「嗚呼、來たんだね」
黒い扉を開けた瞬間、先ほど聞いた覚えのある声が響いた。韋駄丸は思わず剣をぎゅっと握りしめ、目の前の相手がまだ椅子にどっかりと座っているにも関わらずそれを大きく構えた。最下層である地下二階の突き当たりにあったこの部屋。壁の奥にある本棚だけ、瓦紅京のリコルの部屋に少し似ていた。
「僕と殺り合うつもり?」
シンドロンはくるんと回転するように椅子から立ち上がった。見覚えのある、水色の外套と帽子。その内側に着た黒いスーツと、首元の青い宝石。さっき見た姿と同じだ。
「…やり合うつもりはない」
韋駄丸が戦闘前の緊迫した空気を一言で切り裂いた。リコルが半歩後ろへ下がり、韋駄丸は目の前の女に弄ばれていたことへの怒りをおさめようと深呼吸した。
「…はぁ?」
シンドロンが拍子抜けしたようカクンと首を傾げて言った。考える前に声が出たのだろう。
「私たちは極力人を殺さないようにしているのです」
「じゃさっきは何で直ぐ斬りかかって來たのさ?」
シンドロンが怪しげに目を細めて机から身を乗り出すようにこちらを見ている。
「…さっきは距離的に拘束した方が早いと思ったんでしょ」
美甘が答える。シンドロンは腕を組み考え始めた。話に矛盾点がないかを必死に思考しているようだ。韋駄丸はそれを遮るように口を開く。
「交渉をしに来た」
「ほう?交涉ねぇ…」
シンドロンが少し煩わしそうに両目を開いて韋駄丸の方を見る。韋駄丸はリコル、レヴル、美甘をチラッと見て、剣を下ろした。
「D.I.Gの活動を停止しろ」
韋駄丸が静かに、しかし威圧的に言った。部屋の空気が数段重くなったような体感がし、シンドロンは思わず身震いした。
「他に拉致した実験体がいるならそれも全員自由にしろ」
韋駄丸は自分で言っていてだんだんとバカらしくなってきた。目の前の女がこんな都合のいい話を呑むはずがない。それでも韋駄丸は続けた。シンドロンの青い目がじっとこちらを見つめている。
「もし抵抗すれば協会が全勢力で潰しにかかる」
韋駄丸は自分で言った言葉に少し自分で驚いた。こんな脅しまがいのセリフを言うことになるとは。しかし相手は重要犯罪者。これくらい仕方がないだろう。そもそも会話が得意ではない自分がこんなことをするとは…。
韋駄丸が口を閉じてから、しばらく部屋に沈黙が満ちた。シンドロンは軽い笑顔のように口角を上げたまま微動だにしない。
「僕にはどんな利点が或るのさ」
やがてシンドロンが言った。殺意は感じない。韋駄丸は少し考え、回答した。
「…BLUELINEにも協会にも捕まることがなくなる」
美甘が「そりゃそうでしょ」とでも言いたげにくるっと目線を動かした。シンドロンはぽかーんとした表情でこちらを見ている。それが逆に次の動きの読めなさを加速させ、韋駄丸は不安を覚えた。
「僕から云えるのは一つだけ…」
瞬間、韋駄丸の顔の真横を何かの風圧がビュッと通り過ぎた。韋駄丸はすぐに殺気を感じ取って横に飛んで避けたが、見えない何かがドスッと床に突き刺さる音だけが部屋に反響した。一瞬置いて、韋駄丸は今自分が見ている世界がシンドロンの能力で作られた幻覚なのだと理解した。
「消えろ」
シンドロンが言った。幻覚の彼女は変わらず机の奥に立っているが、現実の彼女は視覚的にはどこにいるか見当もつかない。
「…やはり交渉決裂ですか…」
リコルが呟き、無数のコウモリに分離した。韋駄丸はそれを聞いて剣を構え直すが、本物の相手の姿が見えない以上どこに構えればいいのか全くわからない。
「そんな條件に乘るとでも!?」
シンドロンの声が背後から聞こえ、韋駄丸は咄嗟に頭を伏せた。その瞬間、ガツンッ!と見えない攻撃が韋駄丸の両足を薙ぎ払い、彼はあっという間に床に倒れ込んだ。背中を強く打ち、剣がその手から離れた。
「…戦いようがないじゃん」
美甘がイライラとつぶやいて薙刀をビュンと振った。