午前6時。
アラームは鳴らない。鳴らすと「他人の睡眠を削る」からだ。
教団では、静寂で目覚めることが推奨されている。
私は目を閉じたまま、心の中で歯車を回す。
カチ……カチ……。
脳内で金属が擦れる音がする。イメージトレーニングだ。
信仰は準備運動から始まる。
リビングに降りると、妻がもう祈っていた。
パソコンの前で、真顔で歯車を回している。
「摩耗率、0.3パーセント」
「おお、改善しているな」
「昨日は0.4だったの」
「素晴らしい。努力が報われたね」
私たちは見つめ合って頷き、朝食の準備に入る。
フライパンで目玉焼きを焼きながら、
妻が小声で「……優しい音」と呟いた。
油のはねる音が、彼女には生きる音に聞こえるらしい。
朝食の前に、摩耗確認の儀を行う。
スマホをテーブルに置き、
『Gears of Me』を起動して回転音を確認する。
「今日も隣を削らずに働けますように」
二人で唱え、歯車が止まるのを見届ける。
少し馬鹿げて聞こえる。
でも、やさしさだって、どこか馬鹿げている。
私は真剣だが、猫がテーブルに飛び乗ってきてボタンを押した。
「隣を削りました」と表示された。
猫を軽く撫でて、「悔い改めよ」と囁く。
職場へ向かう電車の中でも、信仰は続く。
私はつり革を握る手で、
無意識に親指を回転させていた。
隣の乗客が怪訝そうに見る。
「失礼、心の潤滑運動中です」と説明した。
理解を得られなかった。
だが、笑顔を向ける。削らない努力だ。
車両の向こうで、ビジネススーツの女性が小声で言う。
「トルクと共にあらんことを。」
仲間だ。私は軽く頷き返した。
出社。
オフィスの隅に、教団員専用の「潤滑コーナー」がある。
机の引き出しにはミニチュア歯車。
みんな、昼前にそれを一回磨くのが日課だ。
「心の軸受けを整えるため」である。
上司が通りかかる。
「おい、また磨いてるのか?」
「はい。上司の歯も、私の歯も、噛み合いが大事ですから」
「……うまいこと言ったつもりか?」
「はい、いつも。」
摩耗率、0.2%。満足。
昼休み。
信徒チャット《歯車教団・東日本支部》に通知。
今日のテーマは「軸ブレの克服」。
モデレーター@SoftRotationが真顔で語る。
『人生の偏心を、許そう』
みんな「アーメン」ではなく「オイル」とコメントする。
私は深く頷いた。
隣の席の新人が見ていたが、もう何も言わない。
慣れたらしい。
夕方。
エレベーターが停止した。
乗り合わせたサラリーマンたちがざわつく。
私は静かにスマホを開き、ゲームを起動する。
「何やってんですか?」
「祈ってます」
「え?」
「隣を削らないために。」
数分後、電源が復旧した。
彼らは目を丸くした。
「奇跡だ!」
「違います。整備です。」
でも少しだけ笑った。
笑うと、世界が軽く回る。
帰宅。
妻が新しいレシピを試していた。
「優しさカレー」。
にんじんを歯車型に切ってある。
「食べるたびに、心が噛み合うのよ」
「辛さの中に潤滑油の味がする」
「オイルです」
食後、二人で夜回し。
画面を見つめながら、手を繋いでクリックする。
「今日も、あなたは隣を削らずに働けました。」
「……あなたこそ。」
穏やかな沈黙。
冷蔵庫が鳴る音すら、聖歌のように聞こえる。
寝る前。
信者掲示板をのぞく。
誰かが書いていた。
「会社で上司に怒鳴られました。
でも、この人も摩耗してると思ったら、笑えました。」
「友人に距離を置かれたけど、
お互いの軸がずれただけかもと思ったら、楽になりました。」
コメントが並ぶ。
「それでこそ回転体」
「削られてこそ磨かれる」
「磨け」
「オイル」
「削らず削られず」
「オイル」
私はスマホを閉じ、
枕元に小さな歯車を置く。
私はスマホを閉じて、妻に言う。
「人間って、よくできた歯車だね」
「そうね。でも時々、空回りも必要よ」
「……教義違反?」
「休みも信仰のうち。」
二人は笑った。
カチ……カチ……。
心が小さく回って、夜がやさしく進んでいく。