さよならビリーバー 作:ふるびた本
死ぬなら誰かを助けて死にたいと思っていた。
車道に飛び出した子供を救うのでも、通り魔に襲われた誰かの代わりに刺されるのでも、心臓移植するんでも、なんでもいい。
特に意味のない人生だ。最期ぐらいはちゃんと意味のあるものにしたい。
その結果、早逝したとしても何者にもなれず、ただ惰性で生きるよりはずっと良い。
そう思っていた。
▽
車窓から流れる景色を見ながら、今更になって思い出すのは、ガキの頃の夢だ。
正義のヒーロー。
今思えば、面白みもないごくごく有り触れた夢だったのだろうが、俺の終わりはそんなところから始まったんだと思う。
インターネットが普及して、小学生が当たり前のようにスマホを持つようになった現代において、世の中に本当の正義がどこにもないなんてことは子供でも知っていることになった。
ジェンダー平等を謳うくせに、特定の性別への特別扱いを要求する人間。
有名人のゴシップに対する過剰な叩き行為や誹謗中傷。
間違ったことを言う相手は殺しても良いとでも言うように行われる集団暴言の数々。
自分の正義に寄らない相手をとにかく叩きたい、攻撃したいという欲求がSNS上には溢れている。
例え、すでに解決した問題だとしても、例えそれが犯罪じゃなかったとしても、何度でも掘り返し、相手が傷つくであろう言葉を並べ立て何度でも『反省』を要求する。
そして、それを正しいことだと宣う。
そんなカスみたいな世の中が、今だ。
こんな世の中に、正義なんて望めるはずもない。
対して、俺の世代はその境界にあったこともあって、触れる早さも人それぞれ。仮に早く触れたとしても、そこまで暗い部分に接触することは容易ではなかった。
よほど、そういう気性でもない限り。
俺はその点で言えば、触れるのが遅い方ではあったのだろう。
正義の味方、という在り方には中学の終わりごろまで強く憧れていた。
人を憎まず罪を憎み、悪意ある言葉を優しさで包めるのだと、そう信じていたからだ。
実際は、そんなことなかったわけだけど。
特撮ヒーローやアニメの主人公なんかは正義で人を助けることがある。
でも、現実は正しさだけでは人を救うことは出来ない。
高校時代の話だ。
一度だけ、いじめを止めたことがある。
正しさを振りかざし、正義の名のもとに断罪をしたつもりだった。
結果、いじめは止まった。
止まってしまった。
いじめの主犯の自殺するという形で。
何故死んだのか。どうして死んだのか。
それは今でもわからない。
ただ、最後に見た彼女の顔がどこか寂しそうだったことだけは、今でも覚えている。
アメリカなんかでは、いじめはいじめられる側ではなく、いじめている側の家庭や心理状態などに何かしらの問題があると考えることが多いそうだ。
実際、何かしらの精神的なハンディを抱えていたり、家庭環境が煩雑で親に構ってもらえなかったり……愛情希求行動の一種として、みなされることもあるらしい。
それを言ったからと言って、どうなるわけでもないけれど。
かと言って、あの時、俺が間違っていた、とかそんなことを言うつもりはない。
どんな理由があろうとも、いじめというものが許容される状態は不健全だ。
けれども、確かにアレが原因で正しさというものを信じられなくなったのは確かだった。
正しさは人を救わない。
正しさは人を攻撃する道具足り得る。
正しさはすなわち――優しさではない。
故に、正義はない。
あったとしても意味がない。
人を救わない正しさに、価値などあるはずもない。
そして、俺の中のその正しさは、社会的に無価値である。
正しさという殻を被った暴力が溢れかえるこんな世界に、果たして生きる意味などあるのだろうか。