夏の光がまぶしくて、朝の空気の中にざらついた熱が混ざっていた。
蝉の声がうるさいほど鳴いていて、それが逆に心を落ち着かせてくれる。
机の上には、昨日書き終えた「日本棋院プロ試験願書」が置かれている。白い紙がやけにまぶしく、少しだけ手が汗ばんだ。
「黒瀬! 起きてんだろ! 今日出さねぇと間に合わねぇぞ!」
ヒカルの声が階下から響く。
「出すだけだ。焦ることない」
「出すだけが大事なんだよ、縁起だって!」
「縁起で受かるなら誰も苦労しない」
「うるせぇな、縁起も気合いも大事なんだよ!」
襖の向こうで佐為がくすくす笑った。
「ヒカル、名前の字は間違えないでくださいね」
「わかってるって! “進”の字、何回書いても真っ直ぐならねぇんだよ!」
「筆の音には、心が映りますから」
「もう筆じゃねぇってば、佐為!」
朝から賑やかだ。だが、その笑い声の隙間で、俺は小さな違和感を感じていた。
佐為の姿が――昨日よりも、わずかに淡い。
光のせいかもしれない。けれど、その透けるような輪郭に、胸の奥が少しだけざわついた。
昼下がり、日本棋院。
湿った空気と木の匂いが混じる廊下を、俺とヒカルは並んで歩いていた。
願書を出した受付の奥では、同じように緊張した顔の若者たちが次々と書類を差し出している。
誰もが何かを賭けている目をしていた。
「黒瀬、いよいよだな」
「ああ」
「お前でも緊張すんの?」
「するさ。怖くない奴はいない」
「オレはワクワクしかしねぇけどな」
「お前は異常なんだよ」
「はは、知ってる!」
そのとき、廊下の向こうから一人の影が現れた。
塔矢アキラ。白いシャツの襟元まで凛として、少し汗ばんだ髪が額に貼り付いている。
「やあ、進藤、黒瀬くん」
「おう、アキラ! 今日も勉強か?」
「父に見てもらっていたところだよ。試験が近いからね」
「塔矢行洋か……やっぱり親子で打つのか」
「ええ。父の碁は、まだ僕の目標です」
佐為がその名を聞いた瞬間、息を飲んだ。
「……塔矢行洋。懐かしい響きですね」
「佐為?」
「ええ。あの方の碁には“祈り”がありました。勝つためではなく、生かすための碁。美しかった……」
アキラは少し驚いたように目を伏せる。
「そう言われるのは、うれしいですね。父は今もその“祈り”を追っていると思います」
三人の視線が、自然に同じ方向へ流れた。
奥の対局室。盤が並び、空気が張り詰めている。
誰かが打つたびに、パチンという音が微かに響く。
その音を聞いた瞬間、佐為の姿がふわりと揺れた。
まるで、音に吸い寄せられるように。
「佐為……」
「大丈夫ですよ。少し、盤の声が強くなっているだけです」
その声はやわらかく、でも確かにどこか遠くなっていた。
対局室に入り、アキラとヒカルが向かい合う。
俺は後ろで見守った。
初手、星。互いに譲らぬ立ち上がり。
盤の上には若さと自信が並んでいた。
アキラの白は冷静に地を拾い、ヒカルの黒は軽く跳ねる。
まるで音楽だ。テンポが速いのに、和音は崩れない。
「ヒカル、呼吸を」
「わかってる!」
ヒカルの声が空気を切る。
その隣で佐為が目を閉じて、わずかに頷いた。
「ああ、美しい。生きようとする意志が、盤に満ちています」
終盤。
一瞬の隙を突かれ、ヒカルの石が追い詰められる。
しかし彼は笑っていた。
「ここだ!」
黒石が一線深く打ち込まれる。
それは、逃げではなく“生きるための手”だった。
パチン――静寂。
アキラがわずかに唇を引き結び、手を止めた。
「……負けだ。ありがとう」
「ありがと!」
二人の笑顔が交差する。勝敗を超えた音が、盤に残った。
「……いい音でしたね」
佐為が呟く。
「勝ち負けの音ではなく、命の音。盤が、生きていました」
ヒカルは少し照れくさそうに頭をかいた。
「へへっ、佐為に褒められんの、なんかムズムズすんな」
「それでいいのです。照れるくらいが、人間らしい」
そう言って笑った彼の頬が、光の中で透けた。
やっぱり、薄くなっている。
――その日の夜。
ヒカルの部屋の灯りの下で、再び碁盤が広げられた。
俺も同席していたが、ヒカルの手つきは少し違っていた。
一手一手が慎重で、どこか確かだった。
窓辺で佐為が見守る。その輪郭が、夏の夜気に溶けてゆく。
「佐為、今日……一瞬いなくなってた」
「そうですか?」
「うん、盤の上で……透けてた。前よりも」
「それはね、ヒカル。あなたが強くなっている証拠かもしれません」
「どういう意味だよ」
「あなたが、自分の碁を掴み始めたということです。もう、私の碁を借りる必要がなくなってきた」
「……そんなの、やだよ」
「大丈夫。私は“いなくなる”わけではありません。あなたたちの碁の中に残ります」
「佐為……」
「ヒカル。もし私が消える時が来たら、それはあなたが“神の一手”を打つ資格を得たときですよ」
その言葉を最後に、佐為の声が少し霞んだ。
ヒカルの目が赤く光った。
俺は何も言わなかった。ただ、その光景を焼き付けた。
翌日。
日本棋院のロビー。
塔矢行洋が対局していた。静かで、張りつめた空気。
アキラの父――“生ける伝説”の碁。
その音は、他のどの盤の音よりも澄んでいた。
「……やはり、変わりませんね」
佐為の声が震えていた。
「彼の碁は、祈りの音です」
「佐為、あんた……彼と?」
「昔、一度だけ。夢の中で打ちました。あのとき、私はまだ“神の一手”を探していた」
行洋が顔を上げ、こちらを一瞥した。
俺たちは気づいた。
彼の視線が、確かに佐為を見ていた。
時を越えて、二人の碁の魂が一瞬交差したのだ。
「感じましたか?」
「……ええ」
佐為は微笑んだ。
「この時代にも、まだ“続き”があるのですね」
夜。
ヒカルは机に向かっていた。
碁石を指先で転がしながら、ぽつりと呟く。
「佐為、いなくなったらどうすりゃいい?」
「大丈夫。あなたなら、もう打てます」
「でもオレ、怖いよ」
「怖いなら、それでいい。恐れは、生きている証です」
「……ずるいな、そう言われたら何も言えねぇよ」
佐為の笑顔がやさしい。
「ヒカル。怖さを抱いたまま、前へ進みなさい。打ちなさい」
ヒカルは頷き、黒石をひとつ置いた。
パチン。
その音は、祈りだった。
夜の静けさの中で、俺もまた碁盤を広げていた。
一人で打つ碁は、静かで、孤独で、でもどこか温かい。
一手一手が誰かの声に聞こえる。
「怖さを置け。美しさで受け止めろ。続けろ」
――佐為の声だ。
窓の外、風が通る。
星が滲んで、石の白と黒が淡く光った。
「佐為。俺は、あんたがいなくても続けるよ」
言葉が空気に溶けた。
その瞬間、確かに聞こえた。
“ありがとう”という声が、胸の奥で響いた。
数日後。
プロ試験会場。
白いテーブル、緊張した空気、指先の汗。
ヒカルが隣で深呼吸をしていた。
「なぁ黒瀬、ここまで来たらもう怖くねぇな!」
「いや、俺は普通に怖い」
「マジで? お前でも?」
「怖いから、ちゃんと打てるんだ」
「……そっか」
佐為が二人の間に立つ。
「ヒカル、黒瀬さん。今日も音を聞かせてください」
「任せろ!」
「了解」
その瞬間、光が差した。
佐為の姿が、静かに、ゆっくりと透けていく。
ヒカルの瞳が大きく開かれた。
「佐為っ……!」
「大丈夫。私は盤の中にいます。あなたたちの手が動く限り、私は消えません」
盤面の上に白と黒が並び、その中心で光がひとつ、弾けた。
それは、神の一手の“影”だった。
まだ届かない、けれど確かにそこにある――未来の光。
俺たちは、それを見上げた。
そして、次の一手を打った。
第三話 了