Mother and children
この物語はフィクションである。
──というか、この世の大抵はフィクションでできている。
捏造して、誇張して、都合の悪い部分はきれいに隠す。
ならば、上手な嘘をついてほしい。
それが、アイドルファンというものだ。
* * *
昼下がりの病室に、アイドルの歌声が響いていた。
カーテンが締め切られ、灯りの消えた病室。モニターの光が天井を揺らし、テレビの中ではステージライトが瞬いている。
白衣姿の男が椅子に腰かけ、食い入るように画面を見つめていた。
「アイーーーーーー!!!」
それは歓声というより、もはや叫びに近かった。
声の主――雨宮吾郎は、この病院の産婦人科医である。
すらりとした体格に、かたそうな黒髪。
スクエアフレームの眼鏡の奥に、真面目さと若干の狂気を宿していた。
普段は知的で冷静な青年医師――だが、“推し”のこととなると、話は別だった。
「リアルでこの可愛さを拝みたかった⋯くぅぅぅぅぅ⋯!」
握りしめた拳を胸に当てながら、彼は感極まっていた。
テレビに映るのは、アイドルグループ《B小町》の絶対的エース、不動のセンター――究極美少女、星野アイ。
「結成から4年!じわじわと人気を上げてきて、メディアの露出も増え、ようやく世間に見つかったって感じ!? ここからだ、ここから彼女はスターダムへと―――」
吾郎の熱弁を遮るように、カチリと蛍光灯が灯る。現実が帰ってくる。
「センセ、そういうのは家で観てもらえます?」
入口に立つ看護師は、腕を組んでこちらを見下ろしていた。怒っている、というよりはもう呆れ切っていた。見慣れた光景だ、とでも言いたげに。
その女性──高橋──は、クールな印象の持ち主だった。短めの前髪の奥から覗く瞳は理性的で、冷静沈着。けれども、吾郎にとっては最も気安く話せる相手であり、ときには一緒に食事に出かけることもあった。
「なんで患者の病室でアイドルのDVD流してるんですか。常識で考えておかしいでしょう。仕事してください」
淡々とした口調の奥に、確かな諦めがある。
この病室の患者――佐藤さんが困ったように笑っている。
「美しいものを見ると健康に良い――それが私の医師としての見解だ」
眼鏡をくい、と持ち上げながら言い切る吾郎。
彼女はため息をひとつつくと、締め切られていたカーテンを開け放った。
窓から、冬の光が白く射し込む。一月ともなれば、冬真っ只中。景色からもその冷たさを感じられた。
ここは宮崎県・高千穂町。
人里から離れた小高い丘の上にある、静かな療養病院。
周囲は森と渓谷に囲まれ、街へと続く細い県道が一本だけ。
“高千穂の自然に囲まれた最高の療養”を掲げてはいるが、繁華街へのアクセスという点では最悪だった。
「こんな田舎じゃアイドルライブなんてやらんからな。医療行為の一環だ、これも仕事のうちさ」
「ただの布教活動ですよね? うちの病院の公式見解にしないでくださいね」
高橋は、吾郎の言い分を一蹴すると思い出したように口を開いた。
「そういえばセンセ。さっきツイッターのトレンドに⋯」
吾郎はその言葉遮る。彼の目にはちょうどお昼時を指す時計が映っていた。
「そろそろお昼休みか、続きはお昼食べながらにしよう。一人で食べても寂しいからな。一緒にどうだ?」
「センセの奢りなら考えます」
「しょうがないな⋯」
吾郎は立ち上がり、ベッドの上の佐藤さんに振り返る。
「佐藤さん、このDVD置いておくからぜひ見てください。今は無理でも、この映像はいずれ万病にも効くようにな――いたぁ!」
脇腹を小突かれて情けない声を上げた。
「いい加減にしてください。ほら行きますよ」
佐藤さんが「あはは」と笑い、高橋が小さくため息をつく。
吾郎は引きずられるように病室を出た。
* * *
昼食を終え、屋上。
冬の風が白衣の裾を揺らした。高千穂の空は澄み切っていて、遠くの山の稜線がくっきり見える。
「そういえば、さっきの話ですけど」
高橋が言った。
「ツイッターのトレンドに上がってましたよ。センセの言ってたアイドル」
「ふっ、皆ついに気づき始めたようだな、アイの素晴らしさに」
「いや、そうじゃなくて⋯」
彼女の携帯の画面を覗き込み、吾郎の顔が固まった。
「ええーーっ!? アイの活動休止だとぉーーー!?」
冬空に叫びがこだまする。
そのまま膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き出す吾郎。
「ほんとに信者なんですね⋯⋯」
彼女は素で引いていた。そして相も変わらず容赦がなかった。
「十六歳ですよね、その子。ロリコンじゃないですか」
「それだけは言うな」
彼女の容赦のない一言に食い気味に言い返し、視線を空へ上げた。冬の雲の切れ間に、遠くの太陽が霞んでいた。
「理由があるんだよ、理由が⋯」
彼の声は、風に溶けていった。
「医者は転勤が多いけど、俺が研修医やってたのもこの病院だった。あの頃もよく患者の病室でサボっててな」
「働け」
聞こえないふりをして、吾郎は語り続けた。
「そのとき出会った一人の患者が、僕の運命を変えたんだ」
──白い雪の記憶が、ゆっくりと甦る。
* * *
四年前のこの頃、雪が夜の音を消していた。
高千穂の丘に建つこの病院では、冬の夜はいつも、息が止まるほど静かだ。窓を叩く風の音すらなく、外はただ、光の欠けた世界が降り積もっていく。
暖房の効いた小児病棟の一室。小さなテレビだけが明るく、画面の中でアイドルたちが跳ね、笑い、歌っていた。
「で!この子がめいめい! ダンスが良いの!」
ベッドの上の少女は頬を上気させながら語っていた。
天童寺さりな―――小柄な身体の中で、病気と必死に闘っている子だった。頭の帽子にはアイのイメージ動物である、うさぎのバッジがつけられている。
「歌はありぴゃんときゅんぱんが良いんだけど、やっぱ私の推しは〜〜」
さりなが両手を胸の前で組み合わせ、焦がれような顔で言う。
「アイ一択でしょ!」
吾郎は本を片手に、興味なさそうに応じた。
「ふーん」
「⋯⋯なんだよそれー、ノリ悪いなぁ、せんせ」
「その話、何回聞いたと思ってんだ。まあ、アイが凄いのは認めるよ」
「私と同い年なのに大人っぽくて、歌もダンスも上手いの! 何より顔が良い⋯生まれ変わったらこの顔が良い⋯」
「何が生まれ変わりだよ。馬鹿なこと言ってんなよ」
「夢がないね、せんせ」
テレビの光がゆっくりと消える。
リモコンを握ったさりなは、窓の外を見上げていた。
雪の粒が、闇の中を静かに落ちていく。
「もし芸能人の子供に生まれていたらって考えたことはない? 容姿とかコネとか、最初から持ってたらーって」
「ないね」
「⋯⋯やっぱり夢がないなぁ」
「さりなちゃんも可愛いじゃん。生まれ変わる必要なんてない」
そう言うと、少女は少しだけ照れたように笑った。
「退院したら、アイドルにでもなればいい。そしたら僕が推してやるよ」
「ほんと?」
さりなが顔を上げ、ベッドから身を乗り出してくる。
そして、何のためらいもなく吾郎の白衣に抱きついた。
「せんせ好き! 結婚して!」
「社会的に死んじゃうから勘弁して」
「このモラリストー!」
ここ最近、何度か繰り返されたやり取りだった。笑い声が混じる病室の空気は、雪の冷たさを少しだけ遠ざけていた。
「残念だったな、16歳になったら真面目に考えてやるよ」
「………16かぁ」
さりなは少し黙って、それから笑った。
見えないものを見るように窓の外に目を向けながら、呟く。
「せんせ、いじわるだね」
「現実的なプランだろ」
その日、吾郎はいつになく長く病室にいた。
雪がやむまでのあいだ、二人は他愛もない話をして過ごした。
テレビはもう点いていなかった。
でも、部屋の中には確かに、何かが光っていた。
さりなが亡くなったのはそれから程なくのことだった。
退形成性星細胞種―――まだ12歳だった。
* * *
「今でも生きてたら、アイと同じ十六歳。彼女が好きだったアイドルと、さりなちゃんを重ねて見てたんだろうな」
吾郎は、遠い山の向こうを見つめた。
夕暮れの風が頬を撫でる。
彼女と過ごしたのは、半年ほどだったが、その時間は吾郎にとって大切な思い出となっていた。
高橋はというと、何を言うでもなく、ただ黙って話を聞いていた。
「彼女が夢見た道を歩く。その姿を見届けたいだけなんだよ」
「なるほど」
高橋はコーヒーの紙コップを片手に頷く。どうやら彼女も理解してくれたようだった。吾郎はその様子にほっとした―――
「結果ロリコンってことですね」
否。少しも理解してなかった。しかも容赦がない。
「話聞いてた!?結構感動的なエピソードだったよね!?」
吾郎が声を荒らげると、彼女は淡々と続けた。
「先生のハマりっぷりって、なんか生々しくて⋯⋯。その“さりなちゃん”にかこつけて、自分の欲望を解放してるだけなんじゃ?」
「バカ言え。さりなちゃんの名にかけて、めちゃピュアな気持ちで推してるわ」
「でも、そのアイって子が『付き合って』って言ってきたら、付き合うんでしょ?」
沈黙。
吾郎は目を逸らした。
「⋯⋯さて、昼休みも終わりだ。仕事に戻ろっか」
高橋は薄く笑って、空になったコップをゴミ箱に投げ入れた。
「どうなんです、先生。さりなちゃんの名にかけて、どうなんです?」
その声を背に、吾郎はエレベーターの方へ歩き出した。
冬の風が背中に冷たかった。
* * *
午後の診察は、いつも通りに始まった。
いつも通りのはずだった。
蛍光灯の光は白く、冷たい。
金属の器具と、カルテの紙の音。
病院特有の消毒の匂いが漂っている。
先程のアイのニュースが気がかりだった。ただの体調不良ならいいが。
しかし、彼は腐っても医者である。気持ちを切り替え、目の前のことに集中する。
習慣で白衣の裾を整え、ドアに手をかける。
扉の向こう側も、当然のように“日常”であるはずだった。
ドアを開ける。
「はい、おまたせしましたっと」
ドアを開けると、二人の人影があった。
ひとりはスーツ姿の男。金髪にサングラス、無精ひげをわずかに残した無骨な印象。
もうひとりは、小柄な少女。フード付きのコート、帽子を深く被っている。
年齢は、どう見ても十代半ば。
「えっと⋯⋯星野さんは初めてですね」
「はい」
声は柔らかく、よく通った。
病室に似つかわしくない透明感のある声だった。
吾郎はカルテを確認する。
星野アイ――年齢十六歳。
お腹の具合は、見たところ二十週。
付き添いの男は「後見人」として記載がある。
初診察にしては大分遅いタイミングだな。なるほど訳ありか。誰にも相談できずにここまで来たってところか。
「貴方は親御さん?」
スーツの男は、言葉を選ぶように、答えた。
「まあ、書類上は⋯⋯。彼女は施設育ちなもので、実質後見人というか、身元引受人というか」
「なるほど」
十六歳、施設育ち──どこかで聞いたような話だ。まるで、アイドルの──
ゆっくりと、少女が手を伸ばす。
帽子のつばを上げ、マスクを外した。
――その瞬間、時間が止まった。
光が、彼女の肌を照らす。
紫がかった黒髪が滑るように肩を流れ、星のように光を宿した双眸が、まっすぐこちらを見ていた。
どこかで見た、いや、見続けてきた顔。
スクリーンの中で何度も見た。ポスターの中で、ステージの上で。
吾郎の喉が音を立てなかった。
そこにいたのは、テレビの向こうから抜け出してきた“顔”だった。
星野アイ――それは“B小町”のセンター、彼の''推しの子''その人だった。
「先生、どうなんでしょう? ものすごい便秘という可能性は⋯⋯」
金髪の男――斉藤壱護が、わずかに眉をひそめて言った。
その口調は冗談にも聞こえたが、彼の顔には切実さのようなものが滲んでいる。
吾郎はわずかに口角を動かす。
「だとしたら、すでに死んでますねぇ」
医師としての口が、勝手に動いた。
頭の中では、別の声が喚いていた。
推しが妊娠している。
この現実を、どう処理すればいいのか。
少女は、明るく笑った。
その笑顔は、ステージの上とまるで変わらない。
「そっちは順調! 今日も問題なかったよ」
その一言に、吾郎は心臓を撃たれたような気がした。
なんて無防備で、なんてまっすぐな笑顔。
それが、こんな状況でこそ光を放っている。
吾郎はカルテを閉じ、深く息を吐く。
「⋯⋯とりあえず検査してみましょう。準備がありますので、少しお待ちください」
診察室を出て、廊下に出る。
そして、壁に背中を預けた。
頭の中を、あらゆる感情が渦巻いていた。
ちょいちょいちょい!? 本物!? 星野アイ!?!?
いやいや、そんなまさか――でも、目の前にいたのは⋯⋯!
廊下の端で頭を抱えながら、吾郎は叫び出したい衝動を必死に抑えた。
それでも好奇心は抑えられない。
そっとドアを開け、診察室の隙間から中を覗く。
彼女は笑っていた。あの星の瞳で、穏やかに。
あぁ、リアルアイ⋯⋯ちょ〜〜〜かわいい⋯⋯!
じゃねぇ!! 推しが妊娠しとる!! ショックすぎてゲボ吐きそうなんですけど!!
頭を抱えたまま、うなだれる吾郎の耳に、二人の会話が聞こえた。
「アイ⋯⋯本当にどうしてこうなった」
「ほんとそれだよ!」と吾郎も心の中で叫ぶ。
「社長の俺にどうして相談しなかった。相手の男は誰なんだ」
「それは⋯えへへ、内緒!」
それはなんともあざとい笑顔だった。しかし、その瞬間、吾郎はなぜか笑ってしまった。
あまりにアイらしくて。あまりに愚かで、まぶしかった。
* * *
検査の結果が出たのは夕方だった。
窓の外では、森の影が長く伸びている。
「検査の結果、二十週。双子ですね」
「双子⋯⋯」
社長とアイの声が重なった。
しかし、その表情は対照的だった。一方は不安に埋め尽くされた顔、もう一方はどこか嬉しそうだった。
「アイ、本気で産む気なのか? 十六歳で妊娠、出産なんて世に知られたら⋯⋯お前も、ウチの事務所も、終わりだぞ」
社長の言うことももっともだと、吾郎は思った。アイドルが妊娠、それも十六歳でなんて、スキャンダルもいい所だ。
アイは目線を落とし、そして上げる。
「⋯⋯先生はどう思う」
「最終的な決定権は君にある。よく考えて決めるんだ。⋯⋯医者としては、そうとしか言えないな」
その言葉が彼の精一杯だった。
* * *
病院のフリースペース。
吾郎は紙コップのコーヒーを手に、ぼんやりと呟いた。
「医者としては⋯ね」
なら、ファンとしての僕はどう思っているのか。
それは簡単に言語化できるものではなかった。
テレビが、昼のニュースを反芻している。
《――人気芸人のポンタさんとアイドルのMIUさんがそろって結婚を発表しました。MIUさんは現在妊娠五ヶ月とのことです――》
画面の向こうで幸せそうに笑う二人。
その声が、吾郎の胸にざらついた音を立てた。
「⋯⋯またタイムリーな話題だな」
すぐ隣のソファでは、入院患者の若い男たちがくだらない会話をしている。それは本当にくだらなくて、けれど胸にちくりと刺さった。
「うわ、マジかよ。MIU好きだったのに」
「でもさ⋯⋯逆に考えれば、今死ねばアイドルの子供に転生できるんじゃね?」
「考えがキモすぎる⋯⋯」
「でもさ、男と子供がいるアイドルを推せる?」
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
答えを出せないまま、吾郎は立ち上がった。
外の空気を吸いたくなった。
* * *
屋上はもう夕暮れに沈みかけていた。
夕焼けは紫に溶け、星の芽がひとつ、またひとつと芽吹いている。
冷たい風が白衣の裾を揺らす。
欄干に肘を置き、吐いた息が白く散る。
吾郎は空を見上げ、考える―――君に好きな男が居ても、僕は君を応援し続ける。でも君が子供を産めば、より高みに羽ばたいていく姿を見ることはできなくなるんだろう。きっと周囲がそれを許さない。
「⋯⋯ファンの意見ってのは、身勝手だよな。そう思うだろ、さりなちゃん」
不意に屋上の扉が開く音がした。
「――あっ、センセ」
軽やかな声。
振り向くと、厚手のコートを羽織ったアイが立っていた。
「星野さん⋯⋯夜風が体に障りますよ」
「厚着してるからだいじょぶ!」
そう言って笑う彼女の頬は、少し赤かった。
高地の寒さのせいだけじゃない。
その笑顔はあまりに自然で、あまりに無垢だった。
「社長の勧めでここを選んだんだけど、いいとこだね。
夕暮れでも星がすごくよく見える。東京じゃこうはいかないなぁ」
彼女の声が風に乗って響く。
その透明さに、吾郎は一瞬、言葉を失った。
「⋯⋯わざわざこんな田舎に来たのは、東京だと人目につくから?」
少し間を置いて、アイが首をかしげた。
「⋯⋯あれ? 私、仕事のこと言ったっけ?」
「昔、患者に君のファンがいたんだよ」
彼自身、何度かライブでアイに会っていることは、なんとなく言えなかった。
「あちゃー。ここならお医者さんもおじさんばっかでバレないと思ったんだけどなぁ。やっぱ、溢れ出るオーラ隠せないね☆」
自信家かわいい。
「君は⋯⋯アイドルをやめるのか?」
「なんで? やめないよ?」
それが当然かのように、彼女は答えた。
「でもそれは──」
アイは空を見上げた。
その星のような瞳の中に、冬の星々が瞬いている。
彼女は、愛おしそうにお腹をなでる。
「私、家族って居ないから⋯⋯家族に憧れ、あったんだぁ。お腹にいるの、双子なんでしょ?」
そして、とびきりの笑顔で言った。
「産んだら、きっと賑やかで、楽しい家族になるよね!」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
「子供は産む。アイドルも続ける。つまりそれは──」
悪戯っぽく笑いながら、アイは指を立てた。
「そ。公表しない」
吾郎は息を飲んだ。
「アイドルは偶像だよ? 嘘という魔法で輝く生き物。嘘は、とびきりの愛なんだよ?」
両手を広げ、まるでステージの上に立つように星空の下でくるりと回り、言葉を紡ぐ。
「子供の一人や二人、隠し通してこそ一流のアイドル。嘘に嘘を重ねて、どんなに辛いことがあっても、ステージの上で“幸せそうに”歌う。楽しいお仕事!」
「⋯⋯でも、幸せってところだけは、ホントでいたいよね。みんな気づいてないけど、私たちにも心と人生があるし。母としての幸せと、アイドルとしての幸せ。普通は片方かもしれないけど──」
「どっちも欲しい。星野アイは、欲張りなんだ」
冬の風が彼女の髪をさらった。
その横顔は、この空のどの星々よりもまぶしかった。
吾郎は、胸の奥の何かが音を立てて折り畳まれるのを感じた。
そして、ぴたりと嚙み合う音が続く。
「和解した」
「えっ?」
「医者の僕と、ファンの僕の意見が一致した」
吾郎は、まっすぐ彼女を見る。
「星野アイ。僕が産ませる。安全に、元気な子供を」
君の幸せがそれだって言うなら従おう。
だって、君はどうしようもないほどアイドルで──
僕はどうしようもないほど君のファンだ。
* * *
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。
冬の白はいつしか薄れ、山の端に緑が戻りはじめる。
彼女のお腹は確実に膨らみ、風の匂いも変わっていった。
―――妊娠二十一週。
受付で書類を整えながら、吾郎は淡々と告げた。
「これからのことだけど、うちの病院では偽名を使おうか」
「うん」
短い返事。だが、その一音がなぜかやけに弾んで聞こえた。
偽名の記入欄に、彼女はさらさらと字を書いた。
その筆跡の癖が、ステージ上の笑顔と同じくらい、吾郎の記憶に焼きついた。
―――妊娠二十八週。診察室。
「君の場合、帝王切開の可能性が高い」
「えっ」
壱護の顔には動揺が表れていた。
「赤ん坊の頭蓋骨が大きかった場合、君の体型だと骨盤の開きが足りないことが多い」
「へ〜」
その“へ〜”があまりに軽くて、隣にいた斉藤壱護がこめかみを押さえた。
「お腹に傷は仕事に支障が⋯⋯先生、他の方法は⋯⋯」
「そうですね⋯⋯無痛分娩、ソフロロジー⋯⋯いや⋯⋯」
「なんでもいいよー。私、ちょー元気だし!」
彼女の言葉は春風みたいに軽い。
「アイ⋯⋯」
壱護が頭を抱える。
「大丈夫、自然分娩でいけるよ。だって私の子だよ? きっと小顔で美人に決まってる!」
「また適当なことを⋯⋯」
アイの事の重大さを理解しているのか分からない言動に、社長はうなだれる。
吾郎は笑いながら、胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。
――俺が産科医になったのは、この時のためだったのかもしれない。
五郎もかつては外科医を目指していた。しかし、祖母の言葉に流され、産科医になった。それもこの為だったかもしれないと思うと、少しだけ救われた気になれた。
そんな思いを誰にも聞かれないように、心の底でそっと呟いた。
―――妊娠三十五週。夕方の散歩道。
雪解けの音が消える頃、世界はもう春の色をしていた。
アイは鼻歌を口ずさみながら、病院の裏手の坂を上っていく。
その少し後ろを、吾郎がゆっくりと歩く。
より安全に、確実に産ませてやる。
君の家族は、僕が守る。なんて言ったら、少し大げさだが。
正直に言えば、複雑な気持ちもあるけれど、それは全力で隠した。
――嘘は愛。
なんだか良い言葉に思えてきたから、スターは本当にすごい。
そんな時だった。
一羽のカラスが、音もなく近づいてきた。
黒い羽。頭に古い傷跡が見える。
「なんだお前、また来たのか。変なカラスだな」
吾郎はポケットを探り、ビスケットをひとかけ投げた。
それを見て、アイが笑う。
「なにそのカラス。センセに懐いてるの? 餌付けってあんま良くないんじゃないのー?」
「その通りなんだけどな。数年前に怪我したのを助けてやってから、たまにこうして来るんだ。頭の傷で分かる。こいつは仲間を呼んだり、イタズラしたりもしない。不思議な奴だよ」
「へ〜。不思議な子だね。カラスって、あんまり良いイメージないけど」
「そうだな。でも、日本神話だと八咫烏っていって、人を導く神の使いなんだそうだ。⋯⋯もしかしたら、こいつも人を見守ってくれてるのかもな」
アイは足を止め、吾郎の隣に立ち、そのカラスを見つめる。
「そうなんだ。私が元気な子供を産めるように、見守っててね、カラスさん」
カラスはひと鳴きして、淡い夕空に溶けた。
カァ、と一言残して、山の向こうへと消えていく。
「ありゃ、行っちゃった」
アイが少しだけ寂しそうに呟く。
「そろそろ戻ろうか」
もう五月になるとは言え、夜ともなればまだその冷たさを残していた。
――――妊娠四十週、予定日。
分娩室の灯りは淡く、消毒液の匂いと静かな心音が混ざっていた。
ベッドの脇に器具が並び、窓の外では初夏の風が樹々を揺らしている。
「センセ、おつかれさま。でも、呼んだらすぐ来てよ?」
「おう。家はすぐ近くだしな。⋯⋯まぁ、来れなくても代わりの先生が来てくれるし」
「やだ、センセが良い」
「はいはい。すぐに駆けつけてやるよ」
吾郎は笑って、少しだけ視線を逸らした。
「それじゃあ、あとはよろしく。呼ぶ時の電話も頼んだ」
「はい、わかってますよ」
看護師・高橋の声が返ってくる。
いつも通りの、淡々とした口調。
けれどその表情の奥には、微かな緊張が走っていた。
扉を閉める前に、もう一度だけ彼女を見た。
病衣の下で膨らんだ腹。その上に置かれた両手。
あの星のような瞳は、相変わらずまっすぐで、どこまでも明るかった。
これが終わったら、アイとの繋がりもなくなる。
ただのアイドルとファンに戻る。
ちょっと裏の面も見たけれど、そういうカラッとした部分すら好きになった感じがある。
彼女の幸せを、心の底から応援できると思った。
* * *
夜の帰り道。
湿り気を帯びた初夏の風が、白衣の裾を揺らす。
高千穂の森の匂いは濃く、遠くで蛙が鳴いていた。
背後に小さく病院の外灯が見える。
そのとき、背後から声がした。
「⋯⋯あんた、星野アイの担当医?」
空気が少しだけ温度を下げた気がした。
吾郎は足を止め、振り返る。声の主は、不審な空気をまとっていた。フードを深く被り、こちらを見ている。大学生くらいだろうか?しかし、気にするべきはそこではない。
「⋯⋯彼女が受診する際は偽名を使ってる。病院で見かけたにしても、なんで公表されてない彼女の名字を知ってる? 関係者? 名前を聞いていいか?」
相手は何も言わず、踵を返して走り出した。
「おい! ちょっと待て!」
とっさに追う。
県道を外れて、山道に入る。
月明かりが木々の間をかすめ、地面にはまだ昼のぬくもりが残っていた。
もしかして、ストーカーか?
出産を控えたこのタイミングで⋯⋯。
遠ざかる足音が、不意に途切れた。
「⋯⋯見失った。くそ、こんな山道走らせやがって⋯⋯」
息を整え、冷たい空気を肺に流し込む。
胸の奥で、何かがざわついている。
戻ろう。
とっさに追いかけてしまったが、どう考えても危険だ。
もし相手が刃物でも持っていたら、丸腰の俺は太刀打ちできない。
戻って、社長に確認しよう。大丈夫、あの社長なら上手く対策を考えてくれるだろう。
携帯のライトを点け、足元を照らした。
崖の縁が、白く光った。
「こんなとこに崖があったのか。危な⋯⋯。しかし、ほんとにどこに―――」
背後から、衝撃。
視界が白く、そして黒くはじけた。
* * *
⋯⋯んー⋯⋯あー、びっくりした。急に頭まっしろになるから⋯。
何が起きた? 足を滑らせたか?
遠くで、携帯の着信音が鳴っている。
あっ携帯⋯⋯。もしかして、アイが産気づいたか?
どこだ携帯⋯⋯暗くてわからん。⋯⋯ていうか体が動かねえ⋯⋯。
早く行かなきゃ。
約束したからな。
元気な子供を産ませるって⋯⋯。
早く起きて、あの子の子供を⋯⋯。
視界が少し戻る。
夜の空気が肌を抜けていく。
体の奥から、冷たさが染みてくる。
その無慈悲な温度に、吾郎は理解した。
――あ、これ死ぬやつだ。
過去の声が、ばらばらに蘇る。
――もし芸能人の子供に生まれたらって考えたことはある?
――今死ねばワンチャン、アイドルの子として生まれ変われる。
――もし生まれ変わったら。
さりなの笑顔が、闇の中でゆっくりと浮かぶ。
僕は、真面目に考えたことはなかった。
だってそうだろう。
―――あんなのは都合のいいフィクションだ。それがまさか。
―――自分の話とは思わなかったんだから。
最後の視界に、黒い影が月を横切った。
頭の傷を光らせた一羽のカラス。
羽ばたきの音だけが、やけに近く聞こえた。
* * *
分娩室の灯りの下で、最初の産声が夜の端に立ち上がった。
「良かった⋯⋯無事に産まれてくれて」
アイは、汗に濡れた髪を耳にかけ、赤ん坊を抱きしめた。
看護師が、微笑を滲ませながら言う。
「おつかれさまです。元気な男の子と女の子ですよ」
「兄妹かぁ⋯⋯ふふっ。元気に育ってね」
ふと、アイの視線がドアの方へ向く。
「⋯⋯あの、センセは?」
「連絡はしたんですけど、繋がらなくて。まったく、こんな時に何やってるんだか──これは後で説教ですね」
看護師の声に、アイは小さく笑った。
「あんなにカッコつけてたのに。⋯⋯これは、来たら文句のひとつでも言ってやらないとね」
赤ん坊が、もう一度短く泣いた。
その声は、まるでこの世界への到着を告げる鐘の音のように、真っ直ぐで澄んでいた。
* * *
窓の外で、風が鳴る。
夜の森がざわめき、ひとつの黒い影が屋根を掠めた。
近くの木々にとまり、灯の漏れる窓を見下ろしている。
ベッドの上では、彼女が双子を抱いている。
ふたりの小さな呼吸が胸の中で重なり合い、その温もりに包まれた彼女の頬は、いつになく穏やかだった。
その影は動かない。
ただ、静かにその光景を見守っていた。
まるで、この瞬間を知っていたかのように。
それは首をかしげるように羽を揺らし、
小さくひと声、カァ、と夜空へと鳴いた。
そして、渓谷の上をゆっくりと飛び去っていった。
新しい朝を迎える森の方へ。
――灯の中では、母と子が眠っている。
その眠りを包むように、夜が静かに形を変えていった。
何かを書くって大変だわね