トガちゃんが両親と一緒に診療所へ行ってから、もう数週間が経った。
あの時の不安そうな表情が嘘のように、今日は朝から嬉しそうに笑っていた。
「ふくいん君! 血の提供、許可が出ました!」
その言葉に僕は一瞬、思考を止めた。
「ほんとに? よかったね」
彼女はコクンとうなずき、続けて言う。
「しかも、最初の検査の時に──どっかの人造人間さんが多めに献血してくれてたおかげで、今日から始められるんですって!」
「へぇ~……今日から、か……」
そこまで聞いて、僕はようやく気づいた。
「……ちょっと待って。いつ気づいたんだい? “ドナー”が僕だって」
トガちゃんは少し得意げに微笑んで言った。
「わたしのことを知っていて、無償で血をくれる人なんて──ふくいん君しかいませんから」
その言葉に、僕は言葉を失った。
そしてトガちゃんは、どこか誇らしげに胸を張って言った。
「そして──これが、その血液なんです!」
手の中に握られていたのは、透明なパウチのような容器。
中には淡い赤色の液体が入っていて、見た目はまるで市販のゼリー飲料みたいだった。
「……見た目、ずいぶんと親しみやすくなってるね」
「えへへ。血液パックのままだとちょっと怖いですから、赤木先生が“心理的負担を減らす仕様”にしてくれたんですって」
「なるほど……たしかに、これなら飲み物っぽいな」
僕は苦笑しながらそれを見つめた。
──自分の血なんて、まじまじと見ることはなかった。
なんだか変な感じだ。これ、僕の中を流れてたやつなんだよな……。
「じゃあ、今から飲みますね」
そう言って、トガちゃんはパウチの封を切ろうとした。
「え、今ここで!?」
「はい。だって、ふくいん君の目の前で飲まないと意味がないですから」
「意味?」
彼女は真っ直ぐな瞳で僕を見上げる。
「本人の前で飲んで、“安全だ”って証明したいんです」
その瞳の真剣さに、僕は思わず息を呑んだ。
トガちゃんは僕の返事を待たずに、パウチの蓋をあけた。
そして、ためらいもなく口をつける。
──んぐ、んぐ。
小さな喉が上下に動き、空気を含んだ音が静に響く。
その表情はまるで、世界でいちばん幸せそうだった。
やがて、最後の一滴まで飲み干したトガちゃんは、ふぅっと息を吐いて──
「くぁ~……最高の一杯です!」
「いやいや……お酒じゃないんだから」
僕は思わず苦笑した。
するとトガちゃんは目を輝かせ、まるでグルメ漫画の食レポみたいに語り出す。
「香りはほんのり鉄のようでいて、でも後味が優しくて、舌に残る温かさがすごく落ち着くんです!
体の中にじんわりと広がって、全身がぽかぽかして……あぁ、これがふくいん君味ですね!」
「……つまり?」
「最高です!」
満面の笑みで答える彼女に、僕は頭をかきながらうねるように言った。
「ん~……まぁ、よかったよ……」
そう言いながら、胸の奥に少しだけくすぐったい温もりを感じていた。
◇◇◇◇
トガちゃんが人前で血を飲むようになって、数日が経った。
彼女の笑顔が、前よりもずっと増えたのがわかる。
両親との関係はまだ複雑ではあるけれど、以前のように“腫れ物扱い”されることはなくなったらしい。
学校でも、医師からの正式な許可を受けていることもあり、クラスの一部には血を飲むことを伝えたそうだ。
もちろん全員がすぐに理解できるわけではないけれど、「個性の一種」という言葉が、周囲の偏見を和らげている。
彼女がようやく“息をするように生きられる”ようになったその姿を見て、僕は心から「よかった」と小さく呟いた。
放課後、二人並んで帰る道。
沈みかけた太陽が長い影を伸ばす中で、ふと僕は口を開いた。
「そういえば、血を飲んだあとって……個性を使って変身したりするのかい?」
トガちゃんは首を横に振る。
「いいえ。あくまで血は“吸血衝動を抑える”ためのものなんです。
個性を使う許可出てないので、変身はしてません」
「そうだったのか……」
僕は頷き、少し考え込む。
「もし、君が僕に変身したらどうなるんだろうって、ちょっと気になったんだ」
その瞬間、トガちゃんの表情がほんの一瞬だけ曇った。
けれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべて、明るく言う。
「きっと、ふくいん君みたいに──“カァイく”なりますよ!」
「ははっ……だったらいいんだけどね」
夕焼けに照らされた彼女の笑顔は、どこか切なくて、眩しかった。
その笑顔の裏に、小さな翳りがあることに、僕はまだ気づいていなかった。
──だが、ある日。
彼女と日課の特訓をしていた時のことだった。
その日、僕たちはいつものように森の中で特訓をしていた。
いざという時、ヒーローのように動けるようになるために──。
僕は近接攻撃を避ける訓練を、トガちゃんには攻撃役をお願いしていた。
今日の課題は、“防御”だ。
僕は深く息を吸い込む。
(……体の外側に、一枚の“膜”を張るイメージ……)
僕の周囲に薄く光が走る。
A.T.フィールド。使徒たちが持っていた、絶対的な拒絶の壁。
今までは目の前に壁を貼り付けるようにしかしてなかった。
それを体に纏わりつかせるように展開できないか、ずっと試していた。
「いきますよ!」
トガちゃんの声と同時に、風を切る音。
小石がひとつ、勢いよく飛んでくる。
僕は一歩も動かない。
避けるのではなく、正面から受けるつもりだった。
……A.T.フィールドで。
しかし──
「ッ!?」
次の瞬間、小石は何の抵抗もなく僕の頬を打った。
軽い衝撃。けれど、その“ありえなさ”に思考が止まる。
膝がわずかに落ちる。
トガちゃんが驚いた声を上げた。
「ふくいん君!? 大丈夫ですか!? いつもなら避けると思って……」
僕は頬を押さえながら、あ、ああ……と曖昧に返す。
でも頭の中では、別のことを考えていた。
(……どうして、フィールドが発生しなかった?)
確かに“張っている感覚”はあった。
膜のような圧力も、集中の手応えも。
だが結果は──ゼロ。
(小石が貫けるほど弱い? いや、そんなはずはない……)
考えれば考えるほど、答えが見えなくなる。
アニメでいうなら、A.T.フィールドの中和が起こった時くらいしか、こんな現象はない。
(……中和? まさか、この場にもう一体の“フィールド持ち”が?)
僕は反射的に視線を上げる。
けれど、そこにいるのはトガちゃんだけだった。
笑顔でこちらを心配そうに覗き込む、小さな少女。
その姿を見て──ぞくり、と背中を冷たいものが走った。
(……まさか、君が……?)
僕は、ぞっとした思考を振り払うように頭を振った。
(そんなはずはない。彼女の個性は変身だ。姿を変えるだけで、その人の“個性”までは再現できないはずだ。それに、この訓練は前から何度もやっていた。前はこんなこと、一度だって起きなかった)
そこで、ふと胸の奥に引っかかるものがあった。
(……前? 前とは、なにが違う?)
脳裏をたどる。環境も同じ。
違うのは──
(僕の血を、飲んだ)
はっとして息を呑む。
(まさか……それでA.T.フィールドを張れるようになった?)
頭の中で、点と点が繋がっていく。
A.T.フィールドは“心の壁”。心を持つ者なら誰でも持つ、魂の現象。
僕はトガちゃんに向き直り、静かに言った。
「トガちゃん、ちょっと試したいことがあるんだ」
「はい?」
「僕の上着を投げるから、キャッチしてみてくれ」
「どうしてですか?」
「……確かめたいことがあるんだ」
彼女は不思議そうに首をかしげながらも、素直に頷いた。
僕は少し距離を取り、軽く上着を丸める。
「いいかい? 投げるから……今度は“拒絶するイメージ”をしてみて」
「拒絶……ですか?」
「うん。僕のときみたいに、目の前に“盾”を出す感じで」
「なるほど!」
トガちゃんは楽しそうに構えた。
「じゃあ、いくよ」
僕は上着をまるめて軽く投げる。
衝突の瞬間──
「フィールド展開っ!」
トガちゃんが無邪気に叫んだ。
──パシィンッ!
空気を叩くような、乾いた音。
上着が見えない壁に弾かれ、地面に落ちた。
風が止む。
時間も、止まったようだった。
僕は言葉を失った。
目の前のトガちゃんは、驚いたように自分の両手を見つめていた。
「……いま、のは?」
そのとき──彼女の瞳が、赤く染まっていたことに、僕は気づかなかった。
◇◇◇◇
その後、少し休憩を取ることにした。
森の木陰、風が心地よく吹き抜ける場所に腰を下ろす。
トガちゃんは医師にもらった血液パックとサンドイッチを、頬をふくらませながら交互に食べていた。
僕はといえば、最近ハマっている肉厚ハンバーガーにかぶりつく。
香ばしい肉の匂いが鼻をくすぐり、二人して「おいしいね」と笑い合った。
そんな穏やかな時間の中で、ふと僕は切り出した。
「さっきの、A.T.フィールドのことなんだけど」
トガちゃんはパンを飲み込み、目を輝かせる。
「はいっ! 張れました、ふくいん君みたいな“バリア”!」
「そう、それ」
僕はうなずく。
「あれを僕は“A.T.フィールド”と呼んでる」
「えーてぃー……?」
トガちゃんが首を傾げる。
僕は少しだけ笑って、ハンバーガーの紙を整えながら説明した。
「略さないと“Absolute Terror Field”。日本語にすると“絶対不可侵領域”だったかな。
簡単に言えば──心が作る、壁だよ」
「心が……バリアを?」
「うん。簡単に言うと“心と体を守る力”なんだ。
怖いとか、守りたいっていう気持ちが形になって、僕のまわりに広がる。
まあ、バリアみたいなものだと思ってくれればいいよ」
トガちゃんの目がきらきらと輝く。
「おおっ……なんか、かっこいいです!」
僕は少し照れくさく笑って、続けた。
「でもね、あれは便利だけど、万能じゃない。
強烈な衝撃を完全に殺すことはできない。だから、大きな一撃を受けると、体までは耐えられないんだ」
「それでも、すごい能力ですよ!」
「ああ」
僕は頷く。
「けど、一つだけ──“攻略法”がある」
「攻略法?」
「うん。A.T.フィールドは、同じA.T.フィールドで“中和”できるんだ」
トガちゃんは驚いたように目を丸くする。
「中和……って、つまり?」
「二つの“心の壁”がぶつかると、互いを打ち消し合うんだ。
つまり、同じ力を持つ者同士なら、互いのバリアを壊せる」
トガちゃんは考えるように指を唇に当てた。
「……じゃあ、さっき私がふくいん君のバリアを“破った”のって……」
僕は静かに頷く。
「たぶん、そういうことだよ」
僕は少し間をおいてから、言葉を続けた。
「……練習を重ねれば、僕みたいにフィールドの“強度”を上げられるようになるかもしれない。
自分を守る手段が増えるのは、悪いことじゃないはずだ」
トガちゃんは嬉しそうに目を細めて、こくんと頷いた。
「はいっ! なんか、ふくいん君みたいに強くなれた気がします!」
僕は少し笑って、もう一つ確認をする。
「ちなみに、フィールドを展開するときに……体調に変化とかはないかい?」
トガちゃんはサンドイッチをもぐもぐと噛みながら、首を傾げた。
「うーん……特にないですよ? ちょっと温かくなる感じはありますけど、痛くはないです」
「そうか。なら安心だね」
彼女の無邪気な返答に、僕は少しだけ胸をなで下ろした。
それからハンバーガーの包み紙を丸めながら、穏やかに言う。
「これからは、A.T.フィールドの特訓も少しずつ取り入れていこう。
身体を鍛えるのも大事だけど、心の力を使いこなすのも、同じくらい大事だからね」
トガちゃんは目を輝かせて笑った。
「はいっ! ふくいん君のバリア練習ですね! やってみたいです!」
その笑顔を見て、僕も自然と口元がゆるんだ。
(……この子の中で、何が起きているのか。まだわからない。
けれど、少なくとも彼女自身が“自分の力”を怖がっていないのは、いいことだ)
森の風が、やさしく二人の髪を揺らした。
昼下がりの光の中で、A.T.フィールドをめぐる新しい日々が静かに始まろうとしていた。
◇◇◇◇
トガちゃんの“血が好き”という気持ちが周囲に受け入れられてから、いくつもの季節が過ぎた。
彼女が堂々と笑い、僕がそれを隣で見守る──そんな穏やかな時間が、ゆっくりと日常になっていった。
A.T.フィールドの特訓も続けていたが、危険なことは起きず、平穏な日々が流れていた。
そして、気づけば僕は十二歳。
小学校六年生になっていた。
トガちゃんも、クラスのみんなも、ここ数年で驚くほど大きくなった。
背丈も、声も、表情も、子どもというより“若者”に近くなっている。
その変化を眺めながら、僕はいつのまにか物思いにふけっていた。
(……こんなに変わるものなんだな)
けれど僕自身は、あまり変わっていなかった。
身体的な成長は止まり、見た目も以前のままだ。
かつてはこれ以上大きくなったらどうしようと思っていたが──どうやら今が“限界”だったらしい。
このサイズが、僕にとっての“ちょうどいい”のだろう。
来年には小学校を卒業し、中学生になる。
大人に少し近づくということ。
エヴァのチルドレンたちに年齢が追いつくのだと思うと、胸の奥に不思議な感覚が広がった。
(もう、あの画面の中の“彼ら”と同じ歳になるのか……)
そう思うと、時の流れの早さに少しだけ息をのんだ。
この世界に来てから、どれだけの時間が経ったのだろう。
過去を振り返るように天井を見上げた、その日のことだった。
──そんなある日。
その日の午前中、担任の根府川先生が教室に入ってくると、黒板に「特別授業」と大きく書いた。
ざわつくクラスを見回しながら、先生は眼鏡を押し上げて言った。
「今日は、みんなに“将来の夢”について考えてもらおうと思う」
教室の空気が、一瞬だけ静かになる。
けれど次の瞬間には、あちこちから小さな声が上がりはじめた。
「ヒーローになる!」
「サポートアイテムを作りたい!」
「ヒーロー事務所で働くんだ!」
子どもたちの声はどれも明るくて、未来に向かってまっすぐだった。
みんなの顔がきらきらと輝いていて──その眩しさに、僕は少しだけ目を細めた。
根府川先生は、そんな生徒たちの様子を見ながら穏やかに頷いた。
「いい夢だな。けど、ヒーローになるってことは、ただ強くなるだけじゃない。
人を助けるには“知識”や“判断力”が必要だ。
だからこそ、今のうちから勉強も大事にしてほしい」
そう言って、先生は机の上から束になったプリントを持ち上げる。
「今から配るプリントに、自分の“将来の夢”を書いて提出するように。
将来の自分を想像して、しっかり考えてみなさい」
クラスの空気がふわりと弾んだ。
友達同士で顔を見合わせながら、「何書こう?」と笑い合う声。
ペンの音、窓の外から聞こえる風の音──どこまでも穏やかで、平和な時間だった。
僕も手元のプリントを見つめる。
白い紙の上に、大きな文字で書かれた「将来の夢」という見出し。
その下には、ただ一行。
──『あなたの夢は何ですか?』
僕はペンを握り、少しだけ迷った。
僕は考えた。
僕の“夢”はなんだろう、と。
今、毎日のように特訓をしているのも──結局は、誰かを守るため。
災害や、事件のときに、身近な人を護れるように。
ヒーローになるために、ではない。
(僕は……どうしたいんだろう)
ペンの先が紙の上で止まる。
やりたいこと、なりたいもの。
そう言われても、何も浮かばない。
ただ、穏やかで、幸せな日々が続けばいい。
それだけで、十分な気がしていた。
僕は“エヴァ”だ。
けれど、この世界には“使徒”はいない。
戦う理由も、戦う相手も存在しない。
だから──僕が戦う意味も、ない。
それでも、心の奥底で引っかかるものがある。
クラスのみんなが語る「ヒーローになる」という夢。
それを羨ましいとは思わなかったけれど、どこか遠い世界の話のように感じた。
(僕にとってのヒーローは……前の世界で見た、あの特撮のヒーローたちだ)
泥だらけになっても、倒れても、
それでも立ち上がって──人を救う者たち。
彼らのように戦場に立つことは、今の僕にはできない。
その事実が、ほんの少しだけ胸に重くのしかかった。
窓の外から、夕方のチャイムが鳴り響く。
教室のざわめきが遠ざかる中、僕は静かにペンを置いた。
──何も書けないまま、白紙のプリントだけが机の上に残った。
その日、僕の胸の中には、
言葉にならないモヤモヤだけが、ゆっくりと沈んでいった。
◇◇◇◇
学校の帰り道。
ハンバーガー屋で買ったセットメニューの入った紙袋を片手に、僕はいつもの公園へ立ち寄っていた。
夕方の風が頬を撫で、紙袋の隙間からポテトの香ばしい匂いがふわりと漏れる。
ベンチには、放課後の子どもたちの笑い声と、ゆるやかに回るブランコの軋む音。
僕は空いていたベンチに腰を下ろし、紙袋をそっと膝の上に置いた。
「……悩んでいる時は、美味しいものを食べるに限る、か」
ポテトを口に放り込みながら、僕は苦笑した。
こういう時、つくづく思う。──量産機の姿で良かったって。
この姿は、一見すると“動物系の異形型個性”のように見えるらしい。
だから、食事をしていても誰も奇異な目を向けない。
人間の形をしたまま、安心して食事ができる。
そんな当たり前のことが、少しだけ嬉しかった。
ハンバーガーを頬張りながら、僕はふと空を見上げる。
淡い夕暮れが広がる空の下で、ぽつりと呟いた。
「夢か……」
その時だった。
公園を、一人の紳士がゆっくりと横切った。
「さて……次の動画は、もう少し情緒的にいこうか。
“真の紳士とは何か”──うむ、世間に問う価値はある」
柔らかくも低く響く声。
その瞬間、僕の口が無意識に動いた。
「……リョウちゃん?」