凄暦2125年、日本では催眠アプリを用いた催眠犯罪が社会問題となっていた。
催眠強盗、催眠放火、催眠詐欺、催眠殺人、催眠テロetc。
これを受け政府は催眠犯罪への対抗策として対催眠犯罪殲滅機関―――通称「対眠」を設立。
催眠犯罪の殲滅を掲げ、第1から第7東京都全てに支部を設置。
催眠犯罪との果てしなき戦いを始めた。
そしてこれは対眠の一員として活躍する催眠術師、田中太郎の物語である。
◆
田中太郎の朝は早い。
まず日の出とともに起床し、のそのそと布団から這い出すところから始まる。
這うようにして洗面台までたどり着くと、立ち上がって顔を洗う。
備え付けの鏡に映るのは何処にでもいそうな顔のくたびれた男だけだ。
続けて朝食代わりにバナナ2本と牛乳を胃に収めると、ランニングウェアに着替える。
毎日の日課であるロードワークを行う為だ。
準備運動はしない。
軽い自己催眠で血流を増加したい恩を上げればそれで済む。
催眠取締法違反だが、この程度であればまだグレーゾーンである。
同僚に見られればこれを理由に殺しに来るだろうが。
「フッ、フッ、フッ―――!」
住処である独身者アパートから出ると、いつもの道をいつものペースで走り始める。
設定距離は2時間かけて20㎞ほど。
中学生の頃に師匠が亡くなってから、かれこれ10年は続けている習慣だった。
視界に流れるのは「催眠ダメ絶対」と書かれたポスター。
「催眠アプリを断る勇気」と表示された宣伝用ホログラム。
電子ドラッグでラリッたのか、拳銃で頭を打ち抜いているマシンヘッド男。
「今こそあるべき姿へ」と書かれたプラカードを持った全裸の集団。
これまたいつものように全部無視していると、途中で猛ダッシュする人面犬(イケメン)を追いかける中年女性とすれ違う。
おそらくサイバネ化しているのか、どちらも自動車並みの速度だ。
しかし、若干犬の方が速く振り切られそうだった。
なので親切心から自己催眠でリミッターを解除し、人面犬を追いかけて捕まえる。
お礼を言われたが、田中は軽い会釈だけをしてそのまま立ち去った。
「オラ! 催眠解除!!」
「「「オラ! 催眠解除!!」」」
再び走っていると今度は公園でAHC―――
部活の朝練だろう。遠目で少し見ただけでも中々の練度である事が分かる。
「た、助けっぶぇええ」
「たかが10人ぽっち催眠しただけがああ!?」
「てめえらタダで済むぶほっ」
なにせ、ガラの悪そうな男たち―――おそらく半グレの催眠アプリ使いを柱に縛り付け、木人代わりにしていた。
言葉を喋らせない。喋る前に拳を叩き込んで黙らせる。
AHCの基本骨子である。
「催眠解除死ねぇ!! 催眠解除死ねぇっ!!!!」
中でも目立つのは筋骨隆々身長2メートル越えの少女。
木人を押し倒し、馬乗りになって怒涛のラッシュを浴びせ続けている。
殴られている側はとっくに失神し虫の息だ。
捕まっている所を見るに、催眠をかけようとして返り討ちにあったのだろう。
そして現行犯の場合、殺したとしても罪に問われる事はない。
催眠術に手を染めれば人権など無いに等しいのは子供でも知っている常識だ。
力を得たつもりになった未熟な輩が辿る、ごくありふれた末路であった。
「―――待つのである。
催眠術師だって生きているのだから、いたずらな殺生は止めるのだ」
とはいえだ。
流石に未成年が殺人を犯すのは良心が咎めるので田中は仲裁に入った。
ひとまずボロ雑巾になったアプリ使いを適当な犯罪者用ゴミ箱に放り込み、警察に通報。
数十秒後には無人犯罪者回収パトカーがやって来て雑に車内へ放り込まれる。
どのような裁きを受けるかには興味はないが、ロクでもない事だけは確かだ。
学生たちはヒートアップしていた事を恥じて謝罪するが、田中は早足に立ち去る。
あまり関わるべきではないからだ。
「某も催眠術師って言ったら殺しに来そうであるなぁ……」
1対1ならともかく、あの人数に囲まれて襲われると流石に大変なものがある。
大人が子供を傷つけるのはとても気分が悪くなるのでやりたくないのが本音だ。
―――催眠術師も随分と生き辛い世の中になった。
昔と今を比べながら、田中は帰路に就くのだった。
◆
帰宅した田中はランニングウェアを脱ぎ捨て、洗濯機に放り込む。
22世紀の洗濯機は旧世紀の物と比べて高性能だ。
1時間ほどで乾燥まで終わり、綺麗に畳んでから出してくれる。
時々服が細切れになったり「貴方が洗濯したのはこの金の服ですか、銀の服ですか」と別物を出して誤魔化そうとしてくるが大した問題ではない。
続けて温めのシャワーを浴びる。
家賃の安いボロアパートなせいか、時々お湯ではなく麦茶やソーダが出て来る時があるが今回は普通にお湯であった。
シャワーを終えると、前日のうちに用意してあった仕事用のジャージへと着替える。
田中は冠婚葬祭といった特別な日を除いて、基本的に年中ジャージの男なのだ。
昔はスーツを着ていたが、しょっちゅう破けるのでこのスタイルが定着してしまった。
『えー、本日は尾植アナが脱税と違法賭博とその他諸々の罪で警察から逃走中なので代わりに私がアナウンサーを務めます。〈緊急生中継、尾植アナ無限逃走編〉はこの後すぐです』
テレビのニュースを確認してから、出勤の準備をする。
電脳化でもしていればすぐに確認できるが、自分を育ててくれた師匠の教えもあって田中は電脳化どころか遺伝子改造も行っていない純人間だ。
サービス面で多少不便に感じる時もあるが、特に困る事でもないので今のスタイルを貫いている。
再びアパートから出て、自己修復したらしいマシンヘッド男とすれ違い、意見が決裂したのか全裸と局部を葉っぱで隠した集団の抗争をすり抜け、人型に変身した人面犬を追いかける中年女性を見かけつつ、1分ほど歩いて職場へと辿り着く。
田中の生きた倍以上の年月を経たオンボロのビルだ。
このご時世に生体認証どころか電子ロックでさえ存在しない、田中と同じ現代の化石である。
これが田中の所属する「対眠」の支部だというのだから笑えてしまう。
就職したばかりの頃はオフィス街に居を構えていたのが懐かしい。
野良催眠術師の報復や身内での殺し合いで吹っ飛ばされたり吹っ飛ばしたりしたからだろうか。
「………おや?」
入口のドアノブに手を掛けると抵抗が無かった。
これまた骨董品であるアナログ式の鍵は開いていた。
田中は一度頷き、勢いよく扉を開けると同時に身を屈める。
―――直後、頭のあった位置にナイフが飛んできた。
「あら、おはようございます田中。
どうして死んでくれないのですか?」
「生憎と某はまだ死にたくないのですよ、仏頃さん」
室内で投擲を終えた姿勢のまま首を傾げる妙齢の女性。
ビジネススーツに身を包む、いわゆるバリキャリな出来る女といった風貌の美女だ。
この殺人未遂犯の名は
第4対眠支部長にして田中の上司、そして生粋の催眠術師嫌いである。
田中は殺されかけた回数が10を超えてから数えるのを辞めていた。
物騒な挨拶に辟易としながら、背後の壁に突き立ったナイフを抜く。
刃にはべったりとどす黒い液体が塗りたくられている。
間違いなく猛毒に分類されるものだ。
よく見ると煙を上げながらコンクリートが溶けていた。
「こんな玩具を使うなら素手で来れば良いでしょうに」
「挨拶が相殺になってしまいますが?」
「某じゃなくて無関係の人だったらどうするのでありますか?」
「ここに無関係な人間は来ません」
もっともな意見であった。
田中の記憶する限り同僚以外がこの建物に足を運んだ記憶はない。
精々襲撃犯や拷問の為に捕まえた催眠アプリ使いくらいだろう。
一般人がこんな所に来たらまず正気を疑う。
とりあえずナイフを危険物用ゴミ箱に入れ、田中は自分のデスクに座る。
自分と、自分を殺そうとしてきた上司の分を除けばデスクは2つしかない。
そしてその主はいまだに出勤していないようだった。
「おや、来露師さんと市御さんはまだ来ていないのですか珍しい」
「忘れたのですか? あの2人は昨日から来月まで収監期間ですよ」
「……そういえばそうでしたね」
言われて田中は思い出した。
残る同僚2名は超法規的措置で対眠に所属している重犯罪者だ。
なので、年に1ヶ月は刑務所で過ごさなければならない制約がある。
今年ももうそんな時期であったのをすっかり忘れていた。
つまり、しばらくはこの上司と2人きりという訳だ。
古い癖に広々とした室内にこれだけとはやや寂しいが、仕方のない話である。
なにせ、先週まで所属していたメンバー3人は殉職していた。
1人は引き際を誤り催眠アプリ使いと壮絶な相打ちを遂げた。
1人はインプラントのし過ぎで発狂し、最終的に安全装置が働いて自爆した。
そしてもう1人は悪落ちしたので仏頃が殺した。
悲しくは思うが、いつものことである。
新人が入って来ても1年後には初期メンバーの4人に戻っているのがこの支部だ。
伊達に対民史上最低最悪最狂のチームとは呼ばれていない。
「さぁ、早速仕事の話をしましょう。
―――今日も今日とて下水よりも腐臭を放つ催眠術師を狩りますよ」
◆
対眠の業務はとてもシンプルである。
毎日都内のパトロールを行い、催眠犯罪があれば即座に対応する。
事件が片付いたのなら報告書を書いて上に提出すればそれで良し。
加えて、どれだけ適当に書いたとしても大してお咎めもないという素敵仕様。
ストレスフリーとはまさにこの事であった。
単純に諦められているとは言ってはいけない。
命の保証もないので就きたくない仕事ランキング殿堂入りは伊達ではない。
「ヒャッハー! 身ぐるみ置いてけぇっ!」
「内臓も全部置いてけぇええええええ!!!」
「ぶん捕ったもんは全部転売してやるからよぉおおお!!!!」
とはいえ、流石に催眠犯罪以外ではそうはいかない。
このようにパトロール中にモヒカン3連星に襲われようと、迂闊に殺してはいけないのだ。
一応正当防衛が通りそうな状況なのだが、昨今も人権団体が煩いので仕方ない。
「邪魔ですよどけ」
なので仏頃はパトロール用の自転車から降りて振り回し、モヒカン3連星の顔を吹き飛ばすに留めた。
超小型核融合炉も搭載していない極めて原始的な自転車だ。
大した殺傷力も無いので地面をのたうち回る程度―――つまりセーフゾーンである。
以前はきちんとした公用車があったのだ。
しかし凶器として振り回したり撥ねたりで廃車を繰り返しこのような玩具しか支給されなくなったのだ。
今回は逆にそれが功を成した形である。
なお、のたうち回るモヒカンのうち、転売を口にしたのにはきちんと止めを刺した。
催眠術師は勿論のこと、テンバイヤーは即処分が世界的な常識だ。
「嘆かわしい……かつては花の第4東京都と呼ばれたこの街が、昼間からテンバイヤーの存在を許すだなんて」
「某たちが子供の頃は考えられませんでしたな。テンバイヤーなど子供を怖がらせる作り話かと思っていました」
「それもこれも催眠術師たちのせいです。あの人面獣心の畜生共が好き勝手するせいで人心が乱れこんなにも治安が悪化してしまった……だから死んでくれませんか田中?」
「某一人死んだ程度で変わるようなものじゃないのでお断りです」
ちなみに田中は仏頃の隣で並走している。自転車は1台しかないので仕方がない。
2人乗りは条例違反なのでNGである、あとAHCの達人相手に零距離で密着していると、急に殺しに来られたら田中は対応出来る自信が無かった。
公衆の面前どころか全国生放送の真っただ中でも殺れる女である。というか実際殺ったことがある。
「それと、いつも言っていますが催眠アプリ使いと催眠術師を一緒にしないで欲しいであります。別物ですよ別物、うどんと蕎麦くらい違います」
「何度聞いても蛆虫が蛆虫を庇ってるようにしか聞こえませんよ蛆虫」
「蛆虫呼びは流石に傷付きますなぁ」
コホン、と咳払いしてから田中が何度目か忘れてしまった説明を口にする。
「催眠アプリ使いは読んで字の如く、スマホにインストールされたアプリで催眠を行います」
「知っています」
「つまり1から10まで機械に頼っているという訳でして」
「でしょうね」
「対して我々催眠術師は己が身一つ、自分の力だけで催眠を行うのです」
「もっと性質が悪いです、さっさと死ね」
「あの、コミュニケーションの概念どこに置いてきたのですか?」
田中は催眠術師だ。
しかし、当然の話だが生まれた時から催眠術が使えた訳ではなかった。
師匠に弟子入りしてから、それはもうみっちりと扱かれた。
ある時は丸3日間滝に打たれ続けた日があった。
ある時は1週間絶食した状態で真っ暗な洞窟に閉じ込められた。
ある時はギアナ高地に着の身着のまま放りだされ1ヶ月サバイバル生活を送らされた。
文字通り命を削るような試練を乗り越え、血と汗と涙を穴という穴から流して体得した技術なのだ。
大した苦労もなく「オラ! 催眠!!」と催眠を軽々しく扱う惰弱な連中と一緒にされるのはいろんな意味で許せない。
「結局催眠してるのは同じでしょう。自分は違うと言い訳なんて見苦しい……」
「いや某国家免許持ってるし最低限の人権は保障されてる身ですが」
「私が政治家なら絶対法改正に取り組んでいます」
かれこれ数年の付き合いであるが、マリアナ海溝の如き深い溝のある2人であった。
『―――事件発生、事件発生! 火我居宇家留大学にて催眠事件発生!!』
そんな中、2人の無線に事件発生を告げる連絡が入った。
視線が交差し、次の瞬間には駆け出していた。
◆
巣魔保多浪は激怒した。
必ず、かの愚痴無知な家族を正さねばならぬと決意した。
多浪は社会を知らぬ。多浪は20浪中の浪人生である。
部屋に引き籠り、推しに貢いで暮らしてきた。
そのくせ無駄に自信に溢れ、自分はここから咲き誇るのだと豪語していた。
「お前もう出てけよ極潰し。というか働け」
その言葉と共に、両親含めた親戚一同の手で無理矢理家から追い出された。
まだ親のカードで買った新作フィギュアも届いていないのにも関わらずだ。
「オレは間違っていない。間違っているのはこの腐った世界の方だ!!」
芯の芯まで腐り切った妄言を吐いて、多浪は隠し持っていたスマホマシンガンで家族をハチの巣にした。
賢明な読者なら知っていて当然だが、スマホマシンガンとは催眠アプリがインストールされたスマホを秒間70台射出する恐るべき非殺傷兵器だ。
直撃を受ければそこから骨伝導で催眠がかかり、撃った相手の忠実な下僕と化すジュネーブ条約違反の代物である。
多浪は怪しげな通販サイトでこれを購入したが、幸か不幸か本物であったらしい。
「いいぞ、この力があればようやく大学に合格できる!」
そして彼は木偶と化した家族にバトルロワイアルを命じた後、急ぎ足で近場の大学へと向かった。
志望校は特に無いのでこだわりが無かったのだ。
ちなみにここ最近は入試すら受けていない自称浪人生であった。
とりあえず出くわした学生や教授たち全員にスマホを撃ち込み操り人形にして。
理事長室を数の暴力で制圧した後で学籍とかを丁度いい感じに捏造して。
やっぱり思い直して、自分は20年前に卒業済みにしようと催眠の内容を変更して―――。
「死ね催眠術師!!」
「対眠であります! 今すぐ投降すれば命は保障するであります!!」
自転車に乗った仏頃が窓をぶち抜いて突入し多浪を跳ね飛ばした。
逃げ切った学生から対眠に通報が来たため、最短距離で駆け付けたのだ。
途中で幾つかの建物をぶち抜いたりしたが許容範囲内である。
なお、ここは7階である。どうやって飛び込んで来たかは企業秘密だ。
田中は非常階段から扉を開けて入ったが。
「クソがぁっ! 対眠の外道共が邪魔するんじゃねぇ!!」
驚くべき事に多浪は吹き飛ばされてすぐに立ち上がった。
全身に括りつけたスマホがチェインメイルならぬスマホメイルとして衝撃を吸収したのだろう。
最近のスマホは大型トラックに踏まれても傷一つつかぬほど頑丈なのだ。
「オレはこれから日本全ての大学に入学して卒業する予定なんだ!! 圧倒的な学歴で栄光の道を征く!!!!!!!」
「その年齢まで何をしていましたか? 催眠に頼る中身スッカスカのハリボテに何が出来るんだよ言ってみろ蛆虫」
「――――うるせぇえええええ!! やっちまえお前ら!!」
忍耐や我慢という概念を何処かに置いてきたのだろうか。
ドストレートな罵倒に逆上した多浪が洗脳した学生たちで圧し潰そうとするが。
「スゥウウウウウウ! 」
その前に、自転車から降りた仏頃が深呼吸を行う。
これぞAHCの極意にして到達点、通称「破睡の呼吸」である。
呼吸によって生まれた対催眠エネルギーが黄金色のオーラとなって仏頃の身を覆っていく。
「オラ! 催眠解除!!」
仏頃が足を踏み鳴らし、床を伝わって黄金色のオーラが疾走。
頭にスマホがめり込んだ理事長。
口いっぱいにスマホが詰め込まれた学生。
ケツにスマホが何台も突き立った清掃員。
洗脳された者たちがオーラに触れた瞬間、まるで糸の切れた人形のように倒れ込む。
催眠解除完了である。
「隙だらけだぜぇえええええ」
が、多浪がスマホマシンガンを構えるだけの時間を許してしまった。
破眠のオーラに守られた仏頃に催眠は効かないが、物理的なダメージはそうはいかない。
如何に彼女でも、この距離で引き金を引くより早く動いて殴り殺すのは難しい。
出来るのは精々口を開く事だけ。
「田中、許可します」
「了解」
それで十分だった。
途端に多浪は動けなくなる―――どころか勢いよく床にめり込んだ。
「が、ああああ!?!?」
ミシミシと骨が軋む音と共に、フローリングに細かい罅が入っていく。
しかし指一本動かせない。何が起きたか理解出来ず、悲鳴を上げるしか出来ない。
「そりゃまあインパクトあるほうに目が向くのは当然でありますが、某の事完全に眼中にありませんでしたな。地味顔でごめんなさい」
「顔を削りましょうか、逆に特徴が出ますよ」
「のっぺらぼうはちょっと勘弁かなって」
物騒な会話をしつつ、土下座のように這い付くばる多浪へ近づいていく二人。
どこからどう見ても決着、チェックメイトである。
「な、なななにしやがったてめえ!?」
「貴方の体重が20倍になる催眠をかけたのです。気を抜いたら自重でぺしゃんこになるのでお気をつけて」
まるで今日の天気を告げるように帰ってきた答えに多浪は絶句した。
催眠? ありえない。
それに眼前の地味男はスマホさえ持っていない。
スマホガンやスマホ手裏剣のように撃ち込まれたなら流石に気付く。
というか。
「催眠で、こんなことが、出来るわけ―――」
「出来るのですよ、催眠術ならね」
そう、これが催眠術師と催眠アプリ使いの異なる点にして絶対の差。
アプリ使いは催眠を行うのに機械を介する必要があり、基本的に強度や内容にも制限がある。
従順な操り人形にしたり認識を弄る事は出来るが、腕を生やしたり空を飛ばせる事は出来ない。
しかし、催眠術師は違う。
例え最下級の術師であっても、相手の存在を認識した時点で催眠をかけられる。
声に出して命令を出すというプロセスは一切必要ない。
まして田中は
物理法則を無視するような催眠の行使さえ可能とする、恐るべき存在である。
催眠術の仕組みを知り尽くした同類。
此処にはいない同僚のような異形の精神をした人外。
彼の催眠に抗えるとすればこの3通りしかいないだろう。
故に、上司である仏頃の許可が無ければ催眠を使う事は許されない。
破れば人権剥奪からの粛清コース一直線である。
そして、首輪の付いていない野良催眠術師やアプリ使いの末路など知れている。
身に纏ったスマホから煙が上がり始めた多浪を一瞥し、仏頃は視線で田中に指示を出した。
「あ、あちちちち!?!?」
粗悪品の核融合炉搭載型スマホ特有の現象である。
旧世紀から問題となっているスマホの発火は22世紀になっても解決していなかった。
このままでは大爆発を引き起こすので助ける暇は無い。というかする気もない。
田中は自己催眠にて筋力を数十倍まで強化すると多浪の足首を掴んで引き摺って行く。
途中で自重に耐えきれず皮膚が剥がれて悲鳴が上がるが無視する。
やがて窓の傍まで来た段階で、多浪は田中が何をするつもりなのかを察した。
「ふざけるなよオレはまだ咲いてないんだ!! お前だって催眠術使ってる癖にどうしてオレばっかりこんな―――」
「某は催眠術師である。名前は田中太郎」
己とお前は違う、一緒にするな。
言外にそう告げて、田中は多浪を窓から空高く放り投げた。
汚い悲鳴と共に
直前に重力に反発する催眠をかけたのだ。
何もしなければカガーリンと同じ景色が見えただろうが、生憎と時間が無い。
やがて上空数千メートルまで落ちた頃、小さな汚い花火が空に浮かんだ。
放射能のアレコレに関しては22世紀の科学技術で何とかなるので大丈夫だ。
「いつも思いますが、私は犯罪者予備軍ですって名乗って恥ずかしくないんですか」
「いやちっとも」
「恥知らずも極まりですね死ね」
「某まだ死にたくないので勘弁を」
これまたいつも通りのやり取りをして、駆けつけた警察に後始末を押し付けてから2人はパトロールへと戻った。
なお、始末書をどちらが書くか揉めてもう一騒動があったがそれは別の話である。
これが彼らの日常、その一幕である。
催眠犯罪がある限り、対眠の戦いは続く。
戦え対眠、いつの日か真の平和が訪れるまで!!
登場人物紹介(非公開設定あり)
◎田中太郎
主人公の催眠術師。
10年前に世界を救い命を落とした「催眠王」最後の弟子。
催眠術が唾棄されるようになった現代で催眠術師を名乗り続けるのはその誇りがある故の事。
対眠に就職したのは自分の力が活かせる数少ない職場だったから。
メンバーの中では一番常識的。
◎仏頃枢
田中の上司にしてAHCの達人。大の催眠術師嫌いで間違ってもヒロインじゃない。
性的に狙っていた清楚系の実妹が催眠アプリ使いの手によって「オタクに優しいギャル」に変えられた挙句、それが切っ掛けで同級生の男子と付き合い始めて高校卒業と同時に結婚。その事から催眠術の使い手を強く憎むようになった。なお、アプリ使いはギャルに変えた時点で満足していた。ついでに妹はノーマルなので想いが届く可能性は皆無だった。
◎来露師泰三・市御望
名前だけ登場した同僚の2人。
理由なき殺人衝動の持ち主と理由なき自殺衝動の持ち主のカップルでもある。
危険度で言うなら田中と仏頃は彼らの足元にも及ばない。