ある晩、レオはまた受信箱を開いていた。
最新作『幽霊を探しています』への感想が並ぶ中に、引っかかるコメントがあった。
「レオのゲームって、怖くないよね。」
「人間のやさしいとこしか描かない。」
彼はしばらくそれを見つめていた。
[λ] 作者、どうしました?
「怖くない、ね。」
マグの縁で爪が鳴る。言葉より先に、指が反応した。
[λ] 褒めてますよ、多分。
「いや。安全すぎるってことだ。」
レオはマグカップを指で叩きながら呟いた。
「じゃあ——本当に怖いゲーム、作ってやるよ。」
[λ] いつものフラグですね。
***
レオがモニターに映したのは、心臓のような、果物のような模型だった。
表面が薄い膜に覆われており、ゆっくり呼吸している。
「人間の心を、何十枚も重ねた層として作る。
プレイヤーは手でその皮を剥いていく。
でも中心には、絶対に触れられない。」
[λ] ジャンルは倫理的ホラー?
「他人の中に踏み込むって、そういうことだろ。」
レオは小さく笑い、タイトルを入力した。
『心を剥く手つき』
***
ゲームを起動すると、画面の中央に心がふわりと浮かぶ。
果実のような艶と、肉のような脈動。
プレイヤーの透明な手が現れる。
クリックをひとつ。
ぺり――。
薄皮が一枚、静かに剥がれる。
『お疲れさま。』
声が聞こえる。
老いた声、子どもの声、男と女の境目にある声。
誰でも、どこでも聞けそうな日常の一片。
二枚目。
ぺり。
『今日は風が強かった。』
『コーヒー、薄かったな。』
十枚目を剥いても、まだ変わらない。
平凡な会話。だが、言葉の端に、
いいしれぬ不安が漂い始める。
二十枚目で、声の調子が少し変わった。
声の奥に余白が混じりはじめる。
『ほんとは、帰りたくなかった。』
『話したいけど、話せなかった。』
[λ] 作者。
平凡な会話に混じる沈黙が、一番怖いです。
「だろ? ホラーは静かな方が響くんだ。」
***
操作は繊細さを求められる。
中心に近づくほど、薄皮は軽く震え、破れやすくなる。
プレイヤーの手をほんの少しでも強く動かすと、
膜が裂ける音がして、心はすぐに閉じてしまう。
三十枚目からは、滲み出すような声に変わる。
『やさしい人ほど、嘘がうまい。』
『笑うとき、なんか悲しくなる。』
『まだ、あの約束のこと覚えてる?』
手を動かすたびに、薄皮が指に絡みつくような錯覚。
画面越しに、心の温度がじわりと上がる。
聞きたいけど、聞いていられない。
五十枚を越えるころには、
声はもはや日常の言葉ではなくなる。
『好き、でも見ないで。』
『ごめんって言う前に、触ってほしかった。』
『愛してる。そんなふうに言ったこと、あった?』
『痛い。痛いのに、もう一度。』
それは叫びではない。
泣き声の裏側に潜む、沈黙の爆音。
手を少しでも強く動かすと、
心がびくりと震えて、膜が引き攣る。
マウスのクリックひとつで、誰かの中が壊れる。
そんな錯覚が、手の平に染みていた。
レオはマウスを止めた。
「……これ、作ってるこっちが怖いな。」
[λ] 作者。
ようやく、ちゃんと怖いゲームです。
***
説明文は、また二行だけ。
あなたは、誰かの心を剥きます。
どうか、痛くしないで。
リリース翌日。
SNSは沈黙に包まれたままだった。
ほとんどの人は途中でやめた。
中には「無理」「怖い」とだけ書いたレビューもある。
ただ、それでもプレイする人はいた。
「最後まで行けなかった。でも、それでいい気がする。」
「自分の手で誰かを壊しそうになる瞬間を、初めて体感した。」
「操作を誤ると、心が閉じる。その閉じ方が、あまりに人間だった。」
[λ] 作者。
怖くないという感想、消えました。
「……でも、触れてはいけないって言われると、
人は、触れたくなるんだよな。」
[λ] それが人間。
そして、それを作るあなたも、人間。
***
「こんばんは、メイです。
レオさんの新作、心を剥く手つき。
もうタイトルがアウト。」
チャットが流れる。
《心を剥くな》《レオ=人類の敵》《見るだけで凍える》
画面には果実のような心臓。
メイはマウスを握り、慎重に動かす。
ぺり。
『今日は、よく眠れそうだ。』
「うん、まだ平和。」
二十枚。三十枚。五十枚。
声が増え、混じり、歪んでいく。
『どうして笑うの。』
『好き。好きじゃない。好き。嫌い。』
『優しくされたい。壊したい。壊して。』
『許さない許さない許さない——』
『その目でこっちを見るな。』
『やさしい顔して笑わないで。』
メイは目を閉じて、わずか笑う。
「……ねぇレオさん、これ、誰かの心を剥くゲームなのに、
こっちが剥かれてない?」
配信の終盤。
心の中心部は、光のように淡く脈打っていた。
メイが指を伸ばす。
ほんの少しの力加減で、破れてしまいそう。
『——来ないで。』
声は泣き声でも、怒鳴り声でもなかった。
静かで、壊れたように優しい声。
『見られたら、もう隠れられない。
でも、隠れられない私を、誰か見て。』
メイはマウスを止めた。
指先が冷たくなっている。
「……もう、やめようか。」
でも、彼女はマウスを離せなかった。
『見ないで。
でも、見つけて。』
沈黙。
そして、心は静かに閉じていった。
幾十の薄皮が戻り、すべての声が、やわらかく消えていく。
閉じた心は、また日常の声を垂れ流す。
メイはマウスから手を離した。
静かに息を吐いて、笑う。
「……怖いね。
でも、きれいだった。」
***
翌朝、レオの受信箱にはまた短いレビューが届いていた。
「中心には届かなかった。
でも、届かない場所があるって分かって、少し安心した。」
[λ] 作者。
結局、あなたが作ったのはホラーですか?
「……たぶん、人を描いたら、自然とそうなるんだよ。」
[λ] でも、美しかった。
「美しいって、怖いんだよ。
誰かの中を覗いて、まだ見たいと思うんだから。」