1 知らない天井、知っている名前
天井の木目が、やけに近い。
節の黒い渦を数えてから、息を吸った。湿った夏の匂い――畳、朝の光、遠くの蝉。耳の奥で風鈴がゆれる。
ここはどこだ。なぜここにいる。
昨日、俺は世界アマチュア囲碁選手権の決勝を打ち、優勝を決めた。その瞬間の白いフラッシュと拍手の感触は、指の腹にまだ残っている。表彰、インタビュー、帰路。バスのシートに背中を預けたあたりで記憶は途切れた。
……そこから先は闇。なのに、目の前にあるのはどこか懐かしい日本家屋の天井だ。
「おーい、黒瀬! 起きろって!」
襖が勢いよく開いて、制服の少年が顔を出す。金髪メッシュ。ちょっと不良っぽい目つきだけど、どこか人懐っこい。
――進藤ヒカル。
喉が乾く音が、自分で聞こえた。漫画の中の人物がこちらへ歩いてくる、そんな現実感のない現実。
「なにポカンとしてんだよ。今日は塔矢んとこ行くつってたろ。佐為も準備できてるし!」
「……佐為?」
訊き返した瞬間、ヒカルの肩ごしに淡い光が立ちのぼった。薄い衣の裾が風に揺れ、長い黒髪が光を含む。輪郭は透明で、それでもはっきりと“在る”。
白い狩衣の青年――藤原佐為。
俺の知っている物語の、盤に憑いた亡霊。
その“彼”が、まっすぐこちらを見て、やさしく笑った。
「黒瀬遼さん……あなたの手から、懐かしい碁の香りがしますね」
声が落ちるたびに、胸の奥の何かがほどける。柔らかいのに芯がある、不思議な温度の声だ。
「……あなたが、佐為」
「はい。ようやくまた、碁に触れられるのですね。ヒカル、早く行きましょう」
「なっ? 黒瀬にも見えるだろ。俺の先生、佐為!」
ヒカルが胸を張る。佐為はその横で、ふっと目尻を下げた。
「ヒカル、裾が出ていますよ。……ほら、ここ」
「うわ、また言われた。黒瀬、着替えてすぐ出るぞ! 遅れんじゃねぇぞ!」
ヒカルの勢いに引っ張られるように、俺は布団から起き上がった。戸惑いは残っている。けれど、盤の匂いがする――それだけで、身体の中心は落ち着いていた。
鏡に映る自分は、二十一歳の俺じゃない。十五か十六、制服の襟が少し大きく見える年頃。
神様の趣味が悪い、と思った。思っただけで、口には出さなかった。代わりに、息を吐いて言う。
「……わかった。行こう」
「おっしゃ! 行くぞ、佐為!」
「ええ。盤が私たちを待っています」
佐為の言葉は、約束の合図みたいに軽く、でも確かだった。
2 廊下の光、放課後の影
学校という場所は、記憶より少し明るい。ワックスの床に窓の光が滑り、チョークの粉の匂いが教室の隅に溜まっている。
ヒカルは廊下を歩くとき、犬みたいに少し前のめりで、ときどき振り返る。後ろの佐為は、掲示板のプリントを楽しそうに眺めていた。
「これは……粉で文字を書くのですね。なるほど、便利なものです」
「佐為、授業始まる。静かにしてろよ」
「はい、わかっています。静かに見ていましょう」
俺は窓際の席に腰を下ろし、ペンを持った。ノートの罫線が碁盤の筋に見えて、思わず苦笑する。
“幽霊が見える”という異常を抱えているはずなのに、妙に落ち着いていられるのは、たぶん盤の音のせいだ。朝からずっと、胸の奥で白と黒が小さく鳴っている。
「なあ黒瀬」
ヒカルが後ろを向いて、机に顎を乗せる。
「プロの人ってさ、やっぱ一日中碁のこと考えてんの?」
「人による。でも、寝てるときに強くなるやつはいる」
「は? 寝てるのに?」
「夢の中で形がほどけるんだよ。頭の固いところが勝手にほぐれる」
「へぇー。オレ寝つき悪いから、それで強くなんねぇかな」
「寝ろ。まずはそこから」
「うるせぇ」
笑うヒカルの声に、前の席のやつが「進藤うるさい」と手を振った。
佐為は黒板の前に立って、教師のチョーク捌きをじっと見ている。
「線を引く音がいいですね……。石とはまた違う、でも、よく鳴ります」
「佐為、ほんと音が好きだな」
「はい。音を聞くと、胸が熱くなるのです」
授業は過ぎ、休み時間は短く、昼は騒がしく、放課後はあっけなくやってくる。チャイムのあと、ヒカルが弾かれたように立ち上がった。
「よし、日本棋院行くぞ!」
「腹、減ってない?」
「減ってる。たい焼き食おうぜ!」
「糖分は集中の燃料だしな」
「それそれ! そういうプロっぽいこと、もっと言え」
くだらない会話は、案外いい準備運動になる。
三人――正確には二人と一騎――で昇降口を出ると、夕方の熱気が肌にまとわりついた。
3 渋谷、たい焼き、そして気持ち
交差点の人波は、前の世界と同じくらい騒がしかった。
ヒカルが買ってきたたい焼きをひとつ受け取る。尻尾まで餡がつまっていて、紙袋の端から甘い香りが漏れる。
「佐為、かんぱーい!」
ヒカルが缶ジュースみたいに、たい焼きを上に掲げる。佐為は笑って首を傾げた。
「ありがとう、ヒカル。気持ちはもらっておきますね。……ああ、いい香りです」
「食えたらよかったのにな」
「ええ。でも、音があれば私は満たされますよ」
言って、佐為は歩道橋の上から見下ろす街と風を、目いっぱい吸い込むみたいに胸をふくらませた。
“食べられない”という事実が寂しく響くはずなのに、この人はいつも“あるほう”を見つめる。だから見ているこっちまで前を向く。
「行こう。日本棋院」
「おー!」
ヒカルは相変わらず前のめりで、佐為は少し後ろから追いかける風のように着いてくる。俺はその間に挟まって歩いた。
歩幅が合う。三人で歩くリズムは、思っていたよりすぐ出来上がる。
4 盤の匂い、椅子の軋み
日本棋院の建物は、外の喧騒から切り離された空気を持っている。
受付で会釈し、階段を上がる。廊下の壁に並ぶ写真の中に、知っている顔の若い時代を見つけて足を止めたくなるけど、今は歩く。
練習室の扉を開ける。
木の匂い、石の重さ、椅子の軋み。
ここは音が落ちる場所だ。吸い込むように静かになって、代わりに盤が鳴り始める。
「お、進藤っ。遅いじゃん」
軽く手を上げて笑ったのは倉田精一郎。原作で見たより、ほんの少し幼い。けれど目の奥の鋭さは変わらない。
「倉田さん! こいつ俺のクラスメイト。黒瀬。めっちゃ強い」
「強いかどうかは盤が決める。打ってみるか?」
「お願いします」
礼をして座る。椅子が少しだけ鳴いて、背中の筋肉が呼吸の場所を見つける。
白が倉田、黒が俺。持ち時間は短くていい。長い読みより、この場の呼吸が欲しい。
「最初から飛ばしてくんなよ?」
「名刺交換くらいはしましょう」
「はは、言うね。じゃ、名刺を一枚」
倉田の白が小目。俺の黒も小目。受けて小目。互いに穏やかで、でも“次”のための姿勢だけは外さない形。
ヒカルが後ろで息をひそめる。佐為は少し離れて浮かんで、目を閉じた。
「よく鳴ります……。いいですね、今日の石の音は」
佐為のささやきが、部屋の温度を半度下げる。
二十手を超えたあたり。白が肩を張り、黒が受ける。布石の“挨拶”が終わり、最初の呼吸が揺れる。
「来るか?」
倉田の声に、俺は答えない。代わりに盤が答える。
――パチン。
黒が一段深いところに踏み込む。軽く、しかし切れている。絡みの芽を、ひとつ置く。
ヒカルが小さく吸気するのが、視界の端でわかった。
佐為は目を開けて、細い笑みを浮かべる。
「黒瀬さんの石……生きていますね。軽やかで、気持ちがいい」
「逃げてるんじゃねぇの?」
ヒカルが小声で噛みつくと、佐為はすぐ首を振る。
「いいえ、ヒカル。これは“生きようとしている”のです。逃げる石と生きる石は、同じに見えて違います」
白が押し、切り、包囲の網を編む。黒は一度は受け、次で捻る。
読みの枝が、指先から脳の奥へ伸びる。盤が広く見えるのではない。目の前のこの数線が、急に深くなる。
(受けて地合いでも悪くはない。――でも、“それ”じゃない)
俺は石を摘み、迷いのない速度で置いた。
――パチン。
倉田の肩が、僅かに揺れる。
読み筋の“はしご”が一段ずれる音がした。
「へぇ。そこ打つか。じゃ、こうだ」
白が形を変え、厚みを地に換える決断をする。
冷静で、強い。
“形を捨てて流れを取る”大人の手。
この男はたぶん、勝つことよりも、今ここでの強さを信じている。
中盤、黒は小さな集団をいくつも持って中央に漂い、白の厚みの間に呼吸孔を空け続ける。
ヒカルが、いつもの落ち着きのない身振りを止めた。肩が固まっている。
「……すげ。踊ってるみたいだ」
「ヒカル。踊りでも、勝手に足が動いているのではありません。足が“そこへ行きたい”と言っているのです」
佐為の声は、説明でも講釈でもなく、ただ“見えているもの”をそのまま言葉にしている。
終盤。ヨセの場面で、俺は一度だけ立ち止まった。
形勢は、白が一目半いい。ここで強くコウを打てば、どこかで荒れる筋がある。
――けれど。
「黒瀬?」
ヒカルが小さく声をかける。
俺は呼吸をひとつ置いて、盤に手を伸ばした。
――パチン。
「……道を選びましたね」
佐為の言葉は、ため息に近い。
倉田が数合、手を進め、石を覆った。
「投了」
静かな終局。
負け。けれど、指の腹は穏やかだ。
礼をして、盤から手を離す。
「ありがとうございました」
「おう。……いいな、お前。気持ちよく負けられる相手って、そういない」
倉田は笑い、ヒカルは俺に向き直る。
「なぁ黒瀬、最後、なんでコウいかなかった? ワンチャンあったべ」
「勝つだけで今日は終わりたくなかった。繋げたかったんだよ、次に」
「繋げる……?」
ヒカルの眉が寄り、すぐ戻る。理解でなく、興味。
佐為がそっと言葉を置く。
「黒瀬さん……あなたの碁には道が見えました。ああ、なんて美しい手でしょう。今日は、本当によく鳴りましたね」
「……ありがとうございます」
礼を言うと、佐為はいたずらっぽく笑った。
「ヒカルも、よく見ていました。ね?」
「……うるさい。見てたよ。ムカつくけど、ちょっとカッコよかった」
「素直でよろしい」
三人の間の空気が、少しだけ軽くなる。
盤が、満ちた。
5 夕暮れ、缶コーヒー、約束という味
練習室を出ると、渋谷の夕暮れが高架を朱に染めていた。自販機の前でヒカルが振り返る。
「ブラックでいい?」
「砂糖入り」
「お、意外。やっぱ糖分は燃料ってやつ?」
「そう。もう一局分くらい、頭を動かしたい」
缶を受け取ると、ヒカルはもう一本を空に掲げた。
「佐為、かんぱーい!」
「ありがとう。気持ちはもらっておきますね」
缶のプルタブを引く音が、街の音に混じって小さく弾ける。
甘さと苦さが舌に残り、喉を通る冷たさでようやく今日の対局が胸の奥へ沈む。
「なぁ黒瀬」
ヒカルが缶を転がしながら言う。
「さっきの“繋げる”ってさ。オレ、まだよくわかってねぇけど……終わらせないって、なんかズルいな。ずっと続くほうが絶対楽しいじゃん」
「ズルいと思うなら、やってみればいい。たぶんヒカルは、すぐできる」
「マジで? お前に言われるとムカつくのに、悪い気しねぇんだよな」
「それ、褒めてる?」
「褒めてやってんだよ」
言い合いながら笑って、信号が変わるのを待つ。
その横で、佐為が静かに空を見上げていた。
「ヒカル、黒瀬さん。あなた方と打つ碁は本当に楽しいです。……盤の音を聞いているだけで、胸が熱くなるのです」
「佐為、今日さ、なんかいつもよりご機嫌じゃね?」
「はい。黒瀬さんの“続き”が、少し見えたからでしょうね」
「続き……」
言葉を口の中で転がす。甘さと苦さがちょうどよく残って、さっきよりも意味が身体に馴染む。
6 夜道、二人と一騎
ヒカルの家の前で足を止める。玄関の灯りがつく音がして、スリッパの擦れる小さな音が続く。
日常の音は、不思議と盤の音に似ている。静かで、やさしく、そして確かだ。
「じゃ、また明日」
「明日」
「佐為も」
「ええ。おやすみなさい、ヒカル」
ヒカルがドアの向こうに消える。
夏の夜風が通り過ぎて、風鈴が短く鳴った。
「黒瀬遼さん」
背中から呼ばれて振り返る。
佐為が塀の影から歩み出て、月の淡い光の中で立ち止まる。影なのに、明るい。
「少し、歩きませんか」
「いいですよ」
並んで歩く。
商店街の灯りが途切れ、住宅街の静けさが濃くなる。アスファルトに残った熱がまだ足の裏から上がってくる。
「今日のあなたの最後の一手……“終わらせない”手でしたね」
「はい」
「私は長い間、神の一手を求めてきました。救いであり、呪いでもありました。
でも今、私は続きが見たいのです。ヒカルとあなた、その先の碁を」
言葉は軽いのに、胸に落ちると重みが出る。
“続き”という言い方が、この人らしいと思った。
「黒瀬さん。私とヒカルの間を、繋いでください。お願いします」
「……やります。やらせてください」
自然と、そう言っていた。
頼まれたことが嬉しいとか、使命感とか、そういう手前の感情じゃない。そこに“道”があるから、歩く。たぶんそれだけだ。
「ありがとう。頼もしいですね」
いたずらっぽい笑みが、すぐ真顔に戻る。
「明日、塔矢アキラと会うのでしょう?」
「そう聞いてます」
「アキラくんは鏡です。ヒカルが自分の強さを見る鏡。あなたが、自分の弱さを見る鏡。
鏡の前では、どうか目を逸らさないでください」
「難しいやつだな」
「ふふ。難しいほうが、面白いのです」
佐為の足取りは軽い。地面に触れないはずの足なのに、歩くたび、音がした気がした。
幻聴でいい。俺には、それがちょうどよかった。
7 夜の記録、手の記憶
部屋に戻ってシャワーを浴び、机にノートを広げる。
今日の対局を、すべて並べ直す必要はない。要点だけを、短く書く。
白厚、黒軽。
切りの芽を置く。
生きようとする石=美。
最後、道を選ぶ。
繋げる。
ペン先が止まる。
ページの端に、もう一行だけ書いた。
明日、鏡。
ペンを置き、背もたれに体重を預ける。
指先が、まだ石の冷たさを憶えている。
その冷たさは、眠気を邪魔しない。むしろ、布団に入ればすぐに眠れる種類の冷たさだ。
天井の木目を数え、目を閉じる。
闇の奥で、白と黒が混じるように遠ざかる。
眠りに落ちる直前、誰かが言った気がした。
――ここは盤だ。世界は盤だ。君が置いた一手は、消えない。
8 朝の光、呼ばれる音
風鈴。蝉。白い光。
襖が開く音がして、ヒカルの声が飛び込んでくる。
「おーい、黒瀬! 起きてんだろ! 今日、塔矢だぞ!」
「起きてる。すぐ行く」
背後から、佐為の声。
「黒瀬さん、今日も打ちましょう。あなたの石の音を、また聞かせてください」
「はい」
靴紐を結ぶ。
固く結び、でも解きたいときにはすぐ解けるように。
それが今日の俺の碁であり、たぶん生き方だ。
ドアを開ける。
夏の匂いが胸いっぱいに入ってくる。
ヒカルの笑い声が先に走り、佐為の袖がその後ろでやさしく揺れる。
三つの影が、同じ方向に伸びていく。
終わらせないために。
続けるために。
盤の上で、そして盤の外でも。
――第一話 了。