「…ユイ!!」
大きなしめ縄を抜けた先の開けた空間に、まるで操り人形のように、四肢を糸で繋がれたユイが蹲っている。
罠かもしれないなんて考える暇もなく、ハルは一直線にそこへ突っ込んでいった。
「ユイ、ユイ…!わたしだよ!ハルだよ!」
「……ハ、ル…?」
ハルが揺すぶると、ユイは薄くまぶたを開けた。手のひらからほのかに暖かさが伝わってくる…良かった、生きている!
「まってて、いま…!」
「…おねがい、きちゃ、ダメ…」
ハサミを取り出して、天井からぶら下がる糸を切ろうとした、その時。
「…きゃっ!」
「っ!」
びゅん!とすごいスピードでユイの体は吊り上げられる。
それに釣られて、ハルが天井を見上げると…
「ユイ…!!」
『カワイソウ』
…そこに広がっていたのは、目を覆いたくなるような光景だった。
天井一面に、血のように赤い蜘蛛の巣が何層にも重なって張り巡らされている。
そして、そこに張りついているのは…それが狭そうに感じられるほど、巨大な蜘蛛。
沢山の赤い目玉に、にやにやと笑う口。よく見ると、体全体が人の手が集まってできているようだ。それが血溜まりのような天井をかさかさと這い回っている。よく見ると、その中には小さい影も混じっていた。道中ハルが潰した子蜘蛛達だ。
…おぞましい。その一言に尽きる。
流石のハルもこれには半歩後ずさった。しかしすぐに決意を取り戻し、ハサミを構え直す。
───ジャキンッ!
「ユイは、かえしてもらう!」
『…カワイソウ』
大蜘蛛は、舐め腐った表情のままスルスルとハルの元まで降りてきた。
できっこないと思っているのだろう。
獲物が引っかかったとしか思っていないのだろう。
─────舐めるなよ。
ジャキン!と鋭い刃が開かれた。
ハルは一瞬の油断も隙も見せずに、ハサミを構えて大蜘蛛と睨み合った。
『ウゴクナ』
頭に、あの気持ち悪い声が響いてくる。
それに人を従わせる力はもう無い。ハルはそれを無視した。
まるで足元がじゅくじゅくと腐っていくような嫌な感覚を覚え、危険を察知したハルは横っ飛びで避ける。
…ザクザクザクッ!!
刹那、針のように硬い糸が地面から飛び出す。
危なかった。言葉に従っていれば串刺しになるところだった。
『ニゲロ、ニゲロ、ハシッテニゲロ』
今度は、自分の周りを取り囲むように鋭い敵意が肌に刺さる。思わずハルは立ち止まり、警戒態勢をとった。
…ザクッ!ザクッ!ザクッ!!
「っ…!!」
すると、たった今ハルが進もうとしていた方向に棘が生える。
…なるほど。こうやって今まで何人もの人を手玉に取ってきたのか。とハルは理解する。
手口さえ分かればどうって事はない。ハルは大蜘蛛の言葉を完全に意識からシャットアウトした。
「はあっ、はぁっ…!!」
足が止まってしまわないように、適度に休憩しつつ攻撃を避ける。
早くユイを助けたいのに。自分の頭一つ分くらい上で揺れるユイの足を見ながらハルは唇を噛む。
どうにかして手が届かないか?ハサミを使えば、色々試せそうだが…大蜘蛛の猛攻がそれを許さない。また頭の中に響くそれを無視して、感覚だけを頼りに攻撃を避けた。
避けて、避けて、避けて…
元いた位置からだいぶ離されてしまった。
急いでユイの元まで戻ろうとすると、目の前にある赤い柱のようなものに肩が触れる…どうやら糸の束でできているようだ。ネバネバして服に引っ付く。
「…もうっ、じゃまっ!!」
怒りのままにハサミを振るえば、ハルの胴ほどもあるそれがいともあっさりと断ち切られた。
それと同時に、大蜘蛛の絶叫が響く。
「うわっ!?」
その巨体が揺れ、空気が震える。ハルはその位置が微妙に下がっているような奇妙な感じを覚えた。
いや、気のせいではない。確実に下がっている!
「…もしかして」
ハルは辺りを見回した。目の前にある大きな穴、その上にぶら下がる巨大な人面蜘蛛。
ぶら下げられたユイ。天井に広がる糸。そこからこの地面まで、そして大蜘蛛とも繋がる赤い糸。
「これをきれば…?」
ハルは一番近くの糸の元まで、全速力で走り出す。
それを阻むように硬質の糸が出されたが、ギリギリでかわし糸の元まで辿り着く。さっきと同じようにして断ち切った。
『ーギャアアアアアッ!!!』
また地震のように洞窟が揺れる。
明らかに大蜘蛛は嫌がっているようだ。
「…あは、なんだ」
ユイの事となると視野が狭くなってしまうのはハルの悪い癖である。いつぞやの図書館のことを思い出しながらハルは呆れたように笑った。
残る糸は、あと二本。
どちらにせよ、ユイを助け出すにはあいつを倒さなければならない。散々こちらを弄んでくれた腹いせも込めて、残る糸の元へハルは駆け出した。
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ハルが走っている。
あんなに怖がりで、運動だって苦手だったハルが、弱音の一つも吐かず、ユイを助けるため、懸命に走っている。
ユイはそれを、ぼんやりと眺めている。こんな場所に長くいたからだろうか、さっきから、体の芯から冷えてきて、口を開くことすらままならない。目を開け、意識を保つのが精一杯。
でも、足元で動くお揃いのリボン、青いリボンだけははっきりと見える。
(…ハル…)
(…ほんとうは、こわいはず…)
(…なのに、どうして…)
ユイはハルが大好きだ。
お父さんがいなくなっても、お母さんがおかしくなっても、クロが死んでしまっても、ずっと、ハルだけを心の支えにしていた。
でも、ハルにはお父さんがいる。お母さんがいる。クロみたいな友達はいないけど、そんなの必要ないくらい幸せそうだった。
ユイにはハルしかいないけど、ハルにはユイだけじゃない。
なのになぜ、こんなに必死になるのかユイには分からない。
…分かるはずもない。ハルにとって、ユイがどれほどかけがえのない存在か。
何度ユイがハルを助けてくれたか。その度にハルが何を思っていたかなんて、ユイは知るはずも無かった。
…ふいに、ズシャアッ!という音が響く。
ハルがつまづいて転けた音だとすぐに分かった。
今すぐハルの元に駆け寄って、手を引いて起こしてあげたいのに。きっと涙を堪えているはずだから、それはずっと、ユイの役目だったはずなのに。けれど今のユイにはそれができない。
(…やめて、ハル。ハルまでいなくならないで)
(わたしはいいの。でも、ハルまでいなくなってしまったら、わたしは…)
(…たすけて、だれか、おねがい、ハルをたすけて…)
ユイは最後の力を振り絞り、小さく息を吸って
その名前を呼ぼうとした。