「なんだなんだ?」
「『ネガウイルス』に感染した奴が暴れてるらしい」
「怖いなぁ。さっさと離れよう」
「……まずいですね」
サニタスが難色を示す。
「本当は離れたくないのですが、ぴょん達も駅前から移動しましょう」
「どうして? ていうか、『ネガウイルス』がなんとかって……」
「それです。イブキ様の身が危険です」
「それってどういう――」
――ギャアアアアアアアア‼ 獣のような雄叫びが目前までに迫っていた。
「『感染シャドウ』……!」
驚いたサニタスが一蹴される。
「げふッ!」
「サニタス! ――うッ!」
緑髪にオレンジのドレスをまとったシャドウだった。一見すれば優雅な彼女は、今やパープルグレーの瞳をぎらつかせ、狂暴にも一吹に掴みかかっていた。恐ろしい力だ。決して軽くはない男子高校生一人を容易く浮かせるほどの胆力に、一吹は足をばたつかせる。宙を切る足元に、スマホが転がった。
「う……ふ、っ……」
首が絞まる。呼吸がままならなくなり、意識が遠くなっていく。一吹は急速に力を失っていった。
抗っていた手と共に、まぶたが落ちた。
もう無理だ……力の差は歴然。多少抵抗できたとしても、時間稼ぎになるかどうか。記憶喪失から始めて、一吹は死を覚悟し、受け入れつつあった。
……もういい。どうせ今の自分に、後悔に足るだけのものはない。目覚めてすぐに顔を合わせた両親も他人行儀な気しかしなかった。そこから始まった新生活と言えば聞こえはいいが、なにもないのと同じ意味だった。引っ越ししたばかりで机とベッドしかない自室が思い浮かんだ。
俺には、なにもない……本当に……。
……本当に?
――「そしたらさ、理館での生活は思いっきり満喫しようぜ!」
「っ」
――「確かに、名目は治療のためかもしれないけどさ、折角こっち来たんだから楽しまないのは損だろ?」
――「小野寺の言うことだから癪だけど、私もそう思うかな。ならさ、この後ゲーセンとかどうよ?」
一吹は重くなっていたまぶたを開く。歯を食いしばって、目の前の脅威を見据えた。
――「あーでも、ここから一番近いとこのアーム、メチャクチャ弱いんだよな……」
――「それなら二駅離れてるけど、私いい穴場知ってるわよ?」
――「お! ならそこで決まりだな!」
抵抗しても逃れられる保証はない。敵わないどころか、余計に惨たらしい目に遭うかもしれない。それでも、一吹は渾身の力を込めて首を絞める手に爪を立てた。
「死ぬのは、いい……死んで後悔するほどのものも、ない……」
――俺は、空っぽだ。
けれどその中に、たった一つだけあるものだけは見過ごせない。
見過ごしてしまえば、本当に空っぽになってしまう。
「でも――まだ誘われた約束を果たせていない!」
『――よく言ったな!』
ドクンと脈打った拍動と共に、自らの内側から声がこだました。
『「まだ誘われた約束を果たせていない」――たかだか一度の口約束で、死の安息を拒むとは! なんたる傲慢! なんたる蛮勇!』
風が意図を持って逆巻く。パープルグレーの脅威を弾き飛ばし、止めどなく溢れ出る力の奔流が、解き放たれて膝をついた一吹を苛んだ。全身の骨が軋む。頭蓋の内側から激痛に叩かれている。あまりの苦しさに、頭を抱えて呻き悶えた。
『これから貴様には闘争という艱難辛苦がその身を苛むだろう……だがそれも一興』
今にも死にそうだ。
けれど――この力ならば、あるいは。
『そも「生」とは、老いて病むのが常定め。ならば戦い、傷つき、それでもなお立ち上がり、前へと進むがいい!』
落としていたスマホを拾い上げて握り締める――この硬さならば十分だ。
「ああああああああッ‼」
ガシャン! 一吹は思い切り、側頭部へとスマホを叩きつけた。
ガラスの割れるような音で砕け散った頭部は卵の殻のようで、がらんどうの中にはかすかに光る一枚のカードが収められていた。
「あれは、アルカナカード……!」
倒れ伏したままのサニタスが叫ぶ。
「つまり、あの行為は……!」
『さあ、高らかに叫べ――』
一吹は躊躇なくアルカナカードを鷲掴むと、一気に引き抜いた。
『我は汝!』
「汝は――我!」
荒れ狂っていた力が方向を得る。集結した力が体を包み込み、ペストマスクとボディースーツを形作る。背後には、機械の手足に革のローブをまとった怪人物が浮かんでいた。
けれども一吹には分かる――これこそが自らが手にした矛と盾なのだと。
「我が名は『エリクサー』――かの錬金術師達が探求した、賢者の石なりし伝説の霊薬。その力で、脅威という名の病巣を根絶してみせろ!」