いに貢献した。

 やがて、義父が紅茶とコーヒーを持って席に戻ってきた。視線でどちらを所望かを尋ねてきたので、今度はコーヒーをいただくことにした。コーヒーの苦味が、この脳内の混濁を払拭してくれることを望んでいた。

 そんな私の様子を見て、義父はやはり微笑んだ。

「決して帰らぬ者を待つのは、気持ちの整理がついてしまえば簡単なことだ。待たなければいいというのに気付きさえすればいいんだからね」

 その声は、子を嗜める親のように優しい。

「一番辛いのは、相手が帰ってくるのかこないのかがわからない時だよ」

 声を一段低くして、義父はそう言った。

 先の台詞は、私にはまだ理解できないものだった。私には肉親も友人も、決定的に失ったという経験がない。しかし、後の言葉は、私の愚かしさを力強く打ち据えた。

「マキは帰ってくるでしょうか」

「まだマキが出かけてから半日だろう。傲岸不遜な君らしくもない」

「それでも、簡単な連絡すらないと言うのでは」

「マキも同じことを言っていたよ」

 私は何も言えなくなった。喉の奥で渦巻いて、ついに形にならなかったその音を、コーヒーの苦味で腹の底へと飲み込んだ。

 そんな私の姿が、義父には小さく見えたに違いない。しばらくは義父も黙っていたが、やがてその待とう空気を柔らかにすると、「義娘をいじめるのは性に合わないね」と言った。

「マキからは僕の方に連絡が来ているよ。君が心配してあの子に送ったメッセージは、全部返答と一緒にこちらに転送されている」

 私は絶句した。憮然としてプリンを食べようとしたら、スプーンが皿の底を打った。その皿は既に空であった。私にできることと言えば、「なんでそんな」という言葉をかろうじて吐き出すくらいであった。

「マキも君を心配していると言うことだ。僕としては、睦言も含まれてるそれを男親に見せて平気な神経はわからないが」

 眉を八の字にしつつも、その笑みはどこかいたずらっぽく見える。その笑顔はマキが何かいたずらをしてみせた時によく似ていた。彼女が父から受け継いだ部分が垣間見えた気がして、私の心は少し軽やかになった。

 私が表情を緩めたのを認めて、義父は言葉を続けた。

「君は自分の放浪癖がマキを苦しめていると思っただろうが、僕には君に期待していることがあるんだ」

「なんですか」

「ここまでの話と矛盾するように聞こえるかもしれんがね」

 義父は一拍おいて、茶を啜った。

「あの子をどこまでもどこまでも、遠くまで連れて行ってあげてほしいんだ。次の旅程の話をしてるんじゃない。この先何年、何十年先も、あの子を君の放浪癖で連れ回して、この世界を見せてあげてほしい」

 義父の半生から、てっきり「車を降りて大人しく過ごせ」などと言われるのだと覚悟した私にとって、その言葉はあまりにも理外であった。

 阿呆のように口を開ける私に義父はなおも続けた。

「僕は真里を連れ回したことを後悔してる。だけど、それはもしかしたら、僕が走ることをやめたからなのかもしれない。」

 義父の言葉にはどこか祈りのような響きがあった。

「だから、僕と逆の道を選んでほしい。二人で一緒に走り続けて、走り続けて、走り続けて……。その先で君とマキが後悔なく幸せでいられたなら、僕はこの物思いから解放されるんだ」

 私は、言葉よりも先に義父の手を握った。暫時言葉を探して、それから、見つけた言葉を吐いた。

「それでもし不幸になったら、私はお義父さんを恨みます」

 義父は破顔して応えた。

「不幸になることを心配するような人に、娘は預けられない」

「では取り消します。代わりに……それでもし幸せでいられたら、必ず最後はお義父さんにそのように報告をいたしましょう」

「それならば良い」

 私と義父は笑みを交わして、互いがあまりにも前のめりの姿勢で手を取り合っている姿を客観的に思い出した。途端に恥ずかしくなって、それぞれのソファに背を埋めて小さくなった。

 それから数分の後、珍しく別の客が入ってきたものだから、義父は私に小さく手を振ってカウンターへと帰っていった。

私はカップの底に残ったコーヒーを飲み干した。苦味に遅れてカフェインの刺激が脳の奥を叩く。それと同時に、脳にまだ少し残っていた霞が晴れたような気がした。

 

 その日は「マキ」が酒を出す時間になっても、私が奥の席を占有し続けることが許される程度の客入りだった。だから、私は細々と飲み物やデザートを断続的に注文しながら、日が傾いてやがて暮れた後も、その席に埋もれて過ごした。

 昼の静寂とは打って変わって、夜はレコードだの客が持ち寄った楽器だのから音楽が流れる。常連の客も酒が入って声を出すものだから、まるっきり別の店のようだ。

 私は、その輪の外側に身を置きつつも、喧騒に耳を傾けるのが好きだった。

 酒気に鼻孔をくすぐられて、私もアルコールを飲んでやろうかという気分になったと同時に、窓を震えさせて、実に聞き覚えのある排気音が聞こえてきた。

 私の車の音。今は、彼女が乗っている車の音。

 やがて戸が開いて、朗々とした声が店内に響いた。

「お父さん、ただいま」

「うん、おかえり」

 続いて、常連の客たちにもひとしきり挨拶をしながら、太陽のような髪の彼女はこちらへ向かってくる。やがて、私の正面のソファに腰を下ろした。

「おかえり、マキ」

「ん、ただいま」

 言いながら、マキは私の眼前に車の鍵を吊り下げた。そしていたずらっぽく微笑んで、言葉を続けた。

「今日は好きに走ってスッキリしたから、昨夜のことはチャラってことで」

 それは、ここ数時間、顔を突き合わせた時に何と言って仲直りをしようかを思案していた私の態度を突き崩すに足る言葉であった。

 私があからさまに驚いた顔をしたことで、マキはますます口角を上げた。それによって、本当に全てを水に流していると知れた。

 

 マキは言った。

「じゃあ、次はどうしようか」

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