男は青ざめた表情で膝をつき、呆然と灰色の怪物を見つめていた。間もなく怪物が男の目前まで詰め寄って三本爪の前肢を振り下ろすと、男は物言わぬ肉塊となった。血肉が飛び散って冷えたアスファルトに降り注ぎ、硬質な路面を赤く染め上げた。
怪物は目の前の死骸に興味を失ったようで、尖った耳を揺らして頭をゆっくりと左右に振りながら、重々しい足取りで歩き始めた。瓦礫の破片が前肢で踏み砕かれ乾いた音を立てた。四足歩行で尖った耳と長い尾があり犬や狼に似ていたが、目はぎょろりと大きく、細い尾は半ばで二股に分かれていた。
〈
魔獣が徘徊する市街地は死臭に満ちていた。地面は波打つように変形し、アスファルトは割れ、瓦礫が無造作に散乱していた。建物の骨組みが剥き出しになり壁が崩れ落ちて山を成している。燃える西日が灰に覆われた街の輪郭を赤く色付けていた。
ひとりの若い男兵士が、震え、立ち尽くしていた。男の顔は汗と汚れにまみれて恐怖と疲労で歪んでいた。
男は名を
魔獣を前にして体がすくむのはほとんどの兵士がそうだ。冬矢もそうだった。フラッシュバック。魔獣を前にすると、自分の目の前で大事な人を魔獣に惨殺された時の光景が、脳裏に焼き付いた悪夢が嫌でも呼び起こされた。その上、つい数時間までは共に笑い合っていた仲間が次々と無残な死体に変わっていくのを目の当たりにしては、平常心など保てるはずもなかった。
冬矢がこの場から逃げ出したいと思った回数はもはや数え切れないほどだった。それでも彼がこの場に留まったのは、忠誠心や、まして自己犠牲の心から来るような崇高なものではなかった。つい先刻、戦いを前にして逃げ出した兵士が、上官に背を撃たれて倒れたばかりだった。敵前逃亡はその場で銃殺されても文句を言えない大罪である。命令違反で背中を撃たれるくらいなら、魔獣に殺される方が余程ましというだけのことだった。
「撃てーっ! 撃てーっ!!」
指揮官の怒号に突き動かされて、兵士たちは反射的に引き金を引いた。銃弾のいくつかは魔獣に命中したが、身体を貫かれても魔獣は動きを止めることなく手近な兵士ににじり寄る。
「く、来るな! こっちに来るんじゃない!」
兵士が絶叫とともに銃を魔獣めがけて投げ捨てると、銃は軽い音を立てて魔獣にぶつかり地面に落ちた。手ぶらになった兵士の元に三体の魔獣がハイエナのように押し寄せて、絶叫は途切れた。
魔獣の群れは兵士たちを数で上回っていた。それらは目をぎらつかせて次の獲物を見定め、強靱な四肢で地を踏み割って猛然と走る。兵士たちは血の気の引いた表情でそれでもなお射撃を繰り返した。
無数の銃弾を浴びせられていた魔獣が、とどめの銃弾に頭を撃ち抜かれて地面に崩れ落ちた。魔獣の死体は残らない。はじめに輪郭が崩れて塵となりはじめ、崩壊は全身に及んで風に吹かれて霧散する。そうしてあとには黒色の鉱石ひとつだけが残される。
ようやく魔獣を仕留めたというのに兵士たちの表情に喜びはなかった。理解していたのだ。この小さな勝利が戦況にはまったく影響を及ぼさないという現実を。眼前には両手両足の指では足りないほどの数の魔獣が蠢いていた。魔獣は十や二十の兵士をたやすく引き裂き、ときには百を殺す。そのような存在が兵士たちよりも大勢で押し寄せてきていた。
兵士たちの目には深い疲労の色が滲んでいた。疲労は思考を奪い、恐怖は体を硬直させ、絶望は膝をつかせる。片や魔獣は疲れずおそれを知らず消滅するその直前まで活力的に行動し、兵士を次々と死体に変えていく。戦線は呆気なく崩壊した。
「ば、ばかもん隊列を崩すな! 戻れっ! 貴様ら、戻れー!!」と叫ぶ指揮官の命令は遥か遠く音と喧騒の彼方にあった。冬矢もほかの兵士たちに混じって決死の形相で射撃を続ける。指揮官は魔獣に頭をかぶりつかれて、首から上がなくなった死体が仰向けに倒れた。
指揮官の頭部だった肉塊を口に咥えたまま、その魔獣はゆっくりと首を動かして周囲を見回していたかと思えば、視線が冬矢とぶつかった。魔獣はおもむろに肉塊を吐き捨て、低く唸りを上げて次の瞬間には疾駆した。冬矢はその場に縫い付けられたように動けなかった。
(あっ、死んだ)
冬矢がそう思った矢先、桜色の閃条が空気を切り裂いて飛来した。轟音。閃条は魔獣に命中し、頭を突き抜けた。頭を貫かれた魔獣は口腔から金切り音を発しながら黒い塵となって消滅し、やがてひと欠片の黒色の鉱石が地に落ちた。さらに二本、桜色の閃条が連続して大気を切り裂く。それぞれ魔獣に命中し、その頭部を撃ち抜いた。
「ごめん。遅くなった」と声をかけながら、冬矢の後方から、豊かなダークブラウンのポニーテールを揺らしてひとりの若い女が歩み出た。
女の名は
魔獣。異形の獣。恐怖の化身。人類の天敵。それを穿つ人間がいる。
〈
「隠れて。あとは、私がやるから」と言って茉希奈は優しい手つきで冬矢の肩に触り、少しの力を込めて自身の背後へと導いた。冬矢は瞳を揺らして言われるままによろよろと距離を取った。冬矢を除いて、ほかに兵士はひとりとして残っていなかった。
茉希奈は一等星を宿した蒼天色の瞳を爛々と魔獣に向けて、警戒しつつ冬矢が下がるのを待っていた。魔獣の群れは様子を伺っているのか、茉希奈から一定の距離を維持しつつ周囲をうろうろと蠢いている。
「さて、キミたちはいったいどうやってここに? 入り込んだのかな? なんて聞いても、答えてくれる訳ないよね」と茉希奈がぼやきながら首を左に傾けた。すると長いポニーテールに隠されていたうなじに刻まれた
「
茉希奈の言葉に呼応して聖痕から桜色の粒子が波打ち放たれる。次の瞬間には茉希奈は全身に鎧のような桜色の装甲を纏っていた。流線型の体型。フルフェイスの逆三つ葉型の目が青白く点った。
茉希奈が鉄の杖の先端を敵に向けて構えると、その先端から桜色のレーザーが放たれた。レーザーは空間を切り裂いて瞬刻の間に魔獣の頭を撃ち抜いて風穴を開ける。茉希奈が無造作に行った砲撃は、容易く魔獣を葬り去った。
(まあ、細かい事はあとでじっくり調べてもらうとして……)
茉希奈は慎重に狙いを定めて、さらにレーザーを放った。また一体の魔獣が塵になった。
「とりあえず、キミたちには消えてもらおうかな」と茉希奈は言いながら続けざまにレーザーを放ち、自身に近い位置の魔獣から仕留めていった。が、その眼前にはまだ数十体の魔獣がいる。だけでなく、増え続けていた。周辺の兵士を殺し尽くして、魔獣らはこの場に集結しつつあった。「わあ大群。ますます気になっちゃうね。出処が」
それから茉希奈は再び鉄の杖を魔獣に向けてレーザーを放つと、その直線上にいた魔獣が貫かれて塵となり消滅した。それを繰り返した。次、また次と、片端から魔獣を撃ち抜いていった。
魔獣の動きは単調なもので、歴戦の聖痕所有者として場数を踏んできた茉希奈にとっては、そのような敵に対してすべての攻撃を当てるというのは容易なことだった。
しかし、レーザーが放たれるたびに茉希奈の疲労の色は増していった。五十ほど殺した頃から徐々に息が上がりはじめ、百に届く頃にはフルフェイスの奥で汗が頬を伝って流れ落ちた。それでも歯を食い縛って杖を振るう茉希奈の瞳は燦然と、一匹たりとも魔獣を見逃すことはなかった。
結局、茉希奈のレーザーは押し寄せる数多の魔獣をことごとく討った。何度かあわやという場面はあったが、魔獣の爪が彼女に触れることはなく、魔獣の群れは狩り尽くされた。ふう、と茉希奈が息を吐いて気を緩めたときのことだった。
耳をつんざく音。茉希奈が息を飲んで振り返って見上げると、高い建造物の廃墟の上から、巨大な魔獣が降ってきた。茉希奈はこれまで感じたことのない圧をその魔獣から鋭敏に感じ取って怖気立った。音は魔獣の咆哮だった。
他の個体と比べて体長が二倍以上もある個体。色も普通の個体とは違って緋色の長い体毛をしており、額には長い一本の角が生えていた。魔獣が息を吐く度に口の端から青白い炎が漏れ出していた。
「……わあ、びっくり」
茉希奈はひと目見て確信した。この角付きの緋色の魔獣こそが群れのリーダーに違いない。茉希奈は息遣いも荒く重い腕を持ち上げて杖を構え、その直線上に魔獣が重なった瞬間にレーザーを放った。しかし魔獣が飛び退いてその場を離れると、桜色の閃条は虚しく空を切った。茉希奈は続けざまにレーザーを放った。やはり魔獣は即座に反応して飛び退きそれを避けた。
そうして軽やかに着地した魔獣が大地を踏み鳴らすように四肢を構えると、口の両端から漏れ出す青白い炎の勢いが増した。ひと呼吸ののち、大きく開かれた魔獣の口内から青白い火炎が堰を切ったように噴き出し、それが茉希奈を襲った。轟音が耳を裂く。炎は渦を巻いて大地を溶かし茉希奈に迫った。
茉希奈は咄嗟に身をひねって、全身の筋肉を総動員して右横へと飛び退いた。空気が焼ける音が耳を突く。全身に熱を感じる。
「ぐっ、ううっ……!?」
辛うじて直撃は免れた茉希奈だったが、避けきれず左足のつま先が灼かれた。熱は鎧を貫通して皮膚を焼き、焦げた肉の匂いが立ち上る。激しい痛みを感じて視界が真っ白になり、茉希奈は着地に失敗してごろごろと地面を転がった。
魔獣がばくんと口を閉じると青白い炎はその口内におさまる。炎の残滓が空気を巻き込んで衝撃波のごとく押し広げ、砂塵が吹き飛ばされ舞い上がった。
震える息遣いの中、杖を支えに起き上がる茉希奈めがけて魔獣が突貫する。茉希奈は膝を付いたまま魔獣に向けてレーザーを放った。魔獣は斜め前方に跳んで避ける。旋回しつつ、なおも茉希奈に迫る。茉希奈の口から声にならない声が漏れた。
崩れた建物の残骸に身を潜めて、茉希奈の戦う姿を見届けようとするひとりの兵士がいた。冬矢だ。
冬矢は唇を噛みしめた。右手の震えが止まらず、左手で右腕を押さえ込んだ。聖痕所有者としての力を持つ茉希奈とは違って、冬矢は特別な能力を持たないただの人間にすぎない。人間では太刀打ちできない絶望を茉希奈という希望が打ち砕く姿を目に焼き付けようと、冬矢はまばたきも忘れて戦いに見入っていた。
茉希奈と緋色の魔獣との戦いは間もなく決着の時を迎えようとしていた。現実的には絶望の勝利という結果が目前に迫っていた。魔獣が額の角を突き出して茉希奈の砲撃を掻い潜りながら猛スピードで突っ込むと、茉希奈は斜め後方に飛び退こうと試みたが、火傷を負う足が痙攣して行動が遅れた。角は茉希奈の脇腹に当たって装甲を破壊。茉希奈はらせん状に回転して吹き飛び、壊れた装甲から鮮血を散らしながら百メートルほど飛んで、崩れかけのコンクリートの壁に突っ込んで瓦礫に沈んだ。
魔獣はその場で数度身震いしたあと、背筋と四肢をピンと伸ばして立ち、茉希奈の埋もれた瓦礫の山を見て、大きな口をぐっと閉じた。急速に周囲の温度が上がった。冬矢の肌がちりちりと音を立てる。魔獣が体の重心を僅かにうしろに下げる。長い体毛が逆立ち、口の端から青白い炎がごうごうと零れ出す。
冬矢はこの次に起こり得る景色を想像して、反射的に目を固く瞑った。結末を見届けるのを自身の身体が拒否しているということに気付いた瞬間、それを否定するように頭を振った。
「く、そがあああっ!!」
我慢ならなかった。冬矢は物陰から飛び出して魔獣の前に姿を晒し、枯れた声を張り上げてライフルの引き金を引いた。
狙いも何もない射撃だったが、幸い弾丸は命中した。並の魔獣に対しては一応は効果のあった弾だが、魔獣の表皮を貫くことはなかった。最後の一発だった。手に力が入らない。右手の震えが酷くなって、ライフルを持っていられなかった。
魔獣の気を引くことには成功し、魔獣は茉希奈への追撃をやめて冬矢を見た。冬矢は大きく荒い呼吸を繰り返した。迫り寄る濃密な死の気配に心臓が痺れる感覚を覚えた。魔獣が迫ってくるのを冬矢はうつろに眺めるばかりだった。
刹那。冬矢の脳裏にこれまで冬矢が歩んできた人生の情景や記憶が次々と現れては消え駆け抜けていった。そのほとんどは魔獣への憎しみの日々だった。両親を友を奪った魔獣を許せなかった。守られるだけの存在は嫌だった。
記憶の濁流につま先まで飲みこまれる寸前に、冬矢は無我夢中で咆哮した。冬矢の右手の甲が燦然と煌めいた。右手を中心として月白の波が閃き脈打ち、冬矢を白で包み込んだ。
真っ白な世界の中で冬矢は体を震わせた。自分の体を両腕で抱え込んで全身を焦がす灼熱の白に身を委ね、身体の奥底から無限に溢れ出る鳴動に耳を傾けた。全てが白で満たされていった。
赫々たる白がさんざん周囲を照らし尽くしてやがて収束すると、残照の中から白磁色の装甲に身を包んだひとりの戦士が現れた。鎧は斜陽を反射して鈍く煌めいていた。戦士の右手の手甲には紋様が刻まれており、その手には白刃の大剣が握られていた。全身を白磁色の装甲に包まれて、冬矢は、得も言われぬ高揚感に身震いをした。
(なんだ、これは? この力は……)
緋色の魔獣が飛びかかる。冬矢は咄嗟に腕を動かした。身の丈ほどもある巨大な剣は大きさに見合わぬ軽さで、自身と魔獣との間にかろうじて大剣の刃を滑り込ませる。
魔獣が勢いよく前足を振り下ろすとそれは大剣の白刃に触れ、前足は半ばから先が千切れてクルクルと宙を舞って飛んでいった。黒い霧が血のように吹き出した。魔獣は叫声を吐き出しながら不格好に暴れつつ後ずさっていった。
(まさか、今のは、切ったのか、俺が? あの化け物を?)
冬矢は白刃を凝視した。
「これが、聖痕の力、なのか」
冬矢は聖痕の刻まれた右手の甲に視線を移した。手には魔獣を切り裂いた感触がまだ残っていた。改めて魔獣を見据えて剣を構える。いつしか震えは止まっていた。代わりに全能感が五体に充ち満ちているのを感じて、吠えた。
「殺してやるぞッ!! この、クソ犬ッ!!」
冬矢は歯を剥き、走り出すつもりで地面を踏み砕いて、魔獣に向かって吹き飛んだ。まるで制御が効かなかった。自身の肉体が丸ごと別の何かに取り替えられたかのような感覚の中、冬矢は全身を暴れ回る力に振り回されながらも、とにかく剣だけはしっかりと握って振り抜いた。両断。魔獣の胴体が真っ二つに分断された。
冬矢は土煙を立てながらごろごろと地面を転がって、やがて止まった。這いずりながら頭を上げて、なんとしてもと魔獣の姿を視界に入れた。そこには塵となって消滅していく魔獣の姿があった。魔獣の消えたあとには拳大の黒色の鉱石が残される。
冬矢は歯を食いしばってなんとか立ち上がると、よろよろと鉱石の元に近付いてそれを見下ろした。ぼうっと鉱石を見続けていた冬矢だったが、ふいに周囲が気になって見回すと、辺りの静寂さがやけに強く感じられた。街並みの残骸を見渡したあと、天を仰いで大きく息を吐いた。それから冬矢はしばらくの間、黄昏の余映に晒されて佇んだ。
「これが、この力があれば、クソ魔獣どもを……」
冬矢は束の間の全能感を味わったが、緊張の糸が解けるとそれまでの疲労が押し寄せてきて、膝を折った。その時ふと背後から気配のようなものを感じて振り返った。ちょうど夕日が完全に沈む瞬間だった。今にも崩れ落ちそうなビルの屋上に人影を見た、ような気がした。それが無性に気になって両目にぐっと力を入れたが、もう何も見えなかった。頭がぐらぐらと揺れて、もやがかかったように意識が霞んだ。
(ダメだ、眠い……もう良いだろう? 眠っても)
冬矢は全身を蝕む疲れに身を委ねてその場に倒れ込んだ。思考は混濁し、そのまま深く意識は沈んでいった。