叛逆のスティグマ   作:あや瀨

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一話 逢魔ヶ刻

 男は青ざめた表情で膝をつき、呆然と灰色の怪物を見つめていた。間もなく怪物が男の目前まで詰め寄って三本爪の前肢を振り下ろすと、男は物言わぬ肉塊となった。血肉が飛び散って冷えたアスファルトに降り注ぎ、硬質な路面を赤く染め上げた。

 

 怪物は目の前の死骸から視線を外して、尖った耳を揺らして頭をゆっくりと左右に振りながら、重々しい足取りで歩き始めた。瓦礫の破片が前肢で踏み砕かれ乾いた音を立てた。四足歩行で尖った耳と長い尾があり犬や狼に似ていたが、目はぎょろりと大きく、細い尾は半ばで二股に分かれていた。

 

 〈魔獣(まじゅう)〉。それは人類の天敵。海岸線から湧現し、その身に蓄えられたエネルギーを使い果たすまで破壊と殺戮の限りを尽くし、食事もせず、生殖もせず、死ぬと黒い塵となって霧散し、あとにはひと欠片の黒色の鉱石だけを残して消滅する。

 

 魔獣が徘徊する市街地は死臭に満ちていた。地面は波打つように変形し、アスファルトは割れ、瓦礫が無造作に散乱していた。建物の骨組みが剥き出しになり壁が崩れ落ちて山を成していた。燃える西日が灰に覆われた街の輪郭を赤く色付けていた。

 

 ひとりの若い男兵士が、震え、立ち尽くしていた。男の顔は汗と汚れにまみれて恐怖と疲労で歪んでいた。

 

 男は名を真銀(ましろ)冬矢(とうや)という。日焼けした肌に黒く太い眉。やや高い背丈に引き締まった体格。そろいの軍服の上に着た厚手のボディアーマー。顎紐で固定された鉄帽。手にはボルトアクションライフルが握られていた。銃口が定まらず、細かく揺れていた。

 

 ほとんどの兵士は魔獣を前にすると体がすくむ。冬矢もそうだった。魔獣を前にすると、目の前で大事な人を魔獣に惨殺された瞬間が、脳裏に焼き付いた悪夢が、嫌でも呼び起こされた。その上、つい数時間まで共に笑い合っていた仲間が次々と無残な死体に変わっていくのを目の当たりにしては、平常心を保てるはずもなかった。

 

 冬矢がこの場から逃げ出したいと思った回数はもはや数え切れないほどだった。それでも彼がこの場に留まったのは、忠誠心や、自己犠牲の心から来るような崇高なものではなかった。つい先刻、戦いを前にして逃げ出した兵士が、上官に背を撃たれて倒れたばかりだった。ひとりが逃げ出せば連鎖して他の兵士の逃亡に繋がり、それが波及して戦線が崩壊する。ゆえに敵前逃亡は大罪であって、即時銃殺が基本だった。命令違反で背中を撃たれるくらいなら、魔獣に殺される方が余程ましだった。

 

「撃てーっ! 撃てーっ!!」

 

 指揮官の怒号に突き動かされて、兵士らは反射的に引き金を引いた。銃弾のいくつかは魔獣に命中したが、たとえ身体を貫かれたとしても魔獣が動きを止めることない。

 

 一体の魔獣が手近な兵士ににじり寄った。

 

「く、来るな! こっちに来るんじゃない!」と兵士が絶叫して、手に持っていた銃を魔獣めがけて投げ捨てた。銃は魔獣にぶつかって地面に落ちた。魔獣が兵士に覆いかぶさった。さらに二体の魔獣が押し寄せて、絶叫は途切れた。

 

 魔獣の群れは兵士らを数で上回っていた。それらは目をぎらつかせて、強靱な四肢で地を踏み割って猛然と走った。兵士らは血の気の引いた表情で、それでもなお射撃を繰り返した。

 

 無数の銃弾を浴びて一体の魔獣が崩れ落ち、沈黙した。魔獣の死体は残らない。はじめに輪郭が崩れ、塵となっていく。身体の崩壊は全身に及び、風に吹かれて霧散する。そうして、あとには黒色の鉱石ひとつだけが残された。

 

 兵士らの眼前にはなおも無数の魔獣が蠢いていた。魔獣は一が百を殺す。そのような存在が大勢押し寄せてきているのだから、一体を仕留めたところで喜びはなかった。小さな勝利が戦場にもたらす影響はほとんどなかった。

 

 兵士らの目には深い疲労の色が滲んでいた。疲労が思考を澱ませ、恐怖が体を硬直させ、絶望が膝をつかせた。片や魔獣は、疲れず、おそれを知らず、消滅するその寸前まで無機質に人を殺す。開戦から全滅までさほどの時間はかからなかった。

 

「ば、ばかもん隊列を崩すな! 戻れっ! 貴様ら、戻れー!!」

 

 指揮官の命令が、喧騒の彼方に通り過ぎた。魔獣が指揮官の頭にかぶりついた。首から上がなくなった死体が仰向けに倒れた。冬矢は、呆然と引き金を引き続けた。

 

 魔獣が肉塊を口に咥えたまま、ゆっくりと周囲を見回した。魔獣の視線が冬矢とぶつかった。魔獣は肉塊を吐き捨て、低く唸りを上げて、次の瞬間には疾駆した。冬矢はその場で立ち尽くしていた。

 

(あ、死ぬ)と冬矢が思った矢先、桜色の閃条が空気を切り裂いて飛来した。轟音。閃条は魔獣に命中し、頭を突き抜けた。魔獣は口腔から金切り音を発し、黒い塵となって消滅した。ひと欠片の黒色の鉱石だけが残った。

 

 さらに二本、桜色の閃条が連続して大気を切り裂いた。それぞれ魔獣に命中し、頭部を撃ち抜いた。

 

「ごめん。遅くなった」と女の声。冬矢の後方から、豊かなダークブラウンのポニーテールを揺らして、ひとりの若い女が歩み出た。

 

 女の名は朝桜(あざくら)茉希奈(まきな)。白い軍制服姿に、手には無骨な鉄の杖。華奢な体格ながらも、血色は良い。茉希奈の姿に、冬矢の目は釘付けになった。

 

 魔獣。恐怖の化身。人類の天敵。一騎当千の獣。それを、倒しうる人間が存在する。

 

 〈聖痕所有者(ホルダー)〉。その身に聖痕(スティグマ)と呼ばれるアザを宿し、異能の力をもって魔獣を制する者。茉希奈という女は、聖痕所有者のひとりだった。

 

 

 

「隠れてて。あとは、私がやるから」と言って、茉希奈は優しい手つきで冬矢の肩に触り、少しの力を込めて歩かせた。冬矢はおぼつかない足取りで茉希奈から距離を取った。

 

 茉希奈は冬矢が下がるのを見届けて、一等星を宿した蒼天色の瞳を爛々と魔獣に向けた。

 

「さて、キミたちはいったいどうやってここに? 入り込んだのかな? なんて聞いても、答えてくれる訳ないよね」、と茉希奈は問いかけて、反応が無いのを確認してから、首を左に傾けた。長いポニーテールに隠されていたうなじが露わになると、そこには聖痕(スティグマ)があった。

 

装纏身(そうてんしん)!」

 

 茉希奈の言葉に呼応するかのように、聖痕から桜色の粒子が波打ち放たれた。次の瞬間には、茉希奈は全身に桜色の装甲鎧を纏っていた。流線型の体型。フルフェイスの逆三つ葉型の目が青白く点った。

 

 魔獣の群れが茉希奈を見ながらうろうろと蠢き、じりじりと距離を詰めた。茉希奈が鉄の杖の先端を敵に向けて構えると、その先端から桜色のレーザーが放たれた。レーザーは空間を切り裂いて魔獣の頭を撃ち抜き、風穴を開けた。

 

 茉希奈は目を細め、すぐに杖を構え直し、再びレーザーを放った。また一体の魔獣が塵になった。

 

「とりあえず、キミたちには消えてもらおうかな」と茉希奈は言い放って、続けざまにレーザーを撃った。自身に近い位置の魔獣から仕留めていった。

 

 魔獣の数は増える一方だった。周辺の兵士を殺し尽くして、魔獣らはこの場に集結しつつあった。茉希奈は目を細めて、「わあ大群。ますます気になっちゃうね。出処が……」と呟いた。

 

 茉希奈は鉄の杖をあらぬ方向へ向けてレーザーを放つと、放出し続けたまま横に薙ぎ払った。その軌道上にあったすべての魔獣が塵となって消滅した。茉希奈はその薙ぎ払いを繰り返し行い、片端から魔獣を消滅させていった。

 

 レーザーを放つたびに、茉希奈は疲労の色を増していった。五十を殺した頃から徐々に息が上がりはじめ、百に届く頃には、フルフェイスの奥で汗が頬を伝って流れ落ちた。茉希奈は歯を食い縛って杖を振るった。茉希奈の瞳は燦然と視線は絶えず魔獣を追い、次々と頭部を撃ち抜いてその数を減らしていった。

 

 結局、茉希奈のレーザーは押し寄せる数多の魔獣をことごとく討った。その牙を届かせることなく、魔獣の群れは狩り尽くされた。

 

 ふう、と茉希奈が息を吐いて、気を緩めたときのことだった。耳をつんざく音。

 

  高い建造物の廃墟の上から、巨躯の魔獣が降ってきた。茉希奈の肩がぴくりと震えた。周囲の温度が急激に上がった。茉希奈は思わず息を呑み、全身をこわばらせた。音は魔獣の咆哮だった。

 

 その魔獣は他と比べて二倍以上はある巨体だった。色は緋色で体毛が長く、額に真っ直ぐ一本の角が生えていた。

 

 魔獣が息を吐くたびに、その口の端から青白い炎が漏れ出していた。

 

「……わあ、びっくり」

 

 茉希奈は顔をしかめながら笑った。その視線は角付きの緋色の魔獣から外れない。群れの中心に現れたその異形は、他の魔獣とは明らかに格が違っていた。

 

 茉希奈は深く呼吸をして、杖を構えた。瞬間、レーザーを放った。魔獣は飛び退き、桜色の閃条は空を切った。茉希奈は続けざまにレーザーを放った。魔獣は同じように飛び退いてそれを躱した。

 

 魔獣が大地を踏み鳴らすように四肢を構えた。その口の両端から漏れ出す青白い炎の勢いが増した。ひと呼吸、魔獣が大きく口を開くと同時、口内から青白い火炎が堰を切ったように噴き出した。轟音が耳を裂いた。炎は渦を巻いて猛然と茉希奈に迫った。

 

 茉希奈は咄嗟にその場から飛び退いた。

 

「ぐっ、ううっ……!?」

 

 魔獣の火は茉希奈の左のつま先を引っ掛けるように掠めた。熱が鎧を通して皮膚を焼き、焦げた肉の匂いが立ち上った。茉希奈は苦悶の表情を浮かべ、飛び退いた勢いのまま地面に落ちて地面を転がった。

 

 魔獣は口を閉じて炎の奔流を根元から断ち切った。炎の残滓が空気を押し広げ、砂塵を舞い上がらせた。炎は霧散した。

 

 真希奈は全身を震わせながら、杖を支えに起き上がろうとした。そこへ魔獣が突貫した。茉希奈が片膝を付いてレーザーを放つと、魔獣は斜め前方に跳んで避け、そのまま旋回して、さらに茉希奈に迫った。茉希奈の口から声にならない声が漏れた。

 

 魔獣が額の角を突き出して、茉希奈の砲撃を掻い潜りながら猛スピードで突っ込んだ。茉希奈は立ち上がろうとして、火傷を負った左足が痙攣し、崩れ落ちた。魔獣が接触した。魔獣は角で茉希奈を絡め取るように突き上げた。茉希奈はらせん状に回転して吹き飛ばされ、石壁に突っ込んでそれを破壊し、瓦礫の山に沈んだ。

 

 

 

 崩れた建物の残骸に身を潜めて、茉希奈の戦う姿を見届けようとするひとりの兵士がいた。冬矢だ。

 

 魔獣が身震いをして、背筋と四肢をピンと伸ばして立ち、ぐっと口を閉じた。急速に周囲の温度が上がった。冬矢の肌がちりちりと音を立てた。魔獣が体の重心を僅かにうしろに下げた。長い体毛が逆立ち、口の端から青白い炎がごうごうと零れ出した。魔獣の視線は茉希奈が埋もれた瓦礫の山を捉えていた。

 

 冬矢は唇を噛みしめた。右手の震えが止まらず、左手で右腕を押さえ込んだ。聖痕所有者としての力を持つ茉希奈とは違って、冬矢は特別な能力を持たないただの人間にすぎなかった。

 

 このあと訪れる結末が脳裏にありありと浮かんで、冬矢は反射的に目を固く瞑った。直後に、それを否定するように頭を振った。

 

「く、そがあああっ!!」

 

 冬矢にはただ見守ることしかできない自分が我慢ならなかった。彼は物陰から飛び出して魔獣の前に姿を晒し、枯れた声を張り上げてライフルの引き金を引いた。

 

 狙いも何もない射撃だったが、弾丸は命中した。並の魔獣に対しては一応の効果を示していた弾も、緋色の魔獣の表皮を貫くことはなかった。最後の一発だった。手に力が入らなかった。右手の震えが酷くなって、冬矢はライフルを取り落とした。

 

 魔獣は茉希奈から視線を外し、冬矢へと向き直った。冬矢は大きく荒い呼吸を繰り返した。迫り寄る濃密な死の気配に心臓が痺れる感覚を覚えた。冬矢は身動きひとつせず、自身に迫る魔獣を見つめていた。

 

 刹那、冬矢の脳裏を、これまでの人生の断片が奔流のように駆け抜けた。そのほとんどは魔獣への憎しみの日々だった。両親を友を奪った魔獣を許せなかった。守られるだけの存在は嫌だった。

 

 記憶の濁流につま先まで飲みこまれる寸前に、冬矢は無我夢中で咆哮した。冬矢の右手の甲が燦然と煌めいた。右手を中心として月白の波が閃き脈打ち、冬矢を白で包み込んだ。

 

 真っ白な世界の中で冬矢は体を震わせた。自分の体を両腕で抱え込んで全身を焦がす灼熱の白に身を委ね、身体の奥底から無限に溢れ出る鳴動に耳を傾けた。全てが白で満たされていった。

 

 赫々たる白がさんざん周囲を照らし尽くしてやがて収束すると、残照の中から白磁色の装甲に身を包んだひとりの戦士が現れた。鎧は斜陽を反射して鈍く煌めいていた。戦士の右手の手甲には紋様が刻まれており、その手には白刃の大剣が握られていた。全身を白磁色の装甲に包まれて、冬矢は身震いをした。

 

(なんだ、これは? この力は……)

 

 冬矢は頭を振って自らの全身に視線を巡らせた。

 

 緋色の魔獣が冬矢に飛びかかった。冬矢は咄嗟に腕を動かした。身の丈ほどもある巨大な剣は大きさに見合わぬ軽さで、大剣の刃はするりと滑り込んだ。勢いよく振り下ろされた魔獣の前足が大剣の白刃に触れて千切れ飛んだ。それはクルクルと宙を舞い、切断面から黒い霧が血のように吹き出した。魔獣は叫声を吐き出しながら不格好に暴れつつ後ずさった。

 

 冬矢は白刃と魔獣を交互に見た。それから冬矢は、聖痕の刻まれた右手の甲に視線を移した。冬矢の手には魔獣を切り裂いた感触がまだ残っていた。

 

 冬矢は一瞬瞠目し、改めて魔獣を見据え、剣を構えた。大きく息を吸って、同じように大きく息を吐いた。いつしか震えは止まっていた。冬矢はぐっと重心を下げて、全身に力を漲らせた。

 

「殺してやるぞッ!! この、クソ犬ッ!!」

 

 冬矢は歯を剥き、前傾姿勢で地面を蹴った。地面が踏み砕かれ爆発して、冬矢は魔獣に向かって吹き飛んだ。

 

「!?」

 

 砲弾のような勢いで体を撃ち出され、冬矢は目を見開いた。高速で流れ去っていく風景に飲み込まれながら、剣ごと後ろに引っ張られて引き千切られそうな両腕に、しっかりと力を込めた。すれ違いざま、剣を振り抜いた。両断。魔獣の胴体が真っ二つに分断された。

 

 冬矢は土煙を立てながらごろごろと地面を転がって、やがて止まった。這いずりながら頭を上げて、なんとしてもと魔獣の姿を視界に入れた。そこには塵となって消滅していく魔獣の姿があった。魔獣の消えたあとには拳大の黒色の鉱石が残された。

 

 冬矢は歯を食いしばってなんとか立ち上がると、よろよろと鉱石の元に近付いてそれを見下ろした。ぼうっと鉱石を見続けていた冬矢だったが、ふいに周囲が気になって見回すと、辺りの静寂さがやけに強く感じられた。街並みの残骸を見渡したあと、天を仰いで大きく息を吐いた。それから冬矢はしばらくの間、黄昏の余映に晒されて佇んだ。

 

「これが、この力があれば、クソ魔獣どもを……」

 

 冬矢は呆然と剣を見つめた。荒い呼吸を繰り返して、やがて緊張の糸が解けると、それまでの疲労が押し寄せてきて、冬矢は膝を折った。

 

 ふいに冬矢が振り返った。ちょうど夕日が完全に沈む瞬間だった。冬矢は今にも崩れ落ちそうなビルの屋上に人影を見た、ような気がした。冬矢は両目にぐっと力を入れたが、鮮やかな夕焼けが全面広がるばかりだった。

 

(ダメだ、眠い……もう良いだろう? 眠っても)

 

 限界を越えた疲労が冬矢に襲いかかった。全身を蝕む疲れに身を委ね、冬矢はその場に倒れ込み、間もなく気を失った。意識は深く深く沈んでいった。

 

 

 

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