朝起きた瞬間、世界が早すぎると思った。
スマホが鳴る。隣の部屋で洗濯機が唸る。外では工事の音が叫んでいる。
六畳の中で、俺だけが静止している気がした。
[λ] 作者、起動確認。
脈拍:低速。
朝食:未摂取。
活力:ゼロ。
「……速すぎるんだよ。世界が。」
[λ] あなた、また詩人モードです。
「詩人モードじゃない。スローライフゲームを作るんだ。」
コーヒーを飲む。
頭の中で浮かんだのは、一匹のナメクジ。
遅い。弱い。溶ける。
なのに、しぶとく生きている。
「次はこれだ。『ナメクジ・シミュレーター』。」
[λ] 予測:誰もやりません。
「いいんだ。誰もやらないゲームを、誰かが愛するんだ。」
***
プレイヤーはナメクジ。
目的はゴールに着く……ただそれだけ。
だが移動速度は、最速で3mm/秒。
つまり、10メートル進むのに最低でも1時間くらいはかかる。
[λ] 進行不能バグでは?
「違う。進まない美学だ。」
さらに、塩に触れるとリアル時間で24時間操作不能。
ログアウトしてもダメ。
再起動しても、ナメクジは動かない。
塩が乾くまで待つしかない。
[λ] それをゲームと呼ぶのですか?
「人生だ。」
***
画面が黒から明るくなる。
最初に聞こえるのは、湿った擦過音。
ぬめりを引きずるような粘膜の呼吸。
土の粒が湿りに沈む音。草の匂いのするBGM。
ナメクジが、ゆっくりと這い出す。
皮膜が朝の光を反射し、虹の膜が表面に走る。
動くたび、体の下で砂粒が押し潰れる音がする。
触角の先で空気を舐め、湿度を確かめる。
[λ] ……終わりですか?
「まだ動いてる。観察しろ。」
2分が過ぎる。
画面の中では、ナメクジが数センチほど進んだ。
触角の先に、朝の光が粒で乗る。
粒は震え、落ちず、また乗る。
皮膚の下で筋肉が波のように連なり、体表を押し上げる。
光の筋が動きに合わせて移動し、まるで内側から呼吸しているようだった。
外の窓から光が差し、六畳の部屋も少し温かくなる。
俺はモニターの前で気づいた。
——このゲーム、見ているだけで呼吸が深くなる。
[λ] デバッグ効率:最悪。
作者の心拍:穏やか。
「治療用に売れそうだな。」
[λ] ナメクジ・マインドフルネス。
サブタイトル案:『塩と共に生きる』。
「採用。」
***
リリース文は、前回同様短い。
1歩=3時間。
塩に触れると、現実が止まります。
あなたは、ナメクジです。
初日はダウンロード数4件。
そのうち1件は俺。
レビュー欄は静かだった。
……二日後、静けさが動いた。
「何もしてないのに泣きたくなった」
「怖いほどのクオリティ、狂うほどのクソリティ」
「クソゲーのはずなのに、ナメクジから目が離せない」
「塩に触れて24時間動けない間、自分の人生を考えた」
「会社に行けなかったけど、心が軽くなった」
なぜか、#塩教というタグがトレンドに浮上。
ナメクジを人生の師と呼ぶ連中が現れ始めた。
[λ] 作者、バグり信仰が拡大中。
塩断ち瞑想という儀式が発生しています。
「塩断ちって何。」
[λ] 文字通り、味のついた食事を禁じてナメクジの気持ちを理解する活動。
結果:低血圧が流行。
「宗教は早いな……」
***
桐生メイが、また動画を上げた。
タイトルは《動かない実況》。
サムネイルは、ただのナメクジ。
「今日は……動かないよ。ほんとに。」
「コメント欄も静かでいいね。」
「あ、この子……息してる。可愛い。」
チャット欄に《動け》《動くな》《泣ける》の洪水。
7時間の配信で、ナメクジは3歩分進んだ。
再生数は初日500。翌日5,000。
そして1週間後、ナメクジ・シミュレーターは世界のどこかで話題になった。
“日本から届いた静寂の革命”
“これが『ゲーム』という言葉の再定義だ”
“動かないeスポーツ”
[λ] 作者、海外レビュー90%が禅と書いてます。
いまやあなたはナメクジの父です。
「呼び方が最悪だな。」
***
ある日、サポートメールが届いた。
「塩に触れても動けなくならないバグがあります。」
添付された動画を見る。
プレイヤーは、塩を踏んでも平然と進んでいた。
なぜか、ナメクジの通った跡が光っている。
そして、地面のテクスチャが——水面に変わっていた。
[λ] 作者。
ユーザーが、あなたのゲームを祈りながら起動しています。
その波長データが、塩バリアを上書きしている模様。
同条件で再現を試みる。何も起きない。
「祈りでゲームが書き換わった……?」
[λ] 技術的には説明不能。
宗教的には日常。
俺は笑った。
塩で止めようとした世界が、信仰で再び動いている。
止まることさえ、止められないのか。
***
俺は次のアップデートを作った。
塩に触れると、ナメクジが夢を見る仕様。
24時間操作不能の間、ナメクジが過去の記憶を語る。
セリフは一行だけ。
「昨日より今日が乾いていても、まだ生きてる。」
[λ] 作者。
そのセリフ、詩的すぎてバグ扱いされます。
「バグでもいい。生きてるだけでバグだろ。」
***
深夜3時。
俺のナメクジは、まだ塩の前に立っていた。
動かない。
でも、ほんの少し光っている。
モニターの下、コップの水がこぼれて机に広がる。
床のホコリが、水に滲んで流れた。
その形が、なぜだかナメクジに見えてしまった。
モニターの中と外が、同じ湿度を持った気がした。
[λ] 作者。
このゲーム、もうあなたの手を離れてますね。
「そうだな。」
[λ] 次は、何を遅くしますか?
「今度は、恋だ。
痺れるような恋。
恋愛シミュレーション。
家電たちでやろう。」
[λ] 予測:停電。
「完璧だ。」