さよならビリーバー   作:ふるびた本

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ヒューマン・フライ(上)

「あ、居たんだ。兄さん」

 

 実家に帰って、自分の部屋の整理を行っている時、ふと背後からそう声をかけられて振り返る。

 

 そこに居たのは、腕に赤子を抱いた俺よりも4つ年下の妹。今年、二十一だったか。十九の歳に結婚したとは聞いていたが、子供まで生まれていたのかと少し面食らう。

 

 今時にしては珍しいぐらいの早婚であったが、どうやら順調にやっているらしい。

 

「……母さんに部屋を片付けろって言われたからな」

 

「あー……その、ごめんね? アタシたちが母さんたちと一緒に暮らしたいって言っちゃったから」

 

「いや……」

 

 気にしていない。

 

 だいたいにして、実家が母子家庭なのに六年も疎遠にしていた兄と違い、彼女は母とずっと一緒に居たのだから、二世帯で暮らすとなればこうもなる。

 

 この出来た妹のことだから、自分がいなくなれば母さんが一人になると思って言ったのだろうし、それを受け入れてくれたのだろう旦那さんの方に配慮するのは、もはや形ばかりのものとはいえ、兄の肩書を持つ者としては当然と言える。

 

 手元にある古い紙をぼんやりと眺めて、ふとそれを折りたたんで立ち上がる。

 

「もういいの?」

 

「ああ……その、お前の旦那は本は読むか?」

 

「え、と、まあ普通だけど読むと思う。どうかした?」

 

「いや、あとは好きに読むなり捨てるなりするようにしてくれと伝えて欲しい」

 

「わかったけど……その、いいの? 昭兄さんの大事なものじゃ……」

 

「たかだか本にそこまでの価値はないよ」

 

 これが高価な学術書の類だったのならともかく、その多くは娯楽小説の類やヒーロー図鑑といったものだ。

 売ったところで二束三文にもなりはしないだろう。

 

「じゃあ、俺はもう行くから……」

 

「あ、待って。せめて、ちょっと私の子、撫でてあげてよ」

 

 そう言われて、立ち止まる。

 

「や、でも、生まれたのも知らなかったし……」

 

「今知ったならなおさらでしょ……というか、電話番号変えたなら教えてよ」

 

 連絡したかったのに~、と冗談めかして口にする彼女に胸が痛む。

 極めて個人的な理由で、過去の連絡先を消したくて母以外には伝えずに、その母の連絡も半ば無視していた状況だったことを今更ながらに悔いた。

 

「ほらほら」

 

 見せびらかすように赤子の顔をこちらに向ける妹に苦笑する。

 そして、赤子の方に視線を置くとふと、目が合った。

 愛らしいと思う。

 利発そうなその瞳を見るに、妹と同じように強く賢い子になるのだろう。

 手がゆっくりと、その赤子の方に向いて、

 

「……」

 

 途中で降ろした。

 

「ごめん、俺には無理だ」

 

「……え?」

 

 疑問に溢れた妹の声を無視して、部屋を出ると、俺はそのまま家を出た。

 

 

 家を出てやって来たのは、かつて高校生の頃に毎日通っていた寂れた商店街。その中の半ば廃墟と化した雑居ビルの屋上だった。

 

 安全のためだろう。設置されている柵を乗り越えて、ビルの端に立ち、どう考えても安全基準を大幅に逸脱して錆びたその鉄柵に体を預ける。

 死ぬつもりはない。

 そんなことをしても意味はないからだ。

 

 それでもこの場所に来たのは、ただ、ここが彼女と俺の出会いの場所であったからに他ならない。

 

 鏑木コヨミ。

 高校時代、クラス内でとある女子生徒をいじめた主犯の少女であり、俺が追い詰めてしまった人物。

 

 よく笑うやつだったのを覚えている。それこそ、いじめなんかとは縁遠そうなほどに、明るくて、快活で、誰とでも楽しそうに話すやつだった。

 

 今でも思う。あの彼女は果たして、嘘だったのか、と。

 いじめを覆い隠すためだけの欺瞞だったのかと。

 

 勘では違うと思う。あの時の笑顔や振る舞いは決して嘘ではなかったと。

 けれども、客観的な事実に目を向けるのならば、彼女はいじめの主犯であり、裁かれるべき悪であったことに違いはない。

 

 では、何故、彼女はあの日、あの時、あんな風に人を攻撃したのだろうか。

 

 わからない。それを知る術はもうないのだから。

 

 ほう、と息を吐くと夕焼けに染まる秋の寒空に白が舞う。

 この場所から眺める街並みは望外の綺麗さで、ところどころ目立ち始めた明りも相まって、帰って来たのだ、という気持ちが沸いて来る。

 

 もっとも、望まれた帰省ではないかもしれないが。

 

「戻るか……」

 

 実家には泊まれないので、宿は別で取ってある。

 中学時代の友人がやっている民宿で、自慢は料理だ、と言っていたからそれを少し楽しみにしていたのだ。

 

 よっ、と声をこぼしながら鉄柵に跨って、内側に戻ろうとした。

 その時だった。

 

「あ……」

 

 急に強い風が吹いて体勢を崩す。

 不味いという焦りから、強く柵を握るが何かが破裂するような音共に、錆びていた柵が折れたことを認識する。

 

 浮遊感。

 落下感というものはないのだな、とか慌てたせいでよくわからないことを考えながら思う。

 

 あ、死んだ。

 五感の全てが遠くなるのを理解して、そう考える。

 

 過ぎていく過去の景色を走馬灯と呼ぶそうだが、生憎と思い出すようなこともないらしい。ただ、なんとなく、妹と妹の子供のことだけを思い出した。

 彼女たちを最期に会った人にしてしまうのは、なんだか少し嫌な気分だ。

 

 でもまあ、気にしても仕方がない。

 遠くなる空を眺めるのをやめて、瞳を閉じ、来るべき瞬間を待って、そして……

 

「間に合えッ!」

 

 そんな声が聞こえると同時に、腕を掴まれた感触があった。

 

「え……」

 

 声を漏らしながら、何が起こったのか確認すると、まだずいぶんと下まで距離があった。

 というか、落下が止まっていた。

 

「あっぶなぁ~ッ!」

 

 心底安堵するようなその声に、どこか、聞き覚えがある気がして顔を上げた。

 

「……は?」

 

 そうして、また困惑に声をあげる。

 何故か。

 

「もう、ダメだぜ~椚くん。あんまり危ないことしたらさ~」

 

 馴れ馴れしくそう俺の名前を呼んで、どこか引き攣った顔でそういった少女には見覚えがあった。

 いや、見覚えどころの話ではない。

 ついさきほどまで、俺はずっと彼女のことを考えていた。

 

「鏑木、なのか……?」

 

「へへへ、久しぶり」

 

 俺の問いかけにそう照れ臭そうに返事をした彼女は、あの日、あの時の姿のまま、そこで笑っていた。

 

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