一歯分の人生   作:【ユーザー名】

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#グレイデル暮らし

水の底から、光が滲んだ。

次の瞬間、泡のように押し上げられる。

 

「……こんばんは、桐生メイです。

 今日の私、また生えました。今度は——海?」

 

潮のきらめき、湿った空気。

透明な建物、ガラスめいた通り。

スルーガたちの半透明の肌には、声が波紋になって走り、

ひと言ごとに空気の水面が跳ねた。

 

「おい、旅の芽だ。」

「またか。今朝だけで三人目だな。」

「潮の流れ、いいねぇ。」

 

中央の泣く噴水の脇を通るたび、誰かの涙がこぼれ、

街の湿度がほんの少し増していく。

 

ここは南方海洋圏 グレイデル市国家群

——記憶と感情を売り買いする街。

 

 

***

 

 

「いらっしゃい、やる気の記憶、半額だよ!」

「後悔三本で希望一本おまけ!」

 

市場は、値札のついた記憶で満ちていた。

 

「これ、何ですか?」

「売り物さ。記憶の瓶詰め。」

「……記憶を、瓶詰め?」

「昨日の自分から搾って保存するのさ。

 上手い連中はうたた寝の幸福と明日の不安をブレンドして売ったりするよ。」

 

コメント欄がざわつく。

《それは需要ある》《需要あるか?》《混ぜるな危険の記憶版w》

 

メイは商人に頼み、見よう見まねで運搬を手伝う。だが——

ガチャン。赤い液体が飛び散った。

 

「すみません! 割っちゃいました!」

「平気平気。焦りの記憶なんて安物だよ。どこの家にも溜まってる。」

 

女店主トゥイは床下の排水口を開け、記憶の下水を流した。

管の中で液が泡立ち、しゅう、と音を立てて消える。

 

「見な。ここじゃ一日一回は回収された負の記憶を海に流すのさ。

 負の記憶を溜めてったらいつか街ごと沈んじまうからね。」

「……そんなに? 海に影響はないんですか?」

「いいもんじゃないさ。あんまり溜まると潮が荒れる。

 だから潮商議会がいつも流下量を監視してる。」

 

潮の香りの中で、排水口の奥から微かに泡の音がした。

それは、誰かが手放した記憶が遠くへ運ばれていく音のようだった。

 

視線の先で揺蕩う海は、きれいだけど、少し悲しい。

 

「負の記憶って、みんな捨てちゃうんですか?」

「みんながみんな、負の記憶を捨てるわけじゃないよ。

 失敗の悔しさ、別れの夜、責めた声。

 そういう記憶を胸ポケットにしまって暮らす人もいる。

 ただ、記憶はやがて沸いちまうからね。

 いつまでも保存できるわけじゃないのさ。」

「記憶は沸いてしまったら、もう保存できないんですか?」

「声をかけることで、沸いてしまった記憶を鎮められる、っていうね。

 だけど、近頃はそういうことをする人も随分と減ったよ。

 なくなったら、また新しい記憶を買えばいいってさ。」

「なんだか、少し寂しいですね。」

 

潮風が棚を撫で、瓶の中の光がわずかに揺れた。

メイはその光を見つめながら、小さく息をついた。

 

 

***

 

 

昼、潮商議会の倉庫で仕分けを任される。

棚には「安心」「嫉妬」「寝起きの幸福」が整然と並び、

指示書にはこうあった。

 

「中身に共感しすぎないこと」

「共鳴により記憶が沸き、瓶が泣く恐れあり」

 

うっかり「嫉妬」のラベルを見つめた瞬間、瓶がぷくぷく泡立つ。

 

「えっ、これどうすれば!?」

「放っとけ。蒸発すれば冷める。」

 

この街の人々は、記憶や感情を驚くほど軽やかに扱う。

それは誰かの気持ちを溜め込みすぎないための、

生活の知恵なのだ、とあとで知った。

 

コメント欄が頷く。

《感情のサステナブル運用》《放っとけ冷めるの哲学》《スルーガ式カウンセリング、合理的》

 

 

***

 

 

昼休み、トゥイの店へ。

半透明の壁、足元を海のきらめきが泳いでいく。

 

「日替わりはさみしさのスープとやる気のパスタだよ。」

「どっちも食べづらいです!」

 

無難そうな空気味サラダを選ぶと、皿には透明な泡がころり。

 

「……これ、どうやって食べるんです?」

「息で割るのさ。あんたの息が混ざって完成する。」

「息が……調味料?」

「そう。記憶の料理は作るより混ざる。」

 

ふっと吹くと泡が弾け、潮の香が立ちのぼる。

卓上の香気計が淡く点灯した。

 

「……美味しい、気がします。」

「だろ? ここでは味覚じゃなく心で食うのさ。」

 

コメント欄が盛り上がる。

《息がスパイス理論》《心で食う街、浪漫ある》《空気味サラダのレシピください》

 

 

***

 

 

黄昏。水面は金に染まり、空の端の雲が笑っている。

メイは泣く噴水のそばで、老商人エナンと立ち話をしていた。

 

「ねえ、旅の芽。香りの両替屋を知ってるかい?」

「両替屋? 通貨じゃなくて、匂いの?」

 

エナンは瓶の栓を軽く弾く。

開口部の香気計が緑に瞬き、潮に微かな木の露の反応が混ざる。

 

「昔、ここに一人のミュセリアンがいた。

 森から香料を仕入れて港で売り、代わりに瓶詰めの記憶を森へ。

 匂いと記憶の両替――世界でいちばん面倒な商売だってさ。」

「本人が、面倒って言ってたんですか?」

「言ってたね。でも、だからこそ意味があるって笑ってた。」

「スルーガとドリュアス、仲が悪いんですよね。」

「悪いさ。向こうは沈黙が礼儀、こっちはおしゃべりが呼吸。噛み合うはずがない。

 けど、そいつはどっちにも嫌われずに通った。会話が通行証だって。

 沈黙の森でしゃべり倒し、港では喋りすぎて瓶を割って——それでも好かれてた。」

 

メイはくすっと笑う。

「……空気を読めないのが、いい方向に働いたのかも。」

「それが世界を混ぜるのさ。」

「結局、その人は?」

「潮にのまれて帰らなかった。

 だけど、港の子どもが言った。

 匂いは、まだ風に残ってるって。」

 

メイは空の小瓶を見つめた。

「……風に残る、か。」

「だからさ、旅の芽。あんたも何か残すといい。言葉でも、匂いでも、瓶でも。

 この街は、そういうものが風に乗って巡る。」

 

メイはうなずく。

「記憶は共感し続けると、沸いてしまうんですよね。

 それで、いつかは瓶でも保存がきかなくなる。

 ただ、声をかけることで鎮めることもできると聞きました。

 ——なら、『記憶の修理屋』、やってみようかな。」

 

エナンは目を細める。

「それは手間がかかるよ。

 沸いてる瓶は優しく、心から声をかけないと鎮まらない。

 みんな忙しくて、なかなか本気で優しくしてやれないのさ。」

「……できる範囲で、やってみます。」

 

コメント欄がほころぶ。

《屋号きた》《やると思ったw》《がんばれ!》

 

 

***

 

 

翌朝。潮風が街を撫で、噴水の水音が遠くでほどける。

 

トゥイが空瓶を手渡す。

「中身は空。でも、あんたの挨拶を入れな。」

「挨拶?」

「ここじゃ記憶を売り買いするけど、最初に世界を動かすのは、たいてい挨拶さ。」

 

メイは瓶口へ囁く。

「——また、生えますね。」

小さな響度計が、ちり、と光を落とした。

言葉の震えが記録された合図だ。

 

トゥイが頷く。

「ね、届く音だ。

 この世界じゃ皆、それぞれの土地で暮らす。風の民は空、樹の民は森、水の民は海。

 でも——あんたたちは違う。

 あちこちで生えて、いろんな出会いを抱えたまま次の土地へ行く。

 その持ち運ばれた記憶が、私たちに互いを知ろうとさせるんだよ。」

 

メイは笑った。

「……舞台の裏方ですね。」

「そう。ミュセリアンは英雄譚の主役になれない。

 でも、物語を支えるのは、たいてい舞台の影なのさ。」

 

コメント欄が静かにうなずく。

《風の裏方たち》《ミュセリアンにも役割があったんだ》

 

 

***

 

 

港の一角で、メイは手書きの看板を掲げた。

 

《記憶の修理屋》

「手放したくない記憶をお持ちください。」

 

看板の横には、挨拶の瓶を飾る。

 

最初は誰も近づかない。

やがて、小さな少女が、ぶくぶく泡立つ瓶を抱えて現れた。

中では焦りの記憶が沸き立って止まらない。

 

「これ、直してくれるの……?」

「うん。大丈夫。焦ってるだけ。」

 

メイは瓶を潮風に晒し、口元を近づける。

「——だいじょうぶだよ。呼吸が少し急いじゃっただけ。」

 

少しずつ泡が静まり、液体が透きとおっていく。

メイが栓の縁をやさしく撫でると、響度計の針が静かにゼロへ落ちた。

 

「修理完了です。」

「何したの?」

「風を通しました。」

評判はゆっくりと広がった。

 

メイは一本ずつ、同じように耳とことばを傾ける。

「そんなに自分を責めないで。」

「落ち着いたら、また笑えるよ。」

「泣けるのも、悪くない。」

 

潮風がその言葉を拾って港へ運ぶ。

その日、波音はいつもより一拍ゆっくりだった。

 

 

***

 

 

夕暮れ。

泣く噴水の縁に、メイとエナンが並んで腰かける。

潮が引き、森の光の粒のような雲が遠くを漂う。

 

「……あの香りの両替屋、また帰ってくると思いますか?」

「帰ってくるさ。姿を変えて、またどこかでひょっこり——

 ミュセリアンは、そういう生き物だろ。」

 

エナンが笑う。

「ほら、あんたの声も、もう潮に混ざってる。

 いつかあんたのことも、誰かが覚えるんだよ。」

 

メイは空を見上げる。

風と潮が重なり、港のどこかで誰かの笑い声が弾けた。

 

コメント欄が静かに流れる。

《また生えて》《おつきのこ》《港の風、忘れない》

 

 

***

 

 

配信を切る音が、静かに鳴った。

ライトが消え、部屋に夜の温度が戻る。

 

メイはマイクを外し、深く息をついた。

画面の向こうのグレイデルは、もうどこにもない。

けれど、あの潮の匂いや声のやわらかさが、まだ胸の奥に残っていた。

 

「……今日のグレイデルも、いい街だったな。」

 

少し間をおいて、暗いモニターを見つめる。

「また、生えますね。」

 

その声は、夜の部屋に小さく溶けていった。

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