推しの子の全てを救う   作:きょん。

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Brother and sister, she is――

 

 目を開く。天井の薄明かりがゆらいでいる。

 遠くで赤ん坊の泣き声がした。⋯⋯なぜか、やけに聞き馴染みのある声。

 自分の鼓動に重なって、やけに近く響いてくる。

 体を起こそうとする。けれど、指先が動かない。腕も、脚も。筋肉が粘土みたいに言うことをきかない。

 

 何が起きた?

 

 記憶を辿る。しかし、霧がかかったようにはっきりしない。

 

 そうだ。アイ、アイのところに行かなくては。

 

 その名を思い出した瞬間、胸がちくりと痛んだ。まるで名前そのものが、現実を縫い止める針のように。

 あたりは柔らかい匂いで満ちている。洗剤と、ミルクと、光。

 まぶたの向こうで、柔らかな影が揺れた。

 ――誰かが近づいてくる。

 女の人の声。どこかで、何度も聞いた声。

 

「……あれ、起きちゃった? よしよ〜し」

 

 その一言で、時間が止まった。

 彼女はベッドの上に身をかがめ、こちらを覗き込んでいた。

 長い髪が光を受け、頬を撫でる。

 息を呑む。

 まるでテレビの中から抜け出してきたみたいに、現実感がなかった。

 僕はこの少女を知っている―――星野アイ。

 その名前が、脳の奥に火花のように弾けた。

 彼女は笑っていた。そして、両腕で自分を抱き上げた。

 柔らかい。心臓が近い。

 推しのアイドルに抱かれている―――そんな理解が、脳の回路を焼いた。

 あたたかい。でも、体が動かない。言葉も出ない。

 ふと、窓のガラスが視界の端に映る。自分の姿を――その中に見た。

 金色の髪、白い頬、短い手足、目の大きな生き物。⋯⋯赤ん坊?アイの子供だろうか、生後1ヶ月と言ったところか。

 

 いや、違う。

 あれは――――――僕だ。

 

 声にならない悲鳴が喉の奥で砕けた。

 

 あ、赤ん坊になっとる――!?

 

 意識が遠のく。まるで現実そのものが、光の中に溶けていくように。

 ―――そして、すべてが暗転した。

 

 

  * * *

 

 

 ―――それが6ヶ月ほど前の出来事だった。

 カーテンの隙間から差す光が、白く、静かに部屋を切り取っていた。

 ミルクの匂いが空気に溶けている。

 アイがベッドのそばに座り、赤ん坊を抱いていた。

 

「いいこでちゅね〜、あくあまりん〜」

 

 笑いながら、頬をすり寄せてくる。光の粒が、髪の隙間をすり抜けた。

 

 そんなわけで、どうやら僕はお亡くなりになったらしい。

 簡潔に説明すると、推しのアイドルが妊娠して、ショックで死んだ。

 いや、なんだか意味が変わってるような…。

 ともかく、僕――雨宮吾郎は死んだ。そして、目覚めたら天国にいた。

 推しのアイドルに思い切り甘やかされるこの環境。天国と言わずしてなんと言おう。

 僕みたいな人間は、死んだら地獄に落ちると思っていたが。

 どうやら死後の世界にも課金要素があるらしい。課金した覚えないけど。

 

 そして彼女が呼んだ僕の名。星野愛久愛海――アクアマリン。

 それが今の僕の名前だ。⋯⋯とりあえず、すげぇ名前つけられた。

 いま、僕はアイドル・星野アイの息子として生きている。

 なぜ、と問われても困る。僕自身も時間をかけて、ようやく現実を受け入れた。

 最初の数ヶ月は前世の自分の意識はあれど、夢を見ているみたいに記憶が曖昧だった。

 時を経るにつれ、医者として生きた記憶が、徐々にはっきりとしていった。

 これは“生まれ変わり”なのか? 転生? 輪廻?考えたところで結論は出ない。

 理屈で説明できる領域を、とうに超えていた。とはいえ、僕も医者の端くれ。いずれ仕組みを解き明かしたいと思う。

 けれど、いまはこの天国を満喫する時間だ。

 推しのアイドルの甘やかしが、疲れ切った社会人の魂に沁みていく。

 吾郎――いや、アクアは小さく息を吐いた。

 

「ば、ばぶー」

 

 間の抜けた声が、思考の隙間から漏れる。どうしようもない。体が勝手に喋るのだから。

 そのとき、隣から甲高い泣き声があがった。

 

「はんぎゃーっ! はんぎゃーっ!」

 

 ベビーベッドで、もう一人の赤ん坊が暴れている。

 アイがアクアをソファに寝かせ、そちらを抱き上げ、もう一人の子をあやす。

 

 そう、この家にはもう一人の住人がいる。

 星野瑠美衣――ルビー。僕の双子の妹だ。

 

 アクアはルビーの方をちらりと見た。

 こっちは、ややダメージの少ない名前をしている。今からでも変えてほしい。切実に。

 

「どうしたの、アクア〜?」

 

 背後のドアが開いた。足音とともに、二つの影が差し込む。

 スーツ姿の男と、その隣に立つ若い女。男は金髪を短く刈り込み、サングラス越しにこちらを見ていた。無精ひげを残した顎が、昼の光にきらつく。

 

「そっちはルビーだ。それでも母親か」

 

 呆れた低い声。

 アイは舌を出し、肩をすくめる。

 

「人の顔と名前覚えるの苦手なんだからしょうがないでしょ。いやでちゅね〜、日本の男は母親を幻想視しすぎて」

 

「パスポートも持ってない奴がグローバルなこと言ってんじゃねぇ。第一、海外ロケNGだろお前!」

 

「でも、才能あると思った人の名前は忘れないよ? 佐藤社長」

 

「惜しい、俺の名前は斉藤だ。クソアイドル」

 

 斉藤壱護。アイが所属する事務所―――株式会社苺プロダクションの代表取締役。前世から見覚えのある名だった。

 そして、隣の女性がその妻――斉藤ミヤコ。壱護と比べるとかなり若い。

 しかし、“壱護”だから”苺”プロか⋯⋯似合わないなと、そう思った。

 壱護がホワイトボードを指で叩いた。

 

「とにかく、アイドル『アイ』は本日復帰となる。今後の活動について話し合うぞ。復帰第一弾は今夜の歌番組。生放送だけど、いけるよな」

 

「もちろん」

 

「アイが仕事の間、子供の面倒は妻が見る」

 

「はぁ⋯⋯」

 

 ミヤコはため息を漏らしながら、ルビーを抱き上げる。その表情は完全に不満に染まっていた。

 

「奥さん、若いよね。社長の若い子贔屓には、他のメンバーもマジで引いてるよ」

 

「初耳だ。気をつけよ」

 

 あっけらかんと返す壱護に、アイはふっと笑う。

 

「子供たち、仕事場に連れてっちゃダメ?」

 

「ダメに決まってんだろ!!」

 

 怒鳴る声が響く。

 

「肝に銘じろ。アイドルのお前が十六歳、二児の母――なんて知られたらアイドル生命即終了。監督責任問われて、俺の事務所も終わり。全員まとめて地獄行きだ。役所の手続きも買い物も全部子連れNG。どうしても外出する時は『俺たちの子供を預かっている』って設定で行け」

 

 壱護が指を突きつける。アイは頬を膨らませ、アクアの顔を覗き込む。

 

「えー、めんどくさー。困っちゃうよね、ルビー」

 

「そっちはアクアだ」

 

 アイが笑い、壱護はもう一度ため息をつく。

 

 アイは母親としては相当ダメな部類だろう。でも、社長たちのフォローは手厚いし、案外なんとかなるのかもしれない。

 

 壱護が腕時計を見た。

 

「もうあまり時間がない。リハまでに現場入るぞ」

 

「はーい」

 

 アイが立ち上がる。抱いたアクアがわずかに揺れ、布がずり落ちた。肌がのぞいた瞬間、アクアの小さな手が反射的に服を戻す。

 

「あぶな〜。社長におっぱい晒すところだったよ」

 

「外ではちゃんとしまっとけ」

 

 アクアの胸の内で、何かが爆ぜた。

 

 いや、ダメだ……危なっかしい、この子!

 

「ありがと、ルビー」

 

「そっちはアクアだ」

 

 壱護が再びため息をついた時、部屋の空気はほんの少しだけ和んでいた。

 

 

  * * *

 

 

 夜。仕事に出かけたアイと壱護の足音が消え、部屋には静けさが戻った。

 ミヤコが残りの家事を終え、疲れ果てたようにソファへ倒れ込む。

 

「なんで私がこんな⋯⋯ベビーシッターなんて経験ないのに……」

 

 ミルクの空き瓶がテーブルに転がる。

 アクアは静かにその様子を見つめていた。しばらくして、ミヤコの寝息が聞こえ始めると、テレビをつける。

 光が静かに部屋を照らした。画面の中で、アイが笑っていた。

 

『本日、活動再開となったアイさん! 大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?』

 

『ハイ! いっぱい食べてます!』

 

 良かった、どうやらちゃんとやれてるようだ。アクアはひとまず安堵した。

 

『そうそう! ご飯といえば、こないだうちの子が――』

 

 数秒前の安堵を裏切られ、アクアは思わずミルクを吹き出した。

 

『じゃなくて、ウチの子猫がね! 休養中に飼い始めたんだけど〜!』

 

 やっぱりダメかもしれない…。

 

『では! B小町さん、パフォーマンスの準備をお願いします!』

 

 テレビの音が上がり、光がアクアの瞳に反射した。

 

 

  * * *

 

 

 ステージ上の照明が一斉に点いた。スタジオが、瞬間、昼間のように明るくなる。

 冷気の混じった空調の中、スポットライトの熱だけが異様に重く感じた。

 スタッフが走る。コードが床を這い、カメラの赤ランプが点滅を繰り返している。

 壱護は壁際で腕を組み、ステージを見ていた。

 

「あと30秒でカメラ切り替わるんで、よろしくお願いします! パフォーマンス、お願いします――!」

 

 声が飛ぶ。

 現場特有の、焦りと昂揚が入り混じった音だった。

 モニターには「ON AIR準備中」の文字。

 

「B小町、知ってるの?」

「いや、知らね。興味もねー」

 

「音源聞いたけど普通だろ。良くも悪くも」

「まあ、こういうのが売れるんだけどな」

 

 そんな会話が、ケーブルの間をすり抜けるように流れていく。

 壱護はポケットからタバコを取り出しかけて、指先で止めた。

 ここは禁煙だったな。

 

「無理にでも褒めなきゃなんねーのに、どーすんの」

「褒めるところ、センターの子の顔面くらいじゃね?」

 

「名前くらいは知ってるけど、ここ半年は話聞かないな。どこサイドのゴリ押し?」

「苺プロだって、知らん事務所だ」

「地下あがりだろ?」

 

「乳ある子いんじゃん。グラビアとかやらせれば?」

 

「あの子、メシ呼べない? Pが好きそう」

 

 下世話な言葉が、マイクの奥でくすぶっている。

 壱護は苦笑した。

 

 そう―――この芸能界は、笑顔の裏に、嘘と打算が隠れている。放送に穴を開けてはならない。

 どんな演者にも最大限のパフォーマンスを引き出すよう、スタッフだって嘘を吐く。

 偉いお偉方だってそうだ。“良いモノを作るフリ”をして、本当に見ているのは――数字だけ。

 誰しも、嫌々ながら嘘を吐く。それが、この芸能界。

 

 照明がさらに強まり、温度が上がる。

 ステージ裏では、B小町のメンバーが深呼吸を繰り返していた。

 光に溶ける直前の静けさ。誰もが息を潜めて、秒針の音を聞いている。

 

「30秒前――!」

 

 音が凪ぎ、ステージに静寂が落ちた。

 壱護は心の中で吐き捨てる―――全く上等だってんだ。

 赤ランプが点灯する。

 ステージ中央に、B小町の影が浮かぶ。

 壱護は心の底で叫ぶ。その瞳は1人の少女に。

―――ウチのアイは、本物(マジモン)嘘つき(アイドル)だぞ!!

 

 次の瞬間、光が弾けた。照明がステージを焼き、観客席の空気が揺れる。

 スポットの中心――星野アイが立っていた。

 白い光の中で、彼女だけが動いて見えた。笑顔の輪郭が、空気を支配していく。

 スタッフの手が止まる。この場の誰もが彼女から視線を逸らせずにいた。

 まるで、光そのものがアイという人間を演じているかのように。

 

 

  * * *

 

 

 画面の光が、部屋の壁を青く染めていた。

 アイが笑っている。照明に包まれて、まるで夜空の中心でひとりだけ輝いているように見えた。

 アクアは、その姿を黙って見つめていた。

 目の前の映像は遠くて、けれど手を伸ばせば届く気もして。けれど、決して届かない。

 彼女の声が部屋の空気を震わせ、そのたびに心臓の奥が微かに熱を帯びた。

 

 あの社長も、酔狂だなぁ、と彼は思う。

 もし彼女が十六歳で母親だと知られたら、すべてが終わる。

 事務所も、番組も、そして彼女自身も。

 それでもあの男は止めなかった。止められなかったのだ。

 彼は、そういう感情を知っていた。

 

 わかるよ―――狂わずにいられないんだ。

 

 あまりに強い光の前で、人はただ焦がされる。まるで火に群がる蛾みたいに、吸い寄せられて。

 羽が焼け落ちると気づいても、なお止まれない。まるでそれが生まれつき決まっているみたいに。

 

 それは彼もまた例外ではなかった。今こうして、彼女のすぐ近くでその光を感じられることが嬉しかった。

 自分を殺した奴に、感謝すらしてしまうほどに。

 

 もしこの“生まれ変わり”が、彼女に対する執念がもたらした奇跡だとしたら──とても腑に落ちる。

 本当は、”僕”みたいな子じゃなくて普通の子を産ませてあげたかったんだけど―――不可抗力だ。超常現象には逆らえない。それならば楽しくやらせてもらおう。

 

 彼は焦がれた表情で、画面の中のアイを見つめる。

 そのとき、隣で小さな声がした。

 

「⋯⋯待って! Nステ、もう始まってるじゃん!!! どうして起こしてくれなかったの!?」

 

 毛布を蹴飛ばしながら、ルビーがむくりと起き上がる。彼女は器用にベビーベッドを降り、アクアの隣まで這ってきた。

 

「きゃーー! やっば、ママかわいすぎ! 視聴者全員、億支払うべき!!」

 

 ルビーのテンションは一瞬で振り切れていた。赤子とは思えない流暢さで思ったことを口にしている。

 テレビの中では、光をまとったアイがターンを決める。

 

「ターンの時の表現力、まじやばくない!?!? 鬼気迫りすぎて、むしろ鬼!?!? ……やっばー、おむつ替えたばっかなのに失禁しそう」

 

 アクアは無言でその横顔を見つめた。

 

「顔良し、スタイル良し、歌も上手い。うちの母、まじのまじで逸材すぎる……!! 速攻で録画、観返さなきゃ……!!!!!」

 

 ルビーの熱、もはや崇拝を超えて祈りの域に達していた。

 アクアが呆れたように目を細めると、彼女はムゥッとした顔で睨み返してくる。

 

「生放送はリアタイに意味があるってのに、どうして起こしてくれないかな!! このカラダ、無駄に眠いんだから、お互い協力しあおうよ!!!」

 

「俺は何度か起こしたぞ」

 

「えっ⋯まじ⋯?」

 

 その声は明らかに動揺していた。

 アクアは内心で小さくため息をつく。

 つくづく思う。アイには普通の子を産ませてあげたかった。

―――こんなおかしな”双子”じゃなく。

 そう。このアホ―――星野ルビーもまた、アクアと同じどこぞの誰かの生まれ変わりだった。

 彼がそれに気づいたのは、意外と早い段階だった―――――。

 

 

  * * *

 

 

 その夜、月明かりが部屋を照らしていた。横で母の規則的な寝息が聞こえる。

 目を覚ましたアクアは、眠れずにベッドを抜け出した。

 リビングの方から、カタカタと一定のリズムが聞こえてくる。

 不自然な明滅。液晶の光。

 覗いてみると、ルビーがノートパソコンの前に座っていた。小さな体でキーボードを叩き、顔を真っ赤にしている。

 

「はぁ? 死ねよ? ママの才能と美を理解しない猿人類がっ⋯⋯!」

 

 その怒声が、妙に流暢だった。彼女の指がキーを叩くたび、罵詈雑言が画面に刻まれていく。

 そう、彼女は家のパソコンを使い、ツイッターでアイと検索。アンチと壮絶なリプ合戦を繰り広げていたのだ。

 

「パフォーマンスの質で格の違い、明らかでしょ!!! 運営に贔屓されるのは必然なんだけど! どうせテメェ、ブスなババアだろ! 鏡見てからもう一回同じこと言ってみろっつーの!」

 

 キーボードが悲鳴をあげる。

 アクアはしばらく見ていた。

 あまりの執念深さに、少し怖くなった。

 やがて、彼はそっと言葉を発した。

 

「⋯⋯お前」

 

「えっ」

 

 振り返ったルビーの目に動揺が見える。

 

「もしかして、俺と同じか?」

 

 ピタリと動きが止まる。空気が固まる。

 そして、ようやく絞り出した言葉がそれだった。

 

「赤ん坊がしゃべった!? キッモーーー!」

 

「お前もだろ」

 

 それが転生した者同士の、ある意味で最初の対面だった。

 

 

  * * *

 

 

 カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込む。部屋の空気は少し冷たい。

 アイはソファに座り、眠そうな目で赤子を抱き上げていた。

 揺れる腕の中、アクアは目を細める。

 

「おなかへった? のむ? おっぱい」

 

 その声は柔らかくて、寝ぼけた脳には少し甘すぎた。

 彼は思わず首を振る。

 

「えっ、いやなの?」

 

 アイは首をかしげ、哺乳瓶にミルクを用意してくれた。

 ごっきゅ、ごっきゅ。我ながら情けない音が喉の奥から漏れる。

 

「アクアは哺乳瓶が好きだねー。すっげーのみ方〜」

 

 アイが笑う。その笑顔はまぶしかった。

 アクアは内心で呻く。

 ――さすがに、アイドルに授乳させるのは大人としての一線を越えてしまう気がする。

 ルビーがその横で「うー」と声をあげる。

 

「はいはい、またおっぱい? ルビーはおっぱい好きだねー」

 

 アイはルビーを抱き上げ、我が子に乳をやる。アクアはそれを遠目に見つめていた。

 ルビーがどや顔でこちらを見る。視線がぶつかる。

 

 ―――こ、こいつ⋯⋯ッ!

 

「仕事の時間だ」

 

 斉藤壱護の声が玄関側から落ちてくる。

 靴音が短く二つ。

 

「はーい」

 

 アイはアクアとルビーをソファに座らせ、その額にキスを落として、笑った。

 

「いってくるね」

 

 ミヤコも彼女を見送る。

 

「いってらっしゃい」

 

「いってきまーす」

 

 ドアの開閉音がして、外の空気が一瞬だけ流れ込み、すぐ閉じた。

 テレビの音が部屋の主役に戻る。

 

「お前、少しは遠慮しろよな」

 

 アクアは天井近くの白い灯りを一度見てから、隣の小さな横顔に言う。

 

「なんで?娘の私がママのおっぱい吸うのは自然の摂理なんですけど。与えられた当然の権利なんですけど」

 

「一応聞いておくけど⋯⋯お前、前世でも女か?」

 

「うん」

 

「なら、ギリ許せる……か」

 

「おたくの嫉妬きもーい。まあ、いい年した男が授乳とか倫理的にヤバいもんね!良かった 合法的におっぱい味わえる女に生まれて」

 

「俺の倫理観だとそれもアウトなんだけどな」

 

 ルビーはちょっと危ない表情をした。目のハイライトが濃くなる。

 

「ママも可哀想⋯⋯まさか自分の子供が自分のオタとかマジキモいもん⋯」

 

 言いながら、決意みたいなものが表情の端に乗る。

 

「あー、ママかわいそう。私が一生守ろー」

 

「絶対お前の方がキモいよ」

 

 こいつは相当やばい部類かもしれない。

 前世では女のアイドルオタは身近にはいなかったが―――いや、一人いたか。

 脳裏のどこかで、冬の病室の光が一度だけ明滅した。

 再び妹の方を見ると、なにやらもじもじとしていた。

 

「お、おむつ交換したいから、向こう行って」

 

「はいはい」

 

 そう言って、部屋の隅へ移動する。

 

「おんぎゃー おんぎゃー」

 

 その声に呼ばれて、ミヤコが部屋に帰ってきた。ため息がワンテンポ遅れて落ちる。

 ミヤコは無言でルビーのオムツ替えに入る。数ヶ月もこうして過ごして入れば、慣れたものだった。

 

「はぁ……なんで私がこんな仕事…… 一応私、社長夫人じゃないの?美少年と仕事できると思って、あいつと結婚したのに!与えられた仕事は十六歳アイドルの子供の世話!?それで父親不明の片親とか、闇すぎんだろ!!そもそも私はベビーシッターやりに嫁に来たんじゃねえええ!!」

 

 替え終わったオムツが丸められて、ゴミ箱に音を立てて落ちる。

 

「はぁ?ママに尽くせるのは幸福以外の何物でもないでしょ。脳おかしいんじゃない?」

 

 オムツを替えてもらったことも忘れ、ルビーが鼻で笑う。

 

「……いや、意外と彼女の言ってることに正当性が見受けられる」

 

 アクアは素直に言った。

 

「ていうか、これって不祥事の隠蔽よね 文●とかにこのネタ売ったらお金持ちに……」

 

 ミヤコの視線がテーブルの上の母子手帳に落ちた。

 スマホが手に吸い寄せられる。

 

「うわっ、やばっ!どうする!?殺す?」

 

「いや、無理だ⋯⋯。体格差がありすぎる」

 

「こっちは冗談だけど、そっちはもしかして本気⋯?」

 

 放っておけば危険なのは違いない。

 けれど、むしろこれはチャンスと考えた方がいい。

 アクアはそう判断した。

 ミヤコはもう母子手帳を開いている。ページの紙音が軽い。

 

「──あっ!!どうすんの!あいつ母子手帳めっちゃ撮り始めたけど!」

 

「俺に考えがある」

 

 テーブルの上へよじのぼる。

 

「本担を月間1位に押し上げるのよ⋯⋯これを売ったお金でホスクラでMOEを⋯⋯」

 

 ミヤコの独り言は具体的で、現実的で、やけに生々しかった。

 アクアは息を整え、赤子の体でも何とか厳かな声色になるよう語りかける。

 

「哀れな娘よ。貴様の心の渇きはシャンパンでは癒えぬ」

 

「だ、誰!?」

 

 振り返ったミヤコの目が、数秒遅れで見開かれる。赤ん坊が、こちらを凝視している。

 

「我は天の使いである。貴様の狼藉、これ以上見過ごすわけにはいかぬ」

 

「神の使い⋯⋯!?っていうか赤ちゃんがしゃべっ⋯⋯嘘だぁ!」

 

「貴様の常識だと赤子はしゃべるのか?信じよ」

 

「いやいや⋯⋯流石に“神”とか言われても⋯⋯。私、そういう宗教的なの信じないし!」

 

 ミヤコは額に手をやって、それからパンと手を打った。

 

「あっ、分かった!これ、ドッキリでしょ?アイさんの出る番組で、マネージャードッキリとか――あるある!やること手かかってるなぁ⋯⋯どこかにカメラあるんでしょ?」

 

 流石に無理があるか…?

 アクアの眉間に現実が戻る。

 ミヤコは本気で部屋を見回しはじめた。

 

「ほらほらルビーちゃん、机の上に乗っちゃあぶな⋯」

 

 伸びた手を、ぴしゃりと払う音がした。

 部屋の空気が一段落ちる。

 

「我はアマテラスの化身、貴様らの言う“神”なるぞ」

 

 ルビーの声が低く、太く落ちた。幼児の喉でどうやって出しているのか。

 ミヤコの腰が抜ける。

 

「貴様は目先の金に踊らされ、天命を投げ出そうとしている」

 

「て、天命⋯?」

 

「星野アイは“芸能の神”に選ばれた娘。そしてその子等もまた、大いなる宿命を持つ双子。それらを守護するのが汝の天命である。貴様の行いは神に背く行為。このままでは汝に天罰が下るであろう」

 

「そ、そんな!? 天罰ってなんですか!?具体的には!!?」

 

「具体的に。具体的には⋯⋯」

 

 ルビーが言葉に詰まる。アクアは助け舟を出すように呟いた。

 

「死ぬ」

 

「そう!死ぬ!」

 

「いやぁ!超具体的ぃ⋯!私、どうすれば⋯」

 

 ミヤコは半泣きでテーブルに突っ伏した。肩が震えるたび、金のピアスが小さく鳴った。

 ルビーはそんな彼女に優しく手を置き、天啓を授ける。

 

「簡単なこと。母と我々の秘密を守ることじゃ。そしてこの子等をかわいがり、言うことを全部きくのじゃ。さすれば、イケメン俳優との再婚も夢ではないぞよ」

 

「マジですか!なんでも言うこと聞きます!靴の中敷きでもなめます」

 

「そこまではせんでよい」

 

 ミヤコは涙の残る顔で立ち上がると、鼻歌まじりにモップを取り出し、部屋の隅から掃除を始めた。

 

「イケメンと再婚〜」

 

「これで良かったのかな」

 

「どのみち乳児の活動範囲には限界がある 大人の協力者は必要だった これで外にも出られるな」

 

 ルビーはぱっと笑った。

 

「それはうれしい!やった!」

 

「しかし、なかなか迫真の演技だったな どこかで演劇やってたのか」

 

「ううん、初めてやったけど」

 

「初めて?学校で劇とかやんなかったのか」

 

 ルビーは少しうつむいた。声の端が暗くなる。

 

「私、ちょっと変わった所で育ったから」

 

「ふーん。じゃあ才能だ、将来は女優かな」

 

「将来……考えたことなかった」

 

 

  * * *

 

 

 夜は静かだった。

 寝室の空気は冷えていて、月の色が床に四角く落ちている。

 ルビーの寝息が規則正しく続いて、間のびした時計の音みたいに部屋を満たしていた。

 アクアはソファで丸くなって眠っていた妹に毛布をかけた。

 

 ―――俺に妹ができた。アイドルオタの少し変わった女だ。まるで前世の誰かにそっくりだった。

 

 雪の気配を連れて、記憶が割り込む―――

『アイちゃん、もー、ダンスキレッキレ! まじカリスマなの!』

『ふーん』

『アイちゃんのことは世界で一番好きだけど、センセのことも、同じくらい好きだよ?』

―――そんな思い出に少し感傷的な気持ちになる。

 

「…アイについて語る時の熱量は、ほんとに君にそっくりな子だよ。さりなちゃん」

 

「……ふぁ、なに? なんか呼んだ?」

 

 ルビーがまぶたをこすりながら顔を上げた。髪がくしゃくしゃのまま、こちらを見ている。

 

「悪い、起こしたか? 別に呼んでねぇ。寝るなら布団で寝ろー」

 

 アクアはリモコンを取って、深夜番組の音量を落とす。画面の光だけが壁に薄く揺れた。

 

「ん〜」

 

 ルビーはうさぎのぬいぐるみを引きずって、よちよちとベッドへ向かう。ふと振り返り、アクアを見る。

 

「…まあ、そうだよね。そんなわけないか。さりなは、前世の名前だし」

 

 その言葉は誰に届くでもなく、夜の廊下の静けさに消えた。

 彼女は毛布にもぐり、明日に思いを馳せながら静かな寝息に戻った。

 窓の外で、風が一度だけ樹を鳴らした。

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