『碁の神に選ばれた少年』   作:紫山拾弐

3 / 4
第三話 神の一手の影

夏の光がまぶしくて、朝の空気の中にざらついた熱が混ざっていた。

蝉の声がうるさいほど鳴いていて、それが逆に心を落ち着かせてくれる。

机の上には、昨日書き終えた「日本棋院プロ試験願書」が置かれている。白い紙がやけにまぶしく、少しだけ手が汗ばんだ。

 

「黒瀬! 起きてんだろ! 今日出さねぇと間に合わねぇぞ!」

ヒカルの声が階下から響く。

「出すだけだ。焦ることない」

「出すだけが大事なんだよ、縁起だって!」

「縁起で受かるなら誰も苦労しない」

「うるせぇな、縁起も気合いも大事なんだよ!」

 

襖の向こうで佐為がくすくす笑った。

「ヒカル、名前の字は間違えないでくださいね」

「わかってるって! “進”の字、何回書いても真っ直ぐならねぇんだよ!」

「筆の音には、心が映りますから」

「もう筆じゃねぇってば、佐為!」

 

朝から賑やかだ。だが、その笑い声の隙間で、俺は小さな違和感を感じていた。

佐為の姿が――昨日よりも、わずかに淡い。

光のせいかもしれない。けれど、その透けるような輪郭に、胸の奥が少しだけざわついた。

 

昼下がり、日本棋院。

湿った空気と木の匂いが混じる廊下を、俺とヒカルは並んで歩いていた。

願書を出した受付の奥では、同じように緊張した顔の若者たちが次々と書類を差し出している。

誰もが何かを賭けている目をしていた。

 

「黒瀬、いよいよだな」

「ああ」

「お前でも緊張すんの?」

「するさ。怖くない奴はいない」

「オレはワクワクしかしねぇけどな」

「お前は異常なんだよ」

「はは、知ってる!」

 

そのとき、廊下の向こうから一人の影が現れた。

塔矢アキラ。白いシャツの襟元まで凛として、少し汗ばんだ髪が額に貼り付いている。

「やあ、進藤、黒瀬くん」

「おう、アキラ! 今日も勉強か?」

「父に見てもらっていたところだよ。試験が近いからね」

「塔矢行洋か……やっぱり親子で打つのか」

「ええ。父の碁は、まだ僕の目標です」

 

佐為がその名を聞いた瞬間、息を飲んだ。

「……塔矢行洋。懐かしい響きですね」

「佐為?」

「ええ。あの方の碁には“祈り”がありました。勝つためではなく、生かすための碁。美しかった……」

アキラは少し驚いたように目を伏せる。

「そう言われるのは、うれしいですね。父は今もその“祈り”を追っていると思います」

 

三人の視線が、自然に同じ方向へ流れた。

奥の対局室。盤が並び、空気が張り詰めている。

誰かが打つたびに、パチンという音が微かに響く。

その音を聞いた瞬間、佐為の姿がふわりと揺れた。

まるで、音に吸い寄せられるように。

 

「佐為……」

「大丈夫ですよ。少し、盤の声が強くなっているだけです」

その声はやわらかく、でも確かにどこか遠くなっていた。

 

対局室に入り、アキラとヒカルが向かい合う。

俺は後ろで見守った。

初手、星。互いに譲らぬ立ち上がり。

盤の上には若さと自信が並んでいた。

アキラの白は冷静に地を拾い、ヒカルの黒は軽く跳ねる。

まるで音楽だ。テンポが速いのに、和音は崩れない。

 

「ヒカル、呼吸を」

「わかってる!」

 

ヒカルの声が空気を切る。

その隣で佐為が目を閉じて、わずかに頷いた。

「ああ、美しい。生きようとする意志が、盤に満ちています」

 

終盤。

一瞬の隙を突かれ、ヒカルの石が追い詰められる。

しかし彼は笑っていた。

「ここだ!」

黒石が一線深く打ち込まれる。

それは、逃げではなく“生きるための手”だった。

 

パチン――静寂。

アキラがわずかに唇を引き結び、手を止めた。

「……負けだ。ありがとう」

「ありがと!」

二人の笑顔が交差する。勝敗を超えた音が、盤に残った。

 

「……いい音でしたね」

佐為が呟く。

「勝ち負けの音ではなく、命の音。盤が、生きていました」

 

ヒカルは少し照れくさそうに頭をかいた。

「へへっ、佐為に褒められんの、なんかムズムズすんな」

「それでいいのです。照れるくらいが、人間らしい」

そう言って笑った彼の頬が、光の中で透けた。

やっぱり、薄くなっている。

 

――その日の夜。

ヒカルの部屋の灯りの下で、再び碁盤が広げられた。

俺も同席していたが、ヒカルの手つきは少し違っていた。

一手一手が慎重で、どこか確かだった。

窓辺で佐為が見守る。その輪郭が、夏の夜気に溶けてゆく。

 

「佐為、今日……一瞬いなくなってた」

「そうですか?」

「うん、盤の上で……透けてた。前よりも」

「それはね、ヒカル。あなたが強くなっている証拠かもしれません」

「どういう意味だよ」

「あなたが、自分の碁を掴み始めたということです。もう、私の碁を借りる必要がなくなってきた」

「……そんなの、やだよ」

「大丈夫。私は“いなくなる”わけではありません。あなたたちの碁の中に残ります」

「佐為……」

「ヒカル。もし私が消える時が来たら、それはあなたが“神の一手”を打つ資格を得たときですよ」

 

その言葉を最後に、佐為の声が少し霞んだ。

ヒカルの目が赤く光った。

俺は何も言わなかった。ただ、その光景を焼き付けた。

 

翌日。

日本棋院のロビー。

塔矢行洋が対局していた。静かで、張りつめた空気。

アキラの父――“生ける伝説”の碁。

その音は、他のどの盤の音よりも澄んでいた。

「……やはり、変わりませんね」

佐為の声が震えていた。

「彼の碁は、祈りの音です」

「佐為、あんた……彼と?」

「昔、一度だけ。夢の中で打ちました。あのとき、私はまだ“神の一手”を探していた」

 

行洋が顔を上げ、こちらを一瞥した。

俺たちは気づいた。

彼の視線が、確かに佐為を見ていた。

時を越えて、二人の碁の魂が一瞬交差したのだ。

 

「感じましたか?」

「……ええ」

佐為は微笑んだ。

「この時代にも、まだ“続き”があるのですね」

 

夜。

ヒカルは机に向かっていた。

碁石を指先で転がしながら、ぽつりと呟く。

「佐為、いなくなったらどうすりゃいい?」

「大丈夫。あなたなら、もう打てます」

「でもオレ、怖いよ」

「怖いなら、それでいい。恐れは、生きている証です」

「……ずるいな、そう言われたら何も言えねぇよ」

佐為の笑顔がやさしい。

「ヒカル。怖さを抱いたまま、前へ進みなさい。打ちなさい」

ヒカルは頷き、黒石をひとつ置いた。

パチン。

その音は、祈りだった。

 

夜の静けさの中で、俺もまた碁盤を広げていた。

一人で打つ碁は、静かで、孤独で、でもどこか温かい。

一手一手が誰かの声に聞こえる。

「怖さを置け。美しさで受け止めろ。続けろ」

――佐為の声だ。

窓の外、風が通る。

星が滲んで、石の白と黒が淡く光った。

 

「佐為。俺は、あんたがいなくても続けるよ」

言葉が空気に溶けた。

その瞬間、確かに聞こえた。

“ありがとう”という声が、胸の奥で響いた。

 

数日後。

プロ試験会場。

白いテーブル、緊張した空気、指先の汗。

ヒカルが隣で深呼吸をしていた。

「なぁ黒瀬、ここまで来たらもう怖くねぇな!」

「いや、俺は普通に怖い」

「マジで? お前でも?」

「怖いから、ちゃんと打てるんだ」

「……そっか」

 

佐為が二人の間に立つ。

「ヒカル、黒瀬さん。今日も音を聞かせてください」

「任せろ!」

「了解」

 

その瞬間、光が差した。

佐為の姿が、静かに、ゆっくりと透けていく。

ヒカルの瞳が大きく開かれた。

「佐為っ……!」

「大丈夫。私は盤の中にいます。あなたたちの手が動く限り、私は消えません」

 

盤面の上に白と黒が並び、その中心で光がひとつ、弾けた。

それは、神の一手の“影”だった。

まだ届かない、けれど確かにそこにある――未来の光。

 

俺たちは、それを見上げた。

そして、次の一手を打った。

 

第三話 了

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。