三日月が照らす、実力至上主義の教室 作:ににぬうす
入学二日目の朝。
Dクラスの教室は、昨日、担任の茶柱先生から告げられた「Sシステム」の説明を終えたばかりの、あの緊張感とは打って変わって、まるで祝祭前夜のような浮かれた空気に満ちていた。
それもそのはずだ。僕たち新入生は、入学したという、ただそれだけの事実によって、何のリスクも対価も要求されることなく、「10万」という大金を与えられたのだから。
「なあ、今日の放課後、ケヤキモールの新作ゲーム買いに行こうぜ!」
「私はずっと欲しかったブランドの洋服が見たいなー」
「カラオケも行きたくない? 最新機種入ってるらしいよ!」
教室のあちこちで、そんな輝かしい未来の消費計画が立てられていく。
昨日、僕が感じたシステム全体への漠然とした違和感や、クラス分けに対する不自然さなど、この熱狂の前では、取るに足らない杞憂でしかないようだった。
(…本当に、大丈夫なのかな)
僕は自分の席に着くと、カバンを置きながら、静かに周囲の観察を始めた。
恩師はこんなことも言っていた。
「集団が熱狂に包まれている時こそ、冷静な観察眼が最大の武器になります。流れに飲まれず、流れの発生源と、その流れによって誰が得をするのかを見極めなさい」と。
後ろの席の綾小路君は、特に浮かれた様子もなく、かといって焦るでもなく、ただ静かに教室全体を眺めている。
何か集団に溶け込めまいかとうずうずとしているような気がする...。
その隣の堀北さんは、周囲の喧騒がよほど不快だとでも言うように、眉間に深い皺を寄せながら読書に没頭している。彼女の世界は、常に彼女自身の中で完結しているようだ。
そして、教室の中心では、平田君と櫛田さんが、クラスメイトたちの計画を笑顔で聞いていた。彼らはこのクラスの太陽だ。誰もが彼らの周りに集まり、その明るさを享受している。 でも、太陽が明るすぎると、その下にできる濃い影には、誰も気づかない。
授業が始まっても、その雰囲気は変わらなかった。
最初は集中していたが、だんだんとその態度は崩れ、何人かの生徒は、明らかに授業に集中していない。ノートを取るふりをしてスマホをいじったり、堂々と雑誌を読んだりしている。
須藤君に至っては、開始早々、机に突伏して堂々と居眠りをしている。
しかし、驚くべきことに、担当教師も、朝のホームルームに来た茶柱先生も、それを咎めるそぶりすら一切見せない。 まるで、僕たちの自滅を静かに待っているかのように。
(ダメだ、このままじゃ…E組の二の舞になる)
僕たちのE組も、最初は落ちこぼれの集まりだった。本校舎からの明確な差別と劣等感の中で、誰もがやる気を失っていた。でも、殺せんせーという共通の目標と、先生の個別指導があったから、僕たちは一つになれた 。
このクラスには、そのどちらもない。あるのは、目先の欲望だけ。
このままでは、ただ堕落していくだけだ 。
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昼休み。
喧騒が最高潮に達する中、僕は意を決して、クラスの中心にいる平田君に声をかけた。
「平田君、ちょっといいかな」
「ん?どうしたんだい、潮田君?」
人の輪から少し離れた場所で、僕は切り出した。
「昨日のポイントのことなんだけど…。何の対価もなく、毎月10万円が支給されるなんて、少しおかしいと思わないかな?」
「…おかしい、かい?」
平田君は、意外だというように、人の良さそうな目を丸くして首を傾げた。
「うん。例えば、僕たちの授業態度とか、テストの成績次第で、来月の支給額が変わったりするんじゃないかって…」
僕の言葉に、平田君は真剣な表情で考え込んだ。
彼は、頭ごなしに他人の意見を否定するような人間ではない。
「なるほど…。確かに、潮田君の言う通り、少しうますぎる話かもしれないね。でも、先生は『君たちの実力への評価だ』とハッキリ言っていたし…」
そこに、会話を聞いていた櫛田さんが、天使のような笑顔で割って入ってきた。
「あ、私も渚君の意見、一理あると思うな! 用心するに越したことはないもんね。貯金しておいて損はないし! ね、平田君!」
「ああ、そうだね。櫛田さんの言う通りだ。皆にも、少しだけ使いすぎには注意するように、それとなく言ってみるよ。ありがとう、潮田君。気づかせてくれて」
平田君はそう言って、僕に心からの感謝の笑みを向けてくれた。
でも、僕は分かっていた。
櫛田さんの言葉は、僕の懸念に心から同意したものではない。
彼女はただ、僕の「懸念」と平田君の「楽観」の間に立ち、この場の空気を円滑にするための、完璧な「正解」を口にしただけだ。その笑顔には、何の焦りも危機感も含まれていなかった。
結局、僕のささやかな警告は、クラス全体の熱狂を冷ますには至らなかった。
平田君は「ありがとう!」ともう一度僕に言うと、そのまま彼を呼ぶクラスの女子たちに連れられて、賑やかに食堂へと向かってしまった。
僕は自分の席に戻りながら、一人、静かに息を吐いた。
ふと後ろの席に目をやると、綾小路君が、何かを言いかけたように片手を上げかけながら、平田君たちの去っていく背中を、どこか遠い目で見ているのが分かった。
僕の視線に気づいたのか、綾小路君はハッと我に返ったようにこちらを向き、すぐに少し気まずそうに目を逸らしてしまった。
(綾小路君も、何かを考えているんだろうか。それとも、ただ単に、あの輪に入れなくて友達作りに苦労しているだけなのかな…)
どちらにせよ、熱狂の中心にはいない。
その点では、僕と同じなのかもしれない。
放課後、ほとんどのクラスメイトが部活動説明会や、ポイントを使うためにショッピングモールへと消えていく中、僕は一人、広大な図書室へと向かった。
まずは情報収集だ。
都内有数のエリート校。必ず長い歴史があるはず。
この学校の本当のルール、過去の事例、そして「Sシステム」の詳細。
何か、必ずヒントがあるはず。
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(うーん、ダメだ…)
クラスメイトの誘いもやんわりと断って、放課後の図書館通いを始めて、三日目。
僕の目の前には、成果もなく積み上げられただけの分厚い本の山。
その無力感に、僕は机に突っ伏した。
想定外だった。
想定外だった。 第一に、この図書館はあまりにも広大すぎる。
椚ヶ丘中学校の図書室も相当な蔵書数を誇っていたが、ここは国家が運営するエリート校。
知の迷宮とでも言うべき場所で、目的の情報にたどり着くのは至難の業だった。
そして何より、僕が求める「Sシステム」や「クラスポイントの具体的な増減ルール」、「過去のクラス間移動」といった核心的な情報が、どの資料にも一切見当たらないのだ。
学校の歴史を綴った年鑑を何十年分もめくってみても、各クラスの動向は「Aクラスは今年も優秀な成績を収めた」「Bクラスも健闘した」といった、当たり障りのない記述ばかり。
まるで、本当に知られたくない事実は、意図的にすべて秘匿されているかのようだった。
「うーむ…」
打つ手なし、という現実に深く項垂れていると、不意に、すぐそばから穏やかで、少し掠れたような声がかけられた。
「…あの、何かお困りごとですか?」
ハッとして顔を上げると、そこには、僕と同じ一年生の制服を着た、不思議な雰囲気を持つ小柄な少女が立っていた。
色素の薄い髪。物静かな瞳。 彼女は、僕が広げていた年鑑を、興味深そうに覗き込んでいる。
「あなたも、本がお好きなんですか? いつも放課後、こちらにいらっしゃるので、もしかしたら仲間かな、と」
無意識に警戒してしまった僕は、咄嗟に読んでいた年鑑をパタンと閉じた。
「えっと、まあ…本は好きだよ。それと、この学校の歴史に、少し興味があって」
当たり障りのない返事をすると、彼女は深く追及することなく、ふわりと微笑んだ。
「そうですか。ここは静かで、いいですよね。…私はCクラスの椎名ひよりです。よろしく」
「僕は、Dクラスの潮田渚。よろしくね、椎名さん」
物静かで、手には推理小説を抱えている。
Cクラスにも、色々な生徒がいるんだな。
「渚君、ですか。先ほどは何か、深く考え込んでいらっしゃるようでしたけど…?」
彼女はそう言うと、僕が閉じた本に一瞬だけ視線を落とし、それから僕が築いた本の山を静かに眺めた。
どうしようか。クラスの内部事情を、他クラスの生徒に話すべきだろうか。
でも、僕一人では、この巨大な謎は解けそうにない。僕は、藁にもすがる思いで口を開いた。
「うーん、実はDクラスの歴史を調べていてね。過去にこのクラスに所属した人たちが、どういう三年間を過ごしたのか知りたくて」
「Dクラスの歴史、ですか…?」
「うん。とはいっても、この学校の編年史みたいな大きな記録を見ても、ほとんど手がかりはないんだけどね…」
彼女は一瞬、思案するように指を顎に当てた。そして、静かに、しかし自信に満ちた声で言った。
「であれば、学校という大きな枠からクラスを見るのではなく、人からクラスを見てはいかがでしょうか?」
「人から…?」
「えぇ。この学校の歴代生徒会のメンバーや、部活動で優秀な成績を残された方々。
そういった『個人』がどのクラスに所属していたのかを調べれば、必然と各クラスの歴史というものが見えてくるのではないでしょうか?」
…なるほど。
まるで、目の前に立ち込めていた分厚い霧が、晴れていくような感覚だった。
僕は「Sシステム」という巨大な壁やルールばかりを見ていた。
その壁を構成している一人ひとりの生徒、その「実績」を見るという視点が、完全に抜け落ちていた。
目の前にいる椎名さんは、不思議な雰囲気を持っているけれど、物事の本質を見抜く、優れた洞察力の持ち主だ。
「ありがとう、椎名さん。すごいよ。僕じゃ思いつかなかった。さっそく探してみるよ」
そうと決まれば、まずは生徒会の情報は校内新聞のバックナンバーや生徒会名鑑、そしてスポーツや文化活動の実績は部活動の年鑑だろうか。
名門を謳う高校だ。輝かしい個人の実績は、必ずどこかに誇らしく記録されているはず。
僕が早速席を立とうとすると、くい、と袖を控えめに掴まれた。椎名さんだった。
「その…もしご迷惑でなければ、私も協力してもよろしいでしょうか?」
それまでの物静かな雰囲気とは打って変わって、彼女の瞳は知的な探求心にきらめいていた。
ふと、彼女が胸に抱えている推理小説に目がいく。
いろんな人が手に取り、渡り歩いたのか何度も読み返されて、少し曲がっている表紙。
そこに描かれた、パイプを咥えた痩身の男性。
それは、物語の中で、誰も気づかないような些細な違和感から真実を紡ぎ出す、名探偵の姿だった。
腕に抱えられた推理小説の主人公に、自分を重ねているのかもしれない。
その隠しきれない好奇心に、僕は思わず笑みをこぼした。
「是非!」
僕たちはまず、生徒会名鑑や過去の校内新聞が収められた棚へ向かった。
次に、スポーツ年鑑や文化部の活動記録が並ぶ一角へ。
そして、文化的なコンクールでの入賞者リスト。
二人で手分けして、膨大な資料の中から、一つ、また一つと事実を拾い上げていく。
そして、調査が進むにつれて、僕たちの間にあった言葉は、次第に少なくなっていった。
「これは…」
「歴代生徒会長名鑑」…AクラスとBクラスの出身者で占められている。
全国大会に出場した運動部のエースたち…そのほとんどがAクラスかBクラスだ。
Cクラスの生徒の名前も稀に見かけるが、A、Bクラスに比べると圧倒的に比率が少ない。
そして、Dクラスの生徒が栄光を掴んだという記録は、どこを探しても、ただの一行も見当たらない。まるで、初めから存在しないものとして扱われているかのように。
調査を終え、閲覧机に戻った僕たちの間を、重い沈黙が支配する。
「えぇ…渚君」
椎名さんは、静かに、しかしはっきりとした声で続けた。
「どうやら、私たちのクラスの生徒の名前は、この学校の輝かしい歴史には、ほとんど刻まれていないようですね」
それは単なる記録の偏りではない。
この学校側が意図して作り上げた、入学時点からの揺るぎない「序列」の証明だった。
僕たちは、その冷たい真実を前に、ただ立ち尽くすしかなかった。