デンアサの波が……!
太陽は地平線の彼方へ落ち、夜が来た。
あのあとデンジは公安からそのまま、連れ去られるようにしてマキマ宅へとやって来ていた。
デンジは言われるがまま流されるがままにマキマに付いて行っていた。
家へ向かっている最中夕方の件もあり、緊張と興奮で指が震えていた程なのだ。
まともな思考などその時のデンジには出来なかった。
そして現在、デンジはハスキーたちに囲まれながら遊んでいた。
マキマは先に風呂に向かったため、今はデンジ一人だ。
「マキマさん、急にどーしたんだろーなー……あんな風に俺ん事家に誘ってくるなんて普段ならやらねーと思うんだけどなー」
デンジはティラミスの顔を撫でながらそんな風に呟いていた。
夕方のマキマは、普段の落ち着いた大人っぽい雰囲気とは違い、蠱惑的な魅力を内包した雰囲気を醸し出していた。
その姿にデンジは違和感を感じていたが、その正体がつかめない。
自分の思い過ごしであって、自身の知らないマキマの側面を垣間見ただけなのか、それとも……。
微笑と共に手を握り、指を噛み、胸を触らせたマキマ。
あの時のやり取りを思い出したデンジは、首から頬が熱くなるのを感じた。
頭を振って思考を戻す。
デンジもここで呟いたところで、どうにもならないと分かっている。
だがこれは大事なことのような気がするのだ。
見落としてはいけない何かを見逃している気がする。
珍しくシリアスな雰囲気を見せるデンジ。
そんな様子のデンジに犬たちは、知らん、構えとばかりに甘えてくる。
犬たちを撫でながら真面目な思考に浸っていたデンジに声がかかる。
「デンジ君、私お風呂あがったから次入ってもいいよ」
「カワイイ!!」
(かわい────!!)
ある種の無防備な姿でもある風呂上がりのマキマを見たデンジは、先ほどまでの思考が吹き飛んで思わずそう叫んでいた。
先程までマキマが浸かっていた風呂に、今はデンジが浸かっている。
マキマの家の浴槽はアキの家のものより広かった。
デンジでも両足を伸ばしてゆったりと出来るくらいだ。
(これがマキマさんちの風呂かぁ……アキんちのとだいぶ違うんだなぁ)
手で水をすくって落とす。
風呂の水は薄い桃色をしていて、花のような良い匂いがする。
デンジは入浴剤というものを知らなかったが、これが良いものだということは理解出来た。
じんわりとした熱に体を温められ、頭がぼんやりとしていく。
デンジの頭の中はすでに、先程までの思考は飛んで消えて無くなっていた。
ふと自身の左手を眺める。
正確にはマキマに嚙まれた左手の親指を。
しばらく眺めた後に右手を見る。
そしてあの感触を思い出す。
それから左手で右手を握った。
「なぁポチタ……俺さ、好きな人の胸揉んじゃったよ……エッチな事ってお互い理解しあってるからこそ気持ちいいんだってさ、流石マキマさんだよなぁ……俺の知らねえこと何でも知ってんだ」
デンジはマキマに出会ってから今日までの事を思い返していた。
マキマとの思い出はどれもが大切なもので、どれもが輝いている。
「俺、マキマさんの事どんだけ理解できてんのかな……」
最高のエッチのためにはまずはマキマの事を理解しなければならない。
デンジはマキマとの記憶を思い出すと、自身がどれだけ彼女の事を知らないかが分かった。
好きなものは?嫌いなものは?趣味は?過去は?夢は?
何も知らない、分からない。
勉強が出来るようになれば、頭が良くなって何か分かるかもしれないと思っていたが、勉強を続けている今でも分からない。
反対にマキマは、自分の事をどれだけ理解しているのかが気になった。
あれもこれもと気になることが増えて行って、思考があちこちへ散り散りになっていく。
知っているのは、眠る時に涙を流すことくらい。
「……寝る時にさぁ、俺とポチタとマキマさんで抱き合って、皆で寝れたら最高だよなあ……」
デンジは天井を見上げながら、のぼせた頭でそうボヤいた。
「デンジ君、髪がまだ濡れてるよ。そのままだと風邪ひいちゃう」
風呂から上がったデンジを見たマキマはそう言って、デンジの背後に立ちドライヤーでデンジの髪を乾かし始めた。
デンジは椅子に座って大人しくされるがままとなっている。
マキマは優しく丁寧に手櫛でデンジの髪を梳く。
暖かい風とマキマの指を感じて、デンジは心地よい気分だった。
二人だけの静かな時間、言葉は無く、聞こえるのはドライヤーの音。
デンジの後ろでマキマは、何時もの微笑みを浮かべていた。
髪を乾かし終えた後は夕食の時間。
先ほどから漂ってくる食欲をそそる良い匂いを嗅いでいたデンジは、もうお腹がペコペコだった。
「マキマさん、晩飯は何です?」
「前にデンジ君から早川君のとこでカレーを食べたって聞いていたからね、今日はクリームシチューにしてみたんだ」
「へー!クリームシチュー!初めて食べます!」
「とっても美味しいからきっと気に入るよ」
マキマはそう言いながら皿によそられたシチューをデンジの前に出した。
黄色い模様の入った深皿の中のシチューは綺麗なミルク色をしていて、ニンジンやジャガイモ、ブロッコリーと食べやすいサイズにカットされた鶏肉に玉ねぎが入ったオーソドックスなものだった。
湯気と共に漂ってくる匂いに、デンジの腹が鳴る。
「白い、カレー?」
「カレーの色違いみたいだけど、味は全然違うんだよ。食べてごらん」
初めて見るシチューに首をかしげるデンジ。
マキマはそんな彼に、食べてみることを勧めた。
デンジは嬉しそうにしながら、スプーンを手に取った。
シチューをすくうとスプーンの中にはごろっとしたジャガイモが入っている。
「いただきま~す!……んっ!んめ~!」
ジャガイモのホクホクとした食感とうまみ、シチューの甘味とコクがデンジの口の中に広がった。
温かくて優しいその味わいは初めてのものだったが、デンジはこの味を気に入った。
何よりマキマが作ってくれた料理だったのが、彼がこの料理を気に入った一番の理由かもしれない。
マキマは夢中で食べるデンジの姿を微笑みと共に見つめていたが、やがて自身もシチューを食べ始めた。
それからしばらく二人は、とりとめのない会話をしながら食事の時間を過ごしていた。
がっつく様に食べるデンジとは対照的に、静かで上品にシチューを食べていたマキマは、ぽつりと一言呟いた。
「誰かと一緒にご飯を食べるのは、いいね」
その呟きを聞いたデンジの手が止まる。
「……俺で良けりゃあ、呼べばいつでも一緒にメシ食いますよ」
少し考えるように視線を彷徨わせてからそう言った。
断られるかもしれないと思ったのか、若干猫背気味になって、上目遣いになったデンジの姿からは不安が垣間見える。
「ありがとう、デンジ君」
デンジからの言葉に少しキョトンとした様子を見せたマキマは、いつもの微笑みと共にそう言った。
それからマキマとデンジは静かに食事を再開した。
何回かシチューを口に運んだあと、マキマは改めて口を開いた。
「デンジ君、明日は休みだけれど一緒にどこかに出かけない?」
「えっ!マジすか!行きます!行きます!」
マキマからのデートのお誘いに、どこに行くかも決めていないにもかかわらず、デンジは素直に喜んだ。
マキマはその様子を眺めて微笑んでいる。
それからしばらく、デンジは見て分かるくらいに浮かれていた。
食事を終えた二人は、食器も洗い終えて今はソファに並んで座っていた。
寝るにはまだ早い時間だ。
二人は話の流れでお互いの趣味の話をしていた。
とはいえデンジには趣味らしい趣味はない。
今はどちらかというと、デンジがマキマの趣味を知りたいがため、この話をマキマに振っていたところだ。
「うーん、私は映画を見るのが趣味かな?」
「映画かぁ……俺一度も見たことないんですよね」
「なら家にもいくつかあるけど一緒に見る?」
「観ます!あ、でも俺映画観たことないからどんなのが良いのかよく分かんなくて……でも、マキマさんの好きなやつなら多分俺も好きです」
デンジは困ったように頭を掻きながらそう言った。
マキマはそれを聞くと、デンジに微笑みかけながら首を傾ける。
「それじゃあ私のおすすめを選んであげるね」
そう言うとマキマは席を立った。
それからいくつかビデオを見繕うと、デンジの元へ戻ってきた。
「デンジ君は初めての映画だから見やすそうなのを持ってきたよ」
そう言うとマキマはテーブルの上に3本のビデオを並べた。
どれも綺麗なパッケージで新品のように見える。
マキマは左端のものから順に説明を始めた。
「まずこれは宇宙人と人間の子供が友達になる映画でね、姿も言葉も違う二人が最後には親友になるんだ。宇宙人を狙う大人たちなんかも出てきたりして、ハラハラする場面なんかもあるんだ」
そういって指をさしたビデオのパッケージには月を背景に、空を飛ぶ自転車の影と人と異形の指先が触れ合う絵が描かれていた。
マキマの指先は中央のビデオに移る。
「次にこっちは未来の世界を描いた作品でね、ハードボイルドな作風でとある捜査官が逃げ出した人造人間を追いかける話なんだ。少し話の内容はデンジ君には複雑かもしれないね」
中央のパッケージには銃を持った男性と、たばこを持つ女性、そして光り輝く建造物の絵が描かれている。
最後にマキマは右端のビデオを指さした。
「この映画は凄腕だけれど人としては不器用な殺し屋と、大人びた少女の二人を描いた作品でね、悪徳警官に家族を殺された復讐をするために、女の子は殺しの技術を殺し屋から学んでいくの。二人の関係性が変わっていくところとか面白かったよ」
マキマが最後に指さしたビデオには、壁によりかかるサングラスをかけた男性と座り込む少女がパッケージに描かれていた。
正直デンジにはどれが良いかなんてよく分からなかったし、マキマが面白いと思ったものは全部見てみたかった。
だが今日はそこまでの時間はないだろう。
だから悩みに悩んで、最初にお勧めされたものを選んだ。
宇宙人と少年というのが、自分とポチタに近いものを感じられて、これが一番興味をひかれたのだ。
デンジがビデオを選ぶとそれをマキマは真新しい新型のビデオデッキへと差し込んだ。
するとキュルキュルと音が鳴って機械が動き出した。
テレビには本編とは関係のないアクション映画の予告が流れはじめた。
マキマはその映像が流れている間に、部屋の明かりを落として暗くしている。
それからマキマがデンジの隣に腰を下ろすと、丁度本編が始まった。
テレビの明かりに部屋が照らされ、明滅する中デンジは横にいるマキマの事が気になって、彼女の横顔を盗み見たりしていた。
その横顔は静かに、だが食い入るように映画を見ていて、デンジは視線をテレビへと戻す。
それから二人はただ静かに映画を見ていた。
映画は終盤へと差し掛かり、宇宙人と少年の別れのシーンへ。
デンジは二人が痛みを共有する場面をジッと見ていた。
あの痛みには覚えがある。
ポチタと会えなくなったあの日から、残り続けるふとした瞬間に思い出す痛み。
映画の二人は二度と会えないのかもしれないが、自分はすぐそばに居るのが分かっている分まだマシなのかも知れない。
そう思うと映画の中の二人が不憫に思えてくる。
もし自分が本当に、二度とポチタと会えなくなるとしたら……。
デンジがそんな思いと共にエンドロールに浸っている中、映画は終わった。
「デンジ君、今の映画どうだったかな?楽しんでもらえたら良かったんだけれど」
「面白かったです!でも最後の方はなんか、あんまり好きじゃないかもですね」
「最後はお別れで終わっちゃったからね、結局……あれだけの絆が結ばれても一緒には生きていけないってことなのかもしれないね」
伏し目がちにそう言ったマキマは少し、寂しそうにデンジには見えた。
二人は今見た映画のあれが良かった、ここがだめだったと感想を言い合っていく。
やがてその会話も落ち着いてきた頃、デンジはマキマに話を切り出した。
デンジにとって誰かと一つの物語を共有し、その感想を語り合うこと自体想像もできなかった事だ。
だからこそ、このマキマとの時間を失うのをデンジは嫌がった。
「その、マキマさんがお勧めしてくれた映画全部、マキマさんと一緒に見てみたいです……だから、また一緒に見てもいいですか……?」
不安と期待に揺れる瞳で、恥ずかしそうにしている様子を見せるデンジ。
マキマは、ゆっくりと間を置いてから承諾の言葉を口にした。
「いいよ、また一緒に見よっか」
「よっしゃ……!」
デンジは嬉しさのあまり思わず小さくガッツポーズをして喜んだ。
マキマはそんなデンジの様子を静かに見つめていた。
ふと時計を見ると、それなりの時間になっていることを確認したマキマは、デンジにもう寝る時間だと伝え、二人は寝室へと向かった。
月の光が差し込みぼんやりと輪郭が分かる程度の暗闇の中、デンジとマキマは同じベッドの上にいた。
お互いの呼吸の音だけが聞こえる寝室で、いつものようにマキマはデンジに抱きしめられている。
最初のころと比べてデンジもすっかり慣れていた。
普段ならこのまま眠りにつくところであったが、不意にデンジが今日ずっと気になっていたことをマキマに訊いた。
「マキマさん……マキマさんって夢とかあります?」
「どうかしたの?」
マキマは急な質問に驚くでもなく、戸惑うでもなく静かに聞き返した。
「前々からみーんな俺の夢をショボい夢だっていうもんだから……少し気になってて」
デンジは少し口を尖らせながら、拗ねたようにそう言った。
「それってどんな夢?」
「普通の生活を送るっつーのが俺とポチタの夢です……それにポチタとも約束してるんです。俺の夢を見せ続けるって……」
「そう……」
マキマはただ一言そう呟くと、その手をデンジの胸へと沿わせた。
丁度、心臓の辺りへ。
「私の夢はね、世界をより良いものにすることなんだ」
「へえ……なんか良く分かんないですけどデカい夢っすね」
「そう、とても大きくて叶えるのも大変なの。でもね、この夢が叶えばデンジ君みたいな思いをする人がいなくなるんだ……デンジ君には間に合わなかったけど、この先の人たちにはまだ間に合うかもしれない」
マキマはデンジの胸を撫でながら呟くようにそう言った。
彼女の視線は胸を撫でる指先に注がれていて、その仕草には親密さを感じさせられる。
彼女の温かい手が彼の胸の上を滑るたびに、デンジの心臓は彼女のリズムに合わせて踊っているように感じられた。
それから視線を持ち上げ、上目遣いでデンジを見つめる。
「デンジ君は私の夢を叶える手伝い、してくれるかな」
「ん~……俺に何が出来っかは分かんないですけど、まあ、マキマさんのためなら何だってやりますよ」
デンジは深く考えることなく即答した。
彼女の夢の意味も、その手伝いが何を意味するかも理解していなかったが、デンジは自身がマキマの役に立てるのなら、ただそれだけで良かった。
「……よかった」
マキマは安心したようにそう言うと、そっと瞼を閉じた。
部屋には再び静寂が戻り、月が高く昇った頃。
マキマの目尻に浮かんだ涙を拭うと、デンジも眠りについた。
風呂の水飲んでこれがマキマさんの味かぁ……ってやろうと思ったんですけど流石にヤバいかなって思ってやめました。