冬矢は強い日差しに嫌気がさして立ち止まり、白い軍帽を両手を使って深くかぶり直すと、ついでとばかりにタイの位置も直して腕時計に目をやった。午前七時二分。予定の時刻より三十分は早く着きそうだった。冬矢はそろそろと歩みを再開した。庭園の敷地に入ってしばらくは聞こえていた市街の喧騒も奥へ進むにつれて遠く薄れ、今は風に揺られてどよめく草木の音ばかりだった。石灰岩を削り出して作られた高さ五、六メートルほどの白いアーチ門をくぐると、上品な甘い香りが鼻腔をくすぐる。色とりどりのプルメリアの花壇を横目に砂利道をゆっくりと進んでいった。
冬矢は白い軍制服に軍帽という装いでこぎれいな恰好だが顔は日に焼けており、黒々としたミディアムヘアーはつんつんと跳ねていた。眉は太く濃く優しげな目つきだが、その奥に秘められた瞳の鋭さを見ればひと目で容易な相手ではないとわかる。
冬矢はすこぶる穏やかな空気を吸いながら、今でも魔獣という脅威に晒されている外周群の島々に思いを馳せて憂鬱な気持ちになった。巷では〈怪人〉と呼ばれる得体の知れない存在が世間を騒がせているのを思い出して気分が沈んだ。どうしてこうも続けて人類に試練が訪れるのか、と。
そのまましばらく歩いていると、眼前に湖が広がった。水面は穏やかに揺れ、時折緩やかな波紋が湖岸に優しく触れている。古びた石組みの橋が湖に切れ込みを入れるように湖岸と湖の中央にある土地を繋いでおり、中央にはこの辺りではもっとも大きな建物がそびえ立つ。四層の城壁と城塔に囲まれた純白の城。最も大きい縦長の長方形の建物は天守で、その四辺には上へ向かって伸びる尖塔が張り出している。天守の横腹にはひと回り小さな建物が連結しており、その先に円筒型の幅広の塔がある。建物はこの国の行政機関であるソラリス
庁舎の奥に天高くそびえ立つ巨木が見える。頂点の見えない高い高い木。庁舎はその木の根元に寄り添うように立っている。しかし冬矢が今から訪れようとしているのは橋を渡った先の立派な庁舎ではない。橋を渡る手前、湖のフチに沿って枝分かれした道を右に進む。湖の三時の位置まで来たところで更に道が分岐した。左の道はそのまま湖のフチに沿って反時計回りに進んでおり、右の道は湖からは離れて、右手に見える林の奥に続いていた。冬矢は迷わず林へと進む右の道を選んだ。
(あれか?)
さらに道なりに進んでいけば、木々の隙間から二階建ての木造建築の建物が見えてくる。どうやら目的地に着いたらしいと、冬矢はほっと胸を撫で下ろした。そして建物の足元まで近付くと、冬矢は建物を見上げてここへ至った経緯に思いを馳せた。
冬矢はこれまで作戦部軍事防衛課という部署で働いていたが、
ソラリス聖皇庁脅威対策特務局特別作戦部特別機動課。
通称・特務機関
新しく
先日の魔獣との戦闘のあと。随分経ってから聖皇庁の人員がやってきて冬矢と茉希奈を回収していった。冬矢は曖昧な思考の中で自身が担架に乗せられて運ばれたのと、その近くで茉希奈も運ばれたのを憶えていた。あとで聞いた話では茉希奈は深手を負ってはいるが生きているとのことだった。茉希奈のあの明るい笑顔をしばらくは見られないだろうと考えて意気消沈しかけた冬矢だったが、(いや、生きているだけ儲け物だ)と思い直した。
冬矢と茉希奈は先の戦いで危うく死にかけた。それどころか幸運が味方しなければふたりとも死んでいた。すんでのところで聖痕が冬矢に力をもたらした。冬矢にとって聖痕はまさしく奇跡の象徴になった。
冬矢の右手の甲に聖痕が発現したことがどのような意味を持つのか、というのを知るためには、まずはソラリス
今からおよそ五百年前のことだ。人間同士の戦争で用いられた化学兵器によって地上は汚染され、そのほぼ全域が人の住めない環境となった。その日、文明は失われ、人類は絶滅の危機に瀕した。これ以降、人類の生存圏として残されたのは
〈ソラリスの聖樹〉についてその起こりは明らかになっておらず、一万二千年以上前には既に存在していたとされている。葉は常に色を変化させて虹色に煌めき、全長は成層圏に及ぶとされ、地上からは全容が見えないほどの巨木。いつからかソラリスの聖樹は神の木として星の守護神として人々の信奉を集める存在となっていった。
広大な海の真ん中からそびえ立つ聖樹を取り囲むように巨大な人工島が建設されて、その周囲に衛星の如く大小様々な人工島が作られた。国境を越え多くの人々がこの衛星島に移り住んだことで独自の文化圏が形成され、<ソラリス聖教>が生まれた。
やがて人類が絶滅の危機に瀕する原因となった人間同士の戦争がはじまり、その終焉に化学兵器が用いられて地上のすべてが汚染された場合に、まったく不思議なことに、この聖樹周辺の人工島群だけがその影響を受けなかった。なぜ聖樹の周りだけが無事だったのかは今もって誰にも分かっていない。
ともあれ戦争を生き延びたこの島群一帯の人々はそれから数百年という時を経てゆっくりと戦禍を癒やしてきた。その過程でソラリス聖教はもはや単なる宗教団体に留まらず、代表者であるソラリス
それから幾年過ぎて、人類は再びの悲劇に見舞われることとなった。島々で異変が起きはじめたのは近年になってからのことだ。はじまりは外周部に位置するひとつの衛星島だった。
夜半。それは海からやってきた。その異形の獣は静かに上陸した。鋭い牙が不規則に並んだ口をだらりと開いて、爪は鋭く、明々とした緋色の目はぎょろぎょろとせわしなく動いていた。陸に上がった獣は人類を侵略した。未知の襲撃に対する備えなどないただの行楽地だったその島は、海岸線から湧現する獣の攻撃によってあっけなく陥落し、住人はひとりとして生き残らなかった。そのようにして人類の天敵である異形の獣〈魔獣〉は聖皇国史に名を現した。
人類はこれに対抗するべく、武器を握れる者は老若男女問わず兵隊として動員し、幾つもの衛星島を要塞化してそれに安全弁としての役割を与えた。圧倒的な物量で地を埋めつくす疲れ知らずの魔獣の来襲に対して人類は恐ろしく脆弱だったが、この戦いがワンサイドゲームとならなかった理由として、
のちに
現在、聖皇国暦四二三年。魔獣はこれまで幾度となく現れて残された僅かな人類に対する侵攻を繰り返しているが、今に至るまで人類は根絶やしにはされていない。
冬矢は右手の甲に聖痕が発現してからというもの慌ただしい日々の連続だった。対魔獣の専門家としての役割を一身に背負う特別機動課にとって新たな聖痕所有者というのは喉から手が出るほど欲してやまない人材であるため、あれよあれよという間に話はまとまって隊に組み込まれる運びとなった。
このあと冬矢は転属先となる特別機動課・第二分隊の隊員との顔合わせの予定があった。隊舎の扉の前へ辿り着くと、念のため扉の脇のプレートを確認した。〈特別機動課 第二分隊隊舎〉と書かれていた。目的地に違いなかった。
冬矢はベルを鳴らそうとしたところで手のひらにじんわりと汗が滲んでいるのに気付き慌ててハンカチで拭った。気持ちを落ち着けるために瞑目したが、逆効果だった。聖痕を得た日の高揚感が全身に焼き付いたまま、胸の奥では今でも燃え盛る炎が渦巻いていた。抑えようとしても抑えきれない魔獣に対する憎悪が腹の底から止めどなく溢れ出てくる。
(この力があれば、
いきなり扉が開いた。中から勢いよく赤い女が飛び出してきた。扉の前で棒立ちしていた冬矢は突然のことに為す術もなく女とぶつかった。
「うわっ!?」と冬矢が声を漏らすと同時、女が「きゃっ!?」と悲鳴を上げた。冬矢は咄嗟に片足を下げて踏ん張って堪えたが、女の方は冬矢の体に弾かれて素っ転んだ。
唐突に思考を打ち切られた冬矢は頭が真っ白になりながらも、反射的に女に駆け寄った。冬矢は片膝立ちになって「すみません、大丈夫ですか?」と声をかけながら、女に手を差し伸べる。
華奢な女だった。女は小さな呻き声を上げながらおもむろに半身を起こして、顔を顰めて冬矢の方を見た。つり上がった大きな目に暗いカーネリアン色の瞳。つり上がった細く短い眉。長い赤毛のツインテール。顔立ちはどこか幼く小さな鼻先と頬はほんのりと赤みをおびていた。女は周りを見渡してからまた冬矢に視線を戻し、冬矢が差し出した手を無視して自力で立ち上がった。怒りと困惑の混じり合った表情で、冬矢の胸のあたりの高さから冬矢を見上げるように睨みつけた。
女の名はナコル・A・サマーズ。彼女もまた聖痕所有者のひとりで、特別機動課所属の隊員でもあった。ナコルの視線が冬矢の肩にある階級章へ向けられた。冬矢の階級は特尉補で、これは准尉に相当する。片やナコルの階級は中尉相当の一級特尉であり、ナコルは冬矢よりもふたつ上の階級だった。
「全然、大丈夫じゃないわよ! あんたね、どこに目え付けてんのよ!」とナコルが声を荒らげた。ナコルが前のめりに人差し指を突きつけて詰め寄ったもので、冬矢は両手で顔をかばうようにして後ずさった。
「ん?」、ナコルが首をかしげた。「って言うか、あんた誰よ? 見ない顔だけど?」
「はっ、本日付けで特別機動課・第二分隊に転属となった、特尉補の真銀冬矢です」
冬矢が敬礼をして名乗ると、ナコルの片方の眉がぴくりと反応した。
「えっ? ああ……そう言えば今日だっけ」とナコルが呟いた。「へぇ、あんたがそうなんだ?」
ナコルはまだ不審な様子で、冬矢の顔、髪、足元と順に見たあと、再び顔を見た。それからいつの間にか肩にかかっていた片方のツインテールを手の甲で後ろに払って鼻を鳴らした。
「あたしはナコル。一級特尉よ。所属はあんたと同じ第二分隊……つまりあんたの先輩ってことよ。せいぜい敬いなさい」
「はい……」
自信満々に言い放ったナコルに対して、冬矢は歯切れが悪かった。
「なによ? 文句あるわけ?」とナコルは言った。
「いえ! そういう訳では。ただ……」
小さい、と冬矢は思った。小柄で身長も低いナコルはとても戦闘要員には見えなかった。しかし特別機動課は特に戦闘技能に優れた聖痕所有者しか所属していないはずなので、このナコルも例に漏れずそうなのだろうか、と冬矢は内心頭を捻った。
冬矢が思考している間、ナコルの眉間の皺はどんどん深くなっていった。
「ねぇ。何考えてるか、大体想像が付くんですけど?」
「え」と冬矢は声を上げた。
「言っておくけど、聖痕所有者の強さは見た目とは全っ然関係ないんだからね」とナコルは言った。
「はっ。いえ、その……申し訳ありません。ナコル一級特尉」
そう言って頭を下げる冬矢を見て、ナコルはため息をついた。
「まあ良いわ。すぐに、理解する機会はあるだろうし」
「すぐ、ですか?」と冬矢は聞いた。
「ええ。すぐにわかるわ」とナコルは答えた。
「……なるほど」
「まあ、気にしないで良いわよ。慣れてるしね、別に。そういう反応は」
ナコルの声はまだ若干の険しさを帯びていたが、当初の剣幕に比べると表情はいくらか和らいでいるようだった。「それにしても、また大変な時に来たわね?」とナコルは言って、憐れむような視線を冬矢に向けた。
「大変、と言いますと、何かあったんですか?」と冬矢が聞いた。
ナコルは苦笑した。「あのね、いちいち畏まらなくても良いわよ。あたしには。敬語もいらないわ」
「え? しかし、その。それは……」
「ナコルって呼んでくれる? 堅苦しいのは嫌いなの」と言って、ナコルは鋭い視線を向けた。有無を言わせない迫力だった。
「ええと、その……わかった。ナコル」と、冬矢は不承不承ながら言った。
「OK。それで良いわ。ああでも、公式な場ではダメだからね?」、ナコルは人差し指を冬矢に突きつけて念押しするように言った。
「あ、ああ。わかった」
「で、なんの話だっけ?」とナコルが小首をかしげた。
「え?」、冬矢は一瞬困惑したあと、先ほど自身がナコルに対して質問を投げかけたのを思い出した。「あー、その。大変な時って言うのは?」
「ああそれ。最近、魔獣の動きが活発になってるのよ」
ナコルの言葉を聞いて、冬矢は眉間にしわを寄せた。
「魔獣が……?」
「そう」とナコルは答え、腕を組んで視線を落とした。「襲撃の頻度が増えてるの。それも、中央に近い島でね。異常よこれは、ハッキリ言って。侵入経路すら分からない。こんなこと、今まで無かったのに」
「そもそも魔獣ってどこから来たのかもわかってないんだよな?」と冬矢が聞いた。
「そうよ。もし突き止めたら偉人ね。歴史に名を残すわ」
「残したいもんだな」と冬矢は言った。「いや、俺じゃなくても良い。誰かが残してくれれば」
「そうね」、ナコルは頷いて、それからしみじみと「残ると良いわね」と呟いた。
「ああ」と冬矢は答えた。
居心地の悪い静寂が訪れた。ややあって、ナコルは気まずそうに頬をかいて、口を開いた。
「まあ、とりあえず」、ナコル言葉を区切り、笑って右手を差し出した。「今後ともヨロシクね」
冬矢はそれを見て微笑み、握手に応じた。
「うん、ありがとう。よろしく、ナコル」
「ええ。ようこそ、
硬い足音が建物の中から聞こえてきた。人影が近寄ってくるのに気付いて、冬矢とナコルのふたりは手を離してそちらを振り返った。制服の上からフードつきの黒いロングコートを羽織った女が、開きっぱなしだった扉から出てきて、ふたりの前で立ち止まった。
「出撃よ。ふたりとも」と女は低い声で言った。「急ぎなさい」
ふたりは顔を見合せたあと、揃って女に向き直り敬礼をした。