「…これで、さいごだあっ!!」
ジャキンッ!と、重たい金属が擦れ合わさる音が響く。
また、大きく空気が揺れる。大蜘蛛の体を支えている糸は、もうずいぶん弱々しくなってしまった。
「…うわっ!?」
その中で、天井から一際大きいバキバキッ!!という音が聞こえた。
どうやら今ので、どこかの糸が限界に達したらしい。上の方からパラパラと細かな瓦礫が降り注ぐ。
そのまま洞窟崩壊…ということは無さそうだった。ありとあらゆる面に張り巡らされ、石と石をしっかりと繋ぎ合わせる糸に、ハルは今だけ感謝した。
メキッ…メキメキッ…
…ただ、そのおかげで力のつり合いが変わったのだろう。
ギリギリハルの手が届かない高さにあったユイの体が、もう地面に付くぐらいに下がっていた。
「ユイっ!!」
ハルはなりふり構わず、ユイの元へ走って行く。足がもつれて転びそうになるが気にしない。
いける。これなら手が届く。今度はためらわず、ユイの体に巻き付いた糸を切断していく。
「…ハ、ル…」
ひどく衰弱したユイが、ゆっくりと口を開く。
「どうしたの!?けがしてる!?」
ユイは、この暗い中でも分かるくらいに顔色が悪い。もう起き上がる気力も無いらしく、全体重をハルの腕に預けている。触れた肌が氷のように冷たくて、ハルはまるでおばけみたいだ…と嫌な想像をしてしまった。
「にげ…」
「だいじょうぶ!!ぜったい、ぜったいたすけるから!!」
なおもハルを心配するユイに、ハルは自分はこんなところで負けないと意気込みを見せる。
…だが。
「うし、ろ…」
ハルは、決して大蜘蛛の声に従った訳ではなかった。
もはやその全てを意識の外に追いやっていた。
ユイを助ける、そのことだけを考えていた。
だから、『警告』とも取れるそれを、見逃した。
あるいは、それも全て見通した上の、罠だったのかもしれない。
『ウゴクナ』
最後の糸を切ったとたん、聞こえてきた声。
…動けない。
まずい、と思った次の瞬間、針のように鋭い糸が飛んでくる。咄嗟にハサミでガードしたが、勢いを殺しきれなかった。弾かれて、手からハサミが飛んでいく。
「あっ…!!」
遠くの方で、カチャンと音がした。
すぐさま拾いに行こうとするが、この状態のユイを置いて行けない。担いでハサミの元まで歩いて行こうと、力のない腕を肩に回させる。
「うっ…!」
しかし、一歩踏み出したところで足から力が抜けて、がくんとハルは膝をついた。ユイも精一杯体に力を込めようとしているが、震えてうまくいかない。
その間にもう次の攻撃が来ようとしている。鋭く硬い糸の束が、こちらへ向かって飛んでくるのが見えた。避けるのも防ぐのも、絶望的なのは分かっていた。
このままでは、二人とも…
(…ダメだ)
(ハル、わたしのためにしんじゃダメ…)
(おねがい、たすけて、だれか…!)
この絶体絶命の状況で、ユイは初めて誰かを頼った。
けれど、いつも自分で自分を守ってきたユイには、誰を頼れば良いのかが分からなかった。
だからユイは、神に祈った。
親友と似た、心優しい神様に。
(また…いなくなる…)
(おとうさんも、クロも…ハルも…!)
(こんなの、もう…)
「もう…いやだ…」
ぐしゃっ。
迫り来る脅威に2人は恐怖して震え、ああ、自分たちはここで死ぬんだと思った。手を取り合って固く握り、体をこわばらせ、目をぎゅっと塞いで、来るべき衝撃に備えた。
…しかし、いつまで経っても体を貫く痛みは来ない。
「……っ………」
おそるおそるハルが目を開けると、そこには…腕を広げて2人を庇う、コトワリさまの姿があった。
その片手には、先程ハルが落とした赤い裁ちバサミを握っている。それを使って防ごうとしたのか、片腕は振り上げた姿勢のまま固まっていた。
「………え……?」
「グ、ァ…ッ……!!」
ぼた、ぼたと、血ではなく、赤黒いもやが肩のあたりから滴りおちる。鋭い針のようになった赤い糸の束の先端が、その小さな肩から覗いていた。
「なん、で、えっ、」
ハルは頭が真っ白になった。
理解、できない。したくない。
耳のなかがぼわっとなる。ピントが合わないカメラのように、視界がぼんやりしたり戻ったりする。
目の前に起こっていることが、まるで現実感がなく、ハルはそれを飲み込めないでいる。
なんでここにいるの?
なんでそんなに苦しそうな声を出しているの?
神様、なんじゃなかったの。なんでふるえてるの、そんなにいたそうなの、なんで、なんで…
また、守れなかった?
「…ア"……ッ…」
その爪先が、宙に浮く。
心臓のあるはずの場所を貫いた糸の束がゆっくり解け、そのままそれに手足を絡め取られ、空中に磔にされる。
弱っても神様。肩を貫通された程度では死なないようだが、糸が特別なものなのか、明らかに痛みを感じているようだ。カチカチと、小刻みに震えるハサミが金属音を発していた。
ハルはそれを、ただ茫然と見ていることしかできない。
「ガアッ!!グァアアッ!!グァゥヴヴ…!!」
威嚇するような声を出して、空中で身をよじり、足をジタバタさせている。しかし、それでも糸は解けない。有効打となりそうなハサミは真っ先に封じられてしまった。糸でぐるぐる巻きにされ、開けなくなっている。
「グゥヴ…!!」
ぶわ、と冷たい空気が広がり、肌が泡立つ。
赤い布がはためくのが頭越しに見えた。
あの廃電車の幽霊を助けた時と同じ…
しかし、すぐに冷気は止んでしまう。それと同時に、赤い糸が一瞬その輝きを増したように見えた。まるで栄養を抜き取っているかのようだ。
ジタバタ、ジタバタ。
糸が軋む音が聞こえる。陸に打ち上げられた魚のように、必死で暴れ狂う二つの足を、ハルは冷たくなった親友を抱えながらただ見ている。
その拳に、熱がこもっていく。真っ白になっていた頭が、少しずつ色を取り戻す。忘れていた息を取り戻し、恐怖に染まっていた目が、鈍い光を帯びる。
───バキャアッ!!
「ッ!!!」
体を繋ぐ糸がピンと張り、硬いものが折れるようなグロテスクな音が響く。
同時に、あれだけ暴れていた足が一瞬のけいれんののち、くたり、と力を失った。
その瞬間、ぶつん、と頭の中で音がして…
ハルの怒りは限界に達した。
「…ぁああああああああああっ!!!!!!」
ごうっと、体の内側から火柱が上がるようだった。それは悲鳴となってハルの口からせきを切ったように飛び出した。
力をなくした手から、するりとハサミが抜け落ちる。
硬い地面に突き刺さり、カシャンと音がした。
「いやだっ、いやだ、いやだ!!!」
ハルは荒々しくそれをかっさらい、宙に向かってめちゃめちゃに振り回しはじめる。
届くはずもないのに、何度もハサミを空中で開け閉めしては、地面に打ち付ける。
恐怖と怒りと悲しみが、ハルの心を支配していた。心臓を握りつぶされているかのような思いで、ただ衝動に任せて体を動かした。
「かえしてっ、かえせっ、かえせぇえええ!!」
「うわあああああああ!!!ああああああ!!」
あつい。
からだがあつい。
ないているのか、おこっているのか、もうわからない。
あたまがまっさらになる。
かえせ。
わたしのしんゆうをかえせ。
たいせつなひとをかえせ。
ぜんぶかえせ。
顔をぐしゃぐしゃにしながら、ハルは叫び、ハサミを振りつづけた。
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体が重い。
この感じには覚えがある。狭間にいたころ、自身の力の大部分を切り落としてしまったあの時と似ている。
ただ、今はその時の過程を遡るように、体に鈍い澱が溜まっていくのが分かった。
体の一方はすっきりとし、また他方は重くなる。
…ああ、これは、力だ。
あの時自分が縁を切った力。
自身を狂わせるもの。それと同時に、絶大な力を取り戻していくのが分かる。
悪趣味なものだ。
おそらく次に目を覚ました時には、自分は完全に力を取り戻している。
その代わり、完全に自我を失い、力を行使した代償を求めてあの二人を切り刻むだろう。
…なら、せめて最後に暴れてから死のう。
“手・足・頭のついたもの”ならここにもある。偶然か必然か、力を失った際にこの形となり、随分と縮んでしまった自身の手を見ながらそう考えた。
ありったけの力を奪ってやろう。
そして自我を無くす寸前、この身を対価にして“願い”を叶え、あいつに渾身の一撃を喰らわせる。
無論そんなことをすればこの身はもたない。だから…
お前も道連れだ。
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「はあ…はあ…はあ…っ!!」
「ハル、ごめんなさい、ハル…」
それは、まさに地獄絵図と呼ぶに相応しい様相だった。
月の光も届かない暗闇に、ぽっかり浮かぶたくさんの目玉。
人とも蜘蛛ともつかぬそれが、深い深い穴の上にに鎮座して、にたにたと笑う口を三つの人影に向けている。
ひとりは黒髪。ざんばらに切られた前髪がその顔を隠している。上半身は赤い糸で縛り付けられ、その体を宙に浮かされていた。
その奥には少女。青いリボンをつけ、真っ赤な裁ちバサミを手に、肩で息をしつつ巨大な蜘蛛の化け物を睨みつけている。
その少女を、背後から抱きしめるように、紙のように白い顔をしたもうひとりの少女が立っている。先の少女と揃いの赤いリボンを付けていた。
…そして皆、満身創痍。
疲労。衰弱。擦り傷、切り傷、打撲。赤やら青やらの模様を、半袖やスカートから露出する素肌に山ほどこしらえていた。
「おねがい、ハル、にげて。ハルだけでもにげて」
「っいやだ…!」
「わたし、わたしがよんだの。いやだって、もういやだっていったから、だから、きてくれっ、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「ユイ!」
嗚咽混じりの声が響く。
それには強い後悔と、自責の念が滲んでいた。
「ユイは、わるくない!ぜったいわるくないから!だから…みんなで、かえるんだ…!」
ハルはハサミを握り直して、なおも前方を睨み続ける。しかし、その目には既に絶望が蝕んでいた。
(どうしよう。どうすればいい、どうすれば…!)
必死で思考を巡らすが、考えれば考えるほど谷底に落ちていく。恐怖と怒りと絶望と焦りが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
(やっぱり…もう…だめなのかな…)
そんな思考が、頭を掠めた。その時だった。
ずぐっ。
「へ?」
突然だった。
目の前で浮かされる体が、空気を送り込まれた風船のように膨らんだ。
そして中が空気で満たされ、破裂する前に…
…体の内側から生じた斬撃が、その身体をバラバラに切り刻んだ。
「…は………」
その体が、糸の呪縛から解放される。
ドチャッ!と、嫌な音を立てて、バラバラになった手足が地面に転がった。
それをハルは見ていた。薄皮一枚繋がった断面から、肉とも骨とも血ともつかない「何か」が噴き出るのをまざまざと見た。
悲しいより怖いより、理解が追いつかなくて、ただ見ていることしかできなかった。
コォオオオオ…
その場が静寂に支配される。
誰も、動かなかった。動けなかった。
…巨大な手の隙間に、幾つも生えた赤い目玉。
その後ろから、それとは別の「モノ」が降りてきていることを、その場の全員が感じ取っていた。
じょきんっ。
この夜の中で、いくつもいくつも聞いてきた音。
それと同時に、目の前をいくつもの赤い線が滑っていく。
大きな蜘蛛が支えを失い、暗くて深い穴の底へ真っ逆さまに落ちていく。
…それと一緒に、もう一つの影も滑り落ちていくのも見えていた。
黒いモヤでできた体。なおも暴れる蜘蛛神を、決して逃すまいとその体にしがみつく何本もの「左腕」。
…ハルたちはそれを、ただ眺めていることしかできなかった。
ザク、ザク、と暗い夜道に足音が響く。
洞窟の出口から、アスファルトの道をつなぐ山道。
辺りに響くのは虫の声と葉が擦れる音だけだった。そこはもうお化けが蔓延る夜の道ではなく、いつもの小道に戻りはじめている。
満点の星空と月明かりの下で、ユイとハルが、互いの肩を支えながら歩いていた。
その背中に、人ともお化けともつかないものを背負って。
「ヒューッ、ヒュー………」
耳元でか細い音がしつづけている。
あの後、なんとかバラバラになってしまったコトワリさまだったものをかき集めて、背負って、家まで帰る道をハルとユイは歩いていた。
ハルもユイも疲れ果て、もう口を開く元気すらなく、辺りは静寂が支配していた。
だから、どんどんか細くなる息遣いも、薄く弱くなっていく背中の気配もはっきりと感じ取っていた。
…どくん、どくん
ユイは、「似ている」と思った。
ぼんやりとした頭の中で。わたしに置いていかれないように、思い切り走って息を切らしたハルの息づかいに似ていると。
…どくん、どくん
ハルを追いかけて入った山の中で、あれの左目に噛みつき、叩きつけられて死んだクロの最後の一声に似ていると。
「ヒュー………」
断面が見え、薄皮一枚で引きずられ、長くなってしまった手足。
そこからどんどんこぼれ落ちる「何か」。
あの体は仮のものだ。血など通っているはずもない。なのに、ユイにはそれが血まみれで立っているように見えた。
…どくん、どくん
死ぬ。
このままじゃ、死んじゃう。
神様も死ぬのだろうか。
擦り傷とあざだらけの体で、ユイはぼんやりとそんなことを思った。