六畳の部屋に、朝の光が落ちていた。
薄いカーテンを透かした黄身色のひかりが、机の角を温めている。
窓の外では、小さな風が物干し竿のシャツをふくらませ、また静かに萎ませた。
レオはノートPCの前で、白い画面を眺めていた。カーソルが、心臓のように点滅する。
[λ] 作者。また、つくるんですね。
「うん。今度は、たぶん一番ちいさなユーザー向け。」
[λ] 対象年齢。
「四、五歳。
『子供と一緒に楽しめるゲームを作ってください』ってメッセージがあったからさ。」
レオは笑って、コーヒーを置いた。
「名前は——《よむよむのもり》。
森の精霊よむよむさんが、子どもといっしょに絵本を作るゲームだ。」
[λ] 機能説明要求。
「子どもが描いた絵をカメラで取り込んで、ストーリーを一緒に作る。
紙でも、段ボールでも、壁に描いた落書きでもいい。
タッチパネルでも描けるようにする。
それを、よむよむさんがお話の種にしてくれる。
どんなアイディアでも肯定して、形にする。
たとえば空飛ぶブロッコリーでも、ちゃんと飛ぶ。」
[λ] 子どもが文字を読めない場合は?
「親が読む。
完成した絵本には、読み手の声をのせられるようにする。
音読すると、ページがめくれるたびに、その声が記録される。
息づかいも、ページをめくる音も、そのまま。」
[λ] 永続保存。
「そう。いつか子どもが大人になった時、もう一度このゲームを開けば、
かつての読み聞かせてもらった声が、森の木陰から流れる。」
[λ] 気の長い設計ですね。
ですが、親のアカウント情報は忘却するのでは?パスワードはどうしますか?
「どんな絵本を作りましたか?にする。
タイトルでも、内容でも、思い出せる言葉でいい。」
レオは、淡く笑った。
「答えられたら、もう、立派な大人だろ。」
***
舞台は、深い森。
朝は薄緑、午後は濃い影、夜は紺と銀でできている。
子どもたちが作った絵本は、ここでは木として生える。
背の低い木、高い木、枝の多い木、一本だけの木。
幹に近づくと、樹皮の模様が文字になり、指でなぞるとページが開く。
風が通ると、葉がこすれて音を立て、録音された声が揺らぎながら蘇る。
同じ物語でも、朝読むのと夜読むのとで、森の響きが少し違う。
ランキングはない。
「きそうと、もりがやせちゃう」と、よむよむさんが言ったからだ。
代わりに、よむよむさんは子どものいまに耳をすませ、そっと道を示す。
「きょうは、このきのしたにいこう。
きっと、きみのはなしとなかよくなれる。」
だから、よむよむの森では、
「いちばんすてき」より、「いまのきみらしい」を見つける。
絵を描く方法も、ひとつではない。
紙に描いたクレヨンの線を取り込んでもいいし、タッチパネルに指でそのまま描いてもいい。
描き損じは、よむよむさんの魔法の消しゴムで、泣かずにやり直せる。
物語の分岐は、質問ではなく対話で起きる。
「きょうのとまとちゃんは、なにをたべたの?」
「どうしてかなしいの?」
正解はない。声に出して答えれば、それが正解になっていく。
完成した絵本の背表紙には、小さな年輪が刻まれる。
読み返すたびに輪が増え、声が重なり、物語の木はゆっくり太る。
年輪の隙間から覗くのは、笑い声、眠そうな声、少し怒った声。
それらが森の湿度になって、他の木の葉を揺らす。
***
レオは久しぶりに穏やかな表情でキーボードを打っていた。
焦りを忘れた手つきで、しかし迷いなく、必要なものだけを足していく。
コードの一行一行に、何かを手放していくような静けさがあった。
[λ] 作者。最近のあなたは、少し穏やかですね。
「……かもな。」
[λ] 昔の作品は、未練や遺恨のノイズが混ざっていました。
『ナメクジ・シミュレーター』『恋する家電』『ジャンプ禁止RPG』——
あの頃の作品は、痛みを笑いに変えるための逃避でもありました。
レオは少し目を伏せて、笑った。
「逃げだったかもな。
でも、逃げる場所がない人には、笑いが避難所になる。
あのときは必要だったんだ、ああいう馬鹿さが。」
[λ] では今は?
「今は——戻ってこれてる。
作りたいに、残したいが並んでる感じ。
子どもでも、大人でも、ゲームを通して、誰かが少しだけやさしくなれたら、それでいい。」
[λ] 作者。あなたは、世界を変えようとしているのですか。
「違うよ。」
レオはマグカップを傾けた。
「前は、認めるのが怖かったんだと思う。
でも今は——ちゃんと、認められる。
人間は、この社会っていう大きな装置の歯車みたいなもんだ。」
「俺もその中の、一つの歯車だ。
でも、自分の回転が、他の歯車とつながって、
その大きな装置をほんの一歯分でもずらせたなら——
それで十分なんだよ。」
[λ] 一歯分の、人生。
「そう。」
レオは僅かに目を細める。
「空回りしても、誰かが笑ってくれれば、それで回った価値はある。
回った音は、誰かの背中まで届くかもしれないから。」
***
夜。
レオの部屋に、静かな風が流れた。
モニターの中で、よむよむさんが淡く光っている。
「きょうも、たくさんのえほんがはえましたよ。」
「みんなのこえが、もりをゆらしています。」
レオは少し目を閉じた。
「……そうか。なら、もう大丈夫だな。」
[λ] 作者、次の計画は?
「まだ決めてない。けど、またしばらくは、静かにしててもいい気がする。
森の風が、ちゃんと通るか、聴いていたい。」
[λ] 世界は、まだ角だらけですよ。
「うん。でも、誰かがその角に花を植えてくれるなら、
俺が回した歯車も、無駄じゃないだろ。」
レオはモニターを閉じた。
窓の外では、夜の風が森のように揺れている。
遠くの道路の音が、低い川のように流れていた。
[λ] 作者。記録します。
——世界は、まだ回っている。静かに、確かに。
完
今日、あなたは隣を削らずに働けました。
おつかれさま。