うっぷ……
立ち上がって部屋の電源を点けた瞬間、胃がせり上がってくる感覚があった。思わず手で口を押さえる。
「大丈夫? 今回の映画はそんなにグロテスクだったかしら」
横には心配そうにこちらを見上げるレミュアンがいる。車椅子に座る彼女の黒いブーツとショートパンツの間から露出したふとももが眩しい。
「だ、大丈夫」
ふとももに集中したからか落ち着きを取り戻し、深呼吸をしてまたソファに座った。先ほどまで見ていたテレビは消されており、用意されたお菓子やジュースも今は空になって、ゴミがテーブルの上に散らかり放題だ。
仕事の後にスプラッター映画を見る。レミュアンが秘書に着任してからそんな習慣ができた。
しかし思った以上にきつい! グロ耐性は仕事柄ある方だと思っていたが、まさかここまで精神に来るとは思わなかった。当然胃も食べ物を受け付けず、二人分のお菓子とジュースは全て彼女のお腹の中に消えていった。
「そんな無理をして映画に付き合わなくてもいいのに」
「い、いやいいんだ。仕事の後の気晴らしにはちょうどいい」
「それにしてはだいぶ憔悴してるわね。あなたが『聖戒破壊者』シリーズを見たいと提案してくれた時は嬉しく思ったのだけど」
そう。この習慣は私の発案である。
「たぶんこの映画が特別合わなかったのだと思う。今度は別の映画を見せてくれ」
「構わないわ。お気に入りの作品なんていくらでもあるし、何なら今やってる映画でも見たいものがあるから、映画館に行ってもいいわね」
「わかった。しかし、もういい時間だな」
その言葉がきっかけであるように、彼女は大きなあくびをした。
「ふあ……そろそろ眠くなってきたわね」
「仕事の後に映画だからな。そりゃあ眠くもなるさ」
「ここに来て一気に疲れが出たわね。自室まで戻るのも大変」
「なら仮眠室を使ったらどうだ?」
「仮眠室? ああ……」
そう言ってレミュアンは、執務室入り口横にあるドアに目を向ける。
「そういえば秘書用に仮眠室を新しく作ったと聞いたわ」
「夜遅くに自室に戻るのがつらいという秘書が多かったんだが、最近になってようやくできたんだ」
「合理的ね」
「しかもセキュリティはちゃんとしていて、このカードでしかドアの開け閉めはできない。マスターキーはあるがちゃんと管理しているし、万が一使われたとしてもログが残るから、私が侵入するなんて心配はしなくていい」
「さ、さすがにドクターが手を出すとは思っていないわよ」
「執務室の真隣だし、念のために話しておきたかったんだ。私がどうこうではなく、部屋の構造をわかれば安心して眠れるだろうからな」
邪な心はないと必死にアピールしたが、内容に嘘はない。オペレーターに手を出さないのはもちろんである。そんなことをしたらあらゆる方面に殺される。
「今日のところはここを使わせてもらおうかしら。あなた用のアイマスクや耳栓もあるし、いつも携帯してるマウスウォッシュもあるし」
「たぶん車椅子でも平気な高さのベッドだ」
「あら気が利くわね。じゃあ遠慮無く」
そう言っておやすみをいい、彼女はドアの奥へと消えていった。
先ほど言った内容に嘘はない。あのドアを開ける手段はなく、マスターキーも遠くにある。秘書をやってくれるオペレーターに手を出すなんてエロ同人みたいな邪な心は一切無い。
そう。オペレーター自身にはな!
私は机に向かい、PCを起動させて座る。
「ZOOT。頼む」
腕を組みしばらく待つと、壁の一部が上昇して小さな穴が開いた。そこからキャタピラのようなベルトコンベアがにゅんと延びてきて、こちらに流れるように作動し始める。
「よし」と腰を上げ、動き始めたベルトコンベアが先端で待つと、
ぴんと立ったブーツがやってきた。
何を言ってるのかわからないかもしれないが、ブーツがやってきた。ついさっきまで、レミュアンが履いていた、あの紐まみれのブーツがだ。
私はこの瞬間を待っていた。
そう! ここ最近! レミュアンのスプラッター映画の付き合いに耐え抜いたのは、この時のためだ!
このブーツを嗅ぐために、様々な計画を練ったのだ!
自室以外でブーツを脱ぐのは、こうして映画を見た後にうとうとして仮眠室で寝る時だけだと私は考えた。仕事の後に映画となったら眠くなるのも自明の理である。さらにはお菓子も用意し、血糖値を上げてその後の下がりで眠くなるという寸法だ。そのために仮眠室も事前に作っておいた。
そしてこのベルトコンベアと穴は私がこっそりと作った代物である。ブーツを置くだろうベッドの脇に収納されたものを置き、ZOOTの働きにより稼働させるとそれが床から出てきて、なんやかんやでブーツを感知し、なんやかんやで車椅子等の他の物をかわして運んでくる素晴らしい機械である。
「さて……と」
努力の集大成であるブーツを、慎重に取る。
子細に観察してみると、なるほどブーツの前の紐は飾りとなっている。横にファスナーが付いていてそちらから履くのが正解なのだろう。ふともも付近まで丈がある物は「Thigh High」(サイハイ)と呼ばれているのだが、やはり丈が長く感じる。そんな物がぴんと立っているのは、中に新聞紙を丸めて入れてあるからだと気づく。ブーツは当然自立はしないので、何かカバーのようなものか、こういった新聞紙を丸めればしわを出さず置けるわけだ。しかも新聞紙は湿気を吸い取るため、雑菌の繁殖を抑える消臭効果もある。
そんなものは必要ない! レミュアンのブーツを嗅ぎたい一心でこの計画を立てたのに、消臭するなんてとんでもない!
丸まった新聞紙をすかさずゴミ箱に放り投げ、ぽっかりと開いた深淵を見る。
レミュアンのふともも部分まで覆っているブーツだ。深さはかなりある。サーミにある穴に降りるがごとく、底に向かい体験をしなければならない。
ごくりとつばを飲む。まずはファスナーを下ろさず、深い穴に顔を突っ込んだ。
うう~~~~んこの香りたまんねえ。
ほのかに香る汗の臭いにレザーの若干薬臭いのも混ざっている。なんとも香ばしく、くらくらとする臭いである。
彼女はブーツの上からでもふくらはぎの形状までわかるくらい、ケーキのラッピングのごとく脚に貼り付いた状態で生活している。エクシアも同じくらいの丈のソックスを穿いているが、あちらは布製なので通気性はある。しかしブーツはそうは行かない。空気の逃げ場がない。
そんな何時間も密閉された空間から醸し出される臭いは、さながらビンテージワインの奥深さがあった。
さて、問題はここからだ。今はふともも付近をただ嗅いだにすぎない。カレーなどで例えて言うなら、一辛、二辛で、おいしくいただける範囲にある。
では三辛はどうか。
多くの場合中間に位置するそれは、人によって好みがはっきりと分かれるところだ。中間層、つまりふくらはぎ部分まで今度は行く。
ファスナーをゆっくりと下げ、花弁のように広がった革の中心部に顔を突っ込む。
んお……くっさ。
革ブーツ
むんむんむれむれ
いいかほり
(字余り)
若干脳をやられ、思わず一句が出てきてしまった。
正直ここまでくると臭い。汗臭さに加え、それを長時間蒸したような臭いがする。夏場に湿ったまま置きっぱなしになったシャツのような臭いだ。耐えれはするが、じんわりと、しかし着実に鼻腔内を攻めてくるアンモニア臭が穴の中に漂っている。普通なら顔を離せば済むのだが、それをつかんで離さないのがブーツの奥深さだ。
なぜ臭いのにブーツを嗅ぐのか、と言われれば、それはレミュアンが履いていたからというのに他ならない。ブーツ単体だとただ革を加工してできた品物でしかない。しかしそれをレミュアンが履いている図と事実があるとまるで変わってくる。
履いていたのを思い出す。さっきまでここにあの脚があったんだと思いながら嗅ぐとさらに捗る。カレーの臭いだけでご飯を食うみたいなものだ。
さらに説明すると、ブーツには湿気や人の垢などを餌にする常在菌がいる。その菌の活動によって発生したイソ吉草酸という物質がブーツを臭くさせるのだが、この物質を好む性質が人によってはあるらしい。
女性とすれ違う時の香水などがいい例で、あれに惹かれるという人間は当然多いだろう。香水それ自体がいい匂いなのは間違いないが、個々人の体臭、フェロモンと合わさって始めて効力を発揮し、異性をとりこにさせるのだ。
そう、ブーツは香水である。
……長々と顔を突っ込んではみたが、ここまではまだ大丈夫だ。いよいよ問題はここからだ。
ファスナーを下まで下ろすと、革が力なくうなだれて底の部分が見えた。いよいよ最深部、ブーツの靴底へと達した。
ここからは未知の領域だ。辛さで言えばハバネロ、ジョロキアレベルである。
やれんのか? 俺はこの臭いに耐えられるのか? いろんな考えが体を押さえつけるが、考えても仕方ないと、ええいままよと顔を突っ込んだ。勢いのままに鼻頭がぴとっと中敷きにくっつくのを感じた瞬間、
「くっっっっっっさ! これは臭姉ちゃんや!」
生命の危険を感知し、反射的に顔を上げた。それと同時に、彼女の妹であるエクシア、顔も名前も知らない両親、存在すら知らないご先祖様が次々と頭に浮かんできた。
エクシアの姉ちゃん、臭姉ちゃん。
幻想が見えるほどの臭さとは恐れ入った。たとえて言うなら冷蔵庫の奥に何ヶ月も眠っている納豆で、もう鼻が曲がるほどに激臭である! もう語彙が幼稚になるくらいには頭も同時におかしくなっていく。
体もこれ以上キメたらヤバいと警告を鳴らしているにもかかわらず、顔は無意識に穴の中に突っ込んだ。
強烈な臭いが、鼻だけでなく顔全体、さらには肺にまで広がっているように感じる。そこまで来ると臭いと一体化したようになって、逆に脳を刺激するこの臭いに愛着を感じるようになった。慣れた頃にはもう中敷きに鼻を密着させていた。
どんな人間でも、どれほどケアをしても臭い物は臭い。これはレミュアンの尊厳を守るために言わせていただく。
「すぅ~~~~~」
臭い自体もそうだが、あれほどの美人がこんな臭いを発していると想像するだけでもたまらねえぜ。
ああ~~~いくらでも吸える~~~鼻腔も肺もこの臭いで満たされてレミュアンと一体化したい~~~。
ドゴオ!
夢想していると、突如として破裂音が響き渡った。びくっとして辺りを見回すと、極めて異常な状態を感知した。
仮眠室のドアがこちら側に盛り上がっているのだ。厚さはないが間違いなく金属製で、どう考えてもあの形状になるとは思えない。
しばらくしてまた衝突音が響き、突起物がさらに二つ、三つとでき、
バコォン!
ひしゃげたドアが反対側の壁まで飛んでいった。
「ひい!」
大音量の後の静寂にギィ……ギィ……と金属が擦れる音が聞こえてきた。
「ドクター。あなた、そんな趣味があったのね」
右手に握りこぶしを作り、反対の手で車椅子を操作するレミュアンがそこにはいた。
「く、車椅子に乗りながら、どうやってあんな力を出せるのだ……」
「そんなことはどうでもいいじゃない。それよりわかってるわよね?」
貼り付いたような笑顔をこちらに向けた瞬間、体から力が抜け、へなへなと手をつく。
「人を観察するのが趣味なのは前にも言ったと思うけど、今日のドクターは何かおかしいと思って眠らずにいたのよ。もしかしたら本当に寝込みを襲われるんじゃないかとドキドキしてたの。そしたらびっくり」
優しく微笑んだ。
「ブーツがベルトコンベアで流れていくの。最初は目を疑って呆然としちゃったけど、その後くさいだの、シュウ姉ちゃん? みたいなことを言われて耳を疑ったわ」
しまった! ベルトコンベアの穴を開けっぱなしにしていた!
「人には色々趣味があるのは理解するわ。でもね、私物を好き勝手やられるのはさすがにね」
ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「私のブーツを好き放題いじくり回したのも怒ってるし、自分の欲のために映画をだしに使われたのも嫌だし、何より私じゃなくてブーツに執着するのはだいぶ腹が立つわ」
「そ、それは」
「ドクター。覚悟してね」
再び握りこぶしを作ると、張り裂けそうなタイヤの摩擦音が聞こえてきた。それを耳にした瞬間、目の前には巨大な拳が現れる。
「あ……死……」
最後には清らかな花の香りがして、そこで意識は途切れた。