三日月が照らす、実力至上主義の教室   作:ににぬうす

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続けて...


第一話

四月。 真新しい制服に袖を通し、玄関で靴紐を結ぶ。

 

「…本当に大丈夫なの、渚?友達は、できそう?」

 

玄関から声をかける母さんの声は、心配の色でいっぱいだった。

無理もない。中学時代の僕はずっと、どこか親に心配をかけるような雰囲気があったから。でも、今は違う。

 

「うん、大丈夫だよ。すごい学校だし、寮も綺麗で快適だから。心配しないで」

 

「そう…。でも、無理だけはしちゃダメよ。何かあったら、すぐに連絡してね」

 

「分かってるって。それじゃあ、そろそろバスの時間だから。…行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

当たり前の挨拶。心配してくれる家族の声。

その一つ一つが、僕がこれから始めようとしている普通の高校生活の象徴のようで、少しだけくすぐったい気持ちになる。

 

殺せんせーが命を懸けて僕たちにプレゼントしてくれた、未来への切符。

その最初の目的地が、この「東京都高度育成高等学校」だ。

先生に導かれたこの場所で、僕は僕なりの答えを見つける。そんな決意を胸に、僕は部屋のドアを開け、朝の光の中へと一歩を踏み出した。

 

---

 

 

バスの中ほど、窓際の席に座り、僕は流れていく見慣れない街並みを眺めていた。

中学を卒業した後、ばっさりと髪を切ってからまだ日は浅い。

シャンプーをする時、つい昔の癖でポンプを二度押ししてしまい、泡だらけの手のひらを見て苦笑いする日々だ。

首筋を撫でる風が少しだけ落ち着かない。この真新しい制服も、まだ少し体に馴染んでいなかった。

 

(ここから始まるんだ。僕の、新しい毎日が)

 

一人の高校生としての、普通の毎日が。

 

「そこの君、お婆さんが困っているのが見えないの?」

 

そんな決意を胸にした僕の耳に、車内で響く女性の叱責の声が届いた。

視線を向ければ、バスの前方、優先席の前で、杖をついた小柄なお婆さんが、バランスを崩しそうになりながら困り果てている。

そして、その目の前の優先席には、僕と同じ学校の制服を着た、派手な金髪の男子生徒がふんぞり返って座っていた。

 

「フッ。実にクレイジーな質問だね、レディー」

 

彼は手にしていた鏡で自分の前髪をいじりながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

「なぜこの私が席を譲らねばならないのかね? 理由を聞かせてくれたまえ」

 

「君が座っているのは優先席よ。お年寄りの方に譲るのは当然でしょう?」

 

OL風の女性が憤然と詰め寄る。

 

「理解できないねえ。優先席はあくまで『優先』席であり、譲ることを強制する法的な義務はどこにも存在していない。

この席を譲るかどうかは、現に座っている私が決めることなのだよ。若者だから譲る? 高齢者だから座る権利がある? ハハ、実にナンセンスな考え方だ」

 

悪びれる様子も、ためらう様子も一切なく、彼はそう言い放った。車内に、非難めいた、しかし誰もが口を閉ざす気まずい空気が流れる。

OL風の女性は、彼のあまりにも堂々とした態度に言葉を失い、悔しそうに目に涙を浮かべ、唇を噛み締めている。

周囲の乗客たちは、見て見ぬふりを決め込み、気まずい沈黙が車内を満たしていた。

 

(すごいな、あの人は…)

 

僕は、呆れるよりも先に、ある種の感心を覚えてしまった。彼の理論は、社会通念上は完全な暴論だ。

でも、その根底にある「自分こそが世界の中心であり、自分の利益と快適さが最優先されるべき」という哲学は、一切揺らがない。

常識や道徳、あるいは他人の目という武器は、彼にはまったく通用しない。

 

女性が目に浮かぶ涙を堪え、お婆さんへと小さな謝罪の言葉を口にする。

 

僕は、もう見ていられない気持ちになった。車内の空気も最悪だ。

正論をぶつけるだけでは、ああいうタイプには届かない。むしろ、正論を振りかざした側が傷つくだけだ。

道徳が、剥き出しの自己中心主義の前に完膚なきまでに負けたまま、この空気が澱んでいく。それは、見ていて決して気持ちのいいものじゃなかった。

 

(見ていられないや…)

 

僕が静かに席を立ち、お婆さんに自分の席を譲ろうと一歩踏み出そうとした、その時だった。

 

「私もお姉さんの言う通りだと思うな」

 

凛とした声。同じ制服の快活そうな少女が、勇気を出して金髪の生徒の前へと進み出た。

 

しかし、彼女がどれだけ真摯に社会貢献の大切さを説いても、彼の耳には届かない。

当然かもしれない。彼の辞書には、他者へ奉仕するという概念が全くないのだろう。

 

少女の思いは届かなかった。だけど彼女の瞳の光は、そこで少しも揺らがなかった。

彼女はくるりと向きを変えると、乗客全員に向かって、深く、綺麗に頭を下げる。

 

「あの!どなたか、席を譲ってあげてくださいませんか?お願いします。」

 

鈴の鳴るような、しかし切実な声。

彼女のその勇気ある行動に、それまで固まっていた車内の空気がわずかに動き、何人かの乗客が気まずそうに顔を上げたり、動きを見せたりした。

 

彼女がきっかけを作ってくれた。

 

「…あの、僕の席でよければ、どうぞ」

 

僕はそう言うと、今度こそお婆さんに席を促した。お婆さんは何度も頭を下げて、僕が空けた席に座る。

 

最初に声を上げた少女は、僕の行動に気づくと、パッと表情を輝かせ、「ありがとう!」と太陽のような笑顔を向けてくれた。

 

金髪の彼は、その一連の出来事をせせら笑うかのように鼻で笑い、興味を失ったように窓の外に視線を戻す。

結局、彼の哲学が曲げられることはなかった。

でも、少女の勇気が、この気まずい空気を確かに救ったんだ。

 

僕は、彼女に尊敬の念を込めて小さく頷いた。

すると、彼女もこちらに気づき、少しだけ誇らしそうに、はにかんで微笑み返してくれた。

 

やがてバスは、目的地に到着した。

目の前にそびえ立つ、巨大で近代的な校舎。僕が校門をくぐろうとした、その時だった。

 

「あの!」

 

後ろから声をかけられ、振り返ると、バスにいた快活な少女が立っていた。

 

「さっきは、ありがとう!」

「ううん、君が声を上げてくれたからだよ。すごいなって思って」

 

僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。

「あの!」

 

後ろから声をかけられ、振り返ると、バスにいた快活な少女が立っていた。

 

「さっきは、ありがとう!声をかけたはいいけど、どうしようかと思っちゃったから。本当に助かったよ」

「ううん、君が声を上げてくれたからだよ。あの空気の中で行動できるなんて、すごいなって思って」

 

僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。

「私、櫛田桔梗(くしだ ききょう)っていうの。よろしくね!」

「僕は、潮田渚。よろしく」

 

「渚くんかー、良い名前だね!」

彼女は本当に裏表がなく、誰にでも太陽のように接することができるんだろうな。

 

こうして僕は、新しい教室の扉を開ける前に、最初の友人と知り合うことになった。

 

そんな予感を胸に、僕は櫛田さんと一緒に、巨大な校舎への一歩を踏み出した。

 




「ねぇ!渚くんは、どこの中学から来たの?」」

太陽のような笑顔で、櫛田さんは屈託なく尋ねてくる。
僕は一瞬、どう答えるか迷い、少しだけ言い淀んだ後、事実を告げた。

「椚ヶ丘(くぬぎがおか)中学校だけど…」

「えっ!? くぬぎがおか!? すごい!あの超有名な進学校だよね!?」

彼女は素直に驚きの声を上げた。その反応は、純粋な尊敬の色をしていた。

「でも、それなら…どうしてこの学校に? 椚ヶ丘って、高等部までエスカレーター式だって聞いたけど…」

鋭い質問だった。彼女はただ明るいだけじゃなく、物事をよく知っている。

「うん…。でも、僕がお世話になった先生がいて。その先生の教えというか…導きがあって、ここに来ることに決めたんだ」

僕の言葉に、櫛田さんは「へぇー!」と、さらに瞳を輝かせた。

「人生を決めるくらい影響を受けた、すごい先生なんだね!ねえ、どんな先生だったの?」

(どんな、先生…)

櫛田さんの純粋な問いに、僕の脳裏に浮かんだのは、黄色くて、丸くて、ぬるふふと笑い、マッハ20で飛び回る、僕たちのかけがえのない恩師の姿…。
そして、その先生が持っていた数々の致命的な弱点。 例えば、水に弱いとか、すぐに油断するとか……あと、スタイルの良いお姉さんにめっぽう弱いという、教師としてどうなのかと思うような弱点のことだった。

その思考の流れで、僕は目の前の櫛田さんの、その…スタイルの良さに、無意識に視線をやってしまう。

「?」

僕の視線に、櫛田さんは不思議そうに小首を傾げた。

「え、えーっと……。すごく…なんというか…個性的、な先生…だったかな。色々な意味で…。あ、あと、綺麗な…その、スタイルの良い女性が、お好き、だったり…あ、いや!」

しどろもどろになり、慌てて口を噤む僕。
(しまった、殺せんせーのことを話すわけにはいかないのに!というか、よくよく考えたら、生徒に性癖まで把握されてるって、やっぱり変態教師じゃないか。)

僕の奇妙な反応と慌てぶりに、櫛田さんはきょとんとした顔で、僕を数秒間じっと見つめた。

(まずい…。誤解されたかも…。僕が、そういうちょっと変わった性癖の先生を、心から尊敬している生徒みたいになってる…!何か、弁解しないと…!)

僕が必死に言い訳を探して口を開きかけるのと、彼女が楽しそうに吹き出すのは、ほぼ同時だった。

「あはは、なーにそれ!よっぽど面白い先生だったんだね!」

僕の焦りをよそに、彼女は楽しそうに笑い飛ばしてくれた。

「そっかー。じゃあ、その先生のためにも、この学校で頑張らないとだね!」

「…うん。そうだね」

僕は、苦笑いを浮かべながら頷くしかなかった。
どうやら、この先、先生のことを聞かれるたびに、恩師の尊厳を傷つけるのではないかそんな予感がした。
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