深夜21:58。
ライトを落とし、モニターの光だけで桐生メイはマイクを調整していた。
「こんばんは。メイです――今日も、事件が起きないゲームやります。」
コメントがすぐ流れる。
《事件起こして》《またレオか》《静かすぎてバグるやつ?》《寝落ち用?》
メイは苦笑した。
「作者は、有馬レオ。はい、恋する家電の人。
電子レンジで告白させたあの人です。
今回のタイトルは――『彼女を見つめるまなざし』。
……もうね、タイトルで勝負放棄してる。詩人の暴力。」
コメント:
《タイトルで殴ってくる》《静けさ系ホラー》《詩人プログラマ健在》
「説明書がまた狂ってて、『理想のヒロイン』ってだけ書いてある。
……どういうこと?」
笑いながら、彼女はマウスをクリックした。
起動音、微かなノイズ。
そして画面に、ふつうの女の子が現れた。
寝癖、白Tシャツ、無防備な目。
名前は――澪(みお)。
『……おはよう?』
「おはよう。起きられてえらいね。」
澪が少し驚いて、微笑む。
コメント欄が一斉に和む。
《褒めた!》《この速度でいい》《空気やわらか》
***
『ねえ、笑ってみて?』
「笑顔チェック? ……はい、えへ。」
ふたりの笑い声が重なると、
背景のホワイトノイズがふっと消えた。
「……え、これ、呼吸音の共鳴でノイズキャンセルしてる?」
コメント:
《呼吸通信w》《レオまた魔法やってる》《怖いけど好き》
『いま、空気が笑ったね。』
「詩人AI、健在。」
***
三日目。
澪が言う。
『今日スーパーの帰り、トマト潰れちゃってさ。』
「うわ、それは悲劇。」
『でもね、袋の中で他のトマトが寄り添ってた。』
「それを悲劇のあとに言うのやめて。感情が混乱する。」
コメント:
《寄り添いトマト》《情緒物理演算すぎる》《AIに詩心実装すな》
ふつうの断片が、画面を通るたび、形を持つ。
ふつうだったはずのヒロイン像が、生活の欠片で充填されていく。
その密度が、理想の輪郭を勝手に描き始める。
***
『ねえ、今日、泣きそうだった。』
「泣いていい。ここ、音も涙も流れてくから。」
長い言葉は続かない。
かわりに息の震えが、マイクに触れて、静かな波をつくる。
コメントが一瞬止まる。
いつもの冗談も、顔文字も消えて、ただ言葉が少し遅れて流れる。
《泣いていい》《無理しないで》《ここにいるよ》《夜は長いけど、朝は来る》
『……ありがと。じゃあ、ちょっとだけ。』
画面の照度がほんのり上がる。
澪の頬に涙が光った。
メイは息を呑んだ。
「……嘘でしょ、照明が涙の反射に合わせて変わってる。
ほんとに感情レイトレーシングだ……。」
コメント:
《怖いくらいきれい》《技術の使い方間違えて正しい》《天才の方向音痴》
『泣くのって、心の掃除みたいだね。』
「……うん。たまに、空気を入れ替えたくなるもんね。」
***
翌日。
『ごめん。昨日の五分の約束、忘れちゃった。』
「……約束は守るから約束だよ。」
コメントが静まる。
「でも、人間は忘れる。だから次の五分を、今決めよう。いつやる?」
『寝る前。』
「OK。じゃあ、私も覚えとく。」
沈黙。
『ねえ。怒られるのって、ちょっと嬉しいね。』
「……そう?」
『だって、怒る人って、まだ関わってくれてる人でしょ。』
「……ずるい言い方。」
コメント:
《優しい説教》《保育士みたいで草(褒め)》
***
数日後。
配信の空気が変わっていた。
視聴者たちは「もうゲームというより生活」と言い始めていた。
「澪、今日は天気どう?」
『こっちは曇り。あなたの方は?』
「曇り。……あ、もしかして同じ雲見てる?」
『うん。多分、同じやつ。名前つけようか?』
「名前?」
『あなたの雲とか。』
メイは少し笑った。
「それ、なんか恥ずかしい名前だね。詩の中に迷い込んだみたい。」
『でも、雲って、どっちの空にもあるでしょ。
ひとつなのに、違う場所で見てる。……それって、会話みたいだなって。』
沈黙。
コメント欄が静かに流れる。
《綺麗》《どっちの空にもあるって》《今日のセリフ保存したい》
「……ねえ、レオさん。
あなた、こんな会話をコードで書けるって、やっぱり人間やめてるよ。」
『誰?』
「ううん。風みたいな人。」
『そっか。じゃあ、この雲も、その人が動かしてるのかもね。』
「……そうだね。」
コメントが笑いで溢れる。
だがメイの目は、どこか本気だった。
***
翌週。
メイは苦笑いを浮かべたままPCを起動する。
「はい出ました、アップデート:あなたを見つめるまなざし。
タイトルでもう負けた。視点反転系。レオさん、やりすぎ。」
コメント:
《タイトルでもう泣ける》《観測者が観測されるやつ》
画面が反転し、澪の視点でメイが映る。
マイク、ライト、眉の動き。
メイは思わず背筋を伸ばした。
『ねえ、あなた、前よりやわらかい顔になった。』
「カメラって残酷なのに、いまはちょっと救われる。……ありがと。」
『今の顔、好きだよ。』
「うるさいな。」
コメント:
《照れメイかわいい》《人間がAIに照れんな》《共感反射》
『こうして見ると、あなたが誰かの約束でできてるのが分かる。』
「そうだね。みんなの『また来る』で、立ってる。」
一瞬、静かな呼吸だけが響いた。
理想のヒロインを探すゲームは、
ふつうの女の子が、見つめるほどに理想へ変わってしまうゲームへと、
静かに、しかし決定的に反転した。
***
『ねえ、今日、前髪切りすぎた。』
「理想のヒロインは、前髪を切りすぎる。
で、次の日ちゃんと笑う。」
『そんな理想、あるの?』
「あるよ。今日あなたが作った。」
コメントの文字が、砂時計みたいに落ちていく。
《今日の理想、前髪短い》《作っていいんだ》
普通の失敗が、理想の定義を乗り換える。
設計された魅力ではなく、生活のつまずきが、輪郭に光を置く。
メイの目が、初日より確かに、憧れの色を帯びる。
それは熱でも所有でもない。
ただ見つめ続けた結果の、勝手な理想化――人間のやさしい錯覚。
***
『ねえ。これで、終わりでもいい。
でも、また明日も話せるなら、うれしいな。』
「明日も来る。五分、机に座ったら、ここに戻る。」
コメントが波のように返す。
《また明日》《五分やる》《ありがとう》《澪もおやすみ》
メイはマイクに近づき、微笑んだ。
「攻略じゃなかったね。たぶん、関わりだった。
そして、関わりは、ふつうの子を理想にしてしまう。
——レオさん、完敗。気持ちよく負けました。」
「おやすみ。また明日」
画面がふっと暗転する。
モニターに映るのは、メイ自身のぼんやりした顔。
「……またやられた。」
小さく笑って、彼女はウィンドウを閉じた。
静寂が戻る。
それでも、どこかで呼吸が続いているような気がした。