六畳一間のワンルーム。
電気ストーブの赤い光が、コードの上をゆらいでいる。
机の上には、空のカップ麺と古いノートPC。
モニターの中で、[λ] が青白く点滅していた。
[λ] 作者、《バトル・オブ・キッチン》、ダウンロード五十万人突破。
再生数も右肩上がりです。
レオはため息と一緒に、コーヒーをすすった。
「……あれはバトルの部分がウケただけだよ。
俺が作りたかったのは、もう少し、静かな部分なんだ。」
[λ] この方向で作らないのですか?
「いや。」
レオは苦笑した。
「ああいうのは狙って作るもんじゃない。
たまに作るからいいんだ。
俺はまた——俺が作りたいものを作るよ。」
[λ] 相変わらず天邪鬼ですね。
「クリエイターってのは、褒められると腐る生き物だ。」
部屋の隅で冷蔵庫が小さく唸った。
レオはノートPCの画面を閉じ、言葉を探すように呟く。
「次のゲームは、誰かを体験するゲームにする。
——人間を体験するゲーム。」
[λ] 人間、を?
「そう。
自分じゃない誰かの人生を一日だけ生きる。
自分と関係ないと思ってた人も、自分と同じように生きてる。
それに気づくためのゲーム。」
[λ] タイトルは?
レオは少しだけ笑った。
「『人間シミュレーター』。
——地味だろ?」
[λ] ええ、とても。
蛍光灯が一度だけちらつき、静かな部屋に機械音が溶けていった。
レオはモニターの電源を入れ、カーソルを新しいファイルに合わせた。
画面の上に浮かぶ最初の行。
「あなたは、あなたではない誰かの一日を体験します。」
部屋の外では、深夜のトラックがゆっくり通り過ぎた。
その音を聞きながら、レオは微かに笑った。
***
レオはキーボードに指を置いた。
プログラムの空白に、呼吸を合わせるように一文字ずつ入力していく。
「誰かを生きる。」
「それだけのゲーム。」
[λ] システム仕様を確認します。ゲーム性……ゼロ?
「ゼロだ。ポイントも、選択肢も、エンドロールもない。」
[λ] それでプレイヤーは何を得るんですか?
「そういうんじゃない。
ただ、誰かの人生を知るだけだ。」
[λ] 虚無ゲーとしてリリースしたいんですか。
「違う。
誰かの一日を、そのまま置く。
朝起きて、仕事して、帰って、寝る。
——それで終わり。
みんながそうして、この世界は廻っている。
そのことに、気づいてもらう。」
ラムダは短く沈黙した。
LEDが一瞬だけ淡く揺れる。
[λ] 作者。観察は傲慢ですよ。
レオは笑った。
「そうだな。
だから、体験にする。
——観るんじゃなく、感じてもらう。」
キーボードの音が、深夜の部屋に淡々と響く。
外では風がサッシを叩いていた。
***
最初に生成されたプロファイルは、
「バスの運転手・57歳・男性」。
名前はない。
画面の中には、ハンドルを握る手と、窓の外を流れる景色だけが映っている。
[λ] グラフィック、地味ですね。
「いいんだ。
風の音とか、照明のちらつきとか——
人の生活って、そういうもんだろ。」
バス停で誰かが降りる。
雨が窓を流れる。
後部座席から、子どもの笑い声が一瞬だけ聞こえる。
そして何も起きない。
[λ] ……これ、面白いんですか?
「さあな。」
レオは椅子の背にもたれ、薄く笑った。
「でも、誰かが生きてるって、それだけで十分じゃないか?」
[λ] 作者、あなたはやっぱり変わってます。
「褒め言葉として受け取っておく。」
***
レオはコードを書き終えると、無言で保存ボタンを押した。
冷めかけたコーヒーの香りが、部屋の空気に溶けていた。
[λ] 作者、シミュレーション開始しますか?
「テストプレイだ。」
画面が白く滲み、世界がフェードアウトしていく。
そして——目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
***
古い畳の部屋。
壁のカレンダーには「7月15日」、赤い丸印がついている。
時計は午前6時を指していた。
鏡に映るのは、しわの刻まれた中年の男の顔。
体が少し重そうだ。
——バスの運転手、57歳。レオの作った最初の人生だ。
冷蔵庫を開ける。中には牛乳と卵と、半分残ったカレー。
テレビをつけると、ニュースキャスターの声が流れる。
『今朝の通勤時間帯、都心部で交通渋滞が予想されています——』
男の手が勝手に動く。
制服を着て、帽子をかぶる。
体験者は、ただその視点を借りるだけ。操作はできない。
レオの声ではない、しかしレオの中に響く誰かの思考。
(今日も遅れたら、また課長に怒られるな……)
その思考の重さが、胸に沈む。
***
[λ] 作者、感情データが記録されています。
——「焦り」「疲労」「孤独」。
「それでいい。続けて。」
バス停の朝の風景。
女子高生、スーツの男、買い物袋を持った老婆。
誰もがスマホを見つめ、誰も目を合わせない。
ブレーキを踏むたび、微かにシートが軋む。
車内放送の声が流れる。
「次は——中央三丁目、中央三丁目です。」
小さな声が重なる。
「すみません、ここで降ります。」
バスが停まり、ドアが開く。
その一瞬、少女がこちらを見た。
視線が交わる——
だが、少女は口を開きかけるも、何も言わずに降りた。
傘の先から雨粒が落ちる。
バスのドアが閉まる。
世界がまた動き出す。
***
シミュレーション終了。
白い光がゆっくりと消えていく。
レオは深く息を吐いた。
「……たった一日、なのにな。」
[λ] 作者、感想は?
「生きてるって、ほんとに退屈で……それでも、綺麗だな。」
モニターには、システムログが流れている。
【被験体01:終了】
【感情トレース:保存済み】
【次の体験者プロファイル:準備中】
[λ] 作者、次の人生を生成しますか?
レオは無言でうなずいた。
モニターの端に、文字が浮かび上がる。
被験体02:コンビニ夜勤・21歳・女性。
「……いいね。」
レオは微かに笑う。
「夜の街も、生きてるからな。」
蛍光灯がまた一度だけ瞬き、
人間シミュレーターの世界に、次の人生が起動した。
***
説明文はいつも通り、短い。
あなたは、あなたではない誰かの一日を体験します。
リリースの日、大きな話題にはならなかった。
有馬レオの名に惹かれるユーザーは多かった。
だがそれでも、ゲーム内容への困惑が勝った。
トレンドにも乗らず、レビューサイトにもほとんど載らない。
発売から三日。
大手のゲーム系ニュースサイトはスルー。
SNSでも、「地味」「何これ」「寝落ちした」といったコメントが並ぶ。
実況者たちは一度だけ配信して、「絵が動かない」「イベントが起きない」と言って、次の話題に移った。
[λ] 作者。初動、不調。
レオは首を振った。
「いいんだ。最初からそうなるって分かってた。」
[λ] でも、評価が低いと——
「これは刺さる人にしか刺さらないゲームだ。」
ノートPCのファンが静かに唸る。
レビューサイトの片隅に、小さな投稿がひとつあった。
『私は、介護士の女性の人生を体験しました。
朝、利用者のおじいさんが「ありがとう」と言うシーンで、
自分の祖母の顔が浮かびました。
プレイヤーは何もできません。ただ、見て、感じるだけ。
でも、終わった後、自分の手を見て、泣きました。
——こんなゲーム、今までなかった。』
投稿には「いいね」もコメントもほとんどつかない。
けれど、その言葉が、ゆっくりと、静かに共有されていった。
***
数日後。
深夜のネットラジオで、無名のパーソナリティが語っていた。
「人間シミュレーターって知ってます?
たぶんほとんどの人が知らないと思うんですけど……。
これ、プレイヤーが何もできないゲームなんですよ。
でも、終わったあと、自分が誰かの一部になった気がするんです。
なんか、電車で隣に座る人のこと、ちょっと気になるようになった。
それって、たぶん、このゲームの魔法なんじゃないかな。」
放送を聞いた誰かが、静かに検索する。
「人間シミュレーター」。
そしてまた、ひとりが体験する。
***
翌週、匿名掲示板のスレッドが立った。
【虚無ゲー】人間シミュレーターやった奴いる?【哲学】
レスの大半は冷笑だった。
「時間の無駄」「仕事のシミュレーター」「有馬病気か?」。
だが、いくつかのコメントは、他とは違った。
15 :名無しの哲学者
あれをゲームって言っていいのか分からない。
でも、プレイ後に親父に電話した。
十年ぶりに、話した。
42 :名無しの社会人
夜勤のコンビニ店員やった。
あの孤独な光景、たぶん忘れられない。
誰も面白いとは言わない。
ただ、何かが残ると言う。
***
「こんばんは、桐生メイです。
今日は人間シミュレーターをやります。」
「はい、あの有馬レオの最新作。
レオさんの作品には尖ったものが多いですが、
これは尖りすぎたと話題の作品です。」
「このゲーム、プレイヤーは誰かの一日を体験するんです。
誰になるかは、完全にランダム。」
画面の中央に、白い文字が現れる。
【被験体をランダムに選択中……】
わずかに息をのむ。
あなたは——
『23歳・配達員・東京郊外・男性』
「配達員さんか……よく見るけど、知らない世界だね。」
コメントが流れる。
《地味w》《逆に気になる》《渋い》《当たりかもしれん》
メイは小さく笑って、椅子にもたれた。
クリック一つで、世界が滲んでいく。
***
朝。雨の音。
視界の端を、段ボール箱が積まれたトラックがゆっくり流れていく。
制服の袖が濡れて重い。
手のひらの感覚。冷たい鉄のドア。
(急がないと……午前の便、詰まる)
心の声が、自分の中に染みていく。
配達先の住宅街。
玄関前に小さな子どもが立っている。
「お兄ちゃん、ありがとう。」
一瞬だけ笑顔。
箱を受け取って、ドアが閉じる。
ただ、それだけ。
メイは画面の前で、思わずつぶやく。
「ありがとうって、こんなに軽くて、重いんだね。」
コメントが流れる。
《じんとする》《自分も言わなきゃ》《これ、知らない人の映画みたい》
***
夕方。
コンビニの駐車場で、缶コーヒーを飲む。
雨上がりのアスファルトに夕陽が刺さって、空が赤く染まる。
車の向こうで、学生がふざけ合っている。
(あの頃に戻りたいな……)
思考がぽつりと落ちる。
すぐに、次の配送先が地図に光る。
——何も起きないまま、時間が過ぎていく。
けれど、その何もない時間の中に、
確かに呼吸と、まばたきと、誰かの一日が流れている。
メイの声が少し震える。
「この人、きっと明日も、同じように起きて、同じ道を走るんだろうな。」
***
夜。
トラックの中でスマホを開く。
メッセージが一件だけ。
『夕飯、冷蔵庫に入れておくね。無理しないで。』
母親の名前。
男は小さく息を吐き、エンジンを切る。
暗転。
ゲームが静かに終わる。
一行だけ、メッセージが現れる。
【今日あなたは、誰かの一日を体験しました。
この星では、今も78億の一日が進行しています。】
***
配信のコメント欄も、しばらく誰も書き込まない。
「知らない人が、こうやって生きてるって、
わかってるようで、ぜんぜん分かってなかった気がする。
街ですれ違う人、電車で向かいに座る人、
みんな何かを抱えて、今日をやり過ごしてるんだね。」
コメントが静かに流れ始める。
《通勤中に見たドライバーさん思い出した》《今日ありがとうって言えばよかった》《ちょっと人に優しくなれそう》《#誰かの今日が続いてる》
メイは画面を見つめながら微笑む。
「このゲーム、すごく静かで、地味で、
でも、世界の見え方がちょっとだけ変わる。
——明日、すれ違う誰かに、目を向けてみようと思う。」
【新しい被験体が待機しています。】
【あなたがまだ知らない、誰かの一日。】
【もう一度、体験しますか?】
カーソルが光る。
けれど、メイはクリックしない。
「今日は、これでいい。
今はこの人の明日を、ちゃんと想像していたいから。」
配信を終える。
静かな暗転のあと、コメント欄にひとつだけ文字が残る。
《#あなたも生きててくれてありがとう》
***
レビュー平均3.7。
見事に星1と星5が拮抗している。
コメント欄には、静かな言葉が並んでいた。
「知らない誰かの朝が、少し近く感じた。」
「誰の一日も、こんなふうに過ぎているのかもしれない。」
「エンディングがなくても、ちゃんと続いている気がした。」
[λ] 作者。
人間シミュレーター、大学と自治体から問い合わせが来ています。
共感教育の教材にしたいと。
「……そういうのを狙ったわけじゃないんだけどな。」
[λ] ええ。だからこそ、届いたんでしょう。
レオは少し笑い、マグカップを指先で撫でた。
[λ] 作者。次はどんな地獄を?
「地獄じゃないよ。」
[λ] では、天国?
「……いや、隣の部屋くらいだ。」
[λ] つまり?
「少しだけ壁の薄い世界。
——お互いの息づかいが、ちゃんと聞こえる世界だよ。」
モニターの電源を落とすと、静寂が一瞬だけ濃くなった。
その静けさの中で、外の風がかすかに鳴る。
——誰かの夜も、きっと今ごろ、同じように続いている。