豊かに茂った木々の葉の隙間から朝の光が差し込む。
昨晩あれほど豪勢に食べたというのに、源十郎は本当に一食も無駄にしない主義らしく、朝から炊き立ての白飯と商品の一つである行者にんにくの醤油漬けが出た。
これがまたえらく白米がすすむ組み合わせで、篤は舌鼓を打ちながらこれを銭を払って欲する侍が居るという話に納得をした。
朝餉を済ませた篤は源十郎の小屋の外で馬の準備をしていた。
愛馬の鞍の座り具合を確かめる篤の目は、戦いの予感に鋭く光っていた。
野盗が出るとすれば今日、荷物を運んでいる最中になるはずだ。
こちらは馬に乗っているのだから、相手は平原には出したくはないだろう。
来るとするなら麓の林間部か……。
昨夜の骨酒の余韻はすでに無く、十分な食事をとったからか体には活力が満ちている。
これならば十全に用心棒として働けるだろう。
篤は武具の位置を微調整しながら周りを見回した。
源十郎が小屋から荷物を運び出し、赤影の背に括り付けている。
「篤、調子はどうだ?」
「悪くねえ。これで荷は全部か?」
「いや、まだ一つ残っておる」
源十郎は小屋から離れ森の中へと歩き、篤を呼んだ。
篤が近づくと、そこには泥で覆われた小さな窪地があった。
地面から湯気が立ち上り、周囲の土が湿っている。
その湿った土から木の棒がいくつも突き出していた。
「泥で埋まっているが温泉だ。あの小屋が現役だった頃は風呂として使えたのだろうが、今はこの有様よ」
そう言いながら源十郎は地面から突き出た棒を引き抜いた。
大根を引き抜くように、棒に括りつけられた布が湯気を上げながら泥中から現れる。
泥まみれのそれを源十郎が開くと、そこには束になったにんにくが連なっていた。
「これがわし秘伝の黒にんにく。地の熱を使いこれを作れるようになるまで苦労したのだ」
源十郎が一房、手で割って篤に見せる。
黒く艶やかなそれは、確かに見た目からして通常のにんにくとは別物だ。
なによりあの強烈な匂いがしない。
篤は鼻をヒクつかせながらわざわざ侍衆が買い求めるという妙薬を眺めた。
「よう仕上がっている。これを壺に詰めて持っていくから手伝ってくれ」
「おい源十郎、手前の秘伝を見ちまったがいいのか?」
「構いやせんよ。お主、真似して作ろうとも売ろうとはせぬだろうし、誰かに言いふらしたりもせんだろ?」
その位の人柄はもう見える、源十郎はそう言って笑うと黒にんにくを一房剥き、篤に差し出す。
「折角だから食ってみろ。一日一粒、これを食らわばたちまち五体に剛力宿るぞ」
篤は差し出されたそれを訝しげに受け取り、かじる。
柔らかく、ねっとりとした食感。
甘酸っぱい味わいが広がり、果物のような風味を感じる。
だが今まで味わった事のない濃厚な滋味だ。
「……こいつは妙な味だな。だが滋養を感じる」
「そうだろう?わしは毎日欠かさず食っておる。おかげで病知らずよ」
剛力が宿るという妙薬を毎日欠かさず……。
そういえば源十郎は昨日も懐からこれの入った包みを取り出していた。
この男、これを肌身離さず持ち歩いているのだ。
篤は源十郎の熊の如き巨体と精気溢れる肌を眺め、なるほどなと頷いた。
「房をほぐし壺に詰めてくれ。これはお主の馬に運んでもらうぞ」
二人は黒にんにくを手早く壺に詰めると布で巻き、刻んだ藁を敷いた小さな葛籠に納めた。
源十郎は篤の馬にこれを丁寧に括りつけると、最後に太刀を抜きその刀身に視線を滑らせた。
「……うむ、錆無し、刃毀れなし、確認ヨシッ」
篤は源十郎の太刀が抜かれたのを初めて見たが、あらわにされた刀身の厚みに目を細めた。
これはもはや鉈や斧に近い剛剣だ。
これが源十郎の体躯で振るわれるとなると、それは……。
「出発しよう。野盗に気をつけてくれよ」
源十郎が羆革の外套を翻し馬に跨り、篤もそれに続いた。
◆
俺たちは羊蹄山の麓を下り、富士見屋に向かう道を進んだ。
馬達の背には加工した魚や山菜の漬物、黒にんにくが入った葛籠が揺れている。
溜まっていただけあって中々の大荷物で、傍目から見たら祭に向かう行商人のように見えるだろう。
つまり、野盗からしてみれば分かりやすい獲物と言うわけだ。
「やっぱり、来るかね?」
「来ると思っているからおれを雇ったんだろ?」
「うむ……。まったく最近の蝦夷地はどうかしておる」
昔、それこそ俺が蝦夷地にやってきた15年前はもっと野盗は少なかったし、居ても大した連中ではなかった。
手持ちの飯をくれてやったら、刀を鞘に戻し礼まで言ってそそくさと消え失せる……そんな野盗と言い切れない半端者すら居たのだ。
「昔の野盗は食うに困った連中が多かったが今は違う。蛇の手勢はほとんど盗賊団のようなものだったが、アレに憧れて手本にしたのかね、馬鹿で下衆な糞野郎ばかりだ」
「おいおい、随分と言うじゃねえか」
連続した汚い言葉を篤が咎めたが、随分愉快そうな顔をしているじゃないか。そうか、お主も野盗嫌いか。わかるぞその気持ち。
「ふん、わしは元々野盗なんてのは大嫌いだからな。質が悪くなったら尚更よ。あんな連中は皆死んでしまえばよい」
まぁそれぞれ野盗になる理由があるのはわかる。飢餓ゆえに、と言われるとなるほどそうか仕方ないねと納得すらする。乱世だしな。
でもそれはそうとして野盗死すべし慈悲はない。これもまた乱世ゆえ致し方なしなのだ。前世の日本の治安の良さが切実に恋しいぞ。
「どうやら野盗に怨みがあると見える」
「まあな。昔、生まれ育った村を野盗共に襲われて以来怨み骨髄に徹すというやつよ」
戦国あるあるの出来事だし、特別不幸ぶると恥ずかしい思いをするのでサラッと流す。それに言葉ほど新鮮な怨みを抱えているわけでもない。
まぁそれでも、野盗の首領と揉めていた部下の男に対しては、もっと頑張って説得してくれていれば……と考える事が時々はある。
首領とこの男に対しては随分長い間恨んでいたが、その尖った感情も時の流れにさらされて角が取れてしまった。
父よ母よ妹よ、すまん。仇討ちのために生き続けるのは俺にはキツかったよ。
「気の毒な……おい、源十郎」
馬上で周囲を警戒していた篤が目配せしながら俺を呼ぶ。
野盗が出たらしいが……おお、確かに居た。
木の裏から長弓がチラッとはみ出している。
間抜けな奴だが、位置がかなり遠い。あれ一人な訳はない。必ず他にも仲間がいる。
「あれは任せた」
「わかった」
伝えるべき事を伝え終わると、木の裏や藪の向こうから武装した男達がワラワラと姿を現した。
袴姿が多い。
浪人達が群れて野盗になったタイプだろうか。
「よう熊公。久しぶりだな」
「んん?」
先頭に立つ男が話しかけてくるが、その顔に見覚えは……あるな。
急に胸の奥が冷えるような感覚がした。
そうかそうか、お前はそういう事になったのか。
「……おお、いつぞやのか。くれてやった鮭の燻製は美味かったか?」
「おうよ、忘れられねえ美味さだったぜ」
「味をしめたと見えるが、お主も立派になったようだしもうやらんぞ?」
すっかり野盗らしさが板についているが、こいつは昔、へっぴり腰で刀を構えて吃りながら荷物を置いていけと怒鳴っていた百姓だ。
素人丸出しの半端者であり、ガリガリに痩せていたから飢えに苦しんでの事だと思い、馬鹿な真似はもうやめろと飯を恵んでやったのだが……どういう経緯か今は一人前の野盗をやっているらしい。
「いらねえよ。用があるのは手前じゃなくてその女だ」
いつの間にか賞金稼ぎも始めたようだ。
だが、なるほど。
安全のために篤を雇ったのだが裏目に出てしまったらしい。
しかしこの男、何が楽しいのかニヤニヤしながら近づいてくる。
肩に刀を担ぎ、ユラリユラリと揺れながらの歩行。前世で悪そうな兄ちゃんがよくやってたあれだ。刀があるぶんそれよりかは威圧的だな。
「その女の首をとれば銭が手に入るだけじゃねえ。斎藤様から褒美がもらえるんだ」
「へえ、褒美ねえ。良いものなのかい?」
「おうよ、侍にしてくれるのさ。なあ熊公、その女差し出せばおめえも取り立てていただけるように斎藤様に……」
馬鹿め、野盗に襲われてるのに自分の用心棒を売る阿呆がどこにいる。
あとお前、近づきすぎだぜ。
「イヤァァァァァァァッ!」
馬上から飛びかかり空中で抜刀。
大上段に構えた太刀を、ヘラヘラと間合に踏み込んできた野盗の肩口に体重と満身の力を込めて振り下ろす。
「ギャッ!」
連続するゴツゴツとした手応え。
たちまち肉と一緒に肋骨が順繰りに切断され、極厚の刀身が腰骨にめり込んだ。
噴き上がる血、ズレていく半身、まろび出る臓物。
野盗達から驚愕と恐怖の声が上がった。
「うおっ!殺しやがった!」
「畜生馬鹿力め!やっちまえ!」
刀を持った野盗達が身を屈めながら叫ぶ。射手のために射線を開けたのだ。だが一向に矢は飛んでこない。
「弓も一流とはなあ」
思わず賞賛の言葉がでるが、こんなの誰だって賞賛したくなる。
俺が馬上から飛びかかったその時に、篤が長弓を構えて射手二人を瞬時に射殺していたのだ。
射手二人は仲良く眉間に矢を生やしている。
この女、強すぎるし恐ろしすぎるぞ……。
「おい、早く放て!」
「なにしてる!」
背後から射手の掛け声が聞こえてこない事を不審に思った野盗達が後を振り向いている。
好機到来だ。
無防備な背後から二枚おろしにしてやると駆け出す俺の隣を、風が吹き抜けた。
「……!」
風の正体は篤だ。
無言で刀を構え、野盗達の無防備な背中目掛けて疾走していく。
そして迷いが無い一撃が次々と野盗達に深く食い込み、緑豊かな林の中に血風が吹き荒れる。
それはまさに疾風怒濤。
あるいは刃を伴う旋風だ。
蝦夷地の自然の如き容赦のなさに、篤が味方だと分かっていても怖気が走る。
おいおい無双ゲーじゃないんだぞ……?
「終わったぞ」
ビシャッ。
篤が血振るいし、刀に纏わり付いた血が地面に撒き散らされる。
振り返った篤の顔は返り血塗れでなんともおどろおどろしい。
なるほど、これが怨霊。
そう呼ばれるだけはある凄惨さだった。
「お主は凄まじいなあ。いやはや、助かったぞ」
「仕事をしただけだ。それより、すまなかったな源十郎。こいつらの狙いはおれだった」
「なに、お主がおらねば通りすがったわしをそのまま囲んでいただろうよ」
やはりお主を雇って正解だった。
そう言うと篤は笠の縁をつまみ、静かに下へ向かせた。
カッコいい動作だが、もしかして少し照れているのだろうか?……人から感謝される経験が少ないのかもしれないな。
つらい過去が偲ばれる。
「おい、ちと水場に寄り道しよう。こんな血みどろで街道に出たら誤解されてしまう」
「ああ、おれも大概だが手前はそれに輪をかけて酷いからな」
全くもっておっしゃる通りだった。
野盗を二枚おろしにした時、心臓を両断したせいで俺の全身は血まみれだ。
篤の方が沢山斬っているのにそれよりも酷い有様。
俺は剣術なんて大して学んだ事がないからさっきみたいな体格と筋力に物を言わせた荒い戦い方しかできない。なので斬り合いになるといつも血を頭から被る事になるのだ。
後始末がとても面倒くさいのでやはり斬り合いなどするもんじゃないな。
「……なあ源十郎。どうして俺をやつらに売らなかった?」
「どうしてもこうしても、嫌いな連中の言う事に従いたい奴がいるか?」
「野盗相手に渡す物はねえってか?」
「うむ。それと今まで言わなかったが、わしは斎藤が嫌いなのだ。斎藤という名前がな」
「なに?名が気に食わねえのか?」
「うむ」
蝦夷地の斎藤さんも普通に嫌いだけどな。
あいつがいるから、さっき二枚おろしにした野盗のように立身出世を夢見て道を誤る輩がいるのだ。
あいつは、最後に見かけた時には真面目に畑を耕していたし嫁らしき女も近くにいたのである。
もともと俺は斎藤という名前が耳障りでその名を聞くだけで胸がざわめき心が苛立つのだが、蝦夷地の斎藤はそれに拍車をかけてくる。
もう徳川の天下だって言うのに、本当に迷惑な奴である。
「名が気に食わないから斎藤に抗うとは、妙な奴だな手前は」
「妙な奴なのは知っての通りだろう?」
篤の言葉は至極当然な事だ。
でも、実のところそんな妙な話でもない。
俺の住んでいた村を襲った侍崩れの野盗共。その首領の名が斎藤なのだと知れば篤とて納得するだろう。
もちろん、そんな事は口に出さないけれど。
「さあ行こう。おぉーい、赤影!こっちにこぉーい!」
◆
「確かに銭は受け取った。では藤田様によろしくな」
「へえ、きっとお喜びになりますよ。へへへっ」
荷を納品し、源十郎が富士見屋の主人から銭を受け取っている。
膨れ上がった巾着袋が、一つ、二つ、三つ……。
あんな大金よく富士見屋にあった物だ。
「ほれ、追加の銭75文だ」
源十郎が約束通りの追加報酬を渡してくる。
それを懐にしまうと篤は笠の下から源十郎の髭面をじっと見つめた。
源十郎は道楽のための道具を買うのに銭が必要だと言っていたが、今回の稼ぎで一体何を買うつもりなのだろうか?
今回稼ぎ、篤の見立てでは自らの背中に背負っている長弓を三つ買ってもまだ余るだろう。
「払いは終わり……おい!蘭よ!」
篤への支払いを終えた源十郎がすぐに弓師の蘭の元へ向かう。
その目は爛々と輝き、なんなら息も荒い。
そして源十郎はあろう事が今回手に入れた稼ぎをそのまま蘭に押し付けた。
「蘭、銭が揃ったぞ。例のものを渡してくれ」
「……はいおおきに。コレが注文の品や」
手早く銭を数え終えた蘭はニヤリと笑うと藍染めの包みを取り出した。
それは細長い形をしていて……篤はその中身に想像がついてしまい呆れたような目で源十郎を見た。
源十郎はそれを主君から名刀を下賜された侍のように恭しく受け取り、中身を改めた。
「うおおお……な、なんと……なんともはや……」
「赤漆と黒漆を使てるんよ。竿自体も節を揃えて注文通りの9尺9寸。弓に使わん細い竹で難儀したけど、腕利きの職人が拵えたまさに極上品や!」
蘭が源十郎に差し出したのは、漆塗りの釣り竿だった。
昨晩見た源十郎の竿と同じ構造だが、その外見は全く違う。
イモリの腹を彷彿とさせる鮮烈な黒と赤の斑模様が、よく磨き上げられた漆特有の滑らかな光沢を放っている。
まるで位の高い侍の刀のような華美な見た目の釣竿だった。
「源十郎、手前……」
「ムッハハハ! 素晴らしい!やはり弓師は竹と漆を扱わせると天下一だな!ほれ見ろ篤!僅かな歪みも無く真っ直ぐだぞ!」
いそいそと竿を継いでいく源十郎が満面の笑みで篤を呼ぶ。
呼ばれた篤はと言うとすっかり呆れ果てていた。食うに困り野盗になる者、暮らしを変えるために斎藤に従う者……銭が無いがゆえに横道に逸れる者が掃いて捨てるほどいるこの蝦夷地で、これほどの大金を道楽に注ぎ込む輩がいるとは。
篤の今回の稼ぎは人を5人殺めて575文。
そして源十郎がこの竿に払った銭は6000文を超えるのは間違いないだろう。
何というか、世の無常を感じずにはいられなかった。
「ああ、そうだな。いい品だな」
「そうだろう!?ああ早く使いたくて仕方がないわ!」
しなりを確認しているのだろう、継ぎおわった竿を上下に揺らす源十郎はとても楽しそうだ。
とてもではないが人一人を右と左に斬り分けた男には見えない無邪気さである。
「まったく呆れた奴だぜ手前は」
篤は小さく呟き、笠を被り直すと店の前で待たせている愛馬へ向かった。
銭と長弓を得た事だし、そろそろ別れの時だ。
「ではな、源十郎。達者でいろよ」
源十郎は竿から目を離さず、手を掲げて篤に応じた。
「うむ! お主も達者でな!」
こちらの事など文字通り眼中に無い様子の源十郎に篤は苦笑し、馬を進めた。
蝦夷地の風が、篤の背を押し導くように吹いていた。
◆
「篤は戦には出た事はあるのか?」
満天の星空の下、丸太に腰掛けた2人を焚き火が赤く照らしていた。
「その話の前に鮭を食え。焦げちまうぞ」
「あ、ああ。すまん。いただくとしよう」
篤の隣に座る松前侍はどこか気恥ずかしい様子で焚き火の前に突き刺さる鮭の串を取った。
飾り塩を施された鮭のヒレはピンと立ち、見栄え良く仕上がっている。
侍が喉を鳴らし、ガブリと鮭の背に齧り付く。
じっくりと焼かれ、自身の脂で揚げられた皮がパリッと軽い音を立てた。
堪らぬ歯応え、香ばしさ、脂の旨み、濃いめの塩味。そして厚い鮭の肉。
「む、うまい」
鮮度が悪かったのか多少の臭いと身の緩さがあったが、十分に美味い塩焼きだった。
石狩ヶ原を荒らす羊蹄六人衆の1人「鬼」。
その手下である鬼面隊により生きたまま火炙りにされた侍三人の墓穴を1人で掘った後である。
精神、肉体の両方にとって重労働の後にこの濃い味付けはありがたかった。
ふと、横目で隣を見る。
篤が無言で鮭の背に齧り付いているその姿を見て、侍がふと表情を緩めた。
「……こうしているとお母が焼いてくれた鮭を思い出す」
「……ああ、お父がアイヌから鮭を貰ってきて、それをお母が焼いてくれた」
懐かしい母の味と比べると塩加減がやや雑ではあるが、塩気のある鮭と隣に座る篤の存在が過去の幸せな思い出を想起させた。
「覚えているか?稽古中、多く打った方が夕餉の魚を多く貰えると躍起になった」
「いつもおれの勝ちだった」
「ふん、篤の食い意地には負けるさ」
同じ過去を共有する姉弟の会話だった。
侍の名は北守十兵衛。篤の双子の弟だ。
死んだと思っていた双子の片割れ。
侍と浪人。
互いに昔とは変わってしまったが、それでも変わらない思い出がある事を確認できて十兵衛は嬉しかった。
離れ離れになっていた16年。
その年月もこうして話を続けていればきっと埋まるのだと。
かつてのような双子の姉弟として暮らしていけるのだと素直に思えた。
「お母の飯か、懐かしい。時折、野菜ばかりの鯨汁が無性に食いたくなる事が……」
そこまで言って十兵衛は言葉を切った。
隣に座る姉の目の奥に、燃えるような激情が宿っていたからだ。
ようやく再開できた家族が、一転して得体の知れない恐ろしい何かに変じた事に十兵衛は戸惑った。
「……いや、それよりさっきの話の続きが聞きたい」
「戦の話か。いいぜ、あれは3年前の事だったか」
「3年前?まさか関ケ原か?」
松前に仕える身としてのんびりとはしていられないが、この事を急ぐ必要もあるまい。
お互い身内なのだ、いずれは上手いこと落着するだろう。
十兵衛はあえて楽観する事に決め、父母の話を避けて篤の身の上話に集中するのだった。
このせいで赤鶴屋で藤田様が無双する事になるのだった。