白い島を出て次の日。
空は快晴、天候は春、時々――夏。波も穏やかに流れている。
一行は陽気な空気の中を進んでいた。サンジの作ったおやつをつまみつつ海を眺めていると、クロールで海を泳ぐという珍妙で巨大なカエルをルフィが発見し、大急ぎで進路変更してカエルを追いかけ始める。
ちなみにルフィはそのカエルを食べたいらしい。なんとも食欲旺盛である。
「おいマリー! 起きろって! すげェカエルがいるぞ!」
「Zzz……あれ、もう着きました…?」
「まだだけど、すんごいカエルがいるぞ! 見てみろって!」
「じゃあもう一回寝ます…おやすみ…」
「どんだけ眠いんだっ!」
甲板で寝転んでいるマリーは白い島から帰ってすぐ、「次の島に着くまで眠ります。おやすみなさい」と宣言してからかれこれ15時間以上は寝ているのだが、まだ眠いらしい。
興奮したルフィがガックガクと肩を揺らすのだが、構わずにまた寝入ってしまった。
「ん? あれは……灯台!?」
カエルの行く先を望遠鏡で確認したナミは、海の真ん中でぽつんと立つ灯台を見つける。どうやらカエルはその方向に向かっているようで、ルフィ達だけでなくロビンとサンジも乗り気でカエルを追い始めた。
突如鳴り響き始めたカンカンカン!という音を不審に思いながらも船を進める。灯台のすぐ傍でカエルが立ち止まったため、一気に追い詰めようとカエルの正面に回ろうとするが、カエルに近づいた途端海の中で何かに乗り上げてしまう。
カエルの視線の先、メリー号の向こう側から煙を吐く音とともに迫りくる大きな影に気づいたナミが「バックバック! 180度旋回!」と叫ぶ。それを聞いて反射で船を反転させるルフィ達。
間一髪で船を動かしたすぐ横を、鉄の怪物のような異形の船らしきものが走り抜けていく。それはルフィの「逃げろ!」という制止を無視して立ちふさがったカエルを、意にも介さず弾き飛ばして海上を進み、姿を消したのだった。
その後、灯台から現れたココロという老婆と、その孫であるチムニーという少女から話を聞くことが出来た。
あの鉄の怪物は“海列車”パッフィング・トムという名前らしく、海中の線路に沿って動くここだけの交通機関らしい。
先ほどの海列車は“水の都”ウォーターセブンという町から来たらしく、ログの指す方向も同じようだ。ココロ曰くその町は世界最高の船大工の集まりだと聞いて、ルフィは「必ず“船大工”を仲間にするぞ!」と声を上げた。
ココロから町の地図と船大工への紹介状をもらい、一行は再び船に乗り込んで船大工を仲間にするべく、ウォーターセブンを目指して出航した。
道中で「どんな船にしてもらうか」「どんな船大工を乗せるか」という会話をしていたルフィ達は、ウォーターセブンを視界に収めると島の中心に聳え立つ巨大な噴水に興奮した。
港に泊めようと町の入口を眺めていると、釣り人だろう男に声をかけられた。
「海賊が堂々と正面にいちゃマズいぞ。向こうの裏町へ回りなさい!!」
「………はーーい! ありがとう!」
男の助言通りに裏町に回る途中で、ウォーターセブンという町の絶景を目にして全員が目を瞬かせた。
「町が…! 水浸し! 家が海に沈んでるぞ!」
「違うわ。もともと沈んだ地盤に作られた町なのよ」
「??」
「家の下の礎を見て」
「本当だ、柱だ!」
「成程…それで“水の都”」
家同士を繋ぐ道が丸ごと水に沈んでいる様子を見て、チョッパーが驚いて目が点になる。ロビンは町の様子からこの街の成り立ちについて考察しており、それを聞いたサンジは感嘆の声を上げた。
「うほーー! おい、早く船つけろ!」
「コラコラおめェら! ここはダメだ海賊船は。何しに来た略奪か?」
「いいや、船を修理したいんだ」
「略奪って聞くかフツー…」
「それならこの先に岬がある。とりあえずそこに停めると良い!」
「はーい」
「ありがとーう!」
早く冒険したいと体を震わせるルフィに、またも見知らぬ住民から声がかかる。親切にも海賊向けの停泊場所を教えてもらい、一行は示された岬へと向かった。
「おーい、マリー。島に着いたぞー!」
「んん……おはようございます」
船を岬に停め、帆を畳み終わったところでルフィがマリーにもう一度声をかける。今度はしっかりと目を覚ましたらしく、立ち上がって寝てばっかりだった体を伸ばしていた。
「私たちはルフィ達と船の修理の手配と黄金の換金に行ってくるわ。マリーはどうする?」
「ん……わたくしは船番にします。人の多い場所はあまり得意ではありませんので」
「そう……じゃあゾロも残るから、一緒に待っててね」
「よし! じゃあまァとにかく! 行こう“水の都”!!」
ルフィが元気よく歩き出し、ナミとウソップを連れて街の方へと消えていった。
マリーは自分がまだ寝間着に近い服装だったことを思い出し、着替えようと船室へと向かった。
「ロビン、わたくしは今から船内で着替えます。一緒にどうですか」
「そうね。私も街に行きたいし、散策用の服に着替えようかしら」
そう言って、二人は女子ルームへと入った。
クローゼットの中からそれぞれの服を取り出し、ロビンは手早く着替えていく。ロビンがジャケットを残して着替えた頃、隣からパサリ、と布擦れの音が聞こえた。
「……クロユリさん?」
「む、むう……」
見れば、マリーはまだ来ていた服を脱いだところで止まっていた。さっきの音は、着ようと思った次の服を取り落とした音だったらしい。マリーは困った顔をして、落とした黒い長袖のワンピースを拾おうとした。
まず片手で拾い上げようとして、指から布がするりと滑り落ち床に広がる。次に両手で挟み込むようにして、ようやっと布を持ち上げる。それは持ち上げているより、腕に布を引っ掛けていると言った様子で、布のような軽いものを持ち上げていると言えるような様子ではなかった。
そこからマリーは何とか服の下から手を差し入れ、苦戦しながら袖を通す。両腕を通し首を出して、背中のチャックを閉めようとするが手は見当違いの場所を場所をつまむ。そのままつまんだ布を上に引っ張り上げようとしているところを見て、ロビンが口をはさんだ。
「クロユリさん、手伝いましょうか?」
「!! ……ありがとうございます」
ロビンが簡単に背中のチャックを上げる。そのまま床に広げていたままだった白のサイドレス・サーコートを上に着てハイヒールを履き着替えを終える。
しかし、ロビンとマリーの間には何とも気まずい空気が流れていた。
「………」
「あの、ロビン…?」
「クロユリさん、答えづらかったら黙っていてもいいのだけれど…青雉と戦った時に消費した体力は、まだ戻っていないのかしら」
「………!!」
図星をつかれたと、マリーは一瞬硬直する。その様子を見てロビンは自分の推測が正しいことを確信した。
「そうですね……正直、まだまだ全快とは程遠いです。今も最低限の戦闘が可能な程度運動能力を維持していますが、代わりに主に手の触覚が機能しない状態になっています。握る、摘まむと言った動作は難しいでしょうね」
「そう……あの炎を使ったからかしら?」
「否定はしません」
マリーの答えに、ロビンは俯く。自分がいたから青雉に襲われた、とロビンは不安に駆られ、この船にいていいのかと考えてしまう。
「……ロビン、いま貴女の脳波は『罪悪感』という感情を示しているように見受けられます。なぜですか?」
「なぜって…私がいたから、青雉と戦闘になったようなものでしょう?」
「いいえ、あれはわたくしの失敗です。青雉への殺意を優先して、彼の殺意の有無を無視した。彼にあなたへの殺意が無かった以上、弁解する余地はあったかと思われます」
「………」
「ロビンが気負うことはありません。彼があの場にいたのは彼の事情であり、貴女が責任ではありません」
「ありがとう、クロユリさん……」
眉を下げて、困ったようにロビンは微笑んだ。マリーはまだ罪悪感が残っているな、と思っていたがこれ以上どう説得すればいいのか分からず口を噤んだ。
着替え終わり甲板に戻ると、サンジから一通り服についての誉め言葉をもらい、ロビンはそのままチョッパーと出かけて行った。続いてサンジも買い出しに出かけ、ゾロと二人で船に残ることになる。
マリーはその間、メリー号を見て回っていた。マリーが乗り始めた時か修理跡の目立つ船であったが、空島から帰ってからは余計にボロボロに見える。どうすれば直せるだろうと疑問に思い、船を一通り回って眺めてみたが……。
(これは……買い替えでしょうね。)
船に関する専門的な知識はマリーにはない。しかし、木の組み方を見れば柱となっている個所程度は見て取れる。船底にある長い木材。ひびが入り、鉄板で上から補強しているだけのそこを重心にしていることを確信したマリーは、もうこの船を直すことは、一から作ることと変わりないことが分かった。
(形あるものは必ず壊れる。これもいい機会だったのでしょう)
他人事のように、マリーは受け止めた。
空島で手に入れた黄金は、安くても2億ベリー以上にはなるだろう。それだけあれば今以上の船が手に入れられるはずだと、マリーは納得した。
マリーとて、メリー号が壊れることに何も感じていないわけではない。壊れることを当然のことと受け入れる精神性と、身近な人を特別なものとして扱わない価値観が、『残念だ』以上の感想をもたらさなかっただけで。
そんなふうにメリー号を眺めていると、街の方から武器を持った数人の男たちが船に近づいてきた。
「おうねーちゃん、この船の持ち主かい?」
「いいえ、わたくしのものではありません。あなた方はどちらさまでしょうか?」
男達から誰何を受け返答する。マリー本人は噓を言っているつもりはない。単に、マリー個人はメリー号の
「そっか、おれ達はそこの船に用があるんだ。ちょっとそこどいてくれるかい?」
「なるほど。すみませんが、この船の所有権を有している船長はただいま外出中です。2時間ほど経った後に再度お越しくださいませ」
男達の脳波から悪意を読み取りながら、マリーは優雅な一礼をする。それを見た男達はニヤニヤと笑いながら、マリーに詰め寄った。
「いやいや、それなら船の中で待たせてもらうぜ。そこに帰ってきたところを……一網打尽だ!」
男たちが刀でマリーに切りかかってくる。それを読んでいたマリーはひらりと躱し、メリー号を使って三角飛びの要領で正面の男の頭に蹴りかかった。
「いって! やりやがったな女ァ!」
(……基礎的な身体能力も思ったより下がってますね。バリアも満足に張れない今のわたくし一人では、この人数と練度は手に余ります)
一撃で意識を落とそうとした蹴りは、男の顎を揺らすこともできずに軽い衝撃だけで終わってしまう。マリーはゾロに応援を頼もうと、掴みかかる男たちの手から抜け出して甲板に飛び上がる。そんなマリーを追って男達も甲板に駆け上がってきた。
「ゾロ、敵襲です。起きてください」
「クソッ……人がせっかく気持ちよく寝てたっつうのに……。誰だてめェら、名を名乗れ!」
「名乗れって?」
ゾロに誰何された男たちは刀を掲げて「おれ達は賞金稼ぎ! 泣く子も黙る! “フランキー一家”だ!」と宣言した。
「てめェの首の“6千万”と麦わらのルフィの“1億”! ついでにそこのメリアで“5千万”! 目標金額達成でボロ儲けだラッキー!」
「やっちめェ!」と叫んで、ゾロとマリーに男たちは襲い掛かった。勢いよく振りぬかれた刃が迫る。
マリーは刃を躱して男たちの上に跳ね上がり、そのままゾロと挟み込む位置に陣取った。背後を取られた男は慌てて振り返りマリーを切りつける。刀はマリーの腕に直撃するが、腕にだけ張られたバリアに阻まれカウンターの蹴りをみぞおちに入れられ男は悶絶した。
ゾロは両手で切りかかられた刃を片手で受け止める。軽々と受け止められたことに驚いた男に「ラッキー? アンラッキーだろ」と笑いかけ、力任せに押し返しもう片方の手で殴り飛ばした。
「うお!」
「んぬあう! ひるむなァ!!」
男たちが怒号とともにゾロに切りかかる。先頭の男が軽々と吹き飛ばされたことで、マリーと向かいあっていた男たちは背後のゾロにも警戒せざるを得なくなり、マリーへの攻めの手が緩んだ。
そこに間髪入れずゾロが二本の刀を逆手で構え、空に格子を刻むように剣戟を繰り出すと、男たちは全員海へと放り投げられた。
「……くだらん。ていうかマリー、この程度の奴らならオレが手を出す必要もなかっただろ」
「青雉で失った体力が戻ってませんので、わたくし一人の手には負えないと判断しました。しばらくはお世話になります」
「ったく……それならウロチョロしてねェで大人しく寝てやがれ」
「……見張りが二人とも寝ていていいものですかね」
「オレは修行しているからな。敵が近づけば目が覚める」
「頼もしい。では、少し休ませていただきます」
慮外者たちを退散させた後、ゾロとマリーは甲板で休み始める。ほどなくして、甲板には二人分の寝息が立ち始めた。
・
・
・
「ちょっと待ててめェ誰だァ!!!」
「んん!? 何事です!?」
「おお、すまん。起こしてしもうたか」
ゾロの大声で、マリーの目が覚めた。慌てて周囲を見渡すマリー。すると、マストの傍にウソップに似て鼻の高い男が立っていたことに気が付いた。
(悪意……はありませんね。どちらさまでしょう?)
「ワシはカクという。ここウォーターセブンの船大工での、お前たちの船長に頼まれて、船の修理の見積もりに来たもんじゃ」
カクと名乗った男の言葉を聞いて、ゾロがマリーの顔を確認する。マリーは頷いて、嘘は言っていない、と目で告げた。
ゾロは「わかった。変な事したらたたっ切るからな」と告げて甲板に戻った。今度は寝入ることはせず、カクを監視している。
一方で、マリーは怪訝な顔をしていた。カクの顔、カクの目にどこか見覚えがあるのである。
(わたくしが乾眠する前、13年以上前に会ったのでしょうか。あの頃、子供と関わった記憶といえば……)
古い記憶を引っ張り返す。留学先の子供の顔、夫の兄弟たち、通りがかった孤児院と片っ端から照会していき……
「あ、わたくしにプロポーズした孤児院の子だ」
「!?」
「あァ?」
そうだそうだ、と思い出せてスッキリしたマリーはポンと手を打つ。政府の運営する孤児院で、素敵な言葉をかけてくれた少年だ。あれから時間が経っていたため、目の前の青年とイコールで結びつけるのに時間がかかった。
が、言われた側のカクは気が気じゃない。なにせ、そのプロポーズを言ったのは。
「待て! 覚えとるのか!? 18年前の話じゃぞ!?」
「乾眠していたせいで、わたくしの体感ではもっと最近の事ですので。カクがえっと……5歳のころでしたっけ?」
「うお゛お゛……まさかこんなところで会うとは……いや、顔を見てすぐ気づいてはいたが……」
「お前ら、知り合いか?」
にこやかにほほ笑むマリーと、唸るカク。その対比に面白そうな気配を察知したゾロが、ニヤニヤと口端を吊り上げながら二人に問いかけた。恋愛事に興味は無いが、人をおちょくるネタは積極的に関わりに行くいじめっ子気質なゾロである。
「昔、立ち寄った孤児院で会った子供です。彼が転んだところに手を貸してあげたら、『初めまして、美しい人。ワシが大人になったら、あなたの隣にこのカクという男を置いてください』って言ってくれたんですよ~! プロポーズされるなんて、とてもロマンチックな体験でした~!」
「頼むから黙ってくれるかのう!? 若気の至りじゃ!」
初めて見るくらい上機嫌に語るマリー。それに対して、顔を真っ赤にしながら否定するカク。ゾロはそんな二人を肴に酒でも飲もうかと思ったが、流石にメリー号の上にクルー以外が乗っている間は止めるかと断念した。
「おや、ではあの告白は嘘だったのでしょうか。せっかくの思い出の価値が下がった気分です」
「いや、美人だとは今も思っとるが…! 知らなかったとはいえ王族、それも人妻に求婚したのは黒歴史で間違いないと思うんじゃが!?」
コロコロと笑うマリーが、しおらしげに首を傾げて目を伏せる。それを見たカクが慌てて、自分の発言に注釈をいれた。
二人の話をよく聞ける位置に移動しようとゾロが腰を上げたところで、衝撃の一言が聞こえてくる。驚いたゾロは足を滑らせ、そのまま手すりに顔面から突っ込んだ。
痛みが引かぬままに、ゾロはマリーに叫ぶように問いかけた。
「ごぶっ!? 待てマリーお前、貴族に攫われたのとは別に結婚してたのか!?」
「え、ええ……。貴族に攫われる前から友好国の王族を夫として迎え入れてます。わたくしより先に貴族から逃げ出しているので、今頃はわたくしか相手の故郷に帰っているでしょう。まあ、感情の無い政略結婚でしたので、わたくしとしては一度顔を見せておけば良いかなといった次第ですが」
そうすれば皆さんと心置きなく海賊が出来ます、なんて笑うマリー。結婚している相手への対応と感情がそれでいいのか、とゾロは疑問に思うが、本人がそう言うなら気にする必要もないと思考を打ち切った。
カクの方は納得がいってないのか、不満げ……というより、憎しみすら浮かぶ顔で足元を眺めていた。
「はいはい、昔の話は止めじゃ! ワシは査定をしておるから、終わったら声をかけるでの!」
表情を切り替えてパンパンと手を打ち鳴らし、カクは船内へと姿を消してしまった。
甲板に残ったマリーは首を傾げながら「なにかまずいことを言いましたかね」とゾロに尋ねる。ゾロは「……まあ、配慮は無かったな」とだけ答えた。
カクは真面目に査定に取り組み、船をあらゆる方向から確認した。床板を外し底を確認したり、船全体の修繕跡を確認したり。そうして数分経った後、査定の結果をゾロたちに教えてくれた。しかしその結果は喜ばしいものではなく、マリーの想像した通りのものだった。
「なぁにィ? ホントかそれ。嘘だったらてめェ、ただじゃおかねぇぞ!」
「ワシは本職じゃ。嘘は言わん」
メリー号はもう直せない、という結果だった。
それを聞いたゾロは怒りを込めてカクに問いただしたが、結果が変わるなんてことは無く。カクの真剣なまなざしに、逆に意気消沈することとなってしまった。
「……そうか。悪かったな」
「気にしとらん。いきなり言われたらそうもなる。あんたらの船長にもこれから伝えてくるから、どうするか相談するとよかろう」
言い終わるや否や、カクは来た道を風のように駆け抜けていった。
あとには残ったのは船番のゾロとマリーのみ。二人の間には、言いようのない気まずい雰囲気が漂っていた。
「なあマリー、あのウソップに似たヤツの言ってたこと、本当だったか?」
念のため、ゾロはマリーに尋ねた。言った後に、ゾロは無駄な言葉だったと後悔した。ゾロは腹芸を得意とする性質ではないが、それでも真剣に話す相手くらいは見極められる。
あの時のカクという男は、自分の仕事に嘘をついているようには見えなかった。であればこの質問は、メリー号を失いたくない自分の弱音そのものだろう。
「悪意、欺瞞といった感情は感じられませんでした。わたくしも先ほどメリー号を一通り見て回りましたが、この船がもう直せないというのは間違いないかと」
それでもメリー号に希望が残されることは無かった。
・
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暗い小屋の中、後ろ手に鍵をかける。麦わらの一味に渡した分で手持ちのカタログが切れたかもしれないから確認すると言って、カクはルッチと物置にやってきた。
舞った埃が窓から射す日に輝く中、二人は小声で話し始めた。
「……ルッチ、船でメリアの姫さんを確認できたぞ。間違いなく麦わらの一味の船に乗っておったわ」
「そうか。であればあの王女にも声をかけねばな。交渉はカク、お前に任せる。上手く条件をまとめると良い」
カクは作業場に戻り麦わらの一味の船長に査定結果を報告した後、同じCPのルッチにCPとしての報告を行っていた。
海軍大将青キジよりもたらされた、メリアの王女とニコ・ロビン発見の報告。ブルーノが街で二人を探すはずだったのだが、マリーが船番をしていたためカクが一番乗りで見つけることになったのだった。
「じゃが良いのか?『一度故郷に帰ることを許容する』なんて交渉をしても。あ奴の故郷はメリア達の本拠地。帰ったらそのまま国に戻る、なんてことになりはせんか?」
「
「……親に売られたか。あの姫さんもかわいそうなもんじゃ」
「情でも沸いたか」
「昔の話じゃ。メリアの危険性は身に沁みとる」
そう言って、カクは会話を打ち切り物置から出て太陽の下に出た。
その言葉に嘘は無い。実際、カクは吸血したメリアとの戦闘経験があり、勝ったことは無いのだ。そして吸血したメリアの齎した暴虐と捕食によって血煙すら残らなかった惨状も見たことがある。カクは正しく、メリアという生き物を怪物として認識していた。
それでも。
(あの美しい、太陽のもとで輝く女はなかなか忘れられんのう)
幼いころに、CPとなるべく集められた孤児たちの住まう場所で。
10年以上たった今でも欠片も色褪せない記憶となっている、黄金の記憶。
「おや、気を付けるのですよ坊や。お名前は?」
海軍に仮とはいえ所属し、政府に味方していた植物たちの姫。恐ろしくも厳かな、自然を体現したかのような在り方の女。
メリアという生き物は存在するだけで罪なのだと教わった。教師からの教えに、初めて疑問を持つほどの衝撃だった。
政府に味方する事情も、政府にとって大した価値のない孤児院に現れた理由を欠片も知らずとも、そんなことは気にならなかった。
貴いという言葉を知らず、高級品に触れたこともなく、人の善性は生まれ持つものではなく装うものだと思っていた中で見た、美しいという言葉の体現だった。
自分に差し出された手の柔らかさにも、しゃらりと流れる黄金の髪も、心配を浮かべる紫石英の瞳も、滑らかでむらの無い声も、どれも現実感が無かった。神というものが空想のものであるのなら、現実感の無さはまさしく美の女神と言えるだろう。
自分に声をかけるために地面に膝をつき、汚れた純白のドレスに嫉妬すらした。自分こそが、彼女のために汚れたかったと。
そう思ったら、無意識のうちにも言葉が出ていた。隣に居たい、仕えたい、手放したくない。そんな感情で、名前も知らない女に告白した。
そんな言葉は、瞬く間に無意味になった。女は既婚者で王族、カクというただの孤児である男を傍に置く理由など欠片もなかった。
(……そこで終わっておけばよかったんだがな)
それでも彼女のいる世界が、彼女を汚さないものであれば良いと思って訓練に没頭した。教官の罵声も折檻にも挫けることは無かった。メリアという生き物がいかに人類にとって脅威であるかを教わって理解しても、悪であるとは思えなかった。
CPになって、女が世界貴族の妻として召し上げられたと聞いた。反抗的だと言われ、日の射さない地下深くに幽閉されたと。
後に、女の妹が海軍に協力し始めた。生まれてすぐに親によって血を吸わされ、人間をはるかに超えた性能で海賊たちを蹂躙した。
一度だけ手合わせをしたことがあったが、全く歯が立たなかった。吸血したメリアは天災そのものだと体に教え込まれた。
あの妹は、マリーと全く同じ顔だった。しかしあの時と同じ美しさを感じることは無かった。
だから、あの感動はあの時だけのもの。幼いころに見た幻に過ぎないと、鍵をかけてしまったはずだったのに。
(まさか、今見ても美しいと思えるなんて思ってもみなかったわい)
船の甲板で、自らの腕を枕に眠っている姿。
服装は異なれど、周囲の人間は変われども、その美しさに陰りが無いと実感してしまった。
おそらく誰にも気づかれてはいないが、カクはその姿を見た時しばらく放心してしまった。すぐに取り繕ったが、その穏やかな寝顔に思わず笑みを浮かべた。
そこまでで、カクはマリーに抱いた感情を閉じ込めた。
対して尊敬もしていない上司からの命令は、『メリアの姫の身柄を生死問わず捕らえること』。現在海軍に所属している彼女の妹には手が出せない。唯一無二ではないが、彼女が行っていることは誰にでも出来るものではない。
だからこそ、既に役目が無くなったマリーをもう用済みだと捕らえることにした。
その目的は上からも開示されている。世界一と言っていい科学者、ベガパンクがクローン兵を実現させた。さらなる研究として、メリアの王族が持つ遺伝子から逆算して、古代の厄災と言われ世界政府も恐れた『残響の獣』を兵器として作り上げる気だという。
このウォーターセブンで手に入れる古代兵器の設計図と、マリーの体という古代の厄災の設計図。その二つが揃えば、大海賊時代なんてものを圧倒的な武力でねじ伏せられるだろう。
カクはマリーに対して、もう愛だの恋だのは感じていない。ただ美しかった、という感動が今も彼の体を焼いている。
ただそれでも、残念だとは感じていた。この先に訪れるであろう平和な世界に、彼女たちの居場所が無いことだけは。