支笏湖近くの窪地に密やかに設けられた野営地。
周囲を覆う藪が焚き火の炎を巧みに隠していた。
この場所は仇の手勢を警戒して選ばれたもの。黒いまだら模様に染まった地面を揺らめく炎が赤く照らし出す。
かつてここで繰り広げられた切り合いの痕跡を眺めながら、勝利者である女武芸者「篤」は、刀を抱いて馬に身を預けていた。
焚き火の上に掛けられた鉄鍋には煮える水しか入っていない。
今晩と明日の飲み水を確保するため、ほど近い支笏湖から汲んできたものだ。
水汲みの折、水面を跳ねる大きな魚の姿を見かけたが……今日の篤にそれを捕らえる術はなかった。
空き腹には慣れている。
心の中でそうつぶやき、篤は刀を抱え直して目を閉じた。
思えば、故郷である羊蹄平の生家に戻ってから今日この時まで、竹の煮汁と酒しか口にしていない。
それでも、まるっきり何も食べていないよりは幾らかましだ。
しかし、この調子では己の悲願を叶えることは無理だろう。赤い横線が一本走る己の帯を握りしめ、篤はため息をついた。
羊蹄六人衆を一人残らず討つ――
16年もの歳月、心にあり続けていたそれが篤の悲願だった。
つい数日前、仇の一人である蛇を討ち取った時、村人から怨霊だの亡者だのと呼ばれた身だが己は生身の人間だ。
腹が減っては戦は出来ぬ。
関ヶ原の戦を経験するまでもなく、本土へ渡り一人で生き延びねばならなかった幼少期の暮らしでそれは身に染みて分かっていた。
しかし今の我が身に銭はなく、宿場で飲み食いもできそうもない。
だが、ここは勝手知ったる生家の近く。
かつて双子の弟である十兵衛と共に駆け回っていたあの森に行けば、食べられるキノコが得られるだろう。
嫌な思い出もある場所だが、四の五の言ってはいられない。
明日行く予定の宿場には、仇共の親玉、斎藤の手勢がいるだろう。
まず間違いなく切り合いになるだろうが、空き腹ではとてもではないがそれを斬り抜けられまい。
今はとにかく眠ろう。すべては明日になってからの事だ――。
空き腹を抱えたまま、篤は深く愛馬の腹にもたれかかった。
その時、遠方より風に乗って、微かに人の声が聞こえた。
目を開け、刀を手に身を起こす。
「おぉい、おぉーい」
それは紛れもなく男の声だ。
こんな夜更けに獣蠢く羊蹄平をうろついている輩……まともな暮らしをしている者ではあるまい。
そいつがおれになんの用だ?
篤はすぐさま戦えるように心身を整える。
馬の足音も聞こえてきた。どうやらこの声の主は馬に乗っているらしく、それ相応の早さで声は近づいてくる。
程なくして、下馬する重たく砂利を踏みしめる音が耳に届くと、藪の切れ間から声の主が姿を現した。
「なあ流浪人、すまぬが火を使わせてはくれぬか?」
その男の姿を見た時、篤は最初熊が現れたかと思った。
身の丈
それを熊の毛皮で拵えられた外套が背から肩に掛けて覆っている。
厳つい顔には黒々とした髭が生えており、熊の化生なのではないかとすら思える程だった。
視線を下にずらすと、その熊の如き男の腰には一振りの太刀が差されている。
「なんだ、手前は」
刀を持ち、破れた編み笠の奥から鋭い視線を向ける篤に対して、熊男は朗らかな声で答えた。
「これはしたり。わしは源十郎と申す流浪人。夕餉がまだでな、火を使わせてはもらえんか」
「火は分けてやるから他所でやれ」
薪を取って去れと焚き火を指さす篤に対し、源十郎と名乗った熊男は頭を下げた。
「そう言わずに頼む!見ての通りもうすっかり夜だ。今から薪を集めていては火を貰ったところで途中で消えてしまうぞ」
そう言うやいなや、源十郎は帯から太刀を外しながらどっかりと焚き火の前に腰を降ろした。
太い指が太刀に触れた瞬間には鯉口を切っていた篤に向かって、その髭面に人好きのする笑みを浮かべると源十郎は口を開いた。
「おぬしにも美味い物を食わせてやるから、な?どうか頼む、この通りだ」
太刀を横に置き、両手を合わせて拝んでくる源十郎に、篤は――。
◆
今はただの源十郎ことこの俺は異世界転生者だ。
前世でそれなりに生き、それなりに死んだ。
そして気づけば日本のような国の戦国時代に生まれ、今はこうして蝦夷地、前世で言うところの北海道で流浪の日々を過ごしている。
なぜ「異世界転生者」「日本のような国」とのたまうかというと、本土にて徳川が幕府を開いたばかりだというのに渡島ヶ浦に松前城が建っていたりと、何かと自分が知る前世の記憶と違いがあるからだ。
あとなんか普通に神仏がいる。
姿は見えずとも確かにそれら超常の存在がいるのが感じられるんだよなぁ。今は荒れ果てて行くに行かれないが神社に参拝するとそうした確信が得られてしまう現象が当然の如く発生するのだ。
他にも季節と自然の生き物がなんか変だったり、異世界と断定する理由は沢山ある。
そんな異世界に産まれてここまで生きてきた俺だが、前世の知識でなにか大きな事を起こそうという気は全く起きなかった。
ただ、こんな乱世でも幸せな人生にしようと足掻き、努力した。
娯楽の乏しいこの乱世において、戦を楽しいと思えない俺の幸せはシンプルに日々食らう飯だけだった。
一日三食の飯は最高だ。人生を豊かにしてくれる。
飢えたくはないし、食べるものを制限したくはないから俺は四足獣の肉も食う。
だが仏の教えが浸透している本土では、様々な肉料理を楽しむのに周囲の人々の目がちと辛い所があったのではるばる蝦夷地へと渡ってきたと言う訳だ。
狩猟民族たるアイヌのいるこの土地では肉食は普通の事であり、今はまだ少数派である和人達も本土と比べれば肉食に対する視線が幾分か柔らかいのだ。
蝦夷地の自然は大層厳しい。宗教的理由で食い物制限してたら生きていけないのでそうなるのだろう。
ともかく、飯は俺の生き甲斐だ。
一食たりともおざなりにできない。
できないのだが、今日は魚捕りに夢中になりすぎて野営の準備をすっかり忘れてしまった。
この辺り前世での趣味が魚釣りだった事がそのまま影響している。
水辺を見ると我慢が効かなくなり、偶にこうしてしくじるのである。
前世ではどれだけ望んでも得られない大量の魚がいる環境が目の前にあるのだから、むべなるかなという奴だ。
辺りが薄暗くなったのに気づいて急いで魚捕りの道具を片付け始めたのだが、それが終わるころには周囲は真っ暗闇。
そんな中で草むら掻き分け薪を拾い焚火の準備をするのはかなり骨が折れる作業だ。
――確か支笏湖のほとりの高台に廃れた民家があったな。そこにいけば薪か薪の代わりになるものが手に入るかもしれん。
そう思って愛馬に乗っての移動中、漏れ出る焚き火の明かりが目に入った。
既に火があるのならそれを使った方が手っ取り早い。
俺は目が効くほうであり、藪の隙間からは小柄な浪人が一人馬に寄りかかっているのがチラと見えた。
相手が何者かは分からないがなるべく警戒させないように遠くから声を掛けて徐々に近づいていった。
ありがたいことに矢も鉄砲玉も飛んでこないまま浪人の野営地にたどり着けた。
(手負いの狼みたいだ……)
野営地に居たのは女の浪人だった。
破れた菅笠を被り、秋の銀杏の葉を思わせる袴を着ている。
腰に一本、手に一本刀があるが、はて?
大小の揃いではない。というと、二刀流とでもいうのだろうか?女の身で?
それに腰に巻いている帯はなんだろう?
蛇、鬼、狐、蜘蛛、龍、斎藤……。
羊蹄六人衆として知られる者達の名だ。
そして蛇の文字には赤で横線が引かれているが、これは一体?
(――いや、どうでもいいや。それより飯だ)
相手が何者かなど些事である。
火を使わせてくれないかと頼むと、その女は耳に心地よいが気迫の籠った声で俺を追い払おうとするが……そうはいかない。
兎にも角にも俺は腹が減っているのだ。
梃子でも動かないぞという意思を示すために焚火の前に座り込み、手を合わせてもう一度頼み込む。
すると焚火を挟んだ向こう側からなにやら困ったような唸り声が聞こえてきた。
「しかたねぇ。使わせてやる」
見た目と纏った張り詰めた空気と裏腹に、案外押しに弱い性質なのか?
美味い物を食わせてやると言ったのが効いたのかな?
太刀を帯から抜いただけで鯉口を切るぐらいに警戒していたのにこうしてあっさり許可をだすなんて、もしやこの女も腹が減っているのかもしれない。
「ありがたい!早速取り掛かるゆえ、しばし待たれよ」
許可を得た俺は口笛を吹く。
女の後ろにいた馬の耳がこちらを向くが、呼んだのはお前ではない。
「来い赤影、この流浪人殿は悪い御仁ではないぞ」
藪の向こうから荷物を沢山括りつけられた馬が現れる。
俺の愛馬である赤影だ。すり寄ってきた赤影の鼻を撫でてから、尻の上に括りつけられた荷物を下ろす。
食材やら調理器具が入った大切なものだ。
無くしたら数日は落ち込むし、盗られたなら地の果てまで追いかけ奪い返し、下手人はブツ切りにする。
「今日の飯は魚だ。わしの他に食う者がいるからいつもより豪勢にしよう」
荷物の中から先程取ったばかりの魚とまな板を取り出す。
釣れた矢先に頭部を殴打され内臓を抜かれた魚の身体は柔軟なままだ。
死後硬直を起こしていないという事であり、頭部への〆の一撃が上手く入った事の証明でもある。
「鮭か」
「……おう、支笏湖で半刻前に獲れたものよ」
女のその言葉を反射的に否定しそうになったがどうにか我慢できた。
俺は手元にある魚の頭を包丁で落としながら、これの何処が鮭なんだ?と今生何度もした問を繰り返した。
鮭と言う魚は川に上ると体色が茶色に変化するもので、それに伴い雄ならば顎がシャクレて厳つい顔つきになるものだ。
この魚の内臓を抜いた時、腹から卵は出てこなかったし未発達の卵巣もなかった。
アブラビレも大きく発達していたし間違いなく雄のはずなのだが顔つきは雌のように丸みを帯びている。
この魚を今生の人々は鮭と呼ぶが、俺の前世の知識では鮭ではない別の何かのようにしか見えないのだ。
だけどまぁ食ってみるとちゃんと鮭の味がするのである。
「今宵はこいつをちゃんちゃ……味噌焼きにする」
頭と鱗を落とした魚を三枚におろす。
このサイズの魚らしい骨の太さだが、高名な刀鍛冶が打ったとされる愛用の包丁に掛かれば骨の細い渓流魚を捌くがごとし。
小気味よい手ごたえと共に骨が断たれていく。
切り分けられた魚の身をまな板の上に並べ、荷物からフライパンを取り出す。
破れた菅笠の向こうにある女の片眉が上がったの見えた。
そうだろうそうだろう、見慣れないものだろうよ。
「こいつは鍛冶師に特別拵えてもらったものでな。取っ手があり、焼き物を作るのに丁度いい」
「たしかに、湯を沸かすには向かなそうだな」
「いかにも。わしのような道楽者で無ければこんなものは使うまい」
聞かれてもいないのに道具の説明をしだすのはアウトドア趣味のおじさんあるあるだ。
ちょっと良い道具があるとつい自慢したくなってしまう。
今生基準では行き遅れだが、前世基準では若い子であるこの女を前にするとつい口が軽くなってしまった。
おじさんとはそういう生き物なのだ。
「ちと慣れぬ味になるが心配はいらん。美味くて癖になるぞ」
荷物より小壺を取り出しその中身を匙でフライパンに落とす。豪勢にやると言ったからには普段よりもたっぷりと匙にすくってやった。
かすかなもの惜しさを胸に感じながらフライパンを火にかざすと、しばらくして油の跳ねる音と共に芳しい香りが立つ。
「嗅ぎなれねぇ匂いだな。なにを入れた?」
「こいつは
生酥と呼ばれる物については諸説あるが、たった今フライパンに放り込んだ物は前世で言うところのバターだ。
石狩ヶ原の南東に俺が懇意にしている牛飼いの家がある。
こいつはその家で飼っている牛の乳を買って自前で拵えたものだ。
やはり北海道の飯にバターがないのは寂しすぎる。
こうして形になるまでに多くの苦難と挫折があったが、猛烈な食い意地と執念で俺はやり遂げたのである。
まぁ味は前世の既製品と比べると格段に落ちるし、保存もあんまり効かないのだが。
なお余談ではあるが、噂では対馬に馬の乳で作った酒についての昔話があるそうだ。
おそらく元寇にまつわるものであり、遊牧民族である蒙古の文化の一部がかの地に残っているならば、現地に行けば獣の乳を加工した食品ついて何かしらの知見が得られたかもしれない……。
だが若かりし頃の俺にとって、対馬はあまりにも遠すぎる土地でありついぞその知識を得る機会は無かった。我が生涯の心残りである。
「生酥……聞いたことがねぇ名だ」
「さもありなん。かつては帝に献上された品と聞くが、大昔に失伝して久しいらしい」
「そんなものをどうして手前が持っていやがる」
「ムッハハハハ!盗人を見るような目で見るでない。自分の銭で乳を買い、自分で拵えたまでよ!」
かつて帝に献上されたものと同じ品になっているかは最早誰にもわからない事だが、概ねこんなものだったそうなので生酥と呼んでいる。
そう付け加えると女は短く鼻を鳴らした。
うさんくさい奴だと思われたのだろうか?
まぁ大昔に失伝している食品を自作しましたと言っても、本当に再現できたかなど分かりようはないのだからその態度も当然だ。
だがそんな事は重要じゃない。どうでもいいんだ。
大事なのはこれがバターであり、これを使うと最高に旨い料理を作れるって事だけだ。
俺はバターが溶け切ったフライパンの上にとびきり厚く切った鮭の切り身を並べていく。
熱せられたバターがジュウジュウと音を立て、鮭の表面に火が入っていく。
「お主、悪いが手伝ってくれぬか?この鉄鍋を持ってな、こう、焦がさぬように火に当てていて欲しいのだ」
「おい手前、火を借りるだけじゃなかったのか?」
「だから悪いと言っておるだろうが。お主がソレを持っている間にな、わしは野菜を刻んで味付けの準備をする」
ほれっ!とフライパンの取っ手を差し出すと、ものすごく嫌そうな顔をしながらも女は立ち上がって受け取ってくれた。
利き手だろう右手ではなく左手で受け取ったあたり、まだ俺に対して警戒を解いていないらしい。
俺がなにか女を害するような真似をすれば腰の刀でズンバラリとやられる事だろう。
はて、この警戒心の強さ、誰かに追われる身なのだろうか?
どこぞの辻か、賞金稼ぎの世話人をやっているあの禿頭の隣にでも行けばこの女の人相書きが貼られているかもしれない。
(だが、賞金首であろうとなんであろうと、今の俺にとっては与り知らぬ事よ……ってな)
眉をしかめてフライパンを火に近づけたり遠ざけたり、時折揺すっている女を一瞥すると、俺はまな板を布巾でぬぐい次々に野菜を刻んでいく。
長ネギ、白菜、行者にんにく、キノコ。
野菜は近所の百姓から買い、山菜は近所の森で摘み取った新鮮な食材だ。
程よい大きさに切られたソレを持ち女が持っているフライパンに放り込むと、ジュッという音と共に白い湯気が立ちのぼった。
野菜の新鮮な香りがバターのコクのある香りと混ざり、辺りを包む。
「おぉ……」
立ち昇る豊潤な香りに女が小さく漏らした声を俺は聞き逃さなかった。
俺は独りで静かに豊かで自由に飯を食う事を好むが、他人と一緒に飯を食うことも偶には悪くないと思っている。
理由は単純。
目の前の女のような、俺の料理に対する反応がたまらなく愉快だからだ。
コレもまた俺の生き甲斐の一つである。
「そのまましばし揺すっておれ。野菜に火が満遍なく通るようにな」
「……」
俺の指示に無言で従う女にどことなく可愛げを感じながら、荷物から布で巻かれた小瓶を二つと小壺を一つ取り出す。
「味付けは簡単でな。この三つで事足りる」
「この匂い、それは酒か?」
小瓶二つを注ぎ入れると同時に酒精を多く含んだ湯気が上がった。
いささか険が取れた様子の女の質問に、俺は待ってましたとばかりに答えた。
「いかにも。片方は普通の酒だがもう片方は一味違う。酒は酒でも極めつけの甘口よ」
この甘口の酒というのはつまり味醂の事だ。
前世では調味料として当たり前だったものだが、今世では女によく好かれる酒として扱われている。
戦国の世の雰囲気を色濃く残す昨今、蝦夷地では中々手に入りにくいもので、面倒を積み重ねてようやく手に入れた貴重な品である。
ちなみにもう片方の普通の酒と言った品は清酒である。
やはりこの世は異世界。この時代に清酒が普通ってどういうことだ?
「そして最後に味噌を入れる。これは渡島ヶ浦で買い求めたものでな。流石松前のお膝元、これが中々良い出来なのだ。」
沸騰する酒へ味噌を溶き入れ、フライパン全体に味噌が回るようにかき混ぜてから蓋をする。あとは程よい火加減で蒸し焼きにするだけだ。
「手を煩わせて悪かったな、後はわしがやろう。じきに出来上がる故、お主は座っておれ」
◆
薄い手鍋を源十郎と名乗る浪人に返して待つ事しばらく。
篤は源十郎から渡された木の皿を受け取った。
皿からは鼻腔をくすぐる芳醇な香りをふんだんに含んだ湯気が立ち昇っている。
行者ニンニクの匂いと合わさった生酥の香りはいっそ暴力的と言っていい程に食欲を掻き立ててくる。
皿の上を眺めてみれば、鮭の身は生酥の色に染まった丸い油を浮かせた味噌だれを艶々と纏っている。
火が通りしんなりと柔らかくなった野菜の緑が赤い鮭の隣で鮮やかだ。
それら野菜の中で、キノコの厚い傘がよく目立つ。
この肉厚の身に、篤はどこかで見覚えがあった。
「さあ、食え食え。そなたの火を借りて作ったのだ、遠慮はいらんぞ」
源十郎の豪快な声に促され、篤は箸を手に取った。
この妙な男は最初から最後まで何も隠さず料理をこしらえた。もしこれで毒が盛られていたならば、もはや自分にはどうしようもできない熟達の技だったと言う事だろう。
まずは鮭を一口と、箸を入れるとホロリと簡単に崩れた。
赤く肉厚な鮭の身を口に運ぶ。
あふ、と篤の口から湯気がこぼれた。
(こいつは、食い慣れてるはずの鮭が別物みてぇだ……)
遠い異国の味、というべきだろうか?
柔らかく、味噌の甘辛さと生酥の深いコクと豊かな旨味が舌に広がる。
夜の羊蹄平の寒空の下、空腹の身体に温かさが染み渡った。
体の奥底から活力が湧き上がるような美味さであり、次を求める箸が止められない。
この味ならば野菜もさぞ美味いだろう。
今度はよく火の通った野菜をまとめて箸で掬い取り、口に入れる。
咀嚼し、長ネギ、白菜、行者ニンニク、キノコの四種の味と触感を舌と歯で楽しむ……これも美味い。
だが次の瞬間、篤の視界が揺れた。
この、キノコの肉厚な傘とザクザクと小気味よい軸の触感、噛むほどに広がる独特の風味。
馴染みのない味付けになっているが、それは幼い頃の記憶を呼び起こす鍵だった。
「鮭も美味いが野菜も美味いだろう。特にこのキノコ。こいつはここから東にある森で採ったものだが、ここらじゃ1番味が良いのだよ」
聞いてもいないのにベラベラと喋る源十郎に、篤はひとり納得していた。
源十郎が言っている東の森とはつまり、篤が翌朝食糧調達のために行こうとしていた場所だ。
「……」
――あの森。
生家の近く、双子の弟、十兵衛と駆け回った場所。
陽光が木漏れ日となって差し込み、短く生えた青草が足をくすぐる。
あの時も十兵衛がすぐ隣にあった。
家の見える場所に居なければならないと両親の言いつけを守ろうとする十兵衛を説き伏せたのは自分だった。
ここのキノコが一番うまいと、たしかそう言ったはずだ。
沢山採ればきっと母が喜んでくれると、弟を付き合わせて夢中でキノコを採った。
あの頃の家族は、貧しくても温かかった。満ち足りていた。
父がつけてくれた稽古の後、母が作った飯を皆で食べながら、笑い合った。
毎日が幸せだった。
このキノコの味は幸福な家庭の味、その一つだった。
あの時のキノコ採りはありふれた日常の一つだったのだ。
だがあの日のキノコ採りの後、そんなありふれた家族の日常は永遠に失われてしまった。
すべてを失い、得たのは傷跡と決して消えぬ怨念、復讐の炎である。
あの森で、自分があんな事をしなければ。
十兵衛の叫び声が、耳に蘇る。
銃声と共に暗闇へ消えていく弟の姿を今になっても鮮明に思い出せる。
血の臭い、燃える家、倒れ伏す死体。肩を突き刺す刀の冷たさと痛み。身を焦がす熱。
火に照らされる仇の姿が、胸を抉る。
篤の目から、熱いものがこぼれ落ちた。
「ムッハハハ!わかるぞその気持ち!わしもこいつを初めて食った時は感動のあまり涙が止まらんかった!」
源十郎の陽気で的外れな言葉に、篤は慌てて顔を下げた。
破れた編み笠の下で、頰を拭う。
ここの所、どうも人前で涙を晒す事が多いような気がする。
だがその度、心の中で何かが固く結ばれる。
もはや取り返せない過去。その悔恨。
でもだからこそ、必ずや家族の仇を討つ。
生きて、羊蹄六人衆を斬る。失われた幸せを、仇の血で贖うのだ。
「……ああ、うめぇ。なるほど、確かにこいつは、この辺りで一番美味いキノコだ」
篤の言葉に、源十郎は髭を震わせて笑った。
「おうよ! わしの目利きは中々なものだろう?」
篤は頷きながら、口元で笑みを浮かべた。
源十郎の無邪気な様子に、わずかな安堵を感じた。
この男は徹頭徹尾、飯の事しか頭にない。
自身を狙う野盗や賞金稼ぎではない。
本当に焚火を起こす手間を惜しんで寄ってきた、早く飯を食いたかっただけの男なのだ。
こんな時世に、なんと気楽な男だろう。
(変わり人め……)
心の中でそう独りごちるが、この熊のような男を煙たがる気持ちはもうなくなっていた。
篤は箸を握りしめ、もう一口、キノコを噛み締めた。
美味い。腹が満たされ、活力が湧いてくる。
これならば明日も満足に戦える。決して斎藤の手勢ごときに負けはしない。
奇妙な男との奇妙な出会いではあったが、それが思わぬ助力となった。
復讐の炎が、胸で静かに燃え上がる。
◆
宿場の人間曰く、その女は嵐と共にやって来た。
「こいつは人じゃねぇ!」
「助けを呼んでくれ!物の怪だ!」
最初の一人を居合の一振りで斃したのを皮切りに、宿場の庭に斎藤の手勢達の血飛沫が上がる。
あまりの早業にあっけに取られた者達は、血風を纏い接近してきた女によって一刀のもとに肩口から肋を割られ斬り伏せられた。
仲間がやられている様を好機と見たか、遠方より射かけられた矢の数々はしかし、俊敏な体捌きに翻弄され一本も命中しない。
あっという間もなく8人が斬られ、死んだ。
「なんてこった、女一人の仕業か?」
法螺貝が響き、増援が来てからの戦いはまさに嵐と呼べるものだった。
戦場に身の毛もよだつ、骨の髄まで凍り付くような叫びが上がる。
その叫びに怖気づいた者達を、二刀を構えた女が次々と斬り捨てていく。
片手で振るう刀の、なんたる剛力か。
二本の白刃が胴鎧など意にも介さず命を奪い去っていくその光景は、この世の者が起こしているとはとても思えぬものだった。
心を奮い立たせ僅かに手向かった者も中には居たが、振るう刃をはじき返され態勢を崩した瞬間に斬りつけられ、ぬかるんだ土に身を沈めた。
もはや近づけば死あるのみと、弓取りが必死の形相で矢を射かけるがやはり全て躱される。
そしてそれら弓取りも、女が投擲した仲間の刀が鎧を貫通し、鍔まで突き刺さったそれに心の臓を割られて絶命していった。
今宵、富士見屋にて奪われし命は斎藤の手勢二十余名。
僅かな手傷も負わずにそれを成したのは、一人の女の怨霊だったという。
源十郎の飯:利益の能力強化 大
一日の間、常に気力が少量回復し続ける。
尚、この時点では気力は回復ぐらいにしか使わないのであまり意味はない模様。