カビの臭いが鼻をついた。
「……ん?」
ゆっくり目を開ける。しかし、目に飛び込む光は乏しく、辺りは薄ぼんやりとした暗さに覆われていた。
「……どこだ?ここ……」
目が暗がりに慣れてくると、ここはどこか小屋の中のようであることが分かった。辺りには木製の棚とそこに空箱がいくつも積み重なり、地面にあるいくつかの布袋もしぼんで中身がないことを強調していた。薄明りの中でも埃が待っているのが分かるほどで、俺以外に誰もいないのは明らかだった。
「倉庫、か?」
その時、一隅の壁がキイと音を立てて動いた。それは扉のようで、開いたその先から太陽の光が俺の目を刺した。それでも目を細めながら扉のところを見てみると、日の光を背に人の姿らしきシルエットが浮かび上がるのが分かった。
「ケホ……。まったく、なんで私がこんなこと……」
その人型のシルエットから声が上がる。そのかすれた声は聞いたところ女性のようだ。
「誰だ?誰かいるのか?」
思わず声を上げると、その女は気だるそうに声を上げて小屋の中に入ってきた。
「大きい声出さないでくれる?憑依後で体に慣れてないのよね」
「は?なんだ?お前、俺のこと知ってるのか?」
「あー、そこからか。まあそうよね。面倒くさい」
慣れてきた目で見ると、そこには13、4才ほどの少女がいた。碧い瞳が特徴的でストレートのセミロングの金髪だったが、髪が痛んでいるのが暗がりでもよく分かった。それよりも一番驚いたのは彼女があまりにもやせ細っていたことだ。
眼窩は窪み、頬はこけて肌も土気色、組んだ腕も骨が浮き出るほどであり、骨と皮だけとはこのことかと思わせるほどの瘦せこけようだった。
「お、お前、なんでそんな痩せてるんだ?食い物食ってないのか?」
「見知らぬ場所で見知らぬ人にいきなりそんなことを口にするなんて、君はよっぽどお人よしなのね。ってよく見たら本当に痩せてるわね。なにこの体。どうりで動きにくいと思ったわ」
「お前さっきから何を……」
「あーちょっと待って、何か立ってるのがしんどくなってきた。この感じは……喉乾いてる、で合ってるのかな?ちょっと君、水出してくれない?」
「いやそんなもんねえよ。見りゃ分かるだろ」
「与えた能力にあったでしょ。左手開いて『お冷』って思ってみ」
何が何だか全然分からん。これは夢か?ならさっきの死んだ云々も夢か?そうだよな。俺生きてるし。
「もー、さっさとやってよ。こっちはしんどいのよ」
考え事をしていたら、少女はその場でしゃがんでうずくまっていた。よっぽど辛いらしい。
少女の事も心配だったが、俺はさっきの出来事が現実ではないことに一縷の望みをかけて少女の指示通りにやってみることにした。
頼む!なにも出るなよ……。『お冷』
次の瞬間、左手に重みを感じてバランスを崩しそうになった。しかし、すんでのところで落としそうになった左手に乗った物を右手で掴む。そこにはガラスのコップに入った透明な液体が入っていた。
「ちょうだい!」
事態を考える暇も無く、コップごとその液体をとられる。少女はそのままごくごくと透明な液体を飲み干してしまった。
「飲んで大丈夫か?体調悪くないか?」
「……ぷは!何言ってんの?水だって言ってるでしょ。君も飲んでみれば?」
嘘だよな?やっぱ俺死んで……。
俺はもう一度確かめるように左手の手のひらを上に向けるとさっきの呪文を心の中で念じた。
左手に感じる確かな質量。小屋の隙間から差し込む光がコップの液体を反射して俺の網膜を刺激した。
恐る恐る左手のコップを口元に運んで一口、舐めるようにその液体を飲んでみる。
無味無臭。今までで一番飲んできた馴染み深い液体が口の中に広がるのが分かった。
俺がその事実に呆けていると、少女が奪うようにコップを取って、また一息に飲み干してしまった。
「あ~体に染みるってこんな感じなのね。こりゃあ美味いわ」
「さっきからなんなんだよ。こっちは全然分かってねえっての」
自分が死んだ事実。生きている現在。謎の能力。目の前の少女。
頭の中に色々な思いが浮かんで、それがぐるぐるとかき混ぜられるように俺の頭は混乱の極致だった。
「一から説明するからよく聞いてよ。まず私はさっき君の頭の中で直接会話した者だって言えば分かるかしら」
「……あの?女神みたいな?」
「君の目にはそう映ってたんだ。まあ形なんてなんだっていいんだけど、会話の内容覚えてる?君は死にました。新しい世界でやり直します。特別な能力を与えました。ってとこなんだけど」
そのやせ細った顔が表情も変えずに残酷な事実を突きつける。どうやら前のやりとりは本当に現実だったようだ。それが分かると改めて絶望感が込み上げる。がくがくと脚が震えだすのが分かった。
「そんで、君にラーメンを出せる能力を授けたまでは良かったんだけど、実はお冷と割りばしが出る能力は私の独断だったんだよね。あんまりしょっぱい能力だったからこれぐらいいいかな?ってやったんだけど、監察官に見つかっちゃって、罰を受けるハメになったわけ。君が転生した世界に私も一緒にいるのはその罰の一環。ここまでいい?」
「ああうん。もうどうでもいいよ……」
俺はその場に体育座りでへたり込むと膝を抱えてうずくまった。瞼をぎゅっと強く閉じて何も考えないように真っ暗な世界へと逃げ込んだ。
父ちゃん、母ちゃん……。俺もう帰れなさそうだ……。
目も耳も閉ざして、さっきの白い世界とは違う黒い世界に閉じこもろうとした。
しかし次の瞬間、俺の頬はがさがさした指でつままれるのが分かった。つまみながら右に左に上へ下へと動かす手。最初は無視していたが、あんまりしつこいので俺は思わずその顔を上げてしまった。
「あーもうウザい!なんなんだよ!」
「こっちこそ何なのよ。急にへたりこんじゃって。私の話まだ終わってないんだけど」
「うるせえ。もうどうでもいいんだよ」
「元の世界に帰れるかもしれないって言っても?」
瞬間、俺は彼女の胸倉をつかんでいた。
「ほ、本当か!?本当に帰れるのか!?」
「急に大声出さないでよ。あくまで『かも』って話。この不祥事は君にとっては本来関係ない、巻き込まれた形だから君の処遇は保留状態なんだよ。もしかしたら死んだこともなかったことにする超法規的措置が下されることもありえるってこと。まあこれは私の勝手な予想だけどね」
「それでも、可能性はあるってことだよな」
「あんまり期待されても困るんだけどね」
「それで、俺はこの世界で何をすればいいんだ?」
「急に前向きだね。まあこっちとしては嬉しいことだけど。とりあえず現状をこの世界の現状を把握するにはこの小屋から出て見聞きするのが一番早いんじゃない。私もこの世界来たばっかりでよく知らないのよね」
「だったらさっさとここから出ようぜ」
俺は彼女の骨ばった手をとると木製の扉に向かって走って行った。
扉を開けると同時にまばゆい光が俺たちを迎えた。
そこにはこころ踊るような大冒険の世界、というわけではなく、容赦ない凄惨な現実だった。