1話
——帰ってこい。
親父の声が聞こえる。
ここはありし日の村だ。ゆっくりと時間が流れている。ここでは時間ですらまどろんでいる。
————帰ってこい。
親父の声が、また聞こえる。
つまりこれは夢だった。
——————帰ってこい。
この言葉を聞いたのは、いつだったか。
村を出てからもう五年。オレはただの一度も帰っていない。
————————帰ってこい。
まだ待ってくれているのか、親父。
死んですら、待っているってのか、あの家で————
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「隊長。時間です」
硬い声が、カイを夢から呼び覚ました。
一瞬、自身がどこにいて、今がいつなのかをカイは思い出せなかった。しかし、部下の姿を視界に収め、ようやく意識が五年の歳月を超えて今へと至る。軍人としての自身に焦点が定まり、ここに『隊長』が形成される。
「ぅ……痛ぅ」
硬い地面をベッドとしていたためか、あるいは周囲の環境がためか。浅い眠りからの覚醒は背中の痛みを伴い、その不快感はカイに顔を顰めさせるのだった。
夜気が冷たく肌を撫でている。昼との寒暖差に身を曝され、カイは五年前と変わらず屋根も壁も敷居もない場所に立っていることを、何かの意思にそうさせられているように感じた。
「ん。起きた……戻っていいぞ」
部下を下がらせる。歩き去るその足音に混じり、まだ父の声がするような気がする。カイは頭を振り、脳内から夢の残響を追い出すと、痺れと共に広がる血流の温もりを感じた。
陣営の様子を確認する。
点々とした焚火と、そこに集まる人影。寒さに身を丸めて暖をとる者や、何やら楽しそうに騒いでいる者もいる。目を凝らすと、光の届かない場所にもそうした小さな人の輪は点在しているのが見てとれた。部下は三十五名。全員が各々の方法で身を休めている。
頭上遥かを見上げると、月のない星空が美しかった。
カイは懐かしい感覚を覚えながら、再び眠気が忍び寄る気配を敏感に察知する。
——足音がした。
「隊長! お疲れ様です!」
若い声に、天から視線を落とす。
星を眺めた視界に焚火は眩しく、一瞬目がくらむ。それでもカイに近づく人影の正体は、その声と足音からすぐに知れた。
「マルクか」
「はい! 今夜の歩哨の任は隊長と共にあたると伺っております! よろしくお願いします!」
その年若い兵士は、齢十五か十六かという溌剌とした部下だった。
つまりは立派な戦力であり、しかしながら経験の浅さも顕著な新兵である。
行軍中に倒れそうになっていたところを、汗を拭った布をしゃぶって堪えろと助言したのをキッカケに、カイに対してよく懐いたのだった。
歩哨に立つのは隊長であるカイでなくとも良い。しかし、こうした誰にとっても面倒なものを共に行うことが、自身が変わらず『カイ』であることを確かめるための、そして忘れないための儀式でもあった。
「ん。じゃ行くぞ」
「はい!」
ハリのある声は、カイの寝起きの頭によく響く。それを嫌うように持ち場へと足を速めても、幅を数で補おうとする足音はピッタリと後ろに続き、隊での噂話や今日の気づきなどを、息を弾ませながら捲し立てた。微かな苛立ちと、どこかから湧き出す微笑ましさ。カイはこうした手合いに慣れていなかった。
持ち場へ着くと、マルクとカイは篝火を挟んで見張りに立った。
陣営は荒野の只中に設けられている。そして今まさに、敵と相対してもいる。
離れた距離ではあるものの、視界の先に敵の陣営を睨んでいた。マルクも口を閉ざしている。彼方とはいえども明確な“敵”を目にすると、否が応でも湧き出る緊張が口を閉ざさせる。敵陣でもこちらを警戒する歩哨がいるはずであり、とても見てわかる距離ではなくとも、今も実際は目が合っているのかも知れないという妄想。それは、カイも経験したことのある感覚だった。
「————————」
冷たい夜風が吹いている。遮蔽物のないこの地では、それは殊更に体温を奪う。
そうした場合、少しずつ篝火の方へと移動し暖をとるのが寒さの凌ぎ方であり、新兵は先輩兵士からそれとなくこうした“抜き”を学び、受け継いでゆく。
それはカイもマルクも、例外ではなかった。
半歩ずつジリジリと移動を始め、篝火の眩しさと火のぬくもりに身体の半面を曝す。篝火との距離感を調節することで、感じるぬくもりを快適に保つのも、この戦地についてからの十日間で慣れ切っていた。
「ふぅぅ…………」
息をゆっくりと吐き出す。吐息が白くならないことを確認し、カイは大体の気温を推測する。体感温度の低さがどうやら風によるものらしいというのが、推測の結果だった。
「隊長」
「ん」
「隊長は、怖くないんですか?」
静かな声で、マルクは漏らした。声の震えが寒さによるものなのか、それ以外によるものか。それはマルク本人にも判別できないことだった。
「隊長は、初陣もここだったと聞きました。自分も、今回が初めてで……隊長は初陣で勲章を受章したと知りまして、どうやってそんな活躍ができたのかって、ずっと考えてます」
罪の告白。若くまっすぐな声には、そんな響きが隠されることなく含まれている。
恐怖心を後ろめたく思う気持ちの吐露に、カイはすぐには応えなかった。
「————————」
風が吹いている。黒く、冷たい風が。
それは鼻、耳、指先から感覚を奪い去り、マルクは身体が収縮したような錯覚に抗わねばならなかった。
やがて、自身の言葉が風に攫われて届かなかったのではないかという不安と、しかしそうでなかった場合に、再び同じ言を投げるのは無礼になるのではないかという躊躇が胸中に渦巻き出したとき、微動だにしなかったカイが身じろぎする。
「オレも怖かったよ」
「ぇ——」
思わず、マルクは視線を声の主に動かしてしまった。慌てて敵陣を睨み直す。
歩哨が雑談のために視界を見張りの範囲から外すなど許されない。マルクは数日前にカイより指導されて以降、これを愚直に守り続けていた。
そんなマルクに違反を強いたのは、カイの言葉に含まれる感情の複雑さだった。常と乖離した声色。カイが軍人としてではなく、『カイ』という一人の人間として口にした言葉。
マルクは、それを初めて耳にするのだった。
「オレは今でこそ職業軍人だけどさ、5年前は徴兵に掬い取られただけのガキだったんだ。勲章なんて、ただの偶然だった。今でもおかしいんだけどな————」
カイの視線は、変わらず彼方の敵を睨んでいる。
しかし、その意識は自身の初陣の記憶へと向けられていた。
敗戦だった。
崩壊する戦線。押し込まれる味方。
背中に射掛けられる夥しい矢の雨。
必死だった。
普段見向きもしなかった神に、生まれて初めて心から平伏し、祈った。
記憶には常に、土と鉄の味がつきまとう。
カイはとにかく駆けていた。隣には友がいた。
そうする中、友——ナグが転倒したのだ。
カイは振り返った。
空に黒いモヤが見え、それが第何射ともしれない殺意の集合であると理解した時、足元に味方の軍旗が倒れているのを見つけたのだ。
カイは一瞬の思いつきに縋り、旗を掲げた。そしてナグと共に、力一杯振ったのだ。
丈夫な作りである分厚い旗が、黒い雨から自分たちを守ってくれると信じた。否、信仰したと言って良い。
そして————奇跡が起きた。
背を向けて遁走していた兵士たちが、その旗をみて反転し、一時とはいえ戦線を持ち直したのだ。
撤退はその日の夜に通達された。
二人は撤退準備中に敗将より呼び出され、簡易の授賞式を終える。それが名刺となり、二人の軍人としてのキャリアにささやかな花を添えたのが、カイにはよくできた冗談に思えて仕方なかった。誇ったことなど、ただの一度もない。
「だから、本当に偶然だったわけだ」
語り終えたことで、カイの声色は元の硬さを取り戻す。それはマルクへ雑談の終了と、以降の時間は歩哨として集中することを命じるものでもある。
マルクは一言の礼の後、再び視線を夜闇に沈潜させる。
その瞳は何かに揺さぶられるように、思考の海を泳ぐのだった。