『碁の神に選ばれた少年』   作:紫山拾弐

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第二話 「塔矢アキラとの邂逅」

1 鏡を見る日

 

朝、まだ気温が上がりきる前の空気は、どこか固くて新しい。

ヒカルは階段を駆け下りるとき、踵で最後の一段を弾ませる癖がある。今日の弾みは一段大きい。

佐為は後ろから袖を押さえ、うれしそうに笑っている。俺は二人の間に入り、意識的に息を深くした。胸の内側で白と黒が小さく鳴る――点呼のような音。

 

「黒瀬、緊張してんの?」

 

「してる。ちゃんと怖い」

 

「はは。オレはワクワクしかしねぇ。アキラ、顔がムカつくけど強いんだわ」

 

「褒めてる、のか?」

 

「褒めてんの!」

 

佐為が柔らかく目尻を下げる。

「ヒカルは言葉が少し乱暴ですが、気持ちはまっすぐなのです。……ああ、私も早く打ちたいですね」

 

「佐為、声が弾んでる」

 

「はい。弾みますとも」

 

昨夜、佐為は言った。「鏡の日なのです」と。

ヒカルは自分の“強さ”の鏡を、俺は自分の“弱さ”の鏡を。

胸ポケットには、角の丸くなったメモ。「鏡」「重さ」「逃げない」と書かれている。

紙の手触りが、今日の歩幅を決めてくれる。

 

 

2 途中下車の昼――軽さと重さの話

 

渋谷へ向かう電車は混んでいた。窓ガラスに頬を寄せる子ども、スマホでニュースを追う会社員、イヤホンから小さく漏れる打楽器の音。

吊り革に掴まるヒカルが、車窓の広告を見て笑う。

 

「なぁ黒瀬。“勝てる!脳力アップドリル”だって。打っただけ強くなるなら楽でいいよな」

 

「打つだけじゃ強くならない。悩んだ回数で強くなる」

 

「うわ名言。悩むの嫌いなんだよなー」

 

「でもヒカル、悩んだ顔してるときのほうが強い」

 

「……ムカつくけど否定できねぇ」

 

佐為は窓外の街並みを眺めて言う。

「私も悩むのは苦手でした。けれど悩みの先で“音”が変わるのです。少し澄んで、遠くまで届くようになる」

 

乗り換えの駅で、立ち食い蕎麦に寄った。

ヒカルは天ぷら、俺は山かけ。注文を告げると、湯気と出汁の匂いが鼻を擽る。

箸を割る小さな音に、佐為が目を細めた。

 

「いい音です……。麺が器へ落ちる音、つゆをすする音、隣の人のため息。どれも“今”ですね」

 

「佐為、食べられたら最強なんだけどな」

 

「ええ。でも私は、音で満たされます」

 

湯気で曇る眼鏡を指で拭きながら、俺は“軽さと重さ”の話を切り出した。

「軽い手って、単に逃げる手じゃない。生きる準備ができてる手のこと。重い手って、ただ固い手じゃない。失いたくないものを、盤上に置く勇気だ」

 

「置く勇気?」

 

「うん。今日、俺はそれを置く。怖さごと」

 

ヒカルは天ぷらを齧って、口の中で熱を転がしながら短く頷いた。

「オレも“重心”置くわ。昨日、佐為に言われたし」

 

佐為はうれしそうに微笑む。

「はい。軽さも重さも、どちらも“生きる意志”の形なのです」

 

 

3 日本棋院の廊下で

 

練習室の扉を前にすると、空気が半歩だけ密になる。

ノブを回すヒカルの指先から、いつもより少しだけ慎重な気配が伝わってきた。

扉が開くと、正面の窓から落ちる光が盤面の白を強くした。

視線がこちらを見る。柔らかいのに、芯のある視線。

 

黒髪の少年が一歩前へ。静かな目、乱れない呼吸。

塔矢アキラ。

 

「進藤。……それと、君が黒瀬くんだね」

 

「おう。アキラ、今日も顔がムカつくな」

 

「挨拶がそれかい?」

 

「照れ隠しです、塔矢くん」

 

俺が言うと、アキラはわずかに目を細め、丁寧に礼をした。

「黒瀬くん、よろしく」

 

動作が一音も鳴らない。長い鍛錬のにおい。

ヒカルの肩越しに、佐為が半歩前に出る。もちろんアキラには見えないはずだが、彼は一瞬だけ背筋を伸ばした。

皮膚で、空気を感じるタイプだ。

 

佐為が小声で漏らす。

「この子はよいですね。形の隙が少ない。……ヒカル、黒瀬さん。よく見てください」

 

 

4 ヒカル対アキラ――軽さに重心を

 

「どっちが先に打つ?」

 

アキラは確認だけをする口調で言った。

ヒカルが前に出る。「まずオレがいく」

 

互先、初手、星。アキラは小目。

散らし合いから“間”の取り合いへ。

ヒカルの黒は軽く飛び、アキラの白は必要な箇所だけ力を入れる。余計な張りはない。

 

二十手を越え、最初の分岐。

白が厚みを見せ、黒は受ければ地合い、切れば戦い。

ヒカルは指を止め、短く息を吐いて――切った。

 

「おっしゃ」

 

アキラの目に、微かな熱。

「来ると思っていたよ」

 

戦いが始まる。

局所の速度を上げ下げし、互いの呼吸をずらし合う。

ヒカルの軽さは“生きながら殴る”軽さへ移行していく。

だが、薄さも出る。そこで――

 

「ヒカル、重心」

 

俺が囁く。ヒカルは舌打ちしかけ、笑って飲み込んだ。

「わかってる」

 

黒が薄い要石を一つ置く。派手さはないが、倒れない芯。

佐為がうれしそうに頷く。

「はい、今のでいいのです。軽さには“帰る場所”が要るのですよ」

 

アキラは速度を落とさない。白は丁寧に、しかし確実に“地に化ける”手を積み上げていく。

ヒカルは軽さの角度をわずかに変え、ヨセに入る前に薄いコウ筋を一度だけ叩く――乱さず、揺らす。

 

終局。半目から一目へと差が広がり、アキラが静かに石を覆った。

「……負けだ。ありがとう」

 

「ありがと」

 

二人はそれだけ言い、礼をした。

拍手も歓声もないのに、空気だけが少し温かい。

 

ヒカルは肩を回しながら笑う。

「ふー、でも今日のオレ、ちょっと良くなかった?」

 

「すごく良かったよ。戻る場所を作ると、軽さが伸びる」

 

佐為も頷く。

「私も好きでした。生きようとする石は美しいのです」

 

アキラは盤を撫でるように一周指でなぞってから、こちらを見た。

「黒瀬くん、次は君と打ちたい」

 

「お願いします」

 

 

5 黒瀬対アキラ――“怖さ”を置く

 

座ると、背筋が自然に伸びた。

アキラは白を持ち、俺は黒。

初手から互いに“整いすぎない”布石。呼吸の余白を残す置き方だ。

 

三手目、彼は肩を張る。こちらの歩幅を測る一手。

嫌いではない。測るなら、見せる。

軽く受け、次の分岐で切らない。呼吸で押し返す。

“今は殴らない”と示すための沈黙。

 

五十手を過ぎたころ、最初の山。

白は隅を「死なない」と読み切って手を抜く。

黒は中央で伸びる。

局所の損得は白良し、全体の呼吸は黒がわずかに深い。

アキラの目に「なるほど」が灯る。

 

「黒瀬さん」

 

背後から佐為の声。「はい」

 

「あなたの石は今日、とても軽やかです。……けれど、ひとつ“重さ”を置いてください。あなた自身の怖さの重さです」

 

わかっている。

俺は“美しさに酔いたくない”。だから軽さへ逃げる。

逃げないために、今日は重さを置く。

置くというのは、怖さごと盤上に出すことだ。

 

切る手を摘み、置く。

盤がわずかに鳴り、空気が引き締まる。

 

アキラの視線が深くなる。

「そう来るか」

 

白は網を編む。

黒は一度は受け、次で体重を乗せずに差し込む。

“整い”の反対側へ、小さな穴を作る。

攻めるのではない、息を通す。

 

中盤の二山目。

白が本気で噛んでくる。

読みの枝が増え、砂時計の砂が内部で加速する。

指が汗ばむ。だが怖くない――いや、怖い。だからこそ、逃げない。

 

最後の分岐線が見えた。

コウで荒らす道。

受けて“繋げる”道。

 

(昨日の俺なら繋げた。今日は――)

 

――パチン。

コウを選ぶ。

コウ材は足りる。……はずだ。

いや、読みは足りている。けれど怖い。

怖さを盤上に晒す。それが今日の課題だ。

 

アキラが短く息を吸う。

「来たね」

 

白が粘る。受ける。増やす。

一合、また一合。

こちらの読みの枝が一本折れ、別の枝に重みが乗る。

背中の汗が冷える。

それでも、逃げない。

 

コウが収まったとき、形勢はわずかに白良し。

致命ではない。だが、厳しい。

ヨセは丁寧に。取りこぼさないように。

最後の最後まで、石を“置く”。

数合進み、俺が先に手を止めた。

 

「……負けました。ありがとうございました」

 

アキラは小さく礼を返す。

「ありがとう。強い。とても」

 

ヒカルが肩を小突く。

「黒瀬、今のは“いってよかった”な? オレ、見てて手汗すげぇよ」

 

「怖かった。でも、置けた。今日はそれで十分」

 

佐為がうれしそうに言う。

「はい。今日は“美しい”だけでなく、熱がありました。私、胸が熱くなりました」

 

「ありがとうございます」

 

その“ありがとうございます”は、佐為の喜びの温度だ。耳の奥に残る。

 

 

6 塔矢アキラ、独白のような短い会話

 

片付けの間、アキラは盤に手を置いたまま黙っていた。

やがて、こちらへ向き直る。

 

「進藤。黒瀬くん。どちらとも、また打ちたい」

 

「おう。次はオレが勝つ」

 

「うん。楽しみにしている」

 

アキラは少しだけ言葉を選ぶ間を置いて、俺に視線を戻した。

「黒瀬くん。君の石は……“怖さを見ている石”だ。僕はそれを綺麗だと思う」

 

「……ありがとう」

 

「綺麗、というのは変かもしれない。でも、僕はそういう碁が好きなんだ」

 

彼は静かに立ち、礼をして部屋を出た。足音が消える。

残ったのは、石の匂いと、空になった盤の白。

 

ヒカルが片付けを手伝いながら小声で言う。

「アキラ、ああ見えて結構アツいんだよな」

 

「知ってる。鏡は冷たいけど、映るものは体温がある」

 

「うわ、急に詩人」

 

佐為がくすくす笑う。

「二人とも、今日はよく打ちました。“音”だけで、ごはんが食べられそうです」

 

「佐為、それ毎回言ってない?」

 

「言いたくなる日だけ、言っているのです」

 

 

7 検討――“薄さ”と“厚さ”の境目

 

空いた隅の盤を借り、簡単に検討する。

ヒカルがさっきの分岐を並べながら眉を寄せた。

 

「ここで飛びすぎなんだよな。でも受けると気持ち悪いし」

 

「受けるなら“戻る場所”を先に置く。後から戻すほうが難しい」

 

「戻る場所……要石な」

 

「うん。要石は“時間”を持ってる。厚さって、地じゃなくて時間のことだ」

 

「時間、か。……なるほどな!」

 

言い合っていると、佐為が指先で二線をそっとなぞる。

「ヒカル、ここを一手入れるだけで、中央の軽さが生き返ります。呼吸がつながるのです」

 

「ほんとだ。おっけ、身につける」

 

俺の対局の山場も並べる。

コウに入る前の、わずかな逡巡。

そこに“逃げ”が混じっていなかったか、正面から見る。

 

「黒瀬さん、今日はよかったのです。怖さを置いて進んだ。それで十分。……明日は、置いた怖さを“美しさ”で受け止めてあげましょう」

 

「美しさで、受け止める」

 

「はい。怖さだけでは疲れてしまいますから」

 

検討は長くしない。長い検討は、時に自信を削る。

要点だけを拾い、終わる。

“続き”のために。

 

 

8 寄り道――屋上の風と缶コーヒー

 

夕暮れ。

日本棋院の屋上は低い柵と、街の風。

ヒカルが自販機で缶コーヒーを三本買って、ひとつを空へ掲げる。

 

「佐為、かんぱーい」

 

「ありがとう。気持ちは、いつも受け取っています」

 

プルタブの弾ける音。甘くて苦い液体が喉を下りる。

今日の盤面が、胸の奥でようやく静かになる。

 

「黒瀬、“プロ試験”出す?」

 

ヒカルが不意に切り込んできた。

「オレは出す。佐為にも背中押されたし。黒瀬は?」

 

「出すよ。怖さを置けたから。次は、怖さを抱えたまま美しく打つほうへ行きたい」

 

「おー、なんかカッコいいぞ」

 

「言うだけなら誰でもできる。明日、やる」

 

「そうそう。やるんだよな」

 

佐為は袖を押さえて、目を細めた。

「二人とも、ありがとうございます。私はお二人の“続き”が見たいのです」

 

「佐為、最近“続き”ってよく言うな」

 

「はい。終わりはいつでもやって来ますから。だから、続きが好きなのです」

 

ヒカルがにやっと笑う。

「じゃ、続けるために甘いの追加。自販機行ってくる!」

 

ヒカルが階段に消え、風が少し強くなる。

二人――正確には一人と一騎――だけの屋上。

佐為が少しだけ真顔になった。

 

「黒瀬さん。ひとつだけ、私の“怖さ”の話をしてもいいですか」

 

「聞かせてください」

 

「私は長い間、“神の一手”を求めてきました。けれど、もしそれを見つけてしまったら……その先に、何が残るのだろう、と。終わってしまうのではないか、と」

 

風鈴みたいな声が、少し震える。

「だから私は、ヒカルとあなたの“続き”を見たい。――終わらないために」

 

「終わらせないよ。俺たちが」

 

「はい。お願いします」

 

ヒカルが戻ってきて、缶を二つ掲げる。

「よーし、続きのために、砂糖多め!」

 

「飲みすぎ注意」

 

「うるせぇ」

 

笑い声が風に混じって、遠くの空にほどけていった。

 

 

9 夜――ノートと指先と静かな熱

 

帰宅して、ノートを開く。

今日の二局――観戦と自戦の要点を、呼吸の順に短く書く。

 

進藤:軽さ+要石(重心)。厚さ=時間。半目→一目。

自分:怖さを置く。コウで荒らす。読み綻び→別枝へ。

塔矢:速度制御。隙少。整いの裏に空隙。

佐為:美しさで受け止める。続き。

 

ページの隅、指で紙を弾く。乾いた音がして、佐為の“盤の音”の話を思い出す。

ペンを置く前に、一行追加した。

 

明日:怖さ+美しさ(同居)。

 

布団に倒れ込むと、石の冷たさが指に蘇った。

眠りは早い。

落ちる直前、今日の鏡――アキラの瞳の硬度が、胸の奥で微かに光る。

 

 

10 翌朝の小さな騒ぎと、三人の進路

 

朝。

風鈴、蝉、白い光。

襖が開くより早く、ヒカルの声が飛び込む。

 

「黒瀬ー! 願書取りに行くぞ!!」

 

「行く。朝飯は?」

 

「食った! 佐為が“急ぎすぎはよくないですよ”って言うから、噛んだ!」

 

「えらいです、ヒカル。……黒瀬さん、今日も打ちましょう。あなたの石の音を、また聞かせてください」

 

「はい」

 

靴紐を結ぶ。固く、でも解くときはすぐ解けるように。

結び目の感触が、今日の碁の結び目になる。

ドアを開ける。

夏の匂い。街の熱。走り出すヒカル。後ろでやさしく揺れる佐為の袖。

 

三つの影が、今日も同じ方向に伸びていく。

恐れと美しさを同じ手の中に入れて、終わらせないために。続けるために。

盤の上で、そして盤の外でも。

 

――第二話 了。

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