温かい目で見ていただけたら嬉しいです。
いつものように、森の奥の広場でトガちゃんと特訓をしていた。
木々の間を風が抜け、鳥の声が静かに響く。
その穏やかな空気の中で、僕は話した。
「……ねぇ、トガちゃん。今日の午後、空いてる?」
「え? 空いてますよ。どうしてですか?」
トガちゃんは不思議そうに首を傾げた。
僕は一度、息を整えてから言った。
「その前に、僕は君に謝らないといけないことがある」
「……?」
「この前、診察に行ったときに……君のことを、勝手に相談してしまったんだ」
その瞬間、トガちゃんの瞳がわずかに揺れた。
「え……?」
「ごめん」
僕は深く頭を下げた。
「君には特訓を手伝ってもらってるし、そのおかげでここまで来られた。
だから、何かお返しがしたくて、それで、勝手に君の秘密を話してしまった。」
「本当にごめん」
しばらくの間、トガちゃんは黙っていた。
風の音だけが、二人の間を通り抜ける。
やがて、彼女は小さく息を吸って──ふわりと笑った。
「謝らないでください」
顔を上げた彼女の瞳は、まっすぐ僕を見ていた。
「ふくいん君が、わたしのことを思ってやってくれたのはわかってます。
だから、うれしかったです」
そう言って少し微笑んだあと、彼女は言葉を続けた。
「でも……これからは、事前に相談してほしいです。
ふくいん君、なんでも1人で背負い込んじゃうから。
わたしにも、ちゃんと話してほしい」
その声はやさしかったけれど、少しだけ寂しそうでもあった。
僕はその表情を見て、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
僕は静かに頷くと、改めて言った。
「……ありがとう、トガちゃん。
それで、そのことなんだけど今度、そこの先生が君に話をしたいそうなんだ」
トガちゃんは瞬きを一つして、少しだけ驚いたように言った。
「わたしに?」
「うん。君の個性と血のことについて。
もしよければ、今日の午後行かないかい?」
トガちゃんは一瞬だけ考えて──そして、いつもの明るい笑顔で答えた。
「はいっ! わかりました!」
その笑顔を見た瞬間、
胸の奥の不安が、少しだけ軽くなった気がした。
◇◇◇◇
午後、わたしはふくいん君と一緒に診療所へ向かっていた。
外は少し曇っていて、風が冷たかったけど、ふくいん君の隣を歩いていると、それだけで少し安心できた。
ドアを開けて診察室に入ると、白衣の先生が椅子に座っていた。
金色の髪を後ろで束ねて、眼鏡の奥の瞳はやさしくて──でも少しだけ、見透かされそうな鋭さがあった。
「初めまして、トガヒミコさん。私は赤木理久、このクリニックの担当医よ」
低くて落ち着いた声。だけど不思議とあたたかい。
わたしはちょっと緊張して、背筋を伸ばした。
「あ、初めまして……!」
先生は微笑んでうなずくと、隣にいるふくいん君へ一瞬だけ視線を向けた。
それから、またわたしの方へ。
「今日はあなたのことについて、少しお話をしたいの。
心のことも関係するから──できれば、彼には廊下で待っていてもらってもいいかしら?」
え、と一瞬戸惑ったけど……なんだか、ちょっと恥ずかしい話をするのかもって思った。
わたしはふくいん君の方を見て、小さく笑う。
「……ふくいん君、ちょっとだけ待っててくださいね」
ふくいん君は少し心配そうにしながらも、頷いて部屋を出ていった。
カチリとドアが閉まる音がして、部屋の空気が少し静かになる。
先生は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「ねえ、ヒミコさん。緊張しないでいいのよ。
あなたに安心してもらうために、まずは私のことを話しておくわ」
そう言って、先生は少しだけ笑った。
その笑顔はどこか“作りものじゃない”感じがして、少しだけほっとした。
「私はね、本当は“男”なの」
わたしは思わず目を丸くした。
先生はそんな反応を見て、やさしく続ける。
「私の“個性”で、こうして姿を変えているの。
子どもたちを怖がらせないように、安心して話してもらえるようにね」
先生の声はとても穏やかで、少しだけ笑いながら言った。
「男でもあり、女でもある──これが“私の普通”なの。
だから、ヒミコさん。あなたの“普通”を私は否定しないわ」
その言葉は、まるでわたしの心の奥に静かに触れるようだった。
胸の奥がじんわりとあたたかくなって、思わず言葉がこぼれそうになった。
先生は、わたしが落ち着くのを待ってから、ゆっくりと説明を続けた。
「今日はね、あなたの体のことを少し聞きたいの。
あなたの“個性”は血液に関係している。
だから、もし医療的に安全だと確認できれば──
あなたも“補給”という形で、きちんと血を摂取することができるようになるかもしれないの」
「……ほんとうに?」
「ええ。病院で正式に“血液ドナー”として登録された人の血なら、
安全に扱うことができるの。
あなたが無理に隠さなくてもいいように──その道を探したいの」
わたしは言葉を失った。
そんなこと、考えたこともなかった。
“血が好き”だって言ったら、怒られるのが当たり前だと思ってた。
でもこの人は、それを“治す”んじゃなくて“受け入れてくれる”んだ。
「……先生……でも……」
声が震えた。
「パパとママには、言えないんです。言ったら、また“普通じゃない”って怒られます」
その言葉に、先生はしばらく黙ってわたしを見つめていた。
やさしいけれど、まっすぐな目。
わたしの心の奥をちゃんと見ようとしてくれているのがわかった。
「そうね……きっと、ご両親は“怖い”のよ」
先生は静かに言った。
「あなたが“違う”ということを、どう受け止めたらいいのか分からないのかもしれない。
だからこそ、医師である私から説明すれば、話を聞いてもらえるかもしれないわ」
わたしは顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ええ。あなたが“病気”ではなく、“個性”による生理的な現象だと分かれば、
きっとご両親も少しは安心すると思うの。
もちろん、無理にとは言わないわ。
でも、あなたが“普通に生きていい”とご両親に伝えるためにも、
一度、きちんと話す機会を作りたいの」
先生の言葉を聞いていると、胸の奥が少しだけ軽くなっていく気がした。
──もしかしたら、本当に“普通でいていい”のかもしれない。
わたしは少し考えて、でも──と首をかしげた。
「……それでも、やっぱり“きっかけ”がないと……言えません。
わたし、パパとママの前だと、どうしても怖くなっちゃうんです」
先生は少しの間、静かに目を閉じてから、小さくうなずいた。
「そうね。それなら──こういうのはどうかしら?」
ゆっくりとわたしの目を見ながら言葉を続ける。
「たとえば、街の中であなたが体調を崩して倒れていたとする。
それをたまたま通りかかった私が介抱して、
そのときに“血に関わる個性のある子”としてあなたの話を聞いた──。
それをきっかけに、正式に医師としてご両親に連絡を取る。
そういう“自然な流れ”なら、ご両親も構えずに話を聞いてくれるかもしれないわ」
その提案に、わたしは目を丸くした。
「……そんなこと、してくれるんですか?」
「もちろん。あなたをだますようなことはしないわ。
でも、どうしても“きっかけ”が必要なら、
それを私が作るお手伝いをしてもいいと思っているの。
あなたが“自分で話せる勇気”を持てるようにね」
先生の声はとても穏やかで、あたたかかった。
わたしは胸の中が少しだけ軽くなるのを感じて、
小さく息を吸い、こくりとうなずいた。
「……ありがとうございます。
わたし、ちゃんと話してみたいです。パパとママに」
先生は微笑んで、「ええ、立派よ」と言った。
その笑顔を見て、わたしの中にほんの少しだけ──
“希望”という言葉が浮かんだ気がした。
◇◇◇◇
診察室の前の廊下。
僕は硬い椅子に腰を下ろし、両手を組んで俯いていた。
(……僕がしたことは、正しかったんだろうか?)
トガちゃんの秘密を勝手に話した。
いくら善意でも、彼女の気持ちを無視したことに変わりはない。
もし嫌われたらどうしよう──そんな不安が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いていた。
カチリ、とドアノブが回る音がして、反射的に顔を上げる。
診察室の扉が開き、中からトガちゃんが出てきた。
「トガちゃん!」
僕は立ち上がって駆け寄る。
「どうだった?」
彼女は少し考えるようにまばたきをして、それから後ろを振り向いた。
続いて赤木先生が現れる。
白衣の裾を軽く整えながら、穏やかな口調で言った。
「親御さんとは、今ちょうど電話で話したところよ。
後日、直接こちらにいらっしゃって、正式にお話をすることになったわ。
その結果によっては、トガさんに検査を受けてもらう予定よ」
僕は大きく息を吐いた。
「……そうですか。よかった」
心の奥から、ようやく張り詰めていた糸がほどけていくのを感じた。
◇◇◇◇
次の日。
わたしはパパとママと一緒に、昨日来た診療所に来ていた。
朝から胸がずっとドキドキしていた。
昨日は帰ってから、パパともママともあまり話をしていない。
目が合っても、気まずくてすぐにそらしてしまった。
怒られるんじゃないか、また「普通じゃない」と言われるんじゃないか──
そんな不安がずっと頭の中でぐるぐるしていた。
待合室で順番を待っていると、名前が呼ばれた。
パパとママの後ろをついて診察室に入ると、
昨日の先生──赤木先生が椅子に座って待っていた。
「こんにちは。昨日ぶりね」
赤木先生は優しく微笑んで、パパとママに頭を下げた。
パパとママも軽く会釈をして、ぎこちなく椅子に座る。
「まずは昨日、トガさんと少しお話をさせていただきました。
そのうえで、今日はご両親に“血”のことをお話ししたいと思っています」
先生がそう言うと、パパの眉がピクリと動いた。
「先生、この子は……普通じゃないんです」
「血を吸うんですよ。自分の口で。
最初は、鳥を殺して血を……!」
ママの声は震えていた。
「そんなの、どう考えてもおかしいです!」
わたしはびっくりした。
──パパとママは、あのときのことをずっと“わたしが自分で鳥を殺した”と思っていたんだ。
だからあんなに怒ったんだ……。
そのことに、ようやく気づいた。
赤木先生は静かに話を聞いて、うなずいた。
それから、落ち着いた声で言葉を返した。
「……あなたたちの気持ちは理解できます。
けれど、“普通”という言葉はとても曖昧なんです。
たとえば、私は──男性でもあり、女性でもあります」
パパとママが驚いたように目を見開く。
先生は微笑んで、胸に手を当てた。
「私の“個性”は、性別を変えること。
子どもたちを安心させるために、今は女性の姿をしています。
これも、できない人から見れば“普通じゃない”でしょうね。
でも私にとっては、これが“普通”なんです」
パパとママは、何も言えずに黙っていた。
先生は続ける。
「この社会には、個性によってたくさんの“普通”が存在します。
空を飛べる人もいれば、氷を生み出せる人もいる。
血に惹かれる子がいても、不思議ではありません。
大切なのは、それを“どう使うか”です」
優しい声で、静かに言葉を置いた。
「どうか、すぐに否定するのではなく、少しずつ理解してあげてください。
あなたたちの娘は、確かに“特別”かもしれません。
でも、それは決して“間違い”ではないんです」
赤木先生は、静かに言葉を続けた。
「そして──昨日お話ししたとおり、彼女の“血への衝動”は、
おそらく“個性”そのものが関係していると思います」
パパとママが、驚いたように顔を見合わせた。
先生は二人を落ち着かせるように、穏やかに説明を続けた。
「彼女の個性は変身、“好きなものに姿を変える”という能力です。
そして、その変化のために“血を媒介”としている。
つまり──血を吸うという行為は、彼女がその個性を発動するための自然なプロセスなのです」
先生の声は静かで、どこか優しさを含んでいた。
「個性というのは、本人の心と深くつながっています。
ですから、その個性を“異常だ”“間違っている”と否定することは、
彼女自身を否定するのと同じことなんです」
パパが小さく息をのんだ。
ママは膝の上で手を握りしめている。
「──だから、道を閉ざすのではなく、別の道を示してあげてください」
先生は優しく微笑み、まっすぐに二人を見つめた。
「血を欲することを無理にやめさせるのではなく、
安全な方法でその欲求を満たしてあげること。
それが、親として彼女を“守る”ということなんです」
その言葉は、まるでゆっくりと心に染み込むようだった。
「個性によって“血を摂取しなければいけない人”は、実は少なからずいるのです。
彼らと同じように、お子さんも“医師の判断による血の摂取”という形を取ればいい。
そうすれば、周囲からも“個性に伴う医療行為”として受け入れられるでしょう」
パパとママは、少し戸惑ったように顔を見合わせた。
そしてパパが、おそるおそる尋ねた。
「……ですが、血をもらうといっても、いったい誰から貰えばいいんです?」
赤木先生は静かに微笑んだ。
「その点については、すでに候補が一人います」
「え?」とママが目を丸くする。
「彼は正式に医療検査を受けており、血液の性質が非常に特殊ですが、
あなたのお嬢さんとは“相性が良い”可能性があります。
もちろん、個人情報のため名前はお伝えできませんが──
必要であれば、正式な血液ドナーとして手続きを進めることができます」
パパとママは沈黙したまま、その言葉を聞いていた。
その沈黙の中で、わたしの胸はドクンドクンと早く鳴っていた。
──きっと、その“ひとり”って、ふくいん君のことだ。
でも、先生は何も言わない。
わたしのために、秘密にしてくれている。
赤木先生は、優しい声で続けた。
「どうか、恐れないであげてください。
この子は、ただ“自分のあり方”を理解してほしいだけなんです」
その言葉に、わたしは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
◇◇◇◇
その後、パパとママは少し黙ったあと、赤木先生に向かって言った。
「……すみません、少し時間をください」
それだけを残して、わたしたちは診療所をあとにした。
家に着くと、玄関を入ってすぐにパパとママはリビングへ向かった。
わたしはそのまま自分の部屋に行こうとしたけど、
「ヒミコ、ちょっと待ってなさい」とママに言われ、立ち止まった。
ふたりはリビングのテーブルを挟んで座り、
低い声で話しはじめた。
声は聞こえるのに、何を言っているのかよくわからなかった。
わたしはソファの端に座り、テレビをつけたけど、
画面の中の音は遠く、心臓の音ばかりが響いていた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
ようやく話し声が止まり、パパが重い足取りでこちらへ向かってきた。
「……ヒミコ、こっちにおいで」
わたしは立ち上がり、テーブルの前に座った。
パパとママの顔は硬くて、どこかこわばっていた。
「私たち……」とママが言葉を選ぶようにして話し始めた。
「やっぱり、怖いのよ。
“血を飲みたい”なんて気持ち、わたしたちには一度もなかった。
だから、それを理解できないの。
だから……あなたのことも、どうしていいかわからなくて」
パパも眉を寄せ、低い声で続けた。
「もしお前が誰かの前でそんなことをして、何か言われたら……。
“渡我家の娘は人の血を吸う”なんて噂が広がったらと思うと、
正直、耐えられないんだ」
ママがうつむいた。
「それでも、先生の言葉を聞いて……少し考えたの。
たしかに、個性って“普通じゃないこと”ばかりなのよね。
でも、それが悪いことだとは言い切れない。
……わかってるつもりでも、心のどこかで拒絶してたのかもしれない」
パパは腕を組んだまま、わたしを見た。
「正直、まだ完全には受け入れられない。
でも……先生が言ってた“血液ドナー”っていう方法なら、
人に迷惑をかけずに済むのかもしれない。
まずは、それを試してみようと思う」
「……ほんとに?」
わたしの声が少し震えた。
ママはすぐには答えず、少しの間を置いてから言った。
「ヒミコ。
正直まだ、あなたのことをどう理解したらいいのかわからない。
でも、あなたが困ってるのに何もしないのは……なにか嫌なの」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
たぶん、まだ完全に信じてはもらえていない。
それでも──わたしのために“考えようとしてくれている”。
その事実だけが、心を少し軽くした。
ママが、ためらいながらもわたしの手を取った。
「……時間がかかってもいい? ちゃんと、受け入れていくから」
わたしは小さくうなずいた。
「うん……ありがと、ママ。パパも」
その夜、リビングの灯りはずっと点いたままだった。
まだ不安は残っている。
でも、あの“扉”は──たしかに少しだけ、開いた気がした。
◇◇◇◇
その日の夕方。
孤児院の食堂で皿を片付けていると、先生が顔を出した。
「福音くん、電話よ。……“赤木先生”から」
僕は思わず手を止めた。
コアが一瞬だけ跳ねる。
急いで手を拭き、受話器の前に立つ。
「……はい、新世です」
『あら、出てくれてよかったわ。赤木です』
受話器の向こうの声は、あいかわらず落ち着いていて、
それでいてどこか柔らかい。
「先生……! もしかして、トガちゃんのことで?」
『ええ。トガさんのご両親から正式に連絡があったわ。
“血液補給を受けたい”という意向を示されたの。
そのために、まずは彼女の体で安全かどうかを検査したい、とのことよ』
「……本当、ですか?」
『ええ。あなたのおかげね。
あの子も、ご両親も、きっと少しずつ歩き出せると思うわ』
胸の奥が熱くなって、息を呑んだ。
電話の向こうで赤木先生が、少しだけ笑った気がした。
『よかったわね、福音くん』
「……はい、本当に……よかったです」
言葉を絞り出すように答えると、
赤木先生は短く「また連絡するわ」と言い残して電話を切った。
受話器を置いた瞬間、力が抜けた。
膝が勝手に折れ、その場にしゃがみ込む。
「……よかった……本当によかった……」
胸の奥に絡まっていた不安の糸が、ゆっくりと解けていく。
あの子の“普通”が、ようやく認められたんだ。
その事実だけで、今はもう、十分すぎるほどだった。